#26 君の熱に浮かされて

 時計は午後9時を回ろうとしていた。
 高木さんがテーブルの上に弁当を広げている。近所のお弁当屋さんで買ってきたものだからまだ温かい。お昼から何も食べていないので遠慮せずに箸を手に取る。
「しかしあの脚本家、ふざけた名前だな。スペシャルドラマ、本当に大丈夫なのか?」
 不満げにそう吐き捨てた高木さんは、やかんがピーッと笛を吹き始めたのですばやくコンロの前に移動した。慣れた手つきでインスタントのお吸い物を準備し始める。
「ディレクターは実績のある方だから大丈夫でしょう」
 気だるげに返事をした優輝は鮭の入った弁当を指さし、私に意味ありげな視線をよこす。
 ええ、もちろん取って差し上げますよ。それくらいお安い御用ですよ。
 鮭弁当を受け取った優輝と目が合う。なぜか批判的な目つきなんだけど、私、何かしましたかね?
「あの脚本家も西永さんがねじ込んできたのかもな。西永さんって人を見る目はあるから、未莉ちゃん同様に大抜擢ってトコか」
 高木さんは湯気の立つ吸い物の椀を私の前に置いた。
「一応、用心したほうがいいですね。未莉も僕も」
「そうだな。未莉ちゃんの会社のほうはとりあえず心配なくなったけど、むしろこれからが危ないのかもしれない」
 お椀を両手で包み込み、ふーふーしながらふたりの会話を聞いていた私は、会社という言葉に眉をひそめた。
「私の会社に何か心配なことがあったのですか?」
「まぁね」
 高木さんは残っていた一番大きな弁当を手に取った。
 いや、あの、説明してくれないのですかね? ものすごく気になりますけれども。
 救いを求めて優輝を見る。彼は渋々という表情で答えた。
「未莉にも心当たりはあるはず」
「……友広くんのこと?」
「あの感じの悪い男はそんな名前だったか」
 吐き捨てるようにそう言うと、優輝はお吸い物を要求した。
「やっぱり彼が何か関係しているんですか?」
 私は思い切って言ってみた。
 優輝と高木さんは一瞬動きを止め、視線を交わし合う。
「『やっぱり』って言ったけど、未莉ちゃんは友広という男のことを疑っていたの?」
「まぁ、ちょっと言動がおかしいことがあって、怖いと思っていました」
 素直に告白すると、高木さんが困ったように表情を曇らせた。
「言動がおかしいって、たとえばどんなふうに?」
「姫野明日香と優輝の関係を誇張して私に吹き込もうとするんです。優輝のけがも明日香さんをかばったせいだと……」
 高木さんは箸を置き、考え込むポーズを取った。
「どうも意図が読めないな」
「意図を読めなくするのが意図なんですよ、たぶん」
 早々に食べ終わった優輝が空の容器をテーブルの上に放る。
「彼はずいぶん傷ついているようだったね」
「えっ……」
 私はドキッとして優輝の顔を真正面から見つめた。すると意外にも優輝はシニカルな笑みを浮かべる。
「未莉が悪いんだよ。彼に冷たくするから」
「ちょっ、違う!」
「違わない。彼は未莉をからかって困らせたいんだ。なのにポーカーフェイスを崩さないから怒っていた」
「そんなこと言われても……」
 高木さんが「うーん」と唸り声を上げた。
「未莉ちゃん、その友広という男、他には何か言ってなかった?」
「他に……えっと」
 そうだ、言われたことは他にもある。
 でもそれを言っていいものなのか、迷う。
 あれは友広くんの本心なの? だとしたら、それをここで私が暴露するのは非道ではないか?
 なにげなく見ていた視線の先に優輝の松葉杖があった。
 ――本当に非道なのは、誰なんだろう?
 そう思った瞬間、言葉がためらう気持ちを突き飛ばした。
「『僕は未莉さんがほしい』と」
 時が止まったかのように、恐ろしいほどの静寂が私たちを取り巻く。
 最初に口を開いたのは高木さんだ。
「微妙な表現だな。『好き』ではなく『ほしい』とは」
 優輝は首を傾げ、思案に耽るような顔をする。
「それで未莉ちゃんの返事は?」
「……『好きな人がいる』から『迷惑』だと」
 ヒューと高木さんが冷やかしの声を上げた。
「ちゃんとはっきり言えたんだ。よかったね」
 よかったのかどうかはわからない。
 蒼ざめた友広くんの顔が脳裏によみがえるたび、私は絶対にしてはいけないことを、してしまったような気持ちになるのだ。
 人を傷つけて平気でいられるはずがない。だけど傷つけたくないからと、友広くんの言葉を受け入れるわけにはいかない。
 だって私は――。
 急に近くでダンと乱暴な音がした。肩がビクッと震える。
 優輝が松葉杖を手に取り、床に叩きつけるようにして立ち上がったのだ。
「もういい。その男の話は聞きたくない」
 高木さんは「あっ」と悲痛な声を出すと、優輝に向かって手を挙げた。
「悪かった。本当にすまない」
「高木さんがあやまる必要はないでしょう」
 言い終わらないうちに優輝はリビングルームを出ていく。
 私は茫然と彼の後ろ姿を見送った。
「あの人、なぜ急に怒ったんですかね?」
「ごめんね。疲れているところに重たい話題だったな。明日から忙しくなるし、未莉ちゃんも早く休んだ方がいいね」
 テーブルの上を片付けながら、高木さんは私に笑いかけた。その笑顔はいつもの爽やかさがない。
 気になりつつも、なんと声をかけたらいいのか迷っているうちに片付けが終わり、高木さんは玄関へ向かった。
「あの、なんだかごめんなさい」
 靴を履いて振り返った高木さんに、私は深々と頭を下げた。
「いや、未莉ちゃん、違うんだ」
 高木さんが私の目の前で慌てて手を振った。
「違う?」
「優輝への脅迫に関する調査を依頼中でね」
「あ、はい」
 調査を依頼するというのは、いわゆるプロの探偵さんに?
 まぁ、それはそうだよね。優輝本人はもちろん、高木さんだって独自に調査している暇などないだろうし。
「友広和哉。彼は……」
「高木さん、それ以上しゃべると、松葉杖を腹部にお見舞いしますよ」
 突然優輝が寝室から姿を現した。
 ちょっと、いいところで遮らないでよ! めちゃくちゃ気になるでしょう。
 高木さんはお腹をかばうような情けない姿で「じゃ、明日」と短く言い残し、玄関を出ていく。
「なんで?」
「未莉はもう、あの男とは接点がなくなった。これ以上何を知りたいんだよ?」
「いや、だって、友広くんが優輝への脅迫に関わっているとしたら、接点がなくなったとは言い切れないじゃない」
 優輝は目の前まで近づき、私の顎を強引に持ち上げた。威圧的な視線が私に降り注ぐ。
「そいつは未莉を『好き』だと言ったのか?」
「そうは言っていない……けど」
「けど?」
「じゃあ優輝は私にそう言ってくれた?」
 彼は大きく息を吸った。
「……俺に振るな」
 ――逃げた! 今、逃げたよね?
 がっかりしながら優輝の脇をすり抜けて、バスルームに向かう。
 1歩進むごとに腹の底から怒りがふつふつとわいてきた。
「結局、私には何も教えてくれないんだね。なんで? 私が世間知らずだから?」
「女優になりたいなら、あの男のことはもう忘れろ」
 優輝は私に背を向けたまま、冷たく突き放す。
 なによ、なによ、なによ!
 私は怒りに任せて洗面所のドアをバンと閉じた。

 しかし私は何に対して怒っていたのだろうか。
 翌朝、マナーや所作の勉強をするため、姉とともに講師の待つ会場へ電車で向かっている。ドラマの役作りになれば、と姉がセッティングしてくれたのだ。
 吊革につかまって揺れをやり過ごしながら、昨晩のやり取りについてぼんやり考えていたが、なぜあんなふうになってしまったのか、さっぱりわからない。
「ね、お姉ちゃん、私の会社にいる友広って人のこと、知っている?」
「ん? 友広? 知らないわよ。誰なの?」
 姉の表情をじろじろと遠慮なく観察したが、きょとんとした顔に嘘偽りはなさそうだ。
 ――これは本当に知らないな。
 ということは姉と高木さんの間も常に情報が共有されているわけではないのか。恋人同士でもそうなのかと思うと少しホッとする。
「昨日高木さんがその人のことをあやしんでいたみたいだから気になったの」
「未莉の知り合い?」
「あ、うん、会社で向かいの席だった人」
「へぇ。男性?」
「うん。新入社員でなかなかイケメンだから人気あったよ」
 姉は興味なさそうに「ふーん」と返事をした。自分の知らないことを高木さんが知っていてもそれほど気にならないらしい。
「それより昨日ディレクターと脚本家に会ったんでしょ?」
 そういえばそんなこともあったな。思い返せば昨日は濃い1日だった。
「ていうか、お姉ちゃん、どうして来てくれなかったの?」
 姉が私のマネージャーになってくれるのはありがたいが、肝心なときにいないのは困る。
「あーごめんね。昨日海外からお客様が来ていて、どうしても抜けられなかったのよ」
「『向こう』って世界進出の話? 誰が最初に進出するの?」
「それは企業秘密よ」
 姉は艶のある美しい笑顔を見せた。
 なるほど、世界進出へ注力している今、それ以外の些細な出来事には興味関心がないらしい。
 ――ん? 逆に言えば、昨晩私が優輝に腹を立てたのは、私の興味関心がそこにあるから、ということか?
 胸がドキッと鳴り、背筋に寒気を感じる。
 結局、優輝とはあれ以来ひとことも口を利いていない。
 ――いやいや、早まるな、私。あれはただ単に売り言葉に買い言葉というヤツで、私が優輝を気にしているからではないのだよ。
 だって幼い頃からの夢だった女優デビューの仕事が決まったところだもの。ふわふわした気分でいてもいいはずなのに、それどころか不安と不満と不可解な気持ちでどんよりしているこの状態って……。
「もしかして、鬱?」
「いきなりどうしたのよ」
 姉は眉をひそめ、呆れたように言った。
「いや、私、鬱なのかな、と思って」
「笑えないことを気にしているの?」
 心なしか姉の顔に悲しそうな色が浮かぶ。途端に胸がチクリと痛んだ。
「まぁ、少しね」
 繕うように軽く返事をすると、姉は顎に指をあて、考えるポーズを取る。
「逆にそれを武器にしたらいいのよ。自分を強気でクールなキャラだと設定する。どう?」
「そ、そうだね」
 ――やっぱりそう見えるのかな、私って。
 契約社員だった会社の男性陣から『鉄壁の守り』と呼ばれていたと聞いて、勝手に私のイメージをねつ造したヤツはどこのどいつだ、と憤りを覚えたのだけど、実の姉にまで『強気でクールなキャラ』認定されるってことは公式発表も同然だ。
 自分ではどちらかと言えば小心者で弱気で、うじうじしていると思うんだけどな。笑えないだけで、ツンとしているつもりもなかったし。
 急に姉が肘で私の腕を小突いた。
「未莉の身近に芝居上手な男がいるじゃない」
「いや、あの人は参考にならないし」
 演技が上手すぎて、そもそも素の状態がどれなのか、未だにわからないもの。
 しかし姉が意外なことを言いだした。
「基本的に彼はすごく不器用なのよ」
「え、どこが?」
「私がはじめて会ったとき、彼は決して外面のいい男じゃなかったわよ。むしろ言葉数が少ない上、お世辞のひとつも言えないような垢抜けない青年だった」
「……は?」
 いや、確かにそういうところあるし、優輝の実家で見た高校時代の写真はまさにそんな感じだったけど、もし本当に不器用ならいろんな役を演じ分けられないじゃないか。
 私の疑問を察したのか、姉は苦笑しながら肩をすくめた。
「だから提案したの。役者をやるなら、役者である自分も演じてみたら、って」
 ――それじゃあ「僕」のときの優輝は守岡優輝というキャラクターを演じていて、「俺」のときが素の状態なのかな。
 ずいぶん外面のいい男だと思っていたけど、私がまんまと騙されていたわけね。
「案外誰でも無意識のうちに自分を演じているものだと私は思うけどね」
 姉はクスッと笑う。
「それはそうかもしれないけど……」
「意識して自分自身を演じてはいけないなんて法律でもあるわけ?」
「……ないです」
「ウリは他人と違っているほうがいいのよ。ひきつった笑顔より無愛想キャラのほうが絶対ウケるわ」
 ――ウケるって、そういう基準?
 そりゃ、タレントという商売は生身の私自身を切り売りするようなものだけど、ウケ狙いでこの「笑えない」現象を利用したくはないのだ。だって私はこんな自分が情けなくて仕方がないのだもの。
 でもたぶん姉のいうことは正しいのだと思う。
 笑えないことをへたに隠すより、むしろそれを前面に出したほうが活路を見いだせるかもしれない。
 ――身を削る痛みに耐えながら、やってやろうじゃないか、自己プロデュース。
 そう覚悟したそばからひどい徒労感に襲われ、私は深いため息をついた。

「ただいま」
 ドアを開けると家の中はシンとしていた。夕陽がリビングルームをオレンジ色に染めているようだが、人の気配はない。
 ――おやおや? 今日は家にいると聞いたけど、寝ているのかな?
 静かに靴を脱ごうと靴箱に手をかけたが、足がむくんでいるのか靴が脱げず、持っていたバッグが勢いよく肩から滑り落ち、片足のままふらついた私は靴箱にドンと激突した。
「うわぁ、すみません」
 小声であやまると寝室で「ゲホ、ゲホッ」と誰かが咳き込んだ。誰かといっても、この場合優輝以外の人間だったら困るんですけどね。
 私は開け放してある寝室の戸口から、おそるおそる中の様子を窺った。
「おかえり」
 明らかに熱に浮かされた様子の優輝がベッドで横になっていた。
「熱あるの?」
 見ればわかるのにわざわざ訊く私。
「たぶん」
 彼は面倒くさそうに短く告げる。
 見た目では38度といったところか。しかしこの家には体温計があるのだろうか。
 口を利くのも大儀そうな病人にあれこれ訊くのも悪いので、ベッド上に膝をついて彼の額に触れてみる。
「うわっ、かなりあるんじゃない?」
「かもな」
「いつから?」
「昼過ぎ」
 よかった。朝の時点で異変に気がつかなかったわけじゃないんだ。
 いや、よかったというのは違うな。単に私の見過ごしだったら、自分自身が残念すぎるという話で、この状況はちっともよくない。
「とりあえず水枕……」
 優輝の額に置いた手を引っ込めようとしたが、それより先に優輝が自らの手を重ねてきた。
「未莉の手が冷たくて気持ちいい」
「それより額に貼るシートとかないの?」
「ない」
「水枕は? 体温計は?」
「水枕はない。体温計は電池切れてる」
「使えないじゃない! 解熱剤は?」
「大声出すな。頭ガンガンする」
「す、すみません」
 しゅんとした私を慰めるように優輝はフッと笑った。潤んだ瞳で見つめられると心がズキズキと痛む。
 なんだろう、これ。普段隙のない人の弱っている姿は妙に庇護欲をそそられるといいますか、妙に色っぽくてドキドキするといいますか――って、何考えているの、私。
 だけど経験値の高い女性だったら、こんな絶好のシチュエーションを利用しないわけがないと思う。
 汗かいたでしょ? ほら、着替え持ってきたよ。ああ、起き上がらなくても大丈夫。私が脱がせてあげるから。あー、すごい汗! 待ってて、今きれいに拭いてあげるね――って、何考えているの、私!?
 ダメだ。危険だ。ここにいると看病よりも妄想をたくましくしてしまう。熱で苦しんでいる病人を目の前にして、なんと不謹慎な居候か。
 しかし、私は自分自身の急激な変化に愕然とした。
 妄想を振り払おうとしても、身体の奥のほうが熱くなり、以前優輝に触れられた場所がそわそわするのだ。
 ――やだ、どうしよう。こんなときに……。
 苦悶に歪む眉根が、荒く乱れる呼吸が、私の理性をものすごい勢いで侵食してくる。
 かつて彼の指に翻弄された胸の先端が、刺激を求め甘く切なく疼く。
 ――だーーーっ!!
「買い物行ってきます。何か食べたいものは?」
「……アイス」
 うん、と頷いたものの、なぜだか去りがたい。身も心もここにいたいと叫んでいる。
 ――いやいや、ダメだ。優輝に悟られる前に脱出しなくては。
 気だるげな彼の視線を振り切って、のろのろとベッドから降りた。

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#26 君の熱に浮かされて * 1st:2016/02/04
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