#27 今も、これまでも、たぶんこれからも

 その晩、私はリビングルームのソファをベッド代わりにして眠った。
 私自身は優輝と同じベッドに寝ようと思っていたのだが、高木さんから優輝の病状を聞いた姉が別室で寝るように、とわざわざ電話をかけてきたのだ。もしインフルエンザなら私にも感染する可能性が出てくるし、ドラマの撮影にも支障が出てしまう。
 毛布をかぶったままリビングルームの天井をぼんやりと眺めた。そろそろ起きて朝食の準備をしなくてはいけないのだが、浅い眠りを繰り返したせいか、体が鉛のように重い。
 ――ん? もしかして私も?
 これはまずい。マスクはどこだ。
 慌てて起き上がったところに、人の気配がした。優輝が起きたらしい。
 マスクを装着した私はキッチンへ向かい、朝食の準備をする。
 リビングルームへやって来た優輝は「おはよう」と告げ、テレビをつけた。
「熱は?」
「微熱程度まで下がった。悪かったな、ベッドを占領して」
 優輝は私が寝ていたソファに腰をおろした。熱があるせいか、ぼんやりとテレビをみている。
「いえいえ、優輝のベッドだから当然です。ゆっくり休んで早く元気になってもらわないと困り……」
 と、言いかけてどうして私が困るのだと自問する。
 ――いや、ほら、仕事……そう! 仕事に差し支えるから!!
 心の中で力いっぱい言い訳していると、優輝が私を呼んだ。
「未莉、みろよ」
 テレビ画面には姫野明日香のドアップが映し出されていた。朝の情報番組で彼女が出演しているドラマについて取り上げているらしい。画面の右上には「守岡優輝のピンチヒッターは!?」と文字が出て、若手の俳優が姫野明日香と向き合っている映像が流れてきた。
「あの人が優輝の代役なの?」
 背格好は優輝と似ているが、どこか頼りなく感じられた。線が細い上、見た目のインパクトもないのだ。顔立ちは整っていて、カッコいい部類なのだが、目をそらしたら忘れてしまいそうな気がする。
「未莉的には合格点?」
 優輝は気だるげな表情で意地悪い笑みを見せる。まだ少しつらそうだ。
「難しいところですね」
「へぇ。じゃあ俺は?」
 ――な、何を答えさせるつもりなんだ。
 朝食の支度に熱中するふりをして口を閉ざす。
 しかし優輝はしつこく食い下がってきた。
「俺は合格?」
「そんなこと……気になるの?」
「すげぇ気になるね」
「なんで?」
「初恋の人が俺のことをどう思っているか知りたいから」
 今朝はずいぶんと攻めてくるな、と思いながら大根を切り刻む。熱があるせい?
 でも知りたいと思ってくれるのは、正直なところ嬉しい。
「それはまぁ……実際カッコいいですよね」
 恥ずかしいけど思い切って言った。が、意外にもそれほど恥ずかしくない。
 むしろ、もうちょっと褒めてあげたい気分かも。
「それにすっごく優しいですよね」
 だって優輝は体を張って私を守ってくれたのだ。そこまでしてくれた人を『優しい』としか表現できない己のボキャブラリーの貧困さを呪いながら大根を鍋に投入する。
「すげぇ嬉しい」
 チラッと優輝の顔を見てみると、照れたように笑っていた。
 ――うわぁ、なんだろう、これ。私まで嬉しくなっている……?
 動揺を隠すように調理に集中するが、意識は優輝のほうに向いたままだ。
「でも優輝は『誰とも付き合う気はない』と言いましたよね?」
 気を紛らわそうとして口から出たのはそんなセリフだった。
 ――しまった。口が滑った。
 優輝は「ああ」と微妙なトーンの感嘆を漏らす。
「言ったな。未莉がここに来た最初の夜だよな」
「それはつまり、誰に対しても本気にはならないってこと?」
 包丁を持つ手がぶるぶると震えるので、包丁を置いて優輝を正面から見据えた。
 ――いつかは確かめなきゃいけないことだけど、だがしかし、それはみそ汁を作っているこのタイミングなのか!?
「俺は……」
 私は慌てて「あー!」と大声を上げる。
「ちょっと気になっていただけなので答えなくていいです。いやーしかし、明日香さんのドラマが打ち切りにならなくてよかったですよね」
「そうだな」
 ふー、危なかった。
 朝から病人に尋問する事柄ではないし、そもそも優輝の本心を確かめる必要はあるのか。
 ――そうだよ。彼の初恋の人は私で、雑誌には『初恋が僕の中ではまだ終わっていない』と告白していたじゃないか。それってまだ私を好きだということだよね?
 でも雑誌のインタヴュー記事を鵜呑みにしてよいものか悩む。書かれていたことが本心とは限らない、というかむしろ突然の告白には何らかの意図があったと考えるべきではないか。
「……聞きたいような、聞きたくないような」
「ん?」
「あー! えーっと、朝ごはんできました!」
 変な顔をしている優輝に背を向け、いそいそとおかゆを盛り付けながら、どこかおかしいんじゃないか、と自問する。
 この状態、明らかに普通ではない。いきなり彼の本心を問いただすとか、彼が私を好きだと思い込みたくなるとか。昨晩なんかもう少しで襲いかかりそうだったし。
 ――私、どうしちゃったんだろう。どうすればいいんだろう。
 一刻も早く解決方法を見つけなければ。

 結局、優輝はただの風邪だと判明し、ひとまず私もホッとした。
 翌日はスペシャルドラマのキャストおよびスタッフの顔合わせで、私は優輝より早めに家を出て、姉と合流した。
 いよいよ私の女優人生がスタートする。
 ミーティングが始まる前にトイレに寄ると、気合が入りすぎているのか、鏡に映る私はいつも以上にガチガチの表情だった。
 これはまずい。頬に手を添え、上下に動かし、緊張をほぐそうと試みる。
 そのときスラリとした女性が入ってきた。
 金髪にサングラス、そして青い光沢のある布地を身体に巻きつけたサリー風の服装――脚本家のサイティさんだ。
 私から挨拶すると、彼女は先日と同じオレンジ色の唇に妖艶な笑みを浮かべた。
「よいところでお会いしたわ。これをどうぞ」
 そう言ってサイティさんは大きな天然石がひとつ編み込まれているプレスレットを差し出した。
「いえ、あの……」
「成功のお守りよ」
「いただけません。これって高価なものですよね?」
「気にしないで。私が作ったものだから」
 手作りのアクセサリーとは思えない凝ったデザインだ。私は目を丸くしたまま一歩下がる。しかしサイティさんは私の手首をつかみ、無理矢理ブレスレットを握らせた。
「期待しています」
 彼女はまた口元に艶やかな笑みを浮かべ、奥の個室へ向かった。
 その背中に「ありがとうございます」と声をかけてトイレを出る。
 通路を歩きながら首をひねった。こんなことが前にもあったような気がする。
 ――そうだ。トイレ!
 確かコマーシャルのミーティングが西永さんのオフィスであって、そのときトイレでスタッフの女性に話しかけられたはず。
 名前は竹なんとか……えっと竹森さん、だったかな。
 私なんかよりもよほどモデルらしい、スタイル抜群の女性だった。
 ――あの人とサイティさん、なんだか似てる。
 直感だからどこが似ているかは説明できないけど、横に立ったときの背格好と心が冷えるような居心地の悪さは経験したことがあると、とっさに脳が反応したのだ。
 ミーティングの前に物陰へ姉を呼び出し、こっそりブレスレットを渡した。
「なにこれ?」
「預かってほしいの。後で説明する」
「素敵なブレスレットね」
 姉はいろいろな角度から眺めていたが、人の気配がすると素早く自分のバッグにしまう。それから「行くわよ」と私の背中を押した。

 顔合わせでは、マスク姿で松葉杖をついて登場した優輝に注目が集まり、私が口を開いたのは自己紹介を兼ねた挨拶のみとなった。
 緊張していたのもあるが、サイティさんのことが気になって仕方なかったのだ。彼女は西永さんへにこやかに話しかけ、西永さんのほうも気心がしれたように接している。
 ――やっぱり私の勘、当たり!?
 その西永さんがミーティング終了後、私に声をかけてきた。
「いやー、本当に助かったよ。未莉ちゃん、君は僕の天使だ!」
「いえ、あの、私は何もしていないので、礼は守岡さんに言ってください」
「未莉ちゃんはなんて謙虚なんだ。僕の彼女になってほしいね」
 ――うわぁ、何を言いだすんだ。
 この場からすぐさま逃げ出したいけど、周囲の目があるから難しい。まさに逃げ腰になっているところへ強力な助っ人が現れた。
「困ります。未莉は私の大事な妹よ。あなたのような遊び人は近寄るのも遠慮してもらいたいわ」
 姉は笑ってはいるものの、不機嫌そうに眉を寄せている。
 急に目の前の人が大笑いし始めた。
「ハハハ、まいったな。紗莉のお眼鏡に敵う相手はどんな男だか見てみたいものだ」
「少なくとも西永さんではないので安心してください」
 きっぱり宣言した姉は、私に「さ、行くわよ」と声をかけた。
 通路に出るとひと際目を引くいでたちのサイティさんがこちらへ向かって歩いてくる。
「またお会いしましょうね」
 すれ違いざま、不自然なほどゆったりとした口調の低い声を耳にした。

 ミーティングの帰り道、姉は最寄りの駅に寄った。
 コンビニエンスストアで飲みものを4人分購入し、タクシー乗り場から少し離れた人影がまばらな場所で立ち止まる。
「迎えが来るからここで待ちましょう」
「迎えって、高木さん?」
「そうよ」
 なるほど、高木さんは優輝のマネージャーだが、姉の運転手でもあるということか。私もさんざんお世話になった身なので、彼に足を向けて眠ることはできないけど、それにしても本当にそれでいいのか、高木さん。
 しばらくすると見慣れた黒い車が近づいてきた。
 私たちは素早く乗り込んで、ドアを閉める。尾行する車やカメラマンはいないようだ。すぐに車は発進する。
「未莉があのド派手な脚本家からプレゼントをもらったのよ」
 姉がバッグからブレスレットを取り出し、優輝のほうへ差し出した。
 受け取った優輝はてのひらに乗せてみて、それからひとつだけはめられている大きな石をつかみ、手を返しながらいろいろな角度から検分する。
「これは持っていてはいけないものですね」
 言い終わる前に窓を開け、隣を走る軽トラックの荷台へひょいと放り投げてしまった。
「あーーー!! なんで!?」
「趣味、悪いな」
「でもかなり高価なものでしょ? いきなり捨てるなんて……」
 優輝は私を憐れむような目で見た。
「高価だとなんでも受け取ってしまうんだ?」
「私だって一応断ったけど、無理矢理握らされたんだもの」
「一応、ね」
 ため息交じりにそうつぶやくと、優輝はシートに埋もれるようにずるずると腰の位置をずらした。
 助手席から姉が「やっぱり?」と訊いてくる。
「ええ、たぶん超小型の発信器が仕込まれていました」
「はぁ!? 発信器?」
 思わず叫ぶ。ということは大きめの石の中に発信器が?
「成功のお守りだと言ってたよ」
「どうやら未莉の居場所を特定したいらしいね。スクープを売る気か、もっと別の悪事を企んでいるのか、これだけでは判断できないけど、あの脚本家が未莉に気があることは間違いない」
 気があるのではなく、目をつけられているのだ。全然嬉しくない。
 そういえば、と私はトイレで感じた妙な寒気を思い出した。
「サイティさんって、私、前に会ったことあるかも」
「……どこで?」
 優輝は険しい表情でこちらを見た。
「西永さんのオフィス。ね、お姉ちゃん、コマーシャルの打ち合わせで行ったときに背が高くてモデルみたいに美人なスタッフがいたの、覚えていない?」
「んー、覚えていないわ」
「名前は竹森さんだったかな。その人、私がオーディション受けたときにも見ていたって……」
 姉が息を呑んだ。
「話をしたの?」
「うん、トイレで」
「同一人物だと思う?」
「確証はないけど、たぶん」
 私の返事で車内は静まり返った。
 それまで黙っていた高木さんが「うーん」と唸る。
「やはり西永さんがあやしいんじゃないか?」
「あの男にあるのは下心だけよ」
 姉はきっぱりと断言した。下心しかないと言われてしまう西永さんが少しかわいそうだけど、逆に言えば後ろ暗いところのある人ではないということになる。
「あの脚本家が西永さんの女だったら?」
 高木さんの言葉に、姉は「あー」と気だるい返事をした。
「その可能性は高いわね。それで未莉に嫉妬? ずいぶんと安い女ね」
 じゃあ姉は高い女なのか、と内心ツッコミを入れたところで、優輝が首を傾げた。
「嫉妬の嫌がらせにしてはずいぶん手が込んでいますね」
「あら守岡くん、女の嫉妬ほど怖いものはないわよ」
「肝に銘じておきます」
 真面目な声で答えた優輝は、ブレスレットを捨てた窓に肘をついて寄りかかった。物憂げな視線はどこか遠くに向けられている。
 まつげが長くてきれいだな、と思った。
 目から耳までの絶妙な距離とそこにかかる前髪のバランスが芸術作品のように完璧だった。あまりにも美しい光景なのでついつい見入ってしまう。
 それからようやく何を考えているのだろう、という疑問が浮かんだ。
 こんなときに私は何を考えているのだろう、という羞恥心とともに。

 辺りを警戒しつつ帰宅した優輝と私は、とりあえずコーヒーでも飲んでひと息つこう、ということになった。
 食器棚の最上段に置いてあるマグカップを取ろうとしたら、うっかり手を滑らせてしまう。
「ひゃあ!」
 驚いた優輝が「大丈夫か?」と近づいてくる。
「だ、大丈夫です」
 奇跡的に胸元でキャッチしたマグカップを見せると、優輝は呆れたような顔をした。
「そんなの割れても困らないけど、未莉にけがをされると困る」
「あ、ありがとう……心配してくれて」
 私は恥ずかしくてうつむいた。
 正直にいえば、胸の内はぐちゃぐちゃだ。
 ――仕事に支障が出るから困るんだよね?
 ――でも少しは私自身の心配もしてくれた?
 なぜこんなことを考えているのだろう。本当に私はどうかしている。
 ポンと頭の上に手が置かれた。
「どうした?」
 期待どおりの優しい声。だけどなぜか急に涙があふれた。
「……大丈夫」
「大丈夫なのに泣かないだろ、普通」
「私、普通じゃないの!」
 言い終わらないうちに、頭ごと引き寄せられた。顔が優輝の胸に押しつけられている。
 涙が優輝のシャツに染み込むのと同時に、ぐちゃぐちゃな醜い感情も溶けて消えていった。
 そうなると急にきまりが悪くなる。
「な、なんだろう。ずっと緊張していたせい?」
「すまない」
 優輝は私の肩に手を置き、神妙な声を出す。
「なぜあやまるの?」
「未莉がターゲットになったのは俺のせいだろうな。しかもこの足じゃ、次に何かあっても助けられないかもしれない」
 ――そんなふうに思ってくれていたんだ。
 仕事ではなく、私の身体を心配していたとわかり、胸の中は幸せな気分でいっぱいになる。なんという現金な私。
「そんなの、気にしていないよ」
「じゃあなんだよ? 顔合わせで緊張した?」
「……うん。スタッフの人たちや他の役者さんを目の前にして急に上手くできなかったらどうしよう、たくさんの人に迷惑かけてしまうって心配になってきて……やっぱり私には無理かも、と」
 本心をごまかそうとすると口数が増えるものらしい。後ろめたさで胸がチクチク痛む。
 頭上で優輝がフッと笑った。
「未莉は本当に自信ないんだな」
「そりゃドラマに出ること自体、はじめてのことだし」
 それにしても自分自身をも演じていて疲れないのだろうか。
 ――というか、今は素の優輝なのかな?
「あの、無理していない?」
「無理?」
「あ、いや、その、演技ってつまり自分ではない他人を演じることでしょ? 当然、素の自分とは違う部分もあるでしょ? しかも視聴者は勝手にドラマの役柄と優輝本人を重ねて見るでしょ?」
 ――あああ、何を口走っているのか、自分でもわからない!
 失敗したと思いながら優輝の顔を見上げると、彼はひどく迷惑そうな表情を私に向けた。
「俺、いつもすげぇ無理してるけど」
「え、今も!?」
 切羽つまった表情に驚いて後ずさりする私に、追いすがるように彼が両腕を伸ばす。松葉杖がダンと音を立てて床に倒れた。
「今も、これまでも、たぶんこれからも」
「な……んで? 私のせい?」
 うぬぼれが過ぎると思ったが、優輝は否定せず、私の肩口に顔を埋め小さくため息を漏らした。
「言っただろ? 未莉は俺を利用して女優になればいいんだよ」
「いや、でも、甘えてばかりというわけは……」
「余計なことは考えるな」
 考えずにいられるならそうしたいけど、こんなに近くにいて、それは無理だ。
 おそるおそる優輝の頭に手を置く。
 彼に頭を撫でられるのが好きだから、私も同じようにしてみようと思ったのだ。
 優輝は力を抜いて、私に少しだけ身を預けてきた。
「甘えているのは俺のほうかもな」
「それはないって……」
 首筋に優輝の吐息がかかり、私は思わず身をよじった。
 ――でもよかった。無理をしていると認めてくれて。
 彼はいつも私が気を遣わないように心を砕いてくれていたのだ。
 ――「逃げてばかりでごめんなさい。こんなずるい私でもいいですか?」……なんて言えないし。
 だけどそろそろ私も認めなくてはいけない。じゃないとこの先には行けない気がするから。
 嫌がるそぶりを見せないので、私はそのまま優輝の髪を撫で続けた。
 こんなこと、罪滅ぼしにもならないとわかっていたけど――。

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#27 今も、これまでも、たぶんこれからも * 1st:2016/02/26


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