#21 初恋の人に会いに行く

 気がつくと、私はベッドの上で暖かいふとんにくるまって眠っていた。遠くのほうからコーヒーの香りがする。誰かがキッチンでコーヒーを淹れているのだ、ととっさに考えた。
「未莉、あなたここのところ全然寝ていなかったでしょ?」
 寝室の戸口に姉の姿を発見する。
「お姉ちゃん!」
「もう、驚いたわよ。『突然気を失った』って高木くんがパニック状態で電話よこすから」
「すみません」
 高木さんがパニックになっているのを想像しながらあやまると、姉はベッド脇までやって来て、私の頬を触った。
「目の下に隈ができている。それに顔が全体的に青白いわ。食事もきちんととらなきゃ」
「食べてはいるよ。眠ってもいるし」
「そうかしら。どちらも質が悪いと効果はないんだからね」
 質がいいか悪いかを問題にすれば、それは確かに優輝の事故以来最悪だったけど、だからといってこんなときに寝坊するほど熟睡し「ご飯、おいしー!」なんて言えるわけがない。
 返事をせずに黙り込んでいると、姉はいきなりぷにっと私の頬をつまみ上げた。
「起き上がれる? たまご雑炊作ったから食べなさい」
「えっ、お姉ちゃんが作ったの?」
「そうよ。何か文句ある?」
「お料理できるようになったんだね」
「失礼ね。私だって簡単なお料理ならできるわよ。得意ではないけど……」
 姉は気まずそうにフンと顔をそむけると、逃げるように部屋を出ていった。どうやら照れているらしい。姉にもこんなふうにかわいい一面があるから、結局憎み切れないというか。
 リビングルームに向かうと、姉が少々おぼつかない手つきで熱々の雑炊をダイニングテーブルに置くところだった。
 そのほかほか雑炊のおいしそうな匂いに、私のお腹がきゅうっと鳴く。
「ほら、やっぱりお腹空いていたんだわ」
 にたりと笑う姉を見ないようにしつつ「いただきます」とスプーンを手に取った。
 姉は自分用のコーヒーを淹れると私の向かい側に腰かける。しばらく私がはふはふ言いながら雑炊を口に運ぶのを満足そうに眺めていたが、ふと真剣な表情になり、小首を傾げた。
「ん、何?」
「あなたたちのことだから、なんにも話をしていないんだろうな、と思ってね」
 そう言って姉はクスッと笑った。
「そんなことないけど」
 なぜかイライラする自分を抑え、さらりと返す。
「じゃあ、守岡くんのご家族の話は聞いた?」
「ご……かぞく?」
「そう、彼の実家」
「い、いや……訊いてみたけど『過去は捨てた』と言われて……」
 私はスプーンを持ったまま、心もち身を引いた。雑炊で温まったはずのお腹から急速に熱が消えていく。
 姉が目を細めて私をいたわるような表情をした。それが憐みのようにも見えて不意に泣きたくなる。
「彼はうちの両親のことを知っていたわ」
「あ、うん。……お姉ちゃんが話したからでしょ?」
「違う。彼は最初から知っていたのよ」
「最初?」
 どういう意味だろう。頭の中にいくつかの情報と予測が浮かんでは消えるが、どれも確信の持てるものではない。
 急に姉は席を立ち、ソファの脇に置いてあったバッグから濃紺の包みを取り出した。大きさと形状から考えると、中身は雑誌だろうか。
「ねぇ、この本屋さん、知っているでしょ?」
 姉は雑炊の器の横に包みを置いた。濃紺のビニール袋には全国的に有名な書店名がプリントされている。
「うん」
「私たちが育った街にもこの本屋さんがあるのよ」
「えっ! できたの?」
「未莉、週末にお墓参りに行きなさいよ。ついでに街の様子も見てきたらいいわ。ここ数年でずいぶん変わっているから」
 また座るのかと思いきや、姉は立ったままコーヒーを飲み干すと、自分のバッグを手に取った。
「もう帰るの?」
「そろそろ高木くんが迎えに来るからね」
 姉は「じゃあね」と言ってリビングルームを後にする。私はビニール袋をつかみ、慌てて姉の後を追った。
「これ、忘れ物!」
「未莉にプレゼントよ。読んでみて。それからお墓参りのついでにその本屋さんへ寄ること。いいわね?」
 玄関で靴を履き終わると姉は私に悪戯な笑顔を向けた。
 なんだ、なんだ!? これは絶対何か企んでいる!!
「ちょっと待って、意味が全然わからない」
「すべての謎が解けるわよ。私の言ったとおりにすれば、ね」
 魔法使い紗莉は私の鼻先で指をくるくると2回転させ、それから華麗に身を翻して出ていった。

 シートベルトの着用を呼びかける機内アナウンスの後、前方のスクリーンにはまっすぐに伸びた滑走路が映し出された。これから空を飛ぶのだと思うと、急に胸がドキドキしてくる。
 上京してからというもの、帰郷するのは年に一度、両親の命日だけだった。それもまさにとんぼ返り。空港から墓地に直行し、墓参りが済むとまた飛行機に乗って帰る。故郷に立ち寄る場所はない。仏壇は姉のところにあるし、私にとって故郷はもはや墓参するだけの土地になっていた。
 助走でグンと加速し機首を上げて離陸する。地上を離れるとあっという間に雲海へ突入したらしく、機内の小窓からは綿菓子のようなふわふわした白い雲しか見えない。手持ちぶさたになった私は前の座席ポケットに手を伸ばした。
 引っ張り出したのは女性向けのファッション雑誌だ。表紙が下向きになるように取り出すと、どうやっても不自然になるのだけれども、そうせざるを得ない。
 なぜなら表紙が白いシャツのボタンを全開にした優輝だからだ。しかも物欲しそうな目でこちらを見ているから、いっそうたちが悪い。
 さらに言えば、表紙に躍る活字がまったくもっていただけない。
『守岡優輝、初恋を語る』
 なんて書いてある。これを見た瞬間「過去は捨てたんじゃなかったのか」と、ものすごい勢いでツッコみましたよね、当然。
 パラパラとページをめくる。もう何度も読んだから、目新しいページは見つからない。それでも一人旅のいい退屈しのぎになる。
 優輝のインタビューが載っているあたりを飛ばそうと、思い切って数ページをつまんで開く。目に飛び込んできたのは優輝がだらしなく足を投げ出して座っている写真で……。

 ――恋愛要素のある作品に出演されることの多い守岡さんですが、ご自身の恋愛観をお聞かせください。
「僕は基本的に何事にもこだわりがほとんどないので、恋愛に関しても同じです。恋愛観を語れるほど恋愛経験もありませんし。ただ一度好きになった人のことは、なかなか忘れられないんです。だから初恋が僕の中ではまだ終わっていない(笑)」
 ――ということは、今でも初恋の人が好き?
「たぶん(笑)」
 ――初恋はいつ? どんなタイプの女性ですか?
「高校生のときです。ちょっとした運命の出会いでしたね。表情がくるくると変わる、見ていて飽きない人でした。芯は強そうなのに、脆い一面もあって、ついかまいたくなる(笑)」
 ――意外ですね。守岡さんはとてもスマートな印象ですが。
「好きな子が近くにいたらかまいたくなりますよ。男にはいつまでもガキっぽい面があって、そこがかわいいところなんです(笑)」
「もちろんスマートに生きたいと願っていますが、僕は不器用なので仕事に集中しているときに恋愛のことは考えられない。まぁ器用になりたいとも思いません。スマートではなく、ストイックに生きるほうが僕には合っている。地道にコツコツと積み上げていくことにやりがいを感じるのです」
 ――では恋愛もコツコツと地道なお付き合いを?
「どうでしょうね。激しく燃え上がるような恋に憧れる気持ちもありますが、相手ときちんと向き合おうと思えばやっぱり地道にコツコツとお付き合いすることになる気がします。恋って刹那的な感情で、それゆえに美しいという考え方もあると思いますが、僕はそれだけの恋愛には興味がない。せっかく同じ時を過ごすなら、どんなことでも共有したい――つまりストイックと見せかけて、僕は誰よりもよくばりなんです」

 ストイックと見せかけてよくばり、か。
 前に言っていたのと違うじゃない。まるでストイックが自分の売りだとばかりに堂々と主張していたくせに。
 だけどここで気になるのはやっぱり初恋、だよね。
 しかも、高校生のときにはじめて恋した人をたぶん今でも好き、だとか。
 それにしても、過去についてはこれまでずっと秘密にしていたくせに、どうして今頃こんなことを言い出すのだろう。
 おまけに雑誌なんかで宣言しちゃって、これを読んだ女性ファンはがっかりすると思うけど。だってみんなが知りたいのは「どういうタイプの女性が好き」かということで、優輝の想い人のことなんか本当は知りたくないのだ。
 私は雑誌を閉じて後頭部をシートの背もたれに押しあてた。
 この記事を読んでから、なぜだか心の端っこがざわざわして落ち着かない。
 同時に妙に納得できることもあり、それがますます私の心を脅かすのだ。
『俺が出ていくよ』
『もう限界なんだ』
『眠れない夜が続くのは』
 あれはつまり、優輝の心の中には初恋の人がいて、私と同居している状態が耐えられないという意味だったのでは――?
 もし私が逆の立場で、相手がどんなにかわいそうな境遇だとしても、好きでもない男性と長期の同居なんて絶対に考えられない。そもそも顔見知り程度の男性といきなり同居するとかありえないし。
 そうだ。優輝と私が同居なんて、ありえない状況だったんだ。
 火事で住む場所がなくなった私を仕方なく――あれ、でも優輝は変なこと言っていたな。
『火事が起きなくても、もう少ししたら未莉はここに来ることになっていたんだ』
 結局いつも彼の言葉ですべてがわからなくなる。最初からピースが欠けているパズルが、どうやったっていつまでも完成しないのと同じだ。
 手がかりは姉のくれたこの雑誌と故郷に行けという大雑把な指示だけ。
 なんとも心許ないけれども、それを頼りに進むしかない。
 たとえそれが知りたくない真実だとしても――。

 故郷の駅に降り立った私は、タイムマシーンで未来へワープしてきたかのような戸惑いと不安を覚えながら駅前通りを歩き始めた。
 まず煤けたクリーム色だった駅舎がガラス張りのキラキラした近未来的な建物に変身していることに驚く。もちろん見覚えのあるビルもある。しかしそれらが記憶よりこじんまりとした外観に見えてしまうのは、学生だった私が大人になったからだろうか。それとも周囲の建物が新しく洗練されたデザインで、どうだとばかりに魅力的な光を発しているからだろうか。
 気後れしながらも1ブロックを進み、目的の有名大型書店の青い看板を見つけた。
 事前に店舗情報を調べてあったから、場所はすぐにわかった。ただその場所には確か以前から書店があったはずだ。歩きながら私は遠い日にもこの道を通って買い物に来たことを思い出していた。
 そうだ、教科書!
 当時通っていた高校の教科書取扱店が、これから向かう場所にあった書店だった。この街では最大の書店で、市内にはいくつか支店もあったはずだ。
 私の出身高校は山奥といっても差し支えないほど不便なところに立っていて、自宅通学時代の私は電車とバスを乗り継いで通っていた。その途中でこの書店にもよく立ち寄った。
 ええと、なんて名前だったかな?
 森田書店――違う、でも『森』はついていた気がする――森永じゃないし、森……森川、森山、森尾……ん、もりお?
 ――もりお……か!?
 店の前まで来て突然閃いた。そう、森岡書店。ここはそういう名の本屋だった。
 入口の自動ドアの前に立つ。
 私の知っている本屋ではない。
 それでも吸い込まれるように店内へ入る。
 書店独特の穏やかな空気に包まれて、私は思わず深呼吸した。
 まず目についた雑誌が並ぶ棚の前をゆっくり通り過ぎる。それで私はここに来て何をすればいいのでしょう。
 姉はこの書店の存在を教えてくれただけで、具体的にどうすればいいのかは指示してくれなかった。ただ行けばすべての謎が解けるという、それ自体が謎の言葉を残して去るなんて不親切極まりないではないか!
 にわかに場違いな憤りを爆発させそうになったが、女性店員がワゴンを押しながらこちらにやって来たので身を固くしてかわす。怒りは萎み、不安がそれに取って代わった。
「何かお探しでしょうか?」
 本棚の前で逡巡していると、先ほど通り過ぎたはずの女性店員が私に声をかけてきた。あらためて顔を見ると同年代の女性だった。
「あ、いえ、その……」
 探してはいるのだが、それは本ではない。
 親切で声をかけてくれたのに、言うべき言葉を探し当てられないまま数秒。
 思い切って目の前の店員に疑問をぶつける。
「ここは以前『森岡書店』でしたよね?」
「ええ、そうです。よろしければ奥へご案内いたします」
「えっ?」
 驚く私を尻目に女性店員は小首を傾げて微笑むとレジカウンターのほうへ向かった。よくわからないまま、彼女の背中を追いかける。長い髪が揺れる背中は小さい。身長が私より頭ひとつ分低いのだ。小柄で可憐な印象でかわいらしい人だ、と思った。
「店長、お客様です」
 レジカウンターの横にある戸口の奥へ、女性店員は体に似合わぬ大きな声を出して言った。
「はいはい」
 奥から柔和そうな男性の声がした。
 女性店員は私のほうへ向き直ると一礼し、売り場へと戻っていく。
 取り残された私はドキドキしながら戸口の奥に注目する。
「お待たせしました」
 と言いながらスチール棚の向こうから白髪交じりの初老の男性が出てきた。
「あの……」
「あなたは……!」
 私がもごもごと口を開くのと、店長が驚きに目を見開くのはほぼ同時だった。
 店長の驚きの意味がわからず絶句していると、彼は急に目を細めて戸口の奥へ手招きした。
「よく来てくれました。いやぁ、びっくりしました。こんなことってあるんだなぁ」
 最後のほうは完全に店長のひとりごとだ。私はどうしていいのかわからないまま、彼について店のバックヤードに進入する。新刊が積んである大きなかご付の台車の間を通りすぎ、事務室を横目に、一際立派なドアを店長がなんのためらいもなく開けた。
「さ、どうぞ。男のひとり暮らしでむさくるしいところですがご容赦ください」
「え、いや、その……私は」
 あまりにもいきなりな展開で頭は真っ白になった。固辞するために慌てて口をパクパクするが、そんな私を見て店長は「ああ」と合点がいったような声を出した。
「これは失礼しました。自己紹介もまだでしたね。私は森岡と申します。モリオカユウキの父です」
「え……っと、あの、モリオカユウキって……」
「そう、最近俳優とかやってるあの守岡優輝」
「な……、えっ、ちょっ、待ってください」
「あなたのことも知っていますよ、柴田未莉さん。シバ通運送のお嬢さんですね」
 店長は笑顔でさらりとそう言うと、自宅の上り口で私にスリッパを履くように促した。
 それでも私は玄関の戸を背にしたまま立ちすくむ。
 待て、落ち着け、まず頭を整理しろ。えっと、目の前にいるのは優輝の父親だ。ということは、つまりここは優輝の実家――。
「いやでも私、そんなつもりで来たわけじゃなくて」
「あなたにお見せしたいものがあるんです」
 私の胸の内を見透かすような穏やかな微笑みを浮かべて、優輝の父親は再度「どうぞ」と言う。
 断って引き返すこともできたが、好奇心には勝てなかった。おそるおそる優輝の実家に足を踏み入れる。
「あの、優輝さんは最近帰省されていますか?」
 いくつかのドアの前を素通りし、突き当たりの階段をのぼり始めた優輝の父親の背に思い切って問いかけた。
「いいえ、大学に進んでからは一度も戻って来ていません。電話すらかけてこない。何をしているんだろうと思っていたら『テレビに優輝が出ている』と沙知絵ちゃんがウチに飛び込んできて、あのときは本当に心臓が止まるかと思いました」
 沙知絵ちゃんというのは誰だろう。よくわからないが、実家に何も連絡しないままデビューしてしまったのは事実らしい。
 しかし優輝が一方的に捨てたと宣言しているだけで、過去は現在とリンクしている。当たり前のことだが、それを知った私は不思議とホッとした気分になる。
 階段をのぼりきると、優輝の父親はひとつのドアの前で立ち止まった。
「帰ってくる気はないのかもしれないけど、なんとなくそのままにしてありました。今日あなたがここに来ると知っていたら、アイツのことだから片付けてしまったかもしれないが」
 ゆっくりと開くドアの向こうは、まぶしいくらい光があふれる空間だった。一瞬目を細めて、それから部屋の内部に視線を向ける。
「……え?」
「めったに何かをほしいとは言わない息子が、珍しくあれをほしいと言ってきて、実は出版社に問い合わせて特別に取り寄せたんです。店内に展示したものは端が破れてしまってね」
 白い壁にぽつんと一枚だけポスターが貼ってある。
 私は茫然とそのポスターを見つめた。
 悩みなどなさそうな顔で笑う少女のアップの周りに記事の見出しが躍る。雑誌販促用に作られたそのポスターは主に書店に掲示されるものだ。
 画鋲で壁に貼り付けられた紙は全体的に少し黄ばみ、インクも褪色している。だが、見間違いようもない。
「……わた……し!?」
「そう、あなたがはじめて雑誌の表紙を飾ったときのものです」
 無邪気に笑う私が、そこにいた。

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#21 初恋の人に会いに行く * 1st:2015/06/02
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