入った部屋は照明が明るく、まるで女の子の部屋のようだった。壁紙やベッドカバーがパステルカラーでかわいらしい。
こういった場所にふたりで入るのは初めてではないが、沙希は靴を脱ぐのを少しためらった。
先程の話では、陸は彼女ときちんと別れていないようだし、自分たちの関係も曖昧のまま、こんなところに来てしまっていいのだろうか、と思うのだ。
「沙希」
陸が振り返って沙希を促すように名前を呼んだ。
仕方なくのろのろと靴を脱ぐ。
「会社でなければ、名前で呼んでいいんだろ?」
陸がゆっくりと近づいてきた。
沙希は答えずに、彼の顔をまっすぐに見つめた。
その表情になにかを探して――。
――だが、なにも見つけられなかった。
たぶんふたりが見つめ合っていたのはほんの2、3秒だったと思う。
なにかを期待しているのは自分だけなのかと、沙希は少し悲しくなった。
その瞬間、ふんわりと抱きしめられた。
懐かしい陸の匂いがした。陸のつけている香水が沙希の記憶を生々しくよみがえらせる。
愛していたときの記憶はせつない。
終わってしまった恋はなんてほろ苦いのだろう。
だけど、と沙希は陸の腕の中で思う。
なぜ、今になってまた彼に抱かれているのだろう。
優しいキスが降ってきた。
考えるのをやめて目を閉じる。
彼のキスが好きだった。ゆっくりと舌が侵入してきて、絡み合う。
しばらく互いを確かめ合うように長いキスをした。
唇が離れると沙希はもう一度陸の胸に顔をうずめた。
ずるいかもしれないが、これが終わった恋だということは忘れて、今だけが現実なのだから、今だけを感じようと思う。
そう気持ちを切り替えると、自然と笑顔になった。顔を上げると、陸も表情が解けて口には笑みが浮かんでいる。
「服、脱いでよ」
彼の口調にはためらう様子がまったく感じられない。それがとても陸らしいと思う。
沙希は苦笑しながら頷いて、上のジャケットとブラウスを脱いだ。
その間に陸もスーツを脱いで、ソファの上に無造作に放り投げていた。
スカートとストッキングも脱ぐ。背後から陸の視線を感じて、問いかけるように振り返った。
「いい足してるな、相変わらず」
「私の足だけ好きなのね」
沙希は自嘲気味に言った。
「そうじゃない」
陸は近づいてきて小声で言う。
改めて抱きしめられると素肌が直接触れ合い、そのぬくもりが気持ちいい。沙希の頭の中はだんだんと白い霞に覆われていく。
陸の細くて長い指が背中に回ってブラジャーを外す。
それをソファに放り投げると、陸は沙希の首筋に唇を這わせた。
「……やっ!」
思わず声を上げてしまう。感電したように体内をなにかが駆け抜けた。
陸は顔を上げて満足そうに微笑む。
「……久しぶり、だな」
その言葉を皮切りに、絶え間ない愛撫が沙希の身体に降り注いだ。
しばらく異性に身体を触れられることのなかった沙希は、その強い刺激を受け止めきれず、陸の腕に必死でしがみついた。しかしそれでも沙希の身体は崩れ落ちそうになり、ふたりはもつれるようにしてベッドの上へと倒れ込む。
「あ……ん!」
上になった陸に胸の先端を舐められた途端、全身に電流が走った。沙希は思わず大きな声で反応してしまい、羞恥心で身体が熱くなる。
それと同時にシャワーを浴びていないことに気がついた。
「ちょ、ちょっと、待って。……シャワー浴びたい」
陸は小さなため息をついて「しょうがねぇな」と上体を起こした。
先にシャワーを終えた沙希は、ベッドに横たわり、シーツにくるまって、陸をじっと待っていた。
(今日再会したばかりで、この展開……)
思わずため息が漏れる。しかもこの部屋に入ったときのせつなく苦い気持ちは、すでに跡形もない。
陸のことになると通常では考えられないような行動をしている、と沙希は自分自身に困惑していた。
(私はきっと今でも浅野くんが好きなんだな)
だが、陸に会わずにいた4年の間、ずっと同じ気持ちでいたわけではない。
たぶん今朝、社会人になった陸を見て、新たに彼を好きになったのだ。そして先刻の居酒屋で、それが決定的に上書きされた。沙希は自分の心の動きをそう解釈する。
浴室のドアが開く音がした。沙希の胸はこれから起こることを予期して、急にドキドキし始めた。
「おい、寝るなよ」
タオルを羽織ったままで陸が近づいてきた。
「ちょっ……パンツはいてないし!」
沙希は陸の姿を見て、慌てて顔をシーツで覆った。
「別に初めて見るわけじゃねぇし、今さらなにを……」
シーツは乱暴に取り払われ、陸が覆い被さってきた。
「お前は……やるの久しぶり?」
なにを訊くのか、と心の中では憤りながらも、仕方なく「まぁ、そうかもね」と答えた。
陸はフンと鼻を鳴らして笑った。
「じゃあ、楽しみだな」
なにが、と心の中でつぶやくのとほぼ同時に、陸が胸の尖った部分を指で弄び始めた。
「……はぁっ……」
すぐに艶を帯びた声が漏れた。そんな自分が恥ずかしくて、ぎゅっと目を閉じる。だが視界が暗転すると、沙希の意識は陸の指の動きだけに集中し、他のことは考えられなくなった。
最初は優しく撫でるように動いていた指は、だんだんと沙希を追い詰める動きに変わっていく。
沙希の口から漏れる息は熱く荒いが、なるべく声を上げないように我慢していた。
「我慢しなくていいのに」
そんな沙希の顔を、陸が上目遣いで見て言った。
「久しぶりだから? すごく感じてるだろ?」
ニヤニヤしながら陸はあおるように言った。
「や……んっ」
訊いておきながら、答える隙は与えてくれない。敏感になっている胸の突起を口で含み、舌で転がすようにされると、呼吸さえまともにできなくなる。
気を逸らすために陸の後ろ髪を撫でた。男性にしては細く柔らかい髪が指の間をさらさらと滑る。
陸は何も言わずに視線だけをよこし、沙希を見つめたまま右手を脇腹から腰へと伝わせた。
下着の上から優しくゆっくりと敏感な部分をなぞられる。
「……っあ……ん、あぁ……っ」
たまらず喘ぐ。
その間も胸の膨らみは、唇と空いている手で休みなく刺激を与えられていた。
もう我慢するのは無理だ。撫でていた後ろ髪に指を差し入れて少し強く掴んだ。
すると布地の上から敏感な部分をなぞっていた陸の右手が、器用に下着の中へ滑り込む。
「やあぁっ……ん」
「いやじゃないだろ? ……濡れてる」
「やん! ……いやぁ……ん、っあ……あぁ……」
「邪魔だな」
そう言って、陸は身体を起こすと沙希の下着を脱がせた。それから足を持って大きく開かせると、その中心に顔をうずめる。一連の動作は流れるようで、優雅ささえ感じられた。
指とは違う、柔らかく生暖かい舌が、敏感な場所を這う。沙希は恥ずかしさと気持ちよさとで大きく身体を反らせた。
「あぁん、……っあぁ……ん」
正直なところ、沙希の身体は年齢や経験の割に成熟しているとは言いがたい。ある地点までの快楽は受け入れられるが、それを越えて愉楽の世界に自分の全てを投げ出すような覚悟ができずにいる。
もちろん、そのことは陸も知っていて、だからいつも前戯は優しくゆっくりと沙希のペースに合わせてくれた。
今日もそれは変わらず、徐々に、しかし的確に、沙希の弱点を攻めて高みに追い詰める。
「あぁ……あぁぁん、……っあ、っあ……あぁぁぁ……」
秘められた箇所を舌と指で刺激され、知らず知らず沙希は腰を浮かせて自ら快楽を高めるように動いていた。
陸は顔を上げて身体を起こす。しかし指は沙希の好きな場所から離れない。
陸が近づいてきたと思うと、胸の尖った部分が彼の唇に吸い込まれた。さらに空いている手が反対の胸の蕾を軽くつまむ。
感じる場所を3点も同時に攻められ、急に意識が遠いところに放られたような気がした。
「やぁぁん、……はぁ……っ、あぁぁん、あぁぁん……あぁぁぁ……」
抑えようにも喘ぐ声が自然と大きくなり、更なる快楽を求めて身体が勝手に動く。
荒れ狂う波間で港と唯一繋がれたロープにしがみつくような気持ちでいたが、それもそろそろ限界だった。
快楽の高波が急激に押し寄せ、沙希はひときわ大きな声を上げて力尽きた。
ぐったりとしていると、陸は切羽詰まった表情でキスをしてきた。
「挿れるからな」
そう言ったかと思うと、すばやく陸自身が入ってくる。
最初は張り裂けそうな痛みに襲われ、思わず目をつぶってしまうが、すぐに慣れて身体の力を抜いた。
「……痛い?」
陸が少し心配そうに腰を浮かせて訊いてきた。
「ん、大丈夫。痛くないよ」
沙希は手を伸ばし、陸の頬を触る。すると陸は少し目を細めて、沙希の中へゆっくりと進入してきた。
「……ん」
最奥まで到達すると、陸も深い息を吐いた。上半身を密着させて深いキスをする。
「……やべぇ、お前の中、めちゃくちゃ気持ちいいんだけど」
嬉しそうに言う陸の顔が、少し幼く見えて、沙希の胸がチクッと痛んだ。だが次の瞬間、もうその表情はすっかり消えている。
それから陸はゆっくりと動き始めた。
胸のあたりにある彼の頭を抱きしめた。痛くもないし、嫌でもないが、気持ちいいと感じるにはまだ遠い距離がありそうな感覚だった。
それでも動きが次第に性急になると、沙希もだんだんと息が上がる。
その様子を陸がじっと見つめている。
陸の表情はせつなげでとても艶っぽい。沙希は彼をこんな表情にさせているのが自分だと思うと、彼をもっと奥まで受け入れたいような気持ちになる。
その想いと身体が反応してか、陸の動きに合わせて沙希自らも、さらに奥深くへ導くように動いた。
「……あぁっ」
今まで感じたことのない奇妙な感覚が沙希を襲った。
「感じる?」
沙希の変化に気がついて、それに呼応するように陸は角度を少し変えた。
「……やぁ……っ」
「気持ちいい?」
そう訊ねる陸の息も上がっている。
「よく……わかんない、……けど、なんか……変な感じ」
「……わかんないのかよ!」
陸が激しく動いた。沙希は慌てて汗ばんだ陸の首筋にしがみつき、初めての感覚をどうにかしてつかみ取ろうと、きつく目を閉じる。
「……やべっ、イく……」
急に陸の感覚がなくなったかと思うと、腹の上に暖かいものがほとばしった。
陸はひと息つくと、後始末をしながらバツが悪そうに「あーあ」とつぶやいた。
「なに?」
沙希はティッシュを手に取って訊き返す。
「今日のお前、すごく感じてただろ?」
「そうかな?」
「だから俺も妙に興奮して、いつもより早くイってしまった……」
そう言って落ち込んでいる様子の陸が、沙希の目にはかわいらしく映る。
「だめなの?」
「……だいたい、お前とやるときはそんなに持たないんだよ」
「ふうん?」
沙希にはその加減がよくわからない。
「もったいない。せっかくお前も感じてたのにな。……どうだった?」
「どうって……」
そんなことを訊かれても困ってしまう。沙希は一生懸命に言葉を探した。
「なんかいつもと違って、ちょっと変になりそうな……?」
「変……ね」
納得がいかないという顔の陸は、ティッシュをぞんざいにゴミ箱へ捨てた。
正直に答えたのが悪かったのか、と沙希はしゅんとしながら反省する。
今までここまでの深い交際になった男性は陸ともう一人だけだ。だから沙希はそういう意味での経験が多いとは言えないし、陸以外の男性との場合も挿入されてから感じるのは快楽とは程遠いものだった。
陸と出会う前から交際していた男とは、高校からの長い付き合いだったが、その男との行為はいつも天井の模様を眺めているだけで終わっていた。
身体の相性というのがあるとすれば、その男とはあまりよくなかったのだろう。
しかもその男は普段から自分の好みを押しつけてくるような部分があり、それは行為の中にもしばしば現れた。沙希はたびたび好まない体位を強要され、行為自体が怖く感じることもあった。
セックスに対してどんな希望も持てなくなっていたころ、沙希は陸と出会い、陸を知った。
事情はどうあれ、家庭教師と教え子の立場を踏み越えてしまったのは、やはり許されない行為だったといまだに後悔することはある。
しかし陸のまっすぐな気持ちを跳ねのけられるほど、沙希は強くなかったし、むしろあのころ、陸の一途な想いにどれだけ助けられたかわからない、とひそかに感謝していた。
それに、と沙希は思う。
(もし陸に抱かれることがなかったら、私は今も……?)
頭に浮かんだ最悪のルートを急いで消去する。
それから陸の背中を見た。
今は恋人同士でもないのに、昔と同じように優しく抱くのはなぜだろう。
(私のこと、もう好きでもないくせに……)
昔のように思い切って彼に抱きつきたいけれども、その背中が沙希を拒否しているような気がして身動きすらできずにいる。
突然、胸がいっぱいになって、涙がこみ上げてきた。
「なに泣いてんだよ……」
その気配を感じたのか、振り向いた陸は困ったような顔をした。
「気にするなって。俺はすごくよかったから、な?」
沙希は頭を撫でられて、うっかり満足しそうになったが、あれ? と考え直す。
(結局、それが目的なのね?)
陸の顔を下から覗き込んだ。
「ああ、もう。そういう目で見るな!」
「だって……」
突然陸の両腕に抱きしめられる。そしてふたりはゆっくりとベッドの上に横たわった。
「俺、ずっとお前と話したかったんだ」
陸の顔を見たかったが、沙希の頭は彼の胸に押さえつけられていた。また陸の声が聞こえてくる。
「何度も電話をかけようと思った」
「へぇ……」
「でも、できなかった」
「うん」
「話くらいしたいだろ?」
「……そうなの?」
「話くらいしたっていいだろ」
陸は自分に言い聞かせるようにそう言った。
腕の力が緩んだので顔を上げてみると、少しはにかんだ表情の陸が見えた。
ふたりの、この関係はなんだろうね?
訊いてみたいけど、怖くてやめた。
『お前とずっと話したかった』
会話が途切れたあとも、その言葉が頭の中にこだました。
陸はきっと沙希のことを忘れるだろうと思っていたから、余計に嬉しかったのだ。
(もうこれ以上期待するのはやめよう。――そう思っても、きっとなにかを期待してしまうだろうけど)
だが、どこかでブレーキをかけておかないと、陸に会うこと自体が辛くなってしまう。
これからは会社でも顔を合わせるのだし、もう少し自分を上手く飼いならさなくては、陸に迷惑をかけてしまう。
そんなことを考えながら沙希は軽くまどろんでいた。
ハッ、と気がついて時計を見るとまだ15分ほどしか経っていなかった。ホッとしてまた布団に潜り込む。
沙希の身じろぎで陸も目を覚ましたようだ。
陸の腕の中で眠っていたことが奇跡のように思われたが、このぬくもりを感じられるのもこれが最後かもしれない。
このときが1秒でも長く続けばいいと願う気持ちと、胸の内のすべてを陸にぶちまけてしまいたい衝動が、沙希の中で激しい攻防を繰り広げていた。
しかしそれも陸のひとことであっけなく収束する。
「起きるか」
「ちょっとシャワー浴びようかな」
沙希は自分を奮い立たせるように明るい声を出した。
「俺も」
ふたりで軽くシャワーを浴びた。終電の時間も近づいているので、帰り支度を急ぐ。
外に出るとまだ少し肌寒いような空気だった。春の匂いがする季節だ。
駅まで並んで歩く間、他愛のない話をした。陸のほうにも沙希との距離を掴みかねているような、そんなぎこちなさがあった。
駅で別れて、沙希はひとり電車に乗った。
酔ってもいないのに身体がふわふわして妙な感覚だった。このまま家に帰って眠れば久しぶりに深く眠れそうな気がした。