#22 君をずっと待っていた

「驚いたでしょう」
「はい」
 それはもう驚いたなんて言葉では足りないほどの衝撃だった。こんなところで過去の自分に対峙するとは!
「どうしてこのポスターだけ残していったのか、私もずっと不思議でね」
 優輝の父親は私を追い越してポスターの前に立つ。
 私自身ですら持っていないポスターだ。自分で言うのもアレだが、かなりのレアな一品であることは間違いない。残念ながら金銭的な価値はないに等しいのだが。
「本当にどうしてこんなポスターだけ残していったんでしょう?」
 あらためて優輝の部屋を見回してみる。
 現在の住みかである姉のマンションには、専用ラックに本やDVDがびっしりと並んでいるのだが、この部屋には本棚すらない。彼がいた名残を伝えてくれるのは古い学習机と小さなステレオセットだけだ。
 この状況からすると、私のポスターだけ片付け忘れたというのはどうにも考えにくい。
 それも人気アイドルならまだいいとして、たった一度ティーン向け雑誌のカバーになった私の顔ですから。レアなだけで、金銭的な価値もないものを捨てずにとっておくなんて、まったく意味がわからない。
「お恥ずかしい話ですが、親子だというのに優輝とはほとんど会話がなくてね。昔から口数の少ない子どもだったので、何を考えているのか今も昔もよくわからない」
 ――わかる! とてもよくわかりますよ、そのお気持ち!!
「ただ、この部屋を見てわかるのは、優輝があなたのファンだったということです」
「え……そ、それは……」
 ――同意しかねますが。いったいどういうことなんでしょう?
 救いを求めるように、優輝の父親を見た。
 すると彼は白いものが混じった髪を撫でつけるようにした後、小さく息を吐いた。
「優輝は中学生のときに母親を亡くし、それ以来私とふたりきりの父子家庭で育ちました」
 唐突な話の始まりに息を呑む。優輝の父親は穏やかな表情のまま静かに続けた。
「妻の死をきっかけに、私と優輝はほとんど口を利かなくなりました。どうやら不甲斐ない父親を軽蔑していたようです」
 会話がなかったから本当のことはわからないのだけど、と優輝の父親は自嘲気味に頬を歪めた。
「親としてはせっかく医学部に入ったのだから医者になればいいのに、と思ったこともあるんです」
「医学部に入った……!?」
 え、ちょっ……医学部!? 優輝が医学部生だったなんて、初耳ですが!
 ということは医学部にいたのに、私の姉がスカウトして俳優になっちゃった、と?
 優輝の話では『人生について悩んでいたとき』に姉に出会ったらしいけど、何を悩んでいたのだろう。医学部に入ったということは医者を目指していたはず。別に悩む必要なんてないじゃない。
 ぽかんと口を開けたまま二の句が継げずにいる私に、優輝の父親はにっこりと微笑んで見せた。その笑顔にハッとする。目もとが優輝とそっくりだ。
「そういえば、この辺にしまいこんであったような」
 彼は急に物入れのドアを開け、探し物を始めた。
「あった、あった。これは高校2年生のときだったと思います」
 振り返った優輝の父親が手にしていたのは、写真付きの賞状だった。
 どれどれ、市民マラソン大会、三位入賞――。
 スラリとした長身の眼鏡男子が、こちらを睨みつけるような表情で写っている。
「これが……」
 私の心臓がドキッと跳ねた。
 今よりも髪は短いし、顔の印象も若干幼い。それに少し頼りなく感じるほど肩や腕が細い。
 遠い遠い記憶の引き出しが開き、抜けていたパズルのピースがカチリとはまる。
「今よりも若いでしょう?」
 私が持つ賞状を覗き込むようにしながら、優輝の父親は言った。
「いつも眼鏡を?」
「ええ。眼鏡の印象が強いせいか、優輝が俳優になったことに気がつかない人は多いです。それにほら、女の子に騒がれるようなオーラもないでしょう?」
 指差された写真をもう一度凝視する。確かに垢抜けていないというか、何か物足りないとは思う。
 眠そうにまぶたを閉じて、気だるげに突っ伏していても、ついそこへ視線が向いてしまうような強烈な存在感が、この写真にはない。
「でも、頭がよくて足も速かったらモテたのでは?」
「いやいや全然。優輝も女の子に興味がないようでね。沙知絵ちゃんのことですら煙たがっていて、それが照れなのか、本気で嫌がっているのか、私にはよくわからなかった」
「あの、沙知絵ちゃんとはどなたでしょうか?」
 このチャンスを逃す手はないと思い、おそるおそる訊いてみた。なのに質問したそばから耳を塞ぎたい衝動にかられる。 だって、なんだかずいぶん近しい仲の女子みたいだし!
「ああ、隣に住んでいた同い年の女の子です。高校まで一緒だったから、てっきり結婚するのだと思っていました」
 ――け、結婚!!
 そんな親しい女子が身近にいたんですね。
 じゃあ、沙知絵ちゃんが初恋の人なんだ。
 バカだな、私。一瞬でも自分のことかと思っちゃった。
 まぎらわしいよ。こんなポスター、貼ったままにしておくから、勘違いしちゃうでしょう!?
 ほんっと、何考えてるんだ、あの男は!!
 内心憤慨しながら優輝の父親を上目遣いで見た。すると少し興奮気味の声が返ってくる。
「だから本当に驚いたんですよ。優輝があなたのポスターをほしいと言い出したときは」
「私なんかですみません」
「いやいや、私はあなたにとても感謝しています。あなたのおかげでアイツの世界が広がったのだから」
「そうでしょうか」
 私は首を傾げた。とてもそうは思えない。
 すると急に向かい側で笑い声が起こる。
「未莉さんは実物のほうが断然いいね」
 そう言ってハハハとますます豪快に笑う。バカにされているわけではないらしいが、納得のいかない気持ちでその様子を眺めた。
「そうか」
 そろそろお暇しようと踵を返したそのとき、何かを納得したような声が背後から聞こえてきた。
 首だけ振り返ると、優輝の父親はポスターが貼られている壁を見ていた。
「あなたがここに来るのをずっと待っていたのかもしれませんね」
「え……」
「いやいや、なんでもありません。あなたが来てくれてよかった。優輝も喜びます」
 いいえ、それはない。賭けてもいい。あの人は100パーセント怒るね。
 そして「何勝手なことしてんだよ。こんなことしてどうなるか、わかっているんだろうな」とか言うんだ。もちろん、どうなるかなんて私の知ったことではない。
 あれ、でも、姉に言われるがままやって来てしまったけど、ど、ど、どうしよう。よく考えたらまずくない?
 だって『過去は捨てた』と豪語している人だもの。もし無断で実家に押しかけたなんて知られた日には、どんな目に遭うか……怖くて想像できません。
 背筋に悪寒が走る。今さら慌てても遅すぎるのだが、私は追い立てられるようにして優輝の実家を辞した。

「お客様」
 旧森岡書店を後にして10歩ほど進んだところで、不意に女性に呼び止められた。
 驚いて振り向くと、女性店員が小走りで近づいてくる。長い髪が左右に揺れるのをぼんやり眺めていると彼女が私の前に到着した。
「お急ぎのところごめんなさい。少しお話ししたくて休憩もらってきました。駅までご一緒してもいいですか?」
「ええと、もちろんかまいません」
 ためらいを心の片隅に押しのけて、彼女と並んで歩き始める。
 私を見上げた彼女は、緊張した面持ちで「あの」と口を開いた。
「私のことはご存じないですよね?」
「え、あ、……んーっと」
 脳みそフル回転で考えてみる。私が彼女を知っているとすれば、可能性はひとつ――。
「もしかして沙知絵さんですか?」
「そうです。山口沙知絵と申します」
 肩の辺りでふわっとした笑顔が花開く。
 全身にゴーンと大きな鐘の音が響いた。この人が、沙知絵ちゃん!
「柴田未莉さん、ですよね?」
「はい」
「わぁ、なんだか不思議です。未莉さんは私たちの間では有名人だったから、こんなふうに会話できるなんて夢みたい」
「私が有名人?」
「ええ。だって地元在住の人気モデルですよ。あなたを見かけた男子たちはみんな自慢げに話していました」
 知らなかった。通学する途中で、なんとなく視線を感じることはあったけど、山奥の女子校では表立ってあれこれ言う生徒はいなかったのだ。私の父親が学校のスポンサーで、姉も世界で活躍していたから、私に媚びようとするクラスメイトは後を絶たなかったが、私自身は珍しくもなんともない普通の女子高生だった。――違ったのか!?
「はぁ、それは意外です」
 なんとかそう返事をすると、沙知絵さんはがっくりと肩を落とした。
「優輝だけはそういう世間のミーハーな話題とか全然興味なさそうだったのに、ホントあれは突然でした。あなたのことを悪く言ったクラスの男子にいきなりキレたんですよ。あのときはみんなびっくりしました」
「へぇ、それは想像できませんね。何か悪いものでも食べたのでは?」
 思わず茶化してしまったけど、本当にそんなことがあったのなら少し嬉しいかもしれない。
 くすぐったいような気持ちを抑えて沙知絵さんを見ると、彼女はまたふんわりと笑った。
「未莉さんは優輝と付き合っているんですか?」
 な、な、なぜ突然そうなる!?
 驚きのあまりこれ以上ないほど目を丸くしながら必死で首を横にふる。沙知絵さんはそんな私から視線を外した。
「姫野明日香との噂はデマだろうと思っていました」
「どうして?」
「優輝のタイプとは違うからです。あの人、自立した女性が好きなんですよ」
「そうですか。誤解のないように言っておきますけれども、私と守岡優輝は付き合うどころか、なんの接点もありませんので」
 動揺を無理矢理ねじ伏せ、なぜそんな誤解をされたのかわからない、というように眉を寄せた。現に居候の私は自立した女性とは言いがたい。
 だが、沙知絵さんは私の心の内を見透かすような目を向けた。
「じゃあ、どうしてうちの書店にいらしたのですか?」
「え、いや、あの……墓参りのついでです」
 そう答えると沙知絵さんは急に歩調を落とし、振り返った私にひどく思いつめた表情を見せる。
「未莉さん、お願いです」
「はい?」
 思わず条件反射で返事をしてしまうが、彼女はいったい私に何を頼むつもりなのか。身構えていると、沙知絵さんが真剣な顔で切り出した。
「優輝に、一度くらいは実家に戻るように、未莉さんから説得してもらえませんか」
 ――え?
「いや、だから私は……」
「無理なお願いであるのは承知しています。でも店長がかわいそうで……」
 私は先ほど家に上げてくれた優輝の父親の姿を思い出した。
「優輝、けがをしたそうですね。その後すぐ、お店に本を大量発注してくれたんですよ。今までもうちの店から本だけでなくDVDなんかも買ってくれています。だけどそれはすべて事務所を通しての注文で、店長には一切連絡がないんです。昔からふたりの仲は悪かったけど、たったふたりの親子なのに、このままずっと帰ってこないつもりだとしたら悲しすぎます」
 彼女の切々とした訴えは、事情を知らない私の胸にも迫ってくる何かがあった。母親を亡くしても、父親が生きている。会いたくても会えない私にとって、それは妬ましいほど幸せなことだった。
「お気持ちはわかりました」
 途端に沙知絵さんの顔が花が咲いたようにほころんだ。
「ありがとうございます!」
「でも説得に関しては期待しないでください」
 私は沙知絵さんの目をまっすぐに見る。
「守岡優輝は『過去を捨てた』と公言しているようです。もし私が彼に会うことができて、実家に帰るよう伝えたとしても、そう簡単に彼が気持ちを変えるとは思えません」
 これが一般的に至極まっとうな意見だろうと自信満々な私はきっぱりと告げた。しかし沙知絵さんは首を横にふる。
「未莉さんの言葉なら、きちんと受け止めてくれます」
「そんなこと……」
「だってあなたは優輝の初恋の人ですから」
 えっ!? 今、なんと言いましたか?
 は、は、は……はつ……
「初恋!? いや、守岡優輝の初恋のお相手は沙知絵さんでしょう?」
「優輝とは幼馴染ですが、私ずいぶん昔にきっぱりふられています」
 沙知絵さんは困ったような顔をしたまま笑った。
 ――うそ、なんで?
 こんな親切でかわいい人をふるなんて信じられない。
「あ……えっと、その、すみません」
 我に返った私は小声であやまった。知らなかったとはいえ、過去の傷を抉るような真似をしてしまったのだ。
 でも沙知絵さんは小さく首を振った。
「いいんです。こうして近くで見ると未莉さんはスタイルもよくて本当にきれいですものね。私もそんなふうに生まれたかった、なんて思ってしまいます」
 曖昧な表情で私も小さく首を振る。
 お世辞の中には微量のとげが含まれるものだ。その存在には気がつかないふりをして、わざとらしく時計を見た。
「突然押しかけたのに、親切にしていただきありがとうございました。そろそろ飛行機の時間なので……」
 会話を切り上げようとする私を、沙知絵さんが鋭く制した。
「絶対、優輝に伝えてくださいね!」
 え、絶対!? そんな約束はできかねますよ。
 ムッとしたのが顔に出たのか、沙知絵さんが目を見開く。それでも彼女は自分の主張を引っ込めようとはしなかった。
 仕方ないのでこちらが折れることにする。
「もし……守岡さんにお会いする機会があれば、それとなく伝えてみますね」
 なんて言ってしまったけど……。
 沙知絵さんと別れて駅に急ぐ私は、激しく後悔していた。
 だってどう考えても無理だもの。無理、無理、絶対無理。そもそも優輝に実家の話題を切り出せるはずがない。思い切って話してみたとしても、心のシャッターを一気に下ろされ、おろおろする私の姿が目に浮かぶ。
 確かに謎は解けたし、私は優輝の弱みを握った――いや、秘密を知った――が、同時にこんなとんでもない手土産が押しつけられるとは!

 翌朝、私は迎えに来た姉とともにタクシーに乗っていた。今日はコマーシャルの撮影日なのだ。そう、私にとっては記念すべき再出発の日である。
「西永さんは業界でも型破りな成功を収めた人なのよ」
 姉は長めの前髪を指で梳きながら、いきなりプロデューサーの西永さんについて解説し始めた。私に故郷での出来事を報告させないために先手を打ったのではないかと訝しむが、さすがにそれは深読みしすぎか。
「彼、昔はとあるテレビ局の社員だったけど、自分のやりたいことができなくてやめちゃったのよ。それでインターネットに自作の動画をアップし始めて、話題になって、フリーでドラマやCMストーリーを企画作成する会社を立ち上げたわけ。なかなかやり手でしょ?」
「へぇ、それはすごい」
「興味なさそうね。でも相手を知るのは大事なことよ」
 姉のいうことはもっともだ。渋々頷くと、姉は顎を上げ、得意そうな顔をした。
「守岡くんを最初に起用したのも西永さんなの。彼に気に入られるのは成功する近道よ」
 つまり西永さんに取り入り、仕事をもぎ取れ、と?
 それって社長命令!?
「そうかもしれないけど、私にはハードルが高いな」
 率直な意見を述べてみたのだが、姉は「あら」と意外そうに私を見た。
「簡単よ。断らなければいいの」
「だけどもし変な関係を強要されたらどうするの?」
 タクシーの車内なので声を潜めたが、姉は事もなげに言う。
「ま、それもいい人生経験ってことで」
「冗談じゃないわ!」
 憤慨する私の横で、姉がプッとふき出した。
「冗談よ、じょーだん。でも西永さんの要求には全力で応えてちょうだい。仕事ですからね」
「うん。やってみる」
 仕事に関してはぎりぎりまでがんばるつもりだけど、人に気に入られる努力までできるだろうか、この私に。
 ふと脳裏に姫野明日香の顔がちらついた。
 彼女なら、相手が誰であろうと積極的にアピールしていくんだろうな、なんて考えがよぎる。すると突如、焦燥感が稲妻のように全身を駆け抜けた。
 ――なんとしてでも仕事を成功させなくては!
 姫野明日香と同じようにはできないし、する必要もない。
 だけど私らしく、私の方法で成功させなければ、それはただの負け惜しみだ。
 ――できるかな、私に。
 ――いや、絶対やらなきゃならないんだ。私には次がないのだから。
 座席のシートに後頭部を任せる。それから静かに目を閉じ、成功のイメージを思い描くことに専念した。

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#22 君をずっと待っていた * 1st:2015/08/18


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