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第一部 3

「久しぶり、だな」

 ふたりはイタリアン居酒屋に入り、向かい合わせに座っていた。

「こういうところで浅野くんと飲むことがあるなんて、ね」

 ほのかに昔の記憶がよみがえる。陸とはよく一緒に食事に行ったが、そのほとんどがランチタイムだった。当時の陸は高校生で、夜遅くまで出歩くわけにはいかなかったのだ。

「そういえばお前は俺のこと『浅野くん』って呼んでたな」

 陸は少し不機嫌そうに言った。

 思えば何度か「『陸』と呼べ」と言われたことがあった。それでも沙希は頑なに「浅野くん」で通した。

 自分たちの関係が『家庭教師とその生徒』以上のものになっても、沙希としてはどこかで自分自身を律していたかったのだ。それでふたりの関係が、誰かに許されるわけではないと十分にわかっていたが――。

 沙希は答えようがなかったので、少し首を傾げて苦笑いした。

「まさか、お前がいるとは思わなかった」

「私の就職先、知らなかった?」

「聞いてなかった。東京で就職すること以外は興味なかったし。どこの会社に勤めようが、あれ以上会えなくなることは変えようのない事実……だろ? でもまさか、ウチの会社だとは思わなかった」

「私もびっくりしたよ」

「けど、俺が営業に配属になることは事前に知ってたんだろ?」

「だって、まさかT大卒とは……」

 そう言うと陸は口の端を上げて皮肉めいた笑みを浮かべた。

「お前が、言ったんだよ。覚えてない?」

 沙希は怪訝な顔をする。即座には思い当たらない。

「俺が『頑張ったら大学に入れるか?』って訊いたことあっただろ」

「ああ!」

 思い出した。確か1年限りの家庭教師の任期が終わるころ、陸にそんな質問をされた。

「お前が『頑張れば入れるよ』なんて言うから、頑張っちゃったんだよね、俺」

「ぶっちゃけ、同姓同名クンなのかと思ってた」

 沙希が正直に告白すると、陸はブッと噴き出した。

「俺って相当できの悪い子だったんだな」

「だって……バンドはどうしたのよ」

「ああ、やめた。どうせ続けてもモノにならないって思ったからね」

「いつ?」

「お前と別れてから。大学入ってからは友達に頼まれたときだけ手伝ったりしたけど」

 高校生の頃、陸はバンド少年で、ミュージシャンになるのが夢だった。

 初めて会ったときは今より髪が長くて、色は明るい茶色だった。くせのないサラサラの髪の毛が沙希はとても気に入っていた。

 今は短くてこざっぱりしている。色も黒い。しかしサラサラの髪質だけは相変わらずのようだ。

「まぁ、バンド活動に反対してたジイさんは喜んでるよ」

 陸は肩をすくめた。冷めた視線がテーブルの上を横切る。

 沙希は、陸の家庭が少し複雑だったことを思い出していた。

 家庭教師をしていた当時、彼は両親と一緒に暮らしていた。しかし父は母の再婚相手で、陸の実の父ではない。

 陸の母親の実家が裕福な家柄だった。彼の祖父は実業家で、現在は引退して議員をやっていると陸が話してくれたような気がする。

(そのお祖父さんは、確かものすごく厳しい人だったはず)

 しかし陸の母親はあるとき、祖父の反対を押し切って離婚、そして再婚していた。離婚の理由はわからない。陸が語らない事柄については知りようがないし、沙希が知る必要のないことでもあった。

 いずれにしろそれ以降、陸の母親と祖父は絶縁状態にある。

 それでも祖父は、ただひとりの男の孫である陸をとてもかわいがっていて、バンドなどやめて大学へ進学するようにと、ことあるごとに意見していた。それが高校生だった陸には気にいらなかったらしく、沙希の前ではその件でしょっちゅう悪態をついていた。

「浅野くんは後悔してないの?」

 沙希は陸のなげやりな口調が気になっていた。

「してないと言えば嘘になるけど……」

 沙希が知っている高校生の陸は、寝ても覚めてもミュージシャンになることしか考えていなかった。その陸が、自分と別れてからすぐにその夢を諦めたとは、にわかに信じがたかった。

「現実はそう甘いものじゃないってわかったから」

「へぇ」

 そう言った陸は子どもっぽさが抜けて、大人の男性の顔つきだった。

 なにが彼にそう思わせたのかわからなかったが、沙希は自分の教え子の成長した姿を見ることができて、素直に嬉しいと感じていた。

「いい男になったね」

「当たり前じゃん、俺だよ?」

 こういうところは変わってないな、と思う。

 ふと、本当は聞きたくて聞きたくない質問が脳裏に浮かんだ。浮かぶと同時に言葉になっていた。

「で、彼女はいるの?」

 つとめて冷静に、ごく普通に、さらりと言えた、と思う。余裕の笑みも浮かべることができた。それでも陸が口を開いた瞬間、胸がドキッとする。

「いたけど……ダメじゃね?」

 意味がわからなくて首を傾げてみた。昔、陸に言われたことがあるのだが、この首を傾げる動作は沙希のくせらしい。

「相手のヤツ、大学に残ったんだ。そうなると続かないってことは、お前が一番わかってるだろ」

「でもまだ別れたわけじゃないんでしょ? ダメとは……」

「もう1ヶ月以上会ってないし、電話もしてない」

「電話しなさいよ」

 陸の顔から表情が消えたのを見て、沙希は少し焦った。たぶん怒っている。

「……俺はこれでも我慢したんだぜ? 振り回されるのはゴメンなんだよ」

 詳細を聞かなくても陸の言わんとするところがなんとなくわかったので、沙希は口をつぐんだ。

「結局、自分のことしか考えてないわがままなヤツだったんだ。こっちがなにかしてやってもそれが当然だと思ってる。……なーんにも返ってこなかった」

「……気持ちも、ってこと?」

「そう」

 沙希は陸がムッとした表情で答えるのを苦々しく聞いた。

 陸が不当な扱いを受けているという事実に、少なからず沙希も傷つく。それは彼がかつて愛した人だからなのか、教え子だからなのか、どこから来る感情なのかはわからなかった。

(私が一番、彼を傷つけたのかもしれないのにね……)

 だからこそ、陸を愛してくれる人には、彼を傷つけないでほしいと願っていたのかもしれない。

(なんて傲慢な……)

 そんな自分の想いが嫌になる。しかしこみ上げてくる気持ちは抑えることができない。

 会わずにいれば忘れていられたのに、彼を目の前にするとそれまで自分の奥底に閉じ込めていた感情がどんどんよみがえってくるのがわかった。

 この感情はいったいなんなのだろう。

 この感情をいったいどうすればいいのだろう。

 酒の力も働いて、頭のどこかが麻痺しているようだった。

 喉元までせり上げる、入り乱れた気持ちを押し戻すように、沙希はグラスに残るカクテルを一気に飲み干した。





「で、お前は……どうなの?」

 突然陸は沙希に話を振った。

「なにが?」

「あれから……彼氏とかできたのか?」

「別に、できないねぇ」

 沙希は話題が変わったのにホッとしながら、少しおどけて答える。

「矢野さんとかは?」

 営業部の配属になってまだ1日しか経っていないのに、そういうところだけは妙に鋭いな、と感心した。

「一緒にご飯食べたりするけど、そういう関係じゃないし」

 陸はやっぱりという顔をした。どうしてそういう表情になるのか、沙希にはわからない。バカにされているような気がして、自然とふくれ面になった。

 しかし次の瞬間、陸の頬が表情を消して硬くなる。

「矢野さんって、お前のこと好きでしょ?」

「さぁ?」

「コクられてないの?」

「そういう話題、避けてたから」

「お前は相変わらずガード固いっていうか……」

 呆れたような口調だったが、ようやく陸の顔に笑みが戻った。

「でも矢野さんって結構イケメンじゃん」

「イケメンだと好きになったり付き合ったりしないとイケナイわけ?」

 沙希が口を尖らせて言うと、陸は面白がって意地悪く口の端を上げて見せた。

「ホント、お前変わんねぇな。普通は喜んで付き合うんじゃね?」

「どうせ普通じゃないですよ」

「矢野さんって沙希の趣味じゃないわけ? ……ああ、そういえばお前はヘンな趣味してたんだった」

 こうして軽口を言い合っていると、昔に戻ったようで沙希は嬉しくなった。

「ヘンって、例えば……浅野くんみたいな人を好きになったり?」

 目を細めて笑顔で言ってみた。これくらいの冗談なら軽い気持ちで口にできる。それくらいの余裕はある、と沙希は自分自身に見栄を張った。

「俺はフツーでしょ。いや、かなりイケてるでしょ」

 二人は顔を見合わせて噴き出した。

「浅野くんも相変わらずナルシストだね」

 沙希はそう答えながら、安堵と落胆を同時に味わっていた。陸は沙希のきわどい冗談を、わざとすれすれのところでかわしたのだ。

 沙希の気持ちにはもう興味がないということか――。

 胸のどこかがチクリと痛むのを感じながらも、向かい側に座る陸の顔を改めて見つめた。以前よりは大人びたとはいえ、相変わらず中性的な印象の顔立ちだ。まともに見つめると心がギュッと鷲掴みされてしまう。

 だがそれでも沙希は陸の見た目を愛していたわけではない、と再確認していた。自分の中に湧き上がる陸への想いは、「カッコいいから好き」みたいに単純なものではないのだ。

「でも」

 陸は沙希の物思いを断ち切るように言った。

「今日のお前を見て安心したよ」

 とても穏やかな優しい笑顔だった。

 途端に沙希の心臓が激しく鳴り始め、心の中は騒がしくなる。なにか言いたくても言葉にならなかった。

「4年前に会ったときは、この世の不幸をひとりで全部背負ったような顔してたから」

 4年前――大学入試のために東京へやって来た陸と、別れてから約1年ぶりに会ったときのことだ。

 そのころの沙希は社会人1年生として俗にいうスランプに陥っていた。なにをやっても周囲の人間と上手くかみ合わず、都会の暮らしに嫌気が差していたのだ。

 さらに悪いことは重なるもので、長く付き合った末に別れた元カレが実家に妙な手紙をよこすようになり、精神的にもかなり参っていた時期だった。

「あのときは……ごめんね」

 沙希はそれだけを言うのがやっとだった。

 自分の殻に閉じこもり、呆れるほど頑なにふるまう姿は、陸の目にどんなふうに映っていたのだろう。

 そして今さら4年前の自分が、陸の受験した大学名を訊く余裕すら持ち合わせていなかったことに気がつく。

「なにが?」

 少し怒ったような口調の陸は、気だるげに頬杖をついた。

「お前はいつも謝ってばかりだな。他にも俺に言うこと、あるだろ」

(……他に言うこと?)

(……好き……とか?)

(いやいやいやいや、チガウチガウ! そういうことじゃないよね? 私、かなり酔っぱらったかな)

 数秒間、沙希の脳内では目まぐるしい思考活動が行われていたが、結局考えはまとまらず、から回りするばかりだった。

 とりあえず、思いついた無難な言葉を口にする。

「えっと……ありがとう?」

 陸は小さくため息をつき、「もう出るぞ」と伝票を持って立ち上がった。





「沙希、酔ってる?」

 信号を待っている間、陸が沙希にだけ聞こえるように耳元で囁いた。

 イタリアン居酒屋を出て、陸と並んで歩いている。彼と一緒に歩くとき、沙希が自ら道を選ぶことはない。昔からそれがふたりの間では暗黙のルールになっていた。

「酔ってないよ。どうして?」

 陸は少し屈んで、沙希の顔を覗き込む。

「この後、どうする?」

 沙希はその言葉の意味するところを察して、一瞬目を見開いた。

 そこで信号が青に変わった。

 歩きながら無理に笑顔を作って陸を見る。笑ってごまかすのはずるいかもしれないが、なんと返事をすればよいのかわからなかった。

 陸がフッと笑う。

「……意味深な笑いだな」

 急に恥ずかしくなり、カッと頬が熱くなった。

「じゃ、行くか」

 と、陸が短く言う。

「えっ?」

 不安げに見上げると、陸は薄情そうな唇を笑みの形にして、こちらをじっと見つめていた。

「ラブホ」

 沙希は耐え切れず、陸から視線を外してうつむく。

 同時に、こういうところは相変わらずだと思い、腹の底からこみ上げてくる笑いを噛み殺すのに少しだけ苦労した。

 

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