#28 軌跡が奇跡に変わるとき

 よいムードのまま夜を迎えた私たちだったが、台本に目を通したところで互いに黙り込んでしまった。
 というのも、スペシャルドラマの台本は物語としては感動的なのだが、役の上で恋愛関係になる優輝と私の間柄が最後の最後で兄妹と判明するのだ。
 風呂から上がると、優輝の話し声が聞こえてきた。電話中らしい。
「確かに衝撃のラストですが、その設定は視聴者を裏切ることになりませんか?」
 台本への不満をぶつけるとすれば、相手は西永さんか。
「安易? 僕はそう思いませんが」
 優輝は苛立ちを隠さず、ぶっきらぼうに言った。ドキドキしながら耳をそばだてていると、急に「ああ」と納得したような声が聞こえてくる。
「えげつないですね」
 ――ん? なんだ、なんだ?
 台本に対してえげつないという言葉は似つかわしくないと思うのだけど。
 身支度を急ぎ、リビングルームへ向かうと、優輝は台本を読んでいた。
「あの、どこかに電話していましたか?」
 立ち入った質問だろうか、と口にしてから思う。
 台本から目を上げた優輝は苦笑いを浮かべた。珍しい表情なので思わず見入ってしまう。
「西永さんに訊いた。結末がどうしてこうなったのか、を」
「何か理由が?」
「姫野明日香の事務所がプレッシャーかけてきたそうな」
「……え?」
 驚いた。スペシャルドラマには関係ないはずの姫野明日香が、まさか台本に絡んでくるとは誰も考えまい。
「こっちをハッピーエンドで終わらせると、あのオーディションの意味がなくなると大層ご立腹らしい」
「それは完全に言いがかりでしょ?」
「西永さんは自らの不注意で姫野明日香の顔に泥を塗った格好だから、多少なりとも譲歩せざるをえない。でも彼は『単なるハッピーエンドにはない、深い余韻が残るドラマになるはずだ』と自信満々に主張している」
 西永さんの自信に満ちた顔を思い浮かべながら、大人の世界は複雑だと実感する。
 しかし完全なる言いがかりであろうと、それを逆手にとってやろうという逞しさは見習うべきかもしれない。
 突然、優輝がニヤッと笑う。
「そういえば未莉は俺の従妹だったよな?」
「は? なんの話……あーーー!」
 いきなり何を言いだすかと思えば、お見舞いに行ったときの従妹設定を蒸し返してきたのだ。その場面が脳内によみがえり、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「うちの社長は見事に騙されていたし、あんな感じでいけば?」
「そ、そうですね」
 ――いやいやいや、あんな感じって簡単に言わないでよ。
 でも少しだけ気が楽になった。表情の乏しい私が役作りをするのはたぶん普通の人より難しいのだ。
 今をときめく守岡優輝さまからヒントをいただけるなんてありがたい、と思ったら……。
「ま、今回は役作りの必要はなさそうだけどな」
 台本に目を戻した優輝がすました顔で言った。
 ――なによ、ただの嫌味?
 心の中では盛大に毒づいているくせに、なぜか今、ものすごく優輝に抱きつきたい気分になっていて、そんな自分に私は激しい戸惑いを覚えていた。

「いやーよかった、よかった! 恋も仕事も順調で」
 台本の読み合わせが終わった後、私は柚鈴とふたりでカラオケ店へ来ていた。
 柚鈴は案内された個室に入るなりマイクを持ち、部屋中に響き渡る大音量でそう言ったのだ。約束のようにマイクがキーンと鳴り、私は思わず耳をふさぐ。
「順調……なのかな?」
「そりゃそうよ。あんないい男を独り占めしている上、彼のおかげで仕事もゲット! しかもいきなり主役のヒロインで女優デビューだよ? これを順調と言わずしてなんと言う」
 ――確かにそう。そうなんだけど、さ。
 私は背もたれに寄りかかり、小さくため息をついた。
 柚鈴が私の顔を覗き込む。
「あれ、守岡くんとうまくいってないの?」
「うーん、別にケンカしているとかじゃないんだけど」
「じゃあ何よ?」
「……避けられているのかな」
「え? どういうこと?」
 それが私にもよくわからないから困っているのだ。
 しかし内容が内容なので、いくら親友の柚鈴であっても説明しにくい。
「いや、ほら、今はけがをしているから仕方ないといえば仕方ないんだけど」
「仕方ないって、もしかして……エッチしていないとかそういうヤツ?」
「そ、そういうヤツ……です」
 うつむいて目をぎゅっと瞑る。恥ずかしいことこの上ない。
 でも経験の浅い私の手には負えない悩みであるのも事実だ。
 タイミングよく店員がドリンクを運んできたので、柚鈴が愛想よく応対する。
 防音仕様の分厚いドアが閉まると、彼女はニヤッと笑った。
「それって未莉はしたいのに、守岡くんが手を出してこない感じ?」
 ――わ、私は、したいのか!? そ、そうなのか!?
 あからさまな指摘に私は「いや、あっと、んー」と言葉にならない何かを発しながら、認めるべきか、否定すべきかで迷う。
「手を出してこない……というわけでもないんだけど」
「え? でもエッチしていないというお悩みでしたよね?」
「えっと、そう……なんですよね」
 むしろ何もされていないほうが、いっそすがすがしい。彼は私に興味がないのだと割り切れるから。
 ――中途半端がいけないのだ、中途半端が!
 しかしそれを本人に直接抗議することができないから困る。
「つまり、ちょっかいは出すくせに最後までなさらない、ということ?」
「そ、そう……かな」
「へぇ、変な人」
 ――ちょ、ちょっと! 変な人で片付けないで。
 私が求めているのは感想じゃなくて、どうすればいいかというアドバイスなのだ。
 しかし相談内容が恥ずかしすぎて頬だけでなく全身が熱い。とりあえず注文したジンジャーエールを飲んでのどを潤す。
「で、未莉はどうしたいの?」
 柚鈴はいきなり核心に切り込んできた。
「どうって、それはまぁ……避けられているなら、これ以上はどうしようもないと思う」
「雑誌のインタビューであんなに大胆に告白しておきながら、未莉を避ける理由がわからないけど」
「そんなの、私だってわからないよ」
 半ばやけになって答えると、柚鈴がプッとふき出した。
「未莉のことだから、自分から誘うような高等テクニックは無理だろうしなぁ」
「誘う!?」
「そうそう。さっさと押し倒しちゃいなよ」
「え、無理」
 そんなことできるわけない。
 即答する私の向かい側で親友は腹を抱えて笑う。
「いやー、守岡くんは超ドMだね」
「なんで?」
「だってそれが本当の話だったら、彼はずーっと我慢しているわけでしょ。とんでもない自制心だよ。そのシチュエーションでそんなことありえない」
「いや、だから、私は避けられているのか、と」
「でも何もしないわけじゃないんでしょ? その気はあるんだよ。ということは初心な未莉のために、懸命に自制しているんじゃない?」
「どうしてそんなこと……」
 言いかけてハッとした。柚鈴が真面目な表情になったのだ。
「未莉を大切に想っているからじゃない?」
 私は瞬きを忘れて柚鈴の顔を穴が開くほど見つめた。
「身体の関係から始めてもよかったのに、そうしなかったのは守岡くんが紳士であろうと努力したからだと思うけど。未莉のためでなければ、そこまではできないよ」
「うん……」
 これにはさすがの私も素直に頷かざるをえなかった。
 ――だとしたら、私はどうすればいいんだ。
 すがるような目で柚鈴を見ると、彼女は困ったような顔で笑った。
「恥ずかしいかもしれないけど、先へ進みたいなら、未莉が守岡くんの紳士面を引っ剥がすしかないね」
「引っ剥がす……」
「すると彼がケダモノに豹変!」
「ちょっ、それは困る」
 思わず腰を浮かせた私を見て、柚鈴は「ひゃーははは!」と笑い転げる。
 ――って「俺」の優輝が素の状態じゃなかったの? あれもまだ仮面をかぶっていた、と!?
 ヤツは根っからの役者なのか。そんな相手の紳士面を引っ剥がすとなるとこっちもそれなりの覚悟が必要ということになる。
 そんなこと、私にできるのだろうか。
 でもほんの少しだけ気になってしまう。
 彼の仮面の下には何が隠されているのか――。

 しかし、やましいことを考えていられたのはこのときだけで、帰宅すると優輝との台本の読み合わせプライベートレッスンが待っていた。頭の中にたちまちスペシャルドラマの物語の世界が広がる。
 優輝は何度も同じ場面を繰り返し、セリフの抑揚やテンポを微妙に変化させながら、少しずつ彼本人とは別の誰かを作り出していく。
 それを目の当たりにした私は、内心の焦りを必死に隠して彼のセリフに応じた。だが私が少しでも役を作ろうとすると、取ってつけたような青臭いセリフ回しになってしまい、それが彼の足を引っ張ってしまう。
「すみません」
 自分の不器用さを呪いながら、心の底からあやまった。
 優輝はフッと笑い、両腕を上げて伸びをした。
「未莉は本番に強いタイプだからな」
「そうかな?」
「度胸あるだろ。緊張していても思い切りやれるって、ひとつの才能だよ」
 オーディションの失態が脳裏によみがえる。褒められているのか、けなされているのかよくわからないけど、確かに私は思い切りがいいほうかもしれない。
 意外にもプラスに評価されていたとわかってうれしい。
「でもこうして練習するのは、すごく勉強になるからありがたいです」
 素直に感謝の言葉を口にすると、優輝はまんざらでもない顔で台本に目を戻した。
 ――なんだか楽しいな。
 ふたりで同じ台本を読み、同じ世界を共有する。ただ書かれているセリフを交互に口にするだけなのに、次第に私たちだけが現実から切り離された別の世界に生きているような不思議な感覚になる。
 どうしてだろう。触れてもいないのに、優輝がすごく近くにいる気がする。
 だからこのとき、彼の紳士面を引っ剥がそうと思っていたことも忘れてしまうくらい私は満たされていた。

 そして実際に撮影が始まると、プライベートのことなど考えている余裕は皆無になった。
 毎朝、起床すると急いで朝食を作り、食べ終わるとすぐに外出準備。高木さんが迎えに来る優輝とは違い、私は撮影スタジオまで電車を利用するので一足先に出た。
 姉も都合のつく限り撮影現場へ付き添ってくれた。
 そのおかげで私は落ち着いて撮影に臨むことができた。もちろん優輝との読み合わせの練習で不安が減少したのも大きい。
 けれども実際にはディレクターの意図が十分に理解できなかったり、理解できても要求に応えられない瞬間も少なくない。しかも落ち込んでいる暇さえない。即座に反応する瞬発力がないと、私ひとりのせいで現場を停滞させてしまうのだ。
 頭は混乱しているが、とにかく動くしかない。だけどうまくやろうと気負うと、気持ちが先走って全然うまくいかない。
 そんなとき、不意に優輝がセリフを忘れたり、言い間違えたりする。
 すると現場に張りつめていた緊張が一気に緩み、私の肩にのしかかる重責も一瞬ふわりと軽くなる。
 優輝と私は設定上親しくない間柄だから、撮影の合間もあまり会話を交わすことはない。
 それでも助けてもらったときは、彼のそばへ行き、礼を言った。優輝は決まって私を涼しい目でみると、自分がセリフを間違えたことをあやまる。共演者やスタッフは私たちの関係が少しぎこちないことに微塵も疑問を持たず、むしろ温かい目で見守っているようだった。
 帰宅するとヘトヘトに疲れていて、台本を読みながら眠ってしまい、優輝に揺り起こされて渋々ベッドへ移動する夜が続いた。
「かなりキツそうだな」
 撮影に入ってちょうど1週間たった朝、優輝は寝ぼけ眼で食パンをほおばる私を見ながら心配そうな顔をした。
「らいじょーぶれふよ」
「日本語を話せ」
「ちょっと眠いけどまだまだ全然大丈夫!」
「そうか? 顔、やつれてるけど」
 私は両手で頬を包み込む。確かに少し肉が薄くなったような気はする。
「あ、でも夜はみんなで焼肉ですよね? たくさん食べてスタミナつけなきゃ!」
 明日の撮影開始時間がいつもより遅いので、今日の撮影終了後、都合のつくキャストとスタッフで食事に行くのだ。
「未莉は無理せず早く帰ってきて休んだほうがいいんじゃないか」
「私がいると何か困ることでもあるんですか?」
「ま、それだけの元気があれば大丈夫か」
 優輝は呆れたように小さく嘆息を漏らすと席を立ち、キッチンでコーヒーを淹れた。コーヒーのいい香りが漂ってくる。湯気の立つマグカップが私の前にも置かれた。
 最近、ちょっとした移動なら家の中では松葉杖を使わなくなっている。担当医師も驚くほどけがの治りが早いらしい。それは私にとっても喜ばしいことだ。
 ――やっぱり不便な生活を強いられる姿を毎日目の当たりにするのは、つらいものがあるよ。私の身代わりだと思えばますます……。
 あらためて足の骨折で済んだのは不幸中の幸いだったと思う。
 もし、優輝か私の反応が一瞬でも遅かったら、胴体の上に照明器具が落下していたのだ。命にかかわっていたかもしれない。
 こんなふうに優輝と向かい合ってコーヒーを味わえるのは、ありふれた日常なんかじゃない、と唐突に思った。
 今日このときは、二度と繰り返すことのない一瞬なのだ。
 うれしいことも悲しいことも、楽しいことも苦しいことも、いつかは終わり、薄れて過去になる。
 その一瞬一瞬を積み重ねて、私はここにたどり着いた。
 そして今このときが私を未来へと運んでいく。
 だから軌跡が奇跡に変わる瞬間を見逃さないようにしなくては――。

 本日の予定されていた分を撮り終わり、スタッフと焼肉店の場所を確認してスタジオを出た。
 今日の撮影は驚くほど順調に進んだ。目の前に焼肉がぶら下がっているとこんなにがんばれるのか、と我ながら感心する。おそるべし、焼肉。
 火事で焼け出され冬の寒空の下、優輝の部屋に転がり込んだ日のことを思いだす。あれからそれほど経っていないのに、夜風には春の匂いが混じるようになった。
 ――この短期間にいろいろあったな。
 朝、コーヒーを飲みながら私に起きた奇跡に思いを馳せたせいか、季節の移ろいでさえも心に沁みる。
 優輝とのやり取りをあれこれ懐かしく思いだしていると、不意に私を呼ぶ声が聞こえた。
「未莉さん」
 ――誰!?
 振り向いた私の目に、見覚えのある長身の男性の姿が飛び込んできた。
 ――うそ、どうしてここに?
 驚いたことに友広くんがタクシーの横に立っていた。
「とりあえず乗ってください」
「でも今日はみんなで食事に行くことになっていて……」
 後ずさりしながら返事をしたが、彼は大股で私の前までやってくると強引に手首をつかむ。
「じゃあその店まで送ります。少し話をしたいのでね」
 友広くんは先に私をタクシーに押し込み、自分も乗ると運転手に行き先を告げる。この先にある新しくできた日本一の高さを誇るタワーへ向かうようだ。
「未莉さん。時間がないので挨拶ぬきで本題に入ります」
「そうしてもらえると助かります」
 というか、友広くんが私に何の用があるというのだろう。皆目見当がつかない。
 眉間に深い皺を刻みつけて次の言葉を待つ。
 彼は一呼吸置くと、静かに告げた。
「ドラマを降板して、今後芸能活動から手を引いてくれませんか」
「なによ、それ。どういう意味? なぜ友広くんにそんなことを言われなきゃいけないのかわからない」
 一気に頭に血が上った。
「未莉さんがひどい目に遭うのを見たくないからですよ」
 友広くんはさらりと言った。
「私がひどい目に遭うと、どうしてわかるの?」
「それが無理なら、守岡優輝をふってください」
「は?」
 タクシー運転手が守岡優輝という名前が出た途端「えっ」と声を上げる。
 私は小声で反論した。
「意味がわからない。きちんと説明してほしいんだけど」
「あの男と未莉さんは一緒になれない」
 友広くんにはその確信があるようだった。だが説明する気はないらしい。
「つまり友広くんが私をひどい目に遭わせるということ?」
「僕は嫌なんです」
 思わず首をひねった。
「じゃあそんなことしなきゃいいじゃない」
「もう止められませんよ。動き出してしまったものを今さら……」
「どういう意味? それってもしかして姫野明日香が関係している?」
 友広くんは弱々しく首を横にふった。
「僕が助言できるのはここまでです」
 え、今の……助言だったの?
 今すぐ芸能界を引退するか、優輝をふらなければ私がひどい目に遭うって、ほとんど脅しじゃないか。
 冗談じゃない。私だってどっちもごめんだ。
 女優デビューする前に引退なんてしたくないし、優輝と本当の意味で結ばれる前に理由もなく私からふるなんておかしいじゃないか。
 目的地に着くと、友広くんは私に紙幣を差し出し、自分だけタクシーを降りた。
「僕があなたの一番ならよかったのに」
 ドアが閉まる前に聞こえた友広くんの声が、なぜかずっと耳に残った。

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#28 軌跡が奇跡に変わるとき * 1st:2016/03/23


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