退院してマンションに戻ると、意外にも部屋の中はそのままだった。優輝の荷物はすべてなくなっていると覚悟していたので、帰宅した私はホッとするよりも拍子抜けしてしまった。
しかしそれもこのマンションを引き払うときまでのこと。
来月には私もここから引っ越すのだ。その際、優輝の荷物はトランクルームに預けられる。
姉と高木さんが購入したマンションは、そもそも高木地所が所有する物件で、その御曹司である高木さんこそが実質オーナーだった。
私は姉たちの上の階に住み、家賃を払う。思いがけず長くなった居候の身分からやっと卒業できる。
ここでの生活は、始まったときも唐突だったが、終わるときも唐突だ。
でもこれでいい。これこそが本来あるべき姿なのだ。
広いベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めて思う。
そうだ、新しいベッドを買わなければ、と。
優輝がいなくなった部屋にはじめて親友の柚鈴を招いた。
今日はスペシャルドラマの放映日2夜目なのだ。記念すべき初仕事の完成のときをひとりぼっちで迎える勇気が私にはなかった。
「お、いい感じに無愛想だこと」
テレビ画面に私が映ると、彼女は茶化すような声を上げた。
緊張気味の私を気遣って明るくふるまう親友の優しさに感謝しつつ、私もテレビへと意識を向けた。
もちろん物語の内容は熟知している。でも編集された映像は私の想像を超えるドラマティックな展開に仕上がっているから、思わず物語にのめりこんでしまう。
まぁ、時折自分自身の稚拙な演技に幻滅して泣きたくなる場面もあり、そういう意味でもハラハラドキドキしっぱなしなのだけど。
そんな私の役柄は、過去の事件で恋人を亡くし、心に深い傷を負いながらも独自に事件を再調査するヒロイン。
なりゆきでその調査を手伝うことになる車いすの探偵が優輝の演じる役どころだ。
事件の調査が進むにつれ、主人公とヒロインの信頼関係が深まっていく。ふたりの距離も近くなり、ヒロインが過去の心の傷を乗り越えて笑顔を取り戻すと、実はふたりが生き別れの兄妹だと判明してドラマは唐突に終わる。
途中、心の声をだだ漏らしていた柚鈴も、この衝撃のラストに目を見開いたまま絶句した。
「……え? お、終わった!?」
「うん。これで終わり」
「この人たちはどうなるの?」
「さぁ……」
ハッピーエンドを期待していたら、裏切られたと感じるかもしれない。
私も撮影が終わった直後は、こんなラストでいいのかとすっきりしない気分だった。
エンドロールにサイティという名前を見つけた柚鈴は「チッ」と舌打ちする。
「でもまぁ、意外にいい話だった」
「うん。ラスト以外は、ね」
「確かにラストは少しがっかりしたけど、私はそんなに嫌いじゃないな。未莉の雰囲気と役柄がすごくマッチしていて、とてもよかった」
毒舌の柚鈴からこれほどの褒め言葉を引き出したのだから、ドラマは大成功と言えるのではないか。
嬉しいやら恥ずかしいやらで、顔が紅潮する。
それに柚鈴がこのラストを嫌いじゃないと言ってくれたのが望外の喜びだった。
――友広くんは見てくれただろうか。
姫野明日香の事務所からの圧力でラストを変更したらしいが、本当はこのラストこそ脚本家サイティの望む結末だったのではないか、と今では思う。
彼女の中で異母弟である友広くんは絶対的な存在なのだ。そして何があっても味方をしてくれるゆるぎない存在こそ、彼女が心の底から欲していたものかもしれない。
――本当のところは竹森サイラにしかわからないけど。
私は彼女の想いを代弁するつもりで演じてはいないが、彼ならきっと異母姉からのメッセージに気がつくはず。
――友広くんの気持ちはきちんと届いているよ。だから「人を好きになるのは……ただ苦しいだけ」なんて思わないで――。
祈るように手を組んで、にぎやかなCMを映すテレビ画面を見つめる。
誰かを想う気持ちがいつも報われるとは限らないけど、それはやっぱり尊いものだと私は思う。
柚鈴がためらいがちに「ねぇ」と声を上げた。
「守岡くんはどうしているの?」
「……さぁ?」
正直に答えると柚鈴はリモコンを手に取り音量を絞る。
「これって結局犯人の思うつぼじゃない! そりゃ、守岡くんはどんな誘惑にも負けるような男じゃないけど、君たちが離れ離れになるのはよくないよ!」
急に真剣な表情で柚鈴が怒りだした。
「そうかな」
「そうだよ。『ふたりはこれから』ってときなのに!」
私は「まぁね」と苦笑いする。
確かに恋愛の段階ではこれからが楽しいときなのだろう。
「なんで未莉はそんなに冷静なの? それ、全部あきらめちゃっているみたいな顔だよ」
柚鈴の言葉で、私は笑みを消し、表情を引き締めた。
「違うよ」
「じゃあ、サイティってふざけた名前の脚本家のことは? 許せるの?」
核心に迫る質問に一瞬、うっと詰まった。
「それは……難しいよね」
「君たちは生ぬるいなぁ。優しすぎる。私なら今からでも乗り込んで鼻に1発、いや2、3発お見舞いするね」
柚鈴は握った拳で構えを作る。眉間には深い皺が刻まれ、闘志を燃やす様子はなかなか頼もしい。
「それができたらいいんだけどね」
「だって理不尽でしょ!? 未莉は悪くないのに」
不服そうに柚鈴は口を尖らせた。
おそらくオーディションの招待状を送りつけた頃、彼女らは私が辛酸を嘗める姿を想像してほくそ笑んでいたに違いない。
その計画はオーディションの失敗でうまく駒を進めたように見えたが、予想外の方向へと転がった。火事がその契機だったのかもしれない。
優輝に拾われて私は少しずつ人の温もりを思い出していった。西永さんの引き立てで仕事も順調にステップアップしてきた。
――気に入らないよね。
竹森サイラに同情するわけではないが、彼女からすれば私は相当うっとうしく邪魔な存在だろう。目の敵にされても仕方がない、とあきらめにも似た気持ちで思う。
「彼女は守岡優輝のファンを代表して私に天誅を加えたんじゃないかな」
「冗談じゃない! 神ならまだしも、最低を自認する人間が天誅だなんて……って、もしや未莉……」
何かに気がついたらしい柚鈴の目が丸くなった。
「私の知らないうちに、天誅を下されるようなことを守岡くんといたしましたので?」
「えっと、たぶん……いたしました」
恥ずかしさのあまり、語尾が消え入りそうになる。
「おっ、おおおおお!!」
柚鈴が私の両肩をガシッとつかんだ。
「おめでとう!!」
「あ、ありがとう?」
「だからそんなに余裕なのか」
「いや、そういうわけでは……」
「よし、乾杯だ!」
妙なノリで、私たちは飲みかけのワイングラスを軽くぶつけ合った。
だが、ふと我に返ったらしい柚鈴が「あれ?」と声を上げる。
「でも彼から連絡はあるんだよね?」
「ないよ」
「ちょ、ちょっと待って。それじゃ、まるでやり逃げじゃないか!」
顔を真っ赤にして憤る親友がかわいいので、失笑してしまう。
「たぶん違うよ。そんな人じゃないって私も信じているし。それに連絡が取れないわけじゃなくて、お互い連絡しないというだけで」
「なんで?」
まったく理解不能というように柚鈴は首を傾げた。
私もうまく説明できる自信はない。
それに不安がないと言えば嘘になるけど――。
「私は大丈夫だよ」
思い切って口にしたセリフに、親友はものすごい剣幕で食ってかかってきた。
「何が大丈夫なの? またいつどこで誰に襲われるかわからないという現状で、未莉をひとりにするなんてありえない!」
「でも私が狙われたのは、柚鈴みたいな売れっ子じゃないのに周りにちやほやされたからでしょ。私がこの仕事を堂々と続けていくためには、守ってもらうだけじゃだめで、私自身が結果を出していかないと。だから優輝と離れて自立しなきゃいけないと思う」
姉と高木さんに指摘されたことを思い出しながら、私はつとめて明るく言った。ふたりからの助言がなければ、未だ優輝に対する未練を断ち切れずにいただろうと思う。
でも今の私は前を向いている。
自分の進むべき道のことを考えるとき、不思議と優輝の後ろ姿が見えるのだ。進む道は違っても、彼は同じ空の下にいる。そう思うだけで勇気がわいてくるから不思議だ。
しばらく黙っていた柚鈴が小さくため息をつく。
「……そっか。未莉が納得しているならいいけどさ」
――本当は納得できないこともたくさんあるんだけどね。
私は笑みを浮かべたまま、心の中でつぶやいた。
でも今の私に立ち止まっている時間はない。
――だからもう全部飲み込んでしまおう。
いつも晴れた日とは限らない。雨の日も風の日も私たちは自分の足で歩いていく。
その道のりで、またいつか彼と交差するまで、私はあきらめない。
ただそれだけのことだ。
けたたましいアラームの音に反応して手を伸ばす。時計をつかんで目を開けると表示は朝の5時30分。起床の時間だ。
気だるい身体を無理矢理起こし、カーテンを開ける。すでに外はまばゆい光に満ちあふれ、眼下に広がる公園の中をカラフルなランニングウェアに身を包んだ女性が颯爽と駆けていった。
私は寝ぼけ眼をこすって伸びをする。
この新しいマンションに引っ越してから1年が経つ。
あっという間の1年だった。
というのも、ありがたいことに仕事が順調で、主役級ではないものの出演したドラマは単発を含め3本、映画は2本、そしてコマーシャルは5本となっていた。これは私の実力というよりもマネージャーを引き受けてくれた高木さんの力によるところが大きい。
そして今は連続ドラマの仕事で毎朝7時半にはスタジオ入りしている。朝に弱い私だが、遅刻したことはない。
シャワーを浴びて冷蔵庫を開ける。
パックに詰められた野菜とハム、そしてチーズを取り出し、食パンに挟んでほおばった。
最後に牛乳を飲み、小さく手を合わせて「ごちそうさま」とつぶやく。それから本格的に外出の準備に取りかかった。
夜8時に撮影が終わり、高木さんの車で帰宅した。
ここのところ私は帰宅時にまず姉と高木さんの部屋に顔を出すことにしていた。
「ただいま」
「おかえりー。お疲れさま」
続いて廊下の向こう側から姉の「よっこいしょ」という掛け声が聞こえる。
「あーお姉ちゃん、いいよ。座っていて」
姉はお腹が大きくなっていた。もうすぐ母になるのだ。
「いやいや、少し動いたほうがいいらしいよ」
笑いながら高木さんが言う。彼も来月にはパパになる。
「ふたりともご飯、食べるでしょ?」
キッチンのほうからいい匂いがした。今晩はカレーライスのようだ。
姉がキッチンに立って料理をするなんて、以前は想像もつかない光景だったが、今ではその姿もなかなか板についてきたように思う。
「いただきまーす」
頬張ったカレーライスは昔、母が作ってくれた味によく似ていた。
カレーだけではない。姉の作る料理はどことなく母の味を思い出させるものだった。
「お姉ちゃん、料理上手になったよね」
「あら、私だってやればできるのよ。それに最近食欲がすごくてね。食べたいから作るのも楽しくて」
シャープだった頬のラインが、少しふっくらしてきたのはそのせいなのだろう。でもとても健康的だし、性格も少しだけ丸くなったような気がするから、とてもいい傾向だと思う。
「そういえば、赤ちゃんが生まれてからはどうするの? しばらく家事なんかできないでしょ? 料理とか手伝いたいけど、私も仕事があるし……」
最近ずっと気になっていたことを口にした。
高木さんがスプーンを置いて「そのことなんだけど」と私のほうを向いた。
「俺の実家で厄介になろうと思っていてね。もしひとりになるのが不安だったら未莉ちゃんの部屋も用意してもらうけど、どうする?」
「え、いや……いくら高木さんのご実家が豪邸でも、それは遠慮させていただきたく……」
「遠慮なんてしなくていいよ。未莉ちゃんも家族なんだからさ」
高木さんの実家は環境のいい、都心から少し離れた場所にある。敷地は学校ひとつ分ほどもあり、一族の数世帯がそれぞれ独立した建物に暮らしていると聞く。
「あら、未莉はもう、ひとりでも大丈夫よね?」
姉が高木さんを牽制した。
私は首が取れるくらいブンブンと上下にふる。
「そっか。うちの親は未莉ちゃんの大ファンだから、来てくれると喜ぶと思うけどね」
「じゃあ、赤ちゃんが生まれたらお邪魔させていただきます」
「うん。ぜひぜひ」
爽やかな高木さんの笑顔を見て、家族っていいな、と思う。
スーパーモデルとして海外で活動していた頃の姉には家族なんて邪魔なだけだったかもしれない。
でもここで食卓を囲んでいる姉の表情は当時にはなかった柔らかさがある。それが加わった姉の美しさは、まるで聖母のようだ。
――悪魔のような姉も、素敵な旦那さまのおかげで、すっかり変貌したよね。
そんなことを考えているうちに、急に気持ちが高ぶってしまった。
「やだ、何、泣いているのよ」
姉が慌ててティッシュを差し出してくる。
「いや、なんか、お姉ちゃん、幸せになったんだなーと思ったら涙が……」
「未莉もこれからよ」
「そうだよ。仕事も順調だし、未莉ちゃんはこれからもっともっと幸せになれる」
私は涙を拭って曖昧に微笑んだ。
だって今でも私は十分幸せ者なのだ。
あれから姫野明日香はバラエティに進出し、女優業はすっかりご無沙汰だ。キャラを活かしてテレビでの露出は多くなったが、路線変更せざるを得なくなったのは自身の演技力のせいだと世間では噂されている。
姫野明日香が努力していないとは思わない。いや、むしろ私の数倍は努力しているはずだ。それでも届かなかったり、認められなかったり――努力すればすべてうまくいく、というものでもない。
だから女優としての仕事を認められ、次に繋がっている私は、紛れもなく幸せ者なのだ。
そう考えると、これ以上の幸せを望むのは罰当たりなんじゃないか。
弱気になりかけたそのとき、姉が「そういえば」と言い出した。
「再来週のオフはどうするの?」
「え?」
唐突な質問に驚いて、一瞬思考が停止する。
「1週間のお休みなんて久しぶりでしょ? まさかずっとダラダラ過ごすつもりじゃないでしょうね」
「いや……」
「その顔、本当に何も考えていなかったみたいね」
さすがは姉。というか、毎日の仕事をこなすのが精一杯でオフの計画を立てるところまで頭が回らなかったのだ。
――でも1週間あれば、どこにでも行けるよね。
なぜか急にそんな気がしてきた。
そう思った途端、心の中に自分でも驚くほどの強いうねりが生じる。それは胸をぶち破って飛び出してきそうな衝動だった。
「決めた!」
「ん?」
高木さんが目を丸くして私を見つめる。
「ちょっと海外旅行に行ってくる!」
「おお!」
姉と高木さんの声が重なり、ふたりの顔がパッと明るくなった。
「1週間で帰ってきなさいよ」
冷やかすように目を細めて忠告する姉を、私は笑顔のまま睨みつけた。
海外旅行は10年ぶりだろうか。
それもまさかひとりで旅立つことになるとは……。
前日に連続ドラマの撮影が無事に終了し、約13時間のフライトの末ニューヨークに降り立った私は、大きめのキャリーケースを引きずり、空港出口に向かって歩いていた。
当たり前だが、表示はすべて英語だ。不安になり、立ち止まって左右を注意深く確認する。
――こっちでいいのかな?
きょろきょろしているうちに、黒縁の眼鏡がずり落ちてきた。
ふぅと小さくため息をついたそのとき、不意に肩を叩かれた。
「どこ見てんだよ」
驚いて振り向くと、グレーのTシャツに黒いジーンズ姿の優輝がすぐそばにいた。
――相変わらず気配を消すのが上手い。
と感心した直後、鼻先に大きな花束が突きつけられる。
「ほら、これ」
「えっ、何!?」
「はい、やり直し」
優輝は不機嫌そうに言い捨てると、花束をまた背中に隠した。
「セリフが違う」
――ん? これって、もしかして……。
同じようなことが前にもあった、と脳をフル回転させて記憶をたぐり寄せる。
「ほら、これ」
後ろに回していた手が優雅に弧を描き、私のほうへ伸びてきた。ガサガサと音がするのと同時に馥郁(ふくいく)たる花の香りが鼻孔をくすぐる。彼は左手をそっと添えた。
「えっ、これを私に?」
声が思ったように出ない。私の目の前にあるのはバラの大きな花束だ。想定外の出来事に茫然となった。
「お前以外に誰がいるんだよ」
頭の中が真っ白になっている私の顔にぐいぐいと花束が押しつけられた。彼は私の反応を面白がっているらしい。
「ありがとう」
花束を受け取りながら、1年ぶりに優輝を正面から見つめる。
長めの前髪は相変わらずだが、後ろ髪が結べそうなくらい長くなっていた。
「ずいぶんかわいい変装だな。サングラスより眼鏡のほうが俺は好き」
「ちょっ……いきなり何を言う!?」
久しぶりの再会だというのに、ブランクは一瞬で埋められる。
優輝は私の手からスーツケースを奪い取り、空いた手に指を絡ませた。
「かわいいものをかわいいと言って何が悪い?」
不敵な笑みで見下ろされると、頬がじわじわと熱くなった。
彼がSNSにアップする写真は毎日チェックしていたけど、直接彼に見つめられるのは1年ぶりだ。
――やっぱり実物のほうが断然いい。
隣を歩く優輝を横目で見る。
「あの、どうして花束を?」
オーディションのときは見えない花束だったが、今度は本物のバラの花束だ。何か特別な意図があるように感じるのは、うぬぼれがすぎるだろうか。
「未莉には花が似合うと思ったから」
珍しく照れたような顔をして優輝は目をそらし、握っている手に力を込めた。
「とりあえず俺んちに案内する」
私は頷いて、彼に従った。
優輝の住むマンションは日当たりが良く、開放感のある間取りで、思わず「何もないね」と口走ってしまうほどスッキリしていた。
「居心地悪いだろ」と優輝はほくそ笑んだ。
「うん。前と全然違う」
目立った家具といえば、小さな冷蔵庫と固めのソファと間仕切りの向こうに見えるベッドくらいだ。
立ちっぱなしも変なのでソファの端に座る。
優輝は冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「未莉が自分から俺のところに来たってことは……」
「え?」
急に彼が私の隣に座り、体を摺り寄せてきたので、私は身を固くした。逃げようにもソファのひじ掛けがそれを阻止するし、優輝は肩に手を回して私を腕の中に抱きとめる。
「俺とどうなってもいいという覚悟はあるな?」
耳元で囁かれる言葉が私の心を瞬時に絡めとっていく。
――そんなこと、わざわざ聞かないでよ!
そう思いながら小さく頷くと、優輝は私の顔を覗き込み「これはいらない」と慎重に眼鏡を外した。
再度向き合った彼の表情はいくぶんこわばっていて、緊張しているようにも見える。
ドキッと胸が鳴った。
「ずっと言いたくて、言えなかったことがあるんだけど、今やっと言える」
「……うん?」
「俺と結婚しよう」
――えっ? えええええ!?
驚いて目を見開いた途端、彼が急接近して唇が重ねられる。
「ちょ、ちょっ、まっ……!」
タイムを要求したが、それも中途で彼の唇に遮られ、飲み込まれてしまう。
おまけに彼の舌は性急に私の唇をこじ開けたかと思うと、急にじれったいほどゆっくり私を侵略する。
「もうこれ以上は待てない」
「うん。……待たせてごめんなさい」
――待っていてくれて、ありがとう。
差し伸べてくれる手に縋っていた私だったけど、ようやく追いつけた気がした。
今なら彼の隣に並び、手を繋いで歩いて行けるんじゃないか、と思う。
私たちはこれまでの想いをぶつけるように、激しくも甘い濃密な時間を過ごした。
姉が無事出産し、私はマンションの自分の部屋にまっすぐ帰るようになった。
寂しくないわけではないが、1ヶ月もすれば以前よりもっとにぎやかになる。そのときを想像すると自然に頬が緩んだ。
帰宅して着替えでもしようか、と思ったところで部屋のチャイムが鳴る。
時計を見るとすでに夜の9時を過ぎていた。
おそるおそるモニターを覗いてみると、そこには帽子を目深に被った黒縁眼鏡の男性が映っている。長身で端正な顔つき――まさか!?
「はい。どちらさまでしょうか」
「ただいま」
カメラ目線でニヤリと笑みを浮かべているのは紛れもなく優輝だ。
しばらくしたら帰国すると聞いていたが、私が旅行から戻って2週間も経っていない。いくらなんでも早すぎないか?
「荷物は明日来る」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「もう待たない」
「いや、でもね、私にも予定があるし、準備も……」
勝手に各部屋を物色している優輝の背中に文句を言ってみるが、彼はまったく聞いていないようだった。
寝室を覗いた優輝が「おっ」と驚いたような声を上げる。
「やる気はあるんだな?」
「ま、まぁね」
私は彼が手にしているものから目をそらす。
それはタグが付いたままのランニングウェア一式だった。
「じゃあ夜は早く寝ないとな」
そう言って優輝は私を引き寄せ、額に口づける。
これからの日々を祝福するような優しいキスに、私はうっとりと目を閉じた。
<END>