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第一部 2

「ええと、社員食堂にはこの階段から行くと近いわ」

 沙希は後ろに続いていた人物のために大きな青いドアを開けた。

「この階段を上がって5階に食堂があります」

「へぇ」

 食堂への近道でもあるこの階段は、勤務時間中は人通りの少ない場所だ。

 後ろでドアが閉まる。その音がやけに大きく聞こえた。

 それから背後にいたはずの人物が自分とまっすぐ向き合っていることに気がつき、慌てて目をそらす。

「お前、ショートにしてるんだね」

「あ、浅野くん!」

 沙希が社内を案内していたのは他でもない今日配属になったばかりの新人、浅野陸だった。

「浅野くん、あのね……」

「俺は長いほうが好きだったけど」

 陸はためらうこともせず、長い指で沙希の髪をすくいあげた。

 陸の指が地肌に触れ、耳を覆っていた短い髪が引っ張られる。その感触に沙希はドキッとした。

「でもこれくらいの長さも似合うな。色もいいし」

「あのね、浅野くん。会社では『お前』とか名前じゃなくて、名字で呼んで」

 平静を装ったつもりだが、陸はわざとらしく沙希の顔を覗くようにすると、口の端だけを器用に上げてみせる。

「『川島さん』と呼べってこと?」

「そうです」

「なんで?」

「なんでって、浅野くんももう社会人なんだからそれくらいわかるでしょ?」

「ふうん。じゃあ……」

「なによ?」

「……なんでもない」

 陸は意味ありげな笑みを浮かべて階段を指差した。

「食堂に案内してよ。……じゃねぇや。案内してください、川島さん」

 久しぶりに再会した陸の態度に戸惑いを感じながらも、沙希は自分の任務をこなすことのみに意識を集中させた。





 食堂への案内を無事に終え、陸を指導係の矢野に引き渡した途端、どっと疲れが押し寄せてきた。自分のデスクに戻って腰を落ち着けると、沙希はまず大きなため息をついた。

 まさか初日から二人きりになることがあるとは思ってもいなかった。

(いけない……知らないうちに向こうのペースにはまっている……)

 沙希はまたため息を漏らす。

「なにかあったの? ため息なんかついちゃって」

 隣の太田がニヤニヤと笑いながら訊いてきた。

「いえ、別に……」

 太田は人間関係の機微に鋭い。気をつけなければすぐにバレてしまいそうだ。沙希は普段と変わらぬ手つきで机の上の書類を整理し始める。

「あ、そうそう。さっき部長が川島さんに話があるって言ってたわ」

「部長が? なんでしょう?」

「さぁ? 用件は聞いてないけど」

 沙希は部長が席に着いていることを確認して立ち上がった。

「じゃあちょっと行ってきますね」

(なんだろう? また急用で経理まで行ってこいと言うのかな……)

 沙希が勤務しているこの場所は本社ビルなのだが、経理部門は隣の別棟にあるため、1日に何度も往復すると、かなりの運動量になるのだ。

 承認済みの申請書類等をまとめて、朝と午後、そして定時前に総務や経理部のフロアへ向かうことが沙希の毎日の仕事であるが、実際は急用が重なり1日中社内を走り回ることも少なくない。

 しかし今は新年度が始まったばかりなので、自分のデスクでやらなければならない仕事がたくさんある。これ以上の雑用が増えるのは困る、と思いながら部長席の前に進んだ。

「部長、お呼びでしょうか」

「お、川島さん。ちょっと向こうの打ち合わせスペースで話したいんだけど、いいかな?」

 なんの話か全く見当がつかないので、眉根に皺を寄せていたようだ。

「あ、そんな顔しないで」

 部長が苦笑いをする。

「いや、話せばもっと嫌な顔するかもしれないんだけど。川島さんの仕事が増える話だからね」

 聞く前からとても嫌な予感がした。わざわざ打ち合わせスペースで聞かなければならないような仕事の話となると、急用よりも断然たちが悪い。





「つまり、これらの依頼が過去1年間、管理部で放置されていたということなんだ」

 そう言って部長はテーブルの上にあるダンボール箱を指差した。書類用のダンボールが2箱、もちろんどちらも中身はぎっしりと詰まっている。

「でも、管理部のほうではすでに環境関係のデータベースが完成して、このような環境関連の依頼文書の処理は以前ほど面倒ではなくなっているはずですが」

「それがね……」

 と言いながら、部長はダンボール箱から一番上の書類を取り出した。それをパラパラとめくって沙希の前に広げてみせる。

 書類を見た途端、沙希の眉間にはまた深い皺が刻まれた。

 英文だ。

「これは……なんですか?」

 沙希は思わず声に出して訊いてしまったが、タイトルを見ればそれが誓約書であることは一目瞭然だった。

「見てのとおり、これらの依頼には誓約書やら契約書やら、簡単には社印を押せないような文書が添付されているんだ」

「それで、これを……?」

「結局、管理部ではすべて日本語に翻訳してどうこうというのが難しいらしい」

 それは職務怠慢だろう、と沙希は内心思う。それを見透かしたように部長は続けた。

「もともと、営業から管理部へ文書作成の依頼をしているものだから、このような誓約書や契約書の内容の判断までは管理部ではできないというのが向こうの主張でもある」

「それを言われると反論できませんね」

「それでここからが本題なんだ。川島さんには申し訳ないのだけど、これらを翻訳して問題がありそうな部分を担当者に報告してほしいんだ」

「翻訳って……これ、全部ですか?」

「本当に申し訳ない」

 ダンボール2箱を前にして、部長は苦い顔で頭を下げた。

「いつまで、でしょうか?」

 沙希は目の前に広げられている英文を見ただけでも頭痛がしてきた。通常の業務のほかにこれをやらねばならない。短期間ではとても無理だ。

「これはイレギュラーな仕事だから特に期間を決めないよ。でも1年も放置されていたものがあるからできれば近々にお願いしたい」

 1年間も放置しておいて、よく問題が起きなかったものだと思う。

「努力はしてみます。……でも営業には他にも英語の得意な人はいるのに……」

「川島さんもわかっていると思うけど、そういう人は自分で処理しているんだよ。これはできない人の分さ。あまりこういうことは言いたくないが、できない人は依頼の中身をよく確かめもせず管理部へ丸投げしているんだ」

 つまり、仕事ができない人間の尻拭いをしなければならないのかと、沙希はますます憂鬱になる。

「確か来月は内部監査が入るよね」

「はい」

「その準備には時間がかかるだろうか」

 沙希はファイル棚の映像を頭の中で再現してみる。

「そうですね。1週間あれば何とかなるかと」

「そうか。無理に残業までしなくていいので、監査の方は太田さんにも手伝ってもらって。じゃあ、本当に申し訳ないが頼むよ」

 部長はそう言って席を立った。

 沙希は2つのダンボール箱を目の前にして途方に暮れる。とりあえず大きなため息をついた。

 だが仕事が忙しければ、余計なことを考える暇がなくていいかもしれない。ついでに仕事が増えた分、給料も上がるならもっと張り切って取り組むのに――。

「何? そのダンボール」

 すっかり自分の世界に浸っていた沙希は、突然聞こえてきた声にびっくりした。ファイル棚の間から矢野がこちらを覗いていた。ちょうど通りかかったところらしい。

「あ、手が空いていたら、これを運ぶの手伝ってもらえませんか?」

「いいけど」

 そう言いながら矢野は通路からファイル棚を迂回して打ち合わせスペースへ入ってきた。

「浅野、もうひとつ持って」

 矢野の後ろから陸が打ち合わせスペースを覗いていた。矢野と並ぶと陸のほうが少し背が高い。

 こうしてみると陸のスーツは『着られている』感じがして、沙希は少しおかしかった。でもたぶんブランドものだ。光沢のある生地がそう主張している。

「浅野くん、持てるかしら? 重いよ」

 沙希は意地悪い笑顔を浮かべてからかうように言った。ここでは今日初めて会った者同士という設定なのだから、できるだけ普通に接しようと自分の心に言い聞かせる。

「これでも結構、力あるんですよ」

 陸もよそよそしい丁寧な態度でダンボール箱を持って沙希を見た。しかし目だけは沙希をからかうときのいたずらな光を宿している。

「これって……川島さんの仕事になっちゃったんだ」

 矢野はテーブルの上に広げてあった文書を手に取りながらつぶやいた。

「しかもこんなにあるのかよ……」

 呆れたように言うと、手にしていた文書を箱に放り込む。それからよいしょと段ボール箱を両手で抱えた。

「ないとは思うけど、もし俺の分があったら自分でやるから戻して」

「了解です。あ、矢野さん、英和辞書とか持ってませんか?」

「あるよ」

「今日だけ貸してもらっていいですか?」

「いいよ」

 矢野は沙希のデスクの横にダンボール箱を置いた。陸もその隣に持っていた箱を置く。

「これは……大きな声じゃ言えないけど」

 と、矢野が声のトーンを落として言った。

「遅くなっても川島さんの責任じゃないんだから、時間のあるときに自分のペースでやればいいよ」

 沙希は矢野の心遣いに感謝してにっこりと微笑む。それから陸のほうを見た。

「浅野くんもありがとうね」

「いえ、お役に立てて光栄です」

 薄い唇の端が上がり、涼しげに陸が笑った。

 以前よりも大人っぽくなった陸の、少しよそよそしい態度に、沙希の心はチクッと痛む。

 だが、その冷めたさを含んだ笑顔があまりにも魅力的で、急に心臓がドキドキと鳴った。その音が周囲にも聞こえてしまうのではないかと、沙希は不安になった。


     


 普段のランチは食堂で総務課の宮川房代とともに済ませるのが沙希の日課だった。

 今日もいつもと同じように窓際の席を陣取って、ふたりはのんびりとお昼の時間を楽しむはず……だった。

 というのも房代が、突然というべきか、あるいは当然というべきか、営業課の新人について話題を振ってきたので、のんびりとはいかなくなってしまったのだ。

 もちろん沙希の心の中が、だ。

「ちょっと、ちょっと! あれでしょ? 営業の新人くん」

 少し離れたテーブルに房代の目が釘付けになっている。

 たいていの女子は容姿の優れた男性の話題を好むものだが、房代もやはりイケメンチェックはかかさない女子のひとりだ。

 新人たちは事前の研修で仲良くなったのか、そろってご飯を食べているようだった。みんなスーツが新しく、体になじんでいないのが初々しい。

 その中でも陸は、ずば抜けて目立っていた。

「そうだよ」

 沙希はぶっきらぼうに答える。

「いやぁ、ずいぶん綺麗な顔だね! ちょっと前なら『ホストみたい』とか言われそう」

 房代は小声で話してはいるが、興奮のあまり顔を紅潮させている。

「そうだね」

 それは沙希も認めるところだ。初めて会ったときからそうだった。17歳といえばだんだんと男性らしさが強くなる時期だが、陸はいわゆる女顔でニュートラルな印象があった。

(でも中身はめちゃくちゃ男性なんだけどね)

 沙希は昔のことを思い出して内心毒づいた。

「沙希ちゃんさ、タイプでしょ?」

「はあ!?」

 思わず大きな声を出してしまった。

 房代とは同期で付き合いは長いのだが、今まで好みのタイプを話したことはない。

「なんで?」

「……当たった! だって沙希ちゃんさ……」

 そこで房代は一旦、言葉を区切った。

 妙に胸が苦しくなる。

「ずっと彼を目で追ってるでしょ」

「ちがっ!」

 房代は勝ち誇ったように微笑んでいる。

「そうか、それでYさんは全然相手にされなかったのか。タイプ違うもんね」

 Yさんというのは矢野のことだ。社内で矢野の話をするとき、房代は周囲に気を遣ってそう呼んでいた。沙希からするとバレバレな気がするのだが、それを指摘したことはない。

「房代ちゃん、私は別に彼氏がほしいわけじゃないから、さ」

「そう? でもいいことでしょ、目の保養が近くにいれば毎日違うよ」

 房代はすっかり目を輝かせて熱弁を振るっている。

「やっぱり、女性はね、恋しないと! それだけで綺麗になれちゃうんだからさ」

「……そうだね」

「沙希ちゃん」

 房代は向かい側の席から手を伸ばしてきて、沙希の手を握り締めた。

「私、応援するよ! 力になるから、なんでも相談して」

「うん……ありがとう」

 気迫に負けて沙希は思わず頷いてしまったが、陸のことはおそらく房代には相談できない。だから少し胸が痛んだ。



 だって、ふたりの恋はもうずっと昔に終わったものだから……。

 彼を手放したのは、私のほうだから……。



 沙希は目を閉じて、昔の記憶をまた胸の奥深くにしまいこんだ。


     


 早速、業務の合間に英文の翻訳を始めてみた。久しぶりに英文を読むということもあり、思ったよりもはかどらない。デスクの脇に居座るダンボール箱に目をやると憂鬱になる。

 だが没頭できる仕事があるのは、沙希にとってありがたいことだった。

 気がつくと定時になっていた。

 窓の外は暗く、雨が降っている。

 今日は残業せずに帰ろうと思い、更衣室で着替えていると携帯が鳴った。番号に見覚えがあり、沙希はハッとする。

「はい?」

『……俺。今、いい?』

 声を聞いただけで、なにかのスイッチが入ったように胸がドキドキし始めた。電話で話をするのも4年ぶりだ。

『まだ仕事中?』

「終わったけどまだ更衣室なの」

『……ごめん』

「大丈夫。出てからかけ直すね」

『傘あるか? 雨、かなり降ってるぞ』

「うん、私は持ってるよ。あ、あとでね」

 更衣室のドアが開く音がしたので慌てて電話を切った。別の部署の女性社員たちが大きな声で会話しながら入ってきた。

 沙希は会話を邪魔しないように小声で「お疲れ様です」と言い残して更衣室を出た。

 会社から最寄の駅までは徒歩で5分。雨は小ぶりになっていたが、傘がなければ濡れてしまうだろう。

 沙希はしばらく歩いてから携帯を取り出した。着信履歴の番号を見るだけでもドキドキする。発信を押す手が少し震えた。

 この電話が繋がったら、どうなるのだろう?

 呼び出し音がやけに長い。コールを5回数えたところで、突然途切れた。

『もしもし?』

「さっきはごめんね」

『お前、今、どこ?』

「もうすぐ駅に着くよ」

 そう告げると同時に後ろからバシャバシャという音がして、持っていた傘を取り上げられた。

「いた」

 滑り込むように沙希の傘へ入ってきたのは、電話で話していたはずの陸だった。

 

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