#32 だけどさよなら

「わかった。移籍を認めるよ。優輝にはずいぶんがんばってもらったからな」
 八の字に垂れた眉が悲しいほど強調され、大手芸能プロダクションの社長らしい威厳はどこにもない。
 即座に反論の声が上がった。
「私との取引はどうなるのよ」
「僕は日本を出ていくので、未莉とはここでお別れです。約束は守りますよ」
 優輝が余裕のある口調で念を押す。
 ――え? ここでお別れって……そんな!
 私の胸は鋭い刃物で抉られたように痛んだ。傷口から流れ出るのは醜い感情ばかりで、これならいっそ本当にナイフで刺されたほうがましだったかもしれない、と思う。
 竹森サイラが「ふふっ」と勝ち誇った笑みを浮かべる。
「いいの? そんな約束しちゃって。彼女、泣きそうな顔しているわよ」
「私は泣きそうになんかなっていません」
 黙っていられず、思い切って反論すると、竹森サイラは意外そうに眉を上げた。
「守岡優輝があなたを守ろうとしているのに、それをぶち壊す気?」
「守岡さんに大けがをさせたのはあなたですよね?」
 私は竹森サイラの顔を正面から睨んだ。モデルとして活動していたこともあるほどだから整った美しい顔立ちには違いない。でも温かみに欠ける目つきは好きになれそうもない。
「違うわ」
 彼女は堂々と否定した。
 そうなるとこれ以上追及できない。彼女があの事故を引き起こした犯人だという証拠がないのだ。
「柴田未莉さんって、すぐ他人にケンカを売るのね」
「違います」
 私は即座に反論した。
 そこに男性の声が割り込んできた。
「まあまあ落ち着いて。サイラさん、申し訳ないが優輝をやることはできない。彼には彼の意志があるからね」
 成田プロの社長の言葉で、燃え上りかけた私の闘争心は一気に鎮火へ向かう。
 逆に竹森サイラは怒りをあらわにした。
「そんなの、ひどいわ」
「ひどいのは君のほうだ。なぜもっと早く真実を伝えてくれなかったんだ」
 一瞬、重い沈黙がこの場を支配する。
 それを破ったのはテーブルの上の食器がぶつかり合う音だった。
 竹森サイラが友広くんの腕をすり抜け、ソファの座面に足をかけてふわりと跳び越えたのだ。私も含め誰もが彼女の逃亡をただ茫然と見つめることしかできなかった。
「逃げるの!?」
 姉が彼女の背中に叫んだが、帰ってきたのはドアの閉まる音だけだった。
「はぁ。びっくりした」
 かわいらしい女性の声に、私はハッと我に返る。
 今までひとこともしゃべらないので存在すら忘れかけていたが、優輝の幼馴染の沙知絵さんも同席していたのだ。
「あんな人もいるんですね。都会はおそろしい」
 ずいぶんのんきな感想だ。他人事だとその程度の感慨しかないものかもしれないが。
 何気なく向かい側を見ると、ぽつんと取り残された友広くんが力なくソファに腰を下ろすところだった。
 入れ替わるように沙知絵さんが立ち上がる。
「あの、こちらのお話が済んだのでしたら、優輝と話をしたいのですが……」
「ああ、君はそのためにわざわざ来たんだ。どうぞ、どうぞ。ほら優輝、隣の部屋を使いなさい」
 ハッとしたように社長が沙知絵さんを振り仰ぎ、優輝を促した。
 優輝はしぶしぶ立ち上がって、沙知絵さんとともに別室へ消えた。

 テーブルの上に並べられていたサンドイッチをほおばったのは、それからすぐのことだ。
社長に半ば強引に勧められたのもあって、姉と私はせっかくなので手を伸ばした。
 高木さんがスツールを引き寄せて座る。
「友広和哉くん、自首する気はないのか?」
 私はサンドイッチを手に持ったまま、向かい側の様子を窺った。
 暗い目をした友広くんは、決して高木さんのほうを見ようとはしない。
「優輝を脅迫した理由は?」
 めげずに高木さんが問いかけると、堰を切ったように友広くんが想いを吐露し始めた。
「僕は彼のようになりたかった」
「和哉、やめろ!」
「物心ついたときからずっと役者の仕事をしてみたいと思っていたのに、認めてもらえなかった。はっきり言われました。才能がない、と。だから父のことが憎かった……それだけです」
 あっさり告白する彼の様子からは、嫉妬や憎しみの感情は伝わってこない。もうその想いが彼の中から消えてしまったようにも感じられた。
 社長が慌てたように口を挟む。
「だからそれは……」
「僕には才能がない――それは痛感しましたよ。ここに集まった女性はみんな守岡優輝がほしいのですからね。僕は誰からも必要とされない」
 友広くんはシニカルな笑いを頬に貼りつかせて私を見た。
「でも自首はしません」
 やけにきっぱりと彼は言い放った。
 高木さんの顔が曇る。
「そうか」
「だって、サイラを放っておくわけにはいかないでしょう」
「じゃあ、あなたが彼女を止めてくださるのね」
 姉が友広くんににっこりと微笑みかけた。
 威圧感のある笑顔を前にして、彼は少し怯んだらしい。
「努力はしますが……」
 約束はできかねる、と言いたげな顔でうつむいた。
 確かに竹森サイラは、他人の説得を素直に受け入れるタイプではなさそうだ。しかし友広くんの裏切りに本気で怒りを爆発させたのは、裏返せば彼を心の底から信じていた証でもある。
 そう思った途端、急に目の前が開けたような気がして、思わず「あっ」と声を上げた。
 隣で姉が「ん?」と反応する。
「友広くんはサイティさんの脚本、読んだ?」
「いいえ」
「それならぜひドラマを見てほしいの」
 なぜ、と問うように友広くんは眉をひそめた。
 私はずいと膝を進め、暑苦しいくらいの熱気で彼に念を押す。
「とにかく見て。私の演技は下手くそだけど、とても素敵なストーリーなの」
「そうですか」
「できればサイティさんと一緒に見てほしい」
 友広くんはしばらくの間、真意を探るように私をじっと見つめていた。
 私も負けじと彼に視線を送る。
 息が詰まるような数十秒――それを遮ったのはドアの開く音だった。
 隣の部屋から優輝が出てきた。その後に従う沙知絵さんは満面の笑みを浮かべている。
「思い切って優輝に会いに来てよかったです」
 沙知絵さんが胸の前で手を組み、感激した様子で社長へ歩み寄った。
 顔面が蒼白になっていた社長は、沙知絵さんを見るなり生気を取り戻し「そうか、そうか」と笑顔で頷いた。
「それで、帰りも送っていただけますか? 優輝と一緒に」
 ――えっ!?
 大手プロダクションの社長に対しても沙知絵さんはまったく物怖じしないらしい。
「もちろんだよ」
 社長は快諾すると、優輝と高木さんを見比べた。
「そっちは大丈夫?」
「彼女を送っていきたいので、僕からもお願いします」
 優輝が神妙な顔つきで軽く頭を下げた。
 私はそこから目をそむけ、サンドイッチに手を伸ばす。
 ――いや、そうだよね。お父様にお会いしたほうがいいよ。海外に拠点を移すならなおさら。
 とは思うものの「たとえ身内であっても絶対に会わない」と彼の口から直接聞いたのは昨晩のことだ。
 デビュー以来、一貫して身内の接触を拒絶していたくせに、沙知絵さんに会った途端、まるでてのひらを返すように受け入れたのはなぜなのか。
 サンドイッチを飲み込むと、優輝のほうへ視線を向けた。彼は高木さんと小声で言葉を交わしていたが、何かに気がついたように私を見る。
 ――どうして……私には教えてくれないの?
 優輝の心がわからない。
 やっとお互いの気持ちが通じ合ったと感じたのは、私の一方的な勘違いだったのだろうか。
「未莉。飲み過ぎ、食べ過ぎには気をつけて」
「……は?」
 優輝は意地悪い表情で笑ったかと思うと、すぐに真顔に戻り、沙知絵さんとともに大広間を出ていった。
「見送らなくていいんですか?」
 友広くんの声で我に返る。
「別に、どうでも……」
 ――どうでもいい……なんてこと、あるわけない。
 だが、優輝が沙知絵さんと一緒に去っていく場面など見たくないのだ。
「あの女性、彼の幼馴染ですか? サイラの前でひとことも発しなかった。賢いですね」
 感心したように友広くんが言うのを、姉が笑って受け止める。
「当たり前よ。計算高くなければ、こんなところまで乗り込んでこないわ」
「私はこんなところに来たくなかった」
 心の中でくすぶる不愉快な感情を抑えて静かに言うと、テーブルの向こう側で友広くんが唇を噛んでうつむく。
 大広間に戻ってきていた高木さんが、姉と私の肩をポンと叩いた。
「じゃ、俺たちも帰ろうか」

 いつも優輝が座っているシートに腰を落ち着けた。
 どんよりと曇った空からぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる。窓に走る水滴のラインを、内側から指でなぞってみた。車のスピードに耐えようとぶるぶる震える雨のしずくがまるで自分のようだった。
 しばらく黙っていた姉が、不意に昔話を始めた。
「本当は資金援助の条件で成田プロから要求されたのは、未莉――あなただったの」
 窓をなぞる指が止まる。
「でも未莉をあの社長に渡すことはどうしてもできない。そんなときに守岡くんが私を訪ねてきたのよ」
 優輝は私の身代わりで成田プロに入ることを了承したらしい。社長も優輝を気に入って、姉の事務所グリーンティはなんとか持ちこたえた。
「守岡くんと私は、未莉の夢を叶えたいという点で同志だった。彼は進んで協力を申し出てくれたわ」
「あ、そう」
 私はわざとそっけなく返事をした。
 ――そんなことはどうでもいいよ。知ったところで過去は変えられないのだから。
 今さら過去のことを恩着せがましく説明されても感謝の気持ちはない。むしろ私のあずかり知らぬ場所で勝手な画策をしないでほしかったというのが本音だ。
 助手席の姉が肩越しに私を振り返る。
「怒っている?」
「……だって、いつも私には何も教えてくれないんだもの」
「そうね。悪かったわ」
 姉は前を見て「でも」とつぶやくように言った。
「未莉は他人の好意を素直に受け取らないんだもの。事前に説明したら、おそらく逃げ出すでしょ?」
 ギクッとしたが、つとめて平静を装う。
「そんなことないよ」
「あら、そう?」
 私の心の内を見透かすように姉は肩をすくめた。
 それから何かを確認するように、運転席の高木さんへ視線を送る。
 高木さんが静かに頷くと、姉は改まって切り出した。
「私、あのマンションを売ろうと思っているの」
「……えっ?」
 一瞬、姉の言葉の意味がわからず、頭がぼうっとなった。
「私たち、新しいマンションを買うのよ。セキュリティも以前より強化されているし、この際未莉も同じマンションの別の階にでも住めばいいと思ってね」
「……いや、ごめん、意味がわからない」
 ――だから、なぜ勝手に決めるんだ!
 若干鼻息を荒くしながらも、しかし私が今いるマンションの所有者は姉であった、と思い出し愕然とする。
 ――しかも私、家賃払っていない……!
 残念ながら私は堂々と文句を言える身分ではないらしい。
 それに海外へ拠点を移すとなると、優輝にはもうあのマンションは不用だ。
「未莉が心配なのよ。あなたはまた狙われるかもしれない。今までは守岡くんが一緒だったからよかったけど、これからは私の目の届くところにいてもらわないと困るわ」
 姉のいうことはもっともだった。竹森サイラの脅威が完全になくなったわけではない現状でひとり暮らしは怖い。
 覚悟を決めて、問う。
「守岡優輝はこれからどうするの?」
 姉が大きく目を開き、数度瞬きを繰り返した。
「守岡くんは、私との約束を違えたから罰を受けるそうよ」
「……約束」
 私は姉よりもさらに大きく目を見開いた。
 助手席の姉は、フロントガラスに向き合うと小さく首をかしげた。
「未莉と守岡くん、どっちが嘘つきなのかしら?」
 ――そんな……!
「海外へ進出するのが罰? そんなの変じゃない?」
 もはや考えるより先に言葉がほとばしる。
「彼が自分で決めたことよ」
「だけど私が笑えるようになったのは、優輝のおかげだよ」
「そうね」
「罰なんて……そんなのおかしいじゃない!」
 運転席で高木さんが「未莉ちゃん」と力なくつぶやいた。
「アイツはアイツなりに君を守ろうとしているんだ。君の女優としての人生は始まったばかりだろ。そこにアイツが関わりすぎるのは、影響力が大きすぎるゆえに未莉ちゃんのためにならない。ここから先、君は自分の力で君の道を行かなきゃならないんだ」
 ――自分の力で、私の道を……。
 ハンマーで頭を思い切り殴られたような気分だった。
 いつの間にか、仕事もプライベートも優輝に頼りきっていたのだと今になって気がつく。
 私の毎日に彼がいてもいなくても、いつだって私は柴田未莉として生きていかねばならないのだが、そんなことも忘れてしまうほど、彼がそばにいるのが当たり前になっていたなんて……。
「守岡くんと未莉のスキャンダルが世に出れば、未莉は潰されるかもしれない。それは彼にとって本意ではない、ということよ」
 姉は淡々と説明した。
「そう。でもどうして私にひとこともないのかな?」
「仕方ないわ。ここに来る途中で決めたのよ」
「そっか」
 私はいつも優輝がするようにシートにだらしなく身を預けた。彼ほど足は長くないし、ポーズも決まらないけど、なんとなく彼に包まれているような感覚があって、胸がきゅうっと縮む。
 どれほどあがいても優輝の気が変わることはない。それが嫌というほどわかるから、私の心は完膚なきまでに打ちのめされていた。
 ――これが私に与えられた罰か……。
 だけど私は知っていた。いつかこんな日が来ることを。
 優輝に保護されたあの夜から、いくつもの罪を重ねてきた私だから。

 その後、私は3日間の入院生活を送ることになった。
 スタンガンをあてがわれた場所のやけどを治療するついでに、頭部や血液の検査を徹底的にしてほしいと姉が懇願したのだ。
 2日目の夜、おとなしくベッドに横たわっていることができなくなり、ケータイを手に取った。待ち受け画面を眺めていると、次第に胸の鼓動が大きくなる。
 ――ええい! かけてしまえ!
 意を決して優輝の電話番号をタップする。
 呼び出し音が鳴る間、全身が心臓になってしまったかのようにドキドキした。今にも破裂しそうだ。
 膨れ上がった期待がしぼみかけたそのとき、呼び出し音が途切れた。
『……どうした?』
 安堵と緊張で声が出ない。
『未莉?』
「あの、……元気?」
 すっかり舞い上がってしまった私は、自分でも内心ツッコミを入れてしまうくらいまぬけなセリフを口走る。
 笑われるかと思ったが、優輝の声は普段と変わらない。
『まぁな。未莉は?』
「えっと、入院中」
『検査は順調?』
「うん」
 電話をかけておいて、相手の質問に答えるだけというのはさすがにどうだろう、と思う。
 ――えー、用件は……。
「いや、あの……今、どうしているのかな、と思って……」
 電話の向こうで優輝がクスッと笑った。
『ちょうど未莉に電話しようと思っていた』
「嘘だ」
『決めつけるなよ』
「だってなかなか出なかったもん」
 あっ、と思ったときにはもう遅く、妙な間が空いた。
 もしかしたらこの電話は迷惑だったかもしれない。私は慌てた。
「お邪魔でしたね。ごめんなさい。切ります」
『待てよ』
 引き留める声も焦りをにじませている。
『怒っているだろうな、と思って』
「私が?」
『あんなふうに別れてきたから』
 数日前のできごとを思い出し「ああ」と応ずる。
「今はご実家?」
『いや、実家には顔出したけど、仕事もあるから戻っている』
「そうなんだ」
 ――ということは、今マンションにいるの?
 突如、脳裏に浮かんだのは彼が荷造りしている姿だ。想像するだけでも胸が締め付けられるように痛む。
 ――だめだ、考えてはいけない。
 急いでその図を頭の中から追い払った。
『紗莉さんから聞いたんだろ?』
 少しこわばった声で優輝はそう言った。
「まぁ、だいたいのことは、ね」
『本当は……俺、未莉に言おうと思っていたことがあるんだけど』
「……ん?」
 彼にしては珍しく歯切れが悪い。
 何か大事な話だろうか。これ以上悪い話は聞きたくないが、気になって仕方がない。
 次の言葉をじっと待っていたが、優輝は大きく息を吐くと『いや、いい』と勝手に締めくくってしまった。
「え、何? すごく気になるんだけど」
『……実家のポスター見たら無性に悪戯したくなって、おでこに肉って書いておいたから』
「はぁ!?」
 優輝はクックッと茶化すように笑う。
 このまま会えなくなるかもしれないのに、優輝はいったい何を考えているのか。
 ――本当にこのまま会えなくなるの?
 結局、私も一番訊きたいことは口に出せずにいる。
 笑いをおさめた優輝は、励ますような調子で言った。
『未莉、がんばれよ』
「言われなくてもがんばります。優輝もがんばってください」
『ああ』
 ――まずい。これでは通話が終了してしまう。
「あの……」
 なんでもいいからもう少し優輝の声を聞いていたい。
 だってこんな突然の終わりをすんなり受け入れられるわけがない。
 ――私たちはようやく始まったところじゃないの? そう感じたのは私だけなの?
 涙がこみあげてくるのを必死でこらえ、ずっと胸の中で温めていた言葉を口にした。
「私、会いに行くから」
 優輝はフッと柔らかく笑う。
『今度はなんの変装してくるのか、楽しみにしてる』
 ――来るな、とは言わなかったよね? それはまた会えるってことだよね?
 終わりを覚悟しなくていいとわかった途端、心に羽根が生えたような気分になる。
「逃げないでね」
『どうかな』
 素直にイエスとは言わない優輝の表情が目に浮かぶ。
 電話を切った後、自分が晴れた空のようにすがすがしい気持ちでいることに気がついた。
 寂しくないといえば嘘になる。
 それでも前を向いて歩いていけば、いつか絶対彼のところにたどり着けるとわかったから、もう何も怖くはなかった。

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#32 だけどさよなら * 1st:2016/07/03


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