#19 あやしい女と呼ばないで

 昼休み、さんざん悩んだ末、柚鈴にメールを送った。時間をあけずに返信があり、仕事の後、事務所で会うことになった。
 誰にも頼らない、と決意したが、すべてを自分の胸の中にしまっておくのはつらい。閉じ込めておきたくても、友広くんの発言の意味するところを考えると、不安で胸が爆発しそうな気持ちになってしまう。
 たぶん柚鈴なら彼の発言を客観的に判断してくれるはず。それに異性の友達も多い柚鈴のほうが断然男性の心理に詳しいと思う。
 仕事を終えて会社を出る。
 守衛所の前で会釈をし、顔を上げると見覚えのある黒い車が目に入った。おそるおそる近づいてみると、助手席の窓が開き、案の定運転手は高木さんだった。今日はサングラスをかけている。
「乗って」
 と、高木さんは急かすように言った。でも姉の恋人の車に当然という顔で図々しく乗り込むのもどうかと思うんだけど。
 車のそばで固まる私の脇を怪訝な面持ちの社員が通り過ぎる。ナンパや不審者だと思われたかな。見知らぬ人たちに横目でちらちらと見られるのは、私も気分が悪い。
 とりあえず乗ろう。
「では、失礼して」
「姫、今日から帰りだけワタクシがお迎えにあがります」
「え?」
「アイツの命令だから拒否権はないよ」
 高木さんはふざけた口調で言ったけど、どうやら冗談ではないらしい。
「マネージャーにそんな命令するなんて横暴ですね」
「ハハハ、でもアイツが入院している間は俺も暇だし、未莉ちゃんが嫌でなければタクシー代わりに使ってよ」
「じゃあ、今日はお言葉に甘えて、姉の事務所までお願いします」
 タクシー代わりなんて申し訳ない。
 頭を下げて運転席を見ると、高木さんは待っていましたとばかりにギアを入れアクセルを踏み込んだ。
「今、未莉ちゃんが考えていること、当ててみようか?」
「え?」
「俺に悪いと思っている」
「もちろんです」
 私は大きく頷いた。マネージャーとはいえ、こんな使いっ走りみたいなことばかりさせられて、高木さんこそ嫌じゃないのだろうか。
 そんな私の胸の内を見透かしたような笑みが高木さんの口元に浮かぶ。
「俺はこの仕事、楽しいけどな。ま、優輝も最初は未莉ちゃんみたいに遠慮ばかりしていたよ」
「そうなんですか? ちっとも想像できません」
「君たちはすごく似ているよ」
「……え? 誰と誰が?」
「優輝と未莉ちゃん」
 高木さんが信号で止まった隙に白い歯を見せた。
 いやいや、どこが?
「そうは思いませんが」
「言うと思った!」
 車内に高木さんの笑い声が弾ける。期待どおりの返事をしてしまったらしい。シニカルな気分にはなるが、笑みの形を忘れた頬の筋肉は一瞬ぴくっとひきつっただけ……。
「それで、優輝の退院はいつごろですか?」
 そうそう。これはきちんと聞いておかなければ。
 地方ロケで留守番を任された際、ひとり暮らしを満喫しているまっ最中に、突然優輝が帰ってきて驚愕したのだった。思えばあの気の緩みが優輝と私の関係をこじらせたような気がする。ま、その前から十分へんてこな関係でしたが。
「一応、手術後のリハビリが順調なら1ヶ月以内には家に戻れるらしいよ」
 口調は柔らかいが、高木さんの表情はスーッと消えてしまった。それを目にした私の心も急速に冷え込んでいく。
 いくら命に別条がないとはいえ、大けがであることは間違いない。その事実を前にすると、どうやっても明るい気分にはなれなかった。きっと高木さんも同じなのだろう。
 一気に空気が重苦しくなった車内で、私は必死に息を吸い込んだ。そして吐き出すのと同時に言った。
「やっぱり私がお見舞いに行くのは迷惑ですか?」
 高木さんが驚いたように目を見開いて、私を一瞥した。
「迷惑? どうして?」
「電話で優輝に『病院に来るな』と言われたので、迷惑なのかと……」
「迷惑ではないと思うけど、しいていえば恥ずかしいのかもな」
「恥ずかしい?」
 私は首を傾げた。その理由がわからない。
 高木さんは前を見たまま言った。
「今の状態だと、アイツはひとりでトイレにも行けないんだ。そういうところ未莉ちゃんに見られたくないんじゃないかな」
「え、そういう理由ですか」
 ――トイレ!
 それは考えもしなかった。しかし言われてみればトイレ事情は深刻に違いない。ひとりでトイレに行けない、ということは誰かに手伝ってもらったり、トイレではない場所で用を足さねばならなかったり、ということでしょうか。
 もし私だったら……うわーっ、考えたくない!
 けがは痛むだけでなく、日常生活を不便にする。
 そんなものを優輝に負わせてしまうなんて。この真相が暴露されたら、私は世の女性から袋叩きに遭うのでは!?
「あと事務所の人間も交代で付き添っているから、他人の目も気になるだろうし」
「そうですよね」
「でも、未莉ちゃん、ホントに優輝の見舞いに行きたいの?」
 隣で意外そうな声が上がる。
 なんとなくうつむき加減になった私は小さく答えた。
「ええ、まぁ」
「それなら明日にでも連れていってあげるよ。俺がアイツに付き添う時間、なんとか調整するから」
「いいんですか?」
 今度は自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。
 高木さんは前を見たまま目を細める。
「もちろん。優輝も喜ぶよ」
「絶対怒ると思います」
「確かにアイツ、素直じゃないからな。でもベッドから動けないヤツなんか怒らせておけばいいって」
 そう言って高木さんは悪戯を企む子どもみたいにニヤリとした。

「ニュースになっているね」
 柚鈴は私の顔を見るなり、そう言った。
 事故発生から1日以上経っているのだし、報道されていないほうがおかしいくらいだ。
 だけど――。 
 今朝はあんなに気になったのに、今はもうそれらを見る気にはなれなかった。
「でも未莉の職場の人が言うような記事はないよ。ネット上で噂になっているのを見たんじゃない?」
 私を慮ったのか、柚鈴は明日香さんの名前を口にしなかった。
「そっか。確かにネットの情報に詳しそうなタイプの人だわ」
「やだやだ。私はネットの噂とか絶対見ない。だって悪口しか書かれていないもん」
 柚鈴は倒れ込むように事務所の応接ソファへ腰をおろした。私も向かい側に座る。
「今の時代って大変だね。ネット上に変な噂を書き込まれたら、嘘でも本当でも、一気に広まりかねないし」
「まぁね。でも人の目がなければ成り立たない仕事だし、世の中の人全員に好かれようと思っても無理だし、結局気にしないのが一番だね」
 そう言って柚鈴は人差し指で自分の唇をなぞった。乾燥していることに気がついたのか、バッグを開けて覗き込む。リップクリームを探し当てると、キャップを外し唇の上を二往復させた。
 私は柚鈴が淹れてくれたコーヒーに口をつける。温かくてほろ苦い液体をしみじみと味わっていたら、急に柚鈴が眉間に指をあて、名探偵が謎について思案するような顔をした。
「その新入社員くん、姫野明日香の知り合いだったりして」
「まさか……」
 しかし否定するだけの確固たる証拠はない。想像した瞬間、肌がぞわっと粟立った。
「事故の前、姫野明日香の様子はどうだった?」
「どう、って……」
 あまり話したくない内容だが、隠すこともないので、できるだけ主観を排除しながら説明した。柚鈴はげっそりした表情で大きなため息をつく。
「予想以上に言動が幼稚だけど、わざとなのかな。だとしたら少し面倒だね」
「もし友広くんと明日香さんが繋がっているなら、なんだか怖いよ」
 接点のなさそうな人同士が意外なところで繋がっている。そんなことはさほど珍しくはない。
 だいたい私と優輝だって、接点などなかったはずなのに、私の知らないところで勝手に繋がりができているし、そう考えるとこの世にはありえないことなどない気がしてくる。
 しかし柚鈴は「うーん」と難しい顔つきで首をひねった。
「でも本当の知り合いだったら、姫野明日香の名前は出さないかもね」
「あー確かに。私も守岡優輝の話題は避けたいもん」
「未莉の場合は特別だと思うけど」
「え、そうかな?」
「だっていきなりあの守岡優輝と同棲だよ。そんなの絶対他言できないでしょ。でも舞い上がって、ほのめかしちゃう子はいるかもね」
「……そうだね」
 私の今の立場が他人の羨望の的だということくらい、私だってよーくわかっている。だがしかし、その内実は微妙……。
 やっぱりこれって私が素直じゃないのがいけないのでしょうか。
「ん? 深刻な顔して、どうかした?」
 気がつけば柚鈴が私の顔を心配そうに見つめていた。
「あ、いや……じゃあ会社では今までどおりでいいよね」
「会社ねー」
 突然立ち上がった柚鈴は給湯室へ向かった。食品棚を開けて「うーん」と唸り、結局ミックスナッツの袋をつかんでソファへ戻ってくる。
「その新入社員くんは、未莉と付き合いたいって?」
 食塩不使用らしいよ、と付け足してナッツの袋を私のほうへ差し出した。私もお腹が空いていたので遠慮なくいただくことにする。
「それらしきことを言われたのは少し前だけど、そのとききっぱり断った」
「ほう。でもまだ何かと言い寄ってくるわけだ」
「というか、ずっとあからさまに無視されていたのに、今朝いきなり話しかけてきたと思ったら、優輝と私のことを何か知っているような発言をしてきて……」
「へぇ」
 ぼりぼりと音を立てながらナッツをかじっていたかと思うと、柚鈴は急に「気持ち悪い」とつぶやいた。
「私ならそんな会社やめるなー」
「えっ……」
 さすがに驚いた。何もしていない私がやめなければならないの?
「だってそんな粘着質な男に足引っ張られるのは嫌だもん」
「それはそうだけど」
「仕事は他にいくらでもあるって」
「でも今はそんな簡単に次が見つからないよ」
 私は意味もなく自分の指を組んでみたり広げてみたりした。柚鈴の視線を痛いほど感じるが、なかなか顔を上げることができない。
「考え方の問題だね」
 そう言って柚鈴は長い足を組み、その膝上に肘を乗せた。
「未莉は自分で自分を縛りつけているんだよ。がっちがちに、ね」
「そうかな」
 うんうん、と頷いて柚鈴はコーヒーをひと口飲む。
 私はテーブルの上に無造作に広げられたナッツの袋を眺めた。
 コツンという音とともにマグカップがテーブルの上に戻り、柚鈴のきれいな指が持ち手から離れる。
「今の会社が居心地いいならまだしも、未莉がそこにこだわる理由が私にはわからないな。それにさ、未莉のコマーシャルが話題になれば、会社勤めなんかしていられなくなるよー」
 優しい表情でそう言う親友を見つめながら、私は何もかもがうまくいく未来を想像してみた。だけどあまりにも都合のよすぎる妄想はちっとも現実味が感じられず、虚しいだけ。すぐさま消去する。
 だいたい今の私には人気も実績もないのだ。
 優輝にも言われたけど、コマーシャルに出ることで少しでも名前が売れればいいが、その後も順調に仕事が来る保証はどこにもない。
 思うに人は変化を嫌う生きものなのだ。現状よりもっとよい未来が待っているなら変化も大歓迎だが、悪くなるなら現状維持を選んだほうが間違いないもの。
 だーーーっ!
 これがいけない。この保守的な思想がまさしく『自分で自分を縛りつけている』わけだ。まだかろうじて20代前半だというのに、がっちがちに凝り固まってどうする!?
 でも――。
 父と母が最期にいた場所に立ったとき、私は心の底から思ったのだ。できるなら、あの朝に帰りたい。父も母もそして姉も笑っていた、あの冬の朝に。
 焼け落ちた建物の残骸が撤去され、更地になったその場所は、悲惨なできごとの爪痕など微塵も残さず、すっかり別の風景に変わっていた。
 この世に変わらないものはひとつもない。
 だからこそ私は変わることを怖いと感じてしまうのだ。

 落ち着かない気分のまま朝を迎えた。カーテンを開け、まだほの暗い窓の外をぼんやりと眺める。冬の朝だというのに、カラフルなランニングウェアを身につけて軽快に走る男性が見えた。
「朝、走ると気持ちがいいよ。もし早起きできたら試してみてください」
 優輝の声が脳内で再生される。
 次に優輝が朝のランニングをできるのはいつだろう。
 男性の姿が見えなくなってもしばらく窓際で固まっていたが、私がいくら考えても仕方のないことだ。誰もいない部屋で「よし」と気合を入れ、出勤の準備を始めた。
 今日は――いや、これからずっと――友広くんとふたりきりにならないよう気をつけよう。
 そんなふうに身構えて出社したが、彼は今日から3日間出張だった。予定表のホワイトボード前で放心している私の横を、眉をひそめた課長が通り過ぎていく。
 なーんだ。よかった。
 そう思った瞬間、ほんの少し頬が緩む。なんだかこの感覚、変だ。脇腹の辺りがこそばゆく、思い切りかきむしりたいような落ち着かない心地。
 少々乱暴に腰を撫で、腰痛をいたわるふりをしながら席に戻る。実際まだ少し腰も痛むのです。
 それからの私は弾むような気持ちで仕事に励んだ。

 定時で退社した私の目に高木さんの黒い車が飛び込んでくる。昨日と同じ場所だ。急ぎ足で近づくと、助手席の窓が開き、高木さんが「おつかれさま」と労ってくれた。
 ぺこりと頭を下げてから助手席に乗る。すると目の前にサングラスとマスクが差し出された。
「なんですか、これ?」
「これから病院に行くよ」
「え、でも、これは?」
「紗莉さんから借りた。そしてこれから君は優輝の従妹だから」
「いとこ!?」
 高木さんの手からサングラスとマスクを受け取り、それらを交互に眺めた。
「つまり従妹のふりをすればいいんですね」
「ふりなんかじゃだめさ。君は優輝の従妹」
 私は「はい」と優等生みたいに答えて、サングラスとマスクを着用した。レンズ部分がやけに大きく、私の鼻がひくいせいなのかずり落ちてくるものの、おかげさまで顔のほとんどが隠れてしまう。完璧な不審者の出来上がりだ。
「これだけ顔が隠れたら、別に親戚のふりなんかしなくてもいいのでは?」
「未莉ちゃん、ふりなんかじゃない。君は優輝の従妹」
 高木さんはしつこく同じ言葉を繰り返した。大事なことだから三回も言ったのだろう。
 しかしこれじゃあ従妹の前に不審者以外の何者でもない。いつ職務質問されてもおかしくないと思うのだけど。
 そんなことを考えていたらあっという間に病院についた。
 車から降りると急にドキドキしてきた。
 高木さんが先導してくれるので、私は肩にかけたかばんを脇にぎゅっと挟んで前のめりな姿勢でついていく。
 すれ違う人たちの視線が妙に痛いのは気のせい、そう心の中で言い聞かせた。じゃないと今にも大声で「私は断じて不審者じゃない!」と叫んでしまいそうだった。
 でもこの程度で動揺していたら、変装して病院へ乗り込むことなどできやしない。ま、大胆な変装の必要はなくなったけど、いずれにせよ、もっと堂々としなくては!
 エレベーターの中でほんの少し背筋を伸ばし、ミラーに映る自分をチェックする。
 いや、しかし、どこからどう見てもあやしいでしょう、この格好。
 その証拠に、高木さんは私から顔をそむけて、必死に笑いをかみ殺している。
 そして目的地である病室に足を踏み入れた途端、冷たい声が飛んできた。
「高木さん、見るからにあやしい女を連れてくるとは、どういう嫌がらせですか」
「退屈していたくせに」
「とんでもない。読書がこの上なくはかどって嬉しい悲鳴を上げています」
 悲鳴なんかあげていないくせに、とサングラス越しに優輝を見る。
 実際、ベッドの脇には本が2列タワー状に積み上がっていて、片側はところどころに付箋が挟まっていた。ということは、すでに半分くらいは読了したのか。
 え、まさか1日で?
「そこのあやしい人物は、花粉症?」
 優輝が呆れたように言った。私はサングラスを外し、ベッドの上に横たわる彼をキッと睨みつけた。
「そんなわけないでしょう」
 もっと畳みかけるように文句を言おうとしたところ、高木さんが落ち着かない様子で「俺、ちょっと飲み物買ってくるわ」と出ていった。
 どうやら気をつかってふたりきりにしてくれたらしい。
 私としては居心地悪いこと、この上ないのだけど。
 さて、何から話そうか。とりあえず友広くんのことは言わないでおこう。絶対に機嫌を損ねるとわかっているからね。
 じゃあいきなり高校時代の話をふってみる? うーん、いくらなんでもそれはいきなりすぎるよね。「過去は捨てた」の冷たいひとことで一刀両断されておしまいだな。
 どうしよう。逡巡の末、優輝と目が合う。彼はおもむろに口を開いた。

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#19 あやしい女と呼ばないで * 1st:2014/12/18


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