#18 真実という名の不確かな幻想

「ただいま」
 ドアを閉め、誰もいない部屋の中に向かって小声でつぶやく。のろのろと靴を脱ぎ、買い物袋を冷蔵庫の前へ運んだ。静かな部屋には慣れているのに、静かすぎてなんだか落ち着かない。
 買ってきた食品を冷蔵庫に詰め込み、風呂に湯を張る。勢いよく噴き出る湯をバスルームの入口でぼんやりと眺めた。
 一応、食べるものを購入して帰宅したけど、今夜はひと口ものどを通りそうになかった。
「あー」
 自分の声が湯水の跳ねる音に吸い込まれて消える。
 病院で見た、優輝の痛々しい姿を思い出し、唇を噛んだ。
 彼が骨折したのは右の脛(すね)で、その部分が激しく腫れ上がっていた。まずは足を牽引し、腫れているところを冷やすらしい。腫れが引いた後、手術をし、固定具を入れる。リハビリも含め、完全に元通りになるには約1年かかると聞かされた。
「1年って……」
 骨折自体はきれいにぽっきりと折れていて、快復も早いだろうというのが医師の見解だったが、それでもこの先1年間はまともに仕事ができないと宣告されたも同然だ。
 あんなひどい事故だし、それが動かしがたい事実だと頭ではわかっている。だけどこの事態の重大さを受け止めきれず、私は優輝の病室から逃げるように帰ってきてしまった。
 ――私をかばったせいで……。
 大きなため息が漏れた。
 自分自身を責めたところで、過ぎ去った時間は戻ってくるわけではない。
 そんなことはわかっている。でも責めずにはいられない。私にはそれしかできることがないのだから。
 ふと、気が緩んだ。涙がぼろぼろとあふれ出す。
 なぜこんなことになったのだろう。
 私がドラマ撮影の見学に行かなければよかったのかもしれない。私がいつもどおり会社に仕事に行けば、優輝も順調に撮影ができたはずだ。そしたら今夜も優輝はここに帰ってきて、明日はまた普通の1日が来たのに――。
 突然にぎやかな電子音が耳に飛び込んできて、無限ループ中の思考が急停止する。携帯電話の着信メロディーだ。玄関に放置してあったかばんから携帯電話を取り出した。
『無事に帰ったか?』
 なにげないひとことに胸がいっぱいになった。優輝と電話で話すのは、たぶんこれがはじめてだ。声が普段よりほんの少し優しく聞こえる。
「うん」
『泣くな』
 なぜバレているのだろう。まだ鼻をすすっていないし、がんばって普通の声を出したつもりなのに。
「泣いていない」
『素直じゃないな』
 どうせ私は素直じゃないですよ。
 だけど心の中で悪態をつくのが精一杯で、こらえきれずに鼻をすすった。
「だって、私のせいで……」
 優輝は大けがをしたのだ。気分は落ち込むばかりで、このまま私など消えてしまえばいいとさえ思ってしまう。
 心の奥に巣食う闇が、私を飲み込んでしまいそうなほど、急速に膨張した。
「もう嫌だ。自分のことが嫌い」
 勢いでネガティブな気持ちを吐露した。
 電話の向こうは少しの間黙ってしまう。それはそうだろう。けが人相手に後ろ向きな発言を放つなんて、我ながらデリカシーがなさすぎる。
 言わなければよかった、と思い始めた頃、苦笑まじりのため息が聞こえた。
『じゃあ俺は、自分のことが嫌いな未莉を好きになってやるよ』
 い、い、今、なんと言った!?
 わ、私を好きに――!?
 いやいやいや。からかっているだけ。決して本気にしてはいけない。
「『なってやる』なんてえらそうに言われるくらいなら、好きになってくれなくてもいいよ」
 ――って、おい、ちょっと待て、私。
 そんなこと、露ほども思っていないのに、あまのじゃくなこの口が勝手に返事を!
 誰か、時間を戻して……
『もう手遅れ』
「……え?」
 囁くような小さな声が私の鼓膜を震わせた。胸がドキッと跳ね、手がつけられないほど暴れ始める。
『だから泣かなくていい』
 心の闇は遠ざかり、熱いココアを飲んだときみたいに、温かくて甘くてちょっぴりほろ苦い気持ちが私の中に芽生えた。
 だけど困る。心が弱っているときにそんなこと言われたら、信じたくなるから。
 それに逆だ。助けてもらった私はけが人を励ますべきであり、励まされている場合ではない。
「言っていることが、めちゃくちゃだよ」
『そうか? 別に死ぬわけじゃないから心配するな』
「心配なんか……」
 せっかく止まりかけていた涙が再びあふれ出す。
 そもそも「するな」と言われても、してしまうのが心配なのだ。それに両親を亡くして以来、誰かに深入りすることなく生活してきたせいか、他人の心配がこんなに胸が痛むことだと忘れていた。
 だけど泣いてもどうにもならない。どんなに戻りたいと願っても、もう事故の前には戻れない。濡れた頬を手で拭う。
『本当はめちゃくちゃ痛い』
 優輝がぼやくように言った。きっと私を気遣ってくれたのだと思う。
 私も明るい声を出そうと努力してみる。
「それはそうでしょうね。骨が折れていますし」
『痛すぎて、眠れる気がしない』
「せっかくの個室なのに残念ですね」
『からかう相手がいないとつまらないな』
 クスッと笑う優輝の声が、耳をくすぐった。ドキッと心臓が跳ね、甘い痺れが首筋から全身をめぐる。
 まずい。電話で話していると、頭の中が彼の声でいっぱいになって、脳まで彼に支配されそう。
 でも甘い気分に浸っている場合ではなかった。慌てて気持ちを引き締める。
 優輝がけがをしたのは、私のせいなのだから。
「すぐに慣れて、ぐっすり眠れるようになりますよ」
 苦い気持ちで昨晩の優輝のセリフを思い出す。『未莉は俺に何をしてくれる?』という彼の問いに、こんな形で答えることになるなんて、誰が想像できただろう。
 フッと笑う声がした後、不意に沈黙が訪れた。
 ――ねぇ、あれは優輝だったの?
 のど元まで出かかった言葉を、寸前でごくりと飲み込む。
 ――やっぱり訊けない。
 私は奥歯を噛みしめた。
 優輝に訊くのはもう少し考えてからにしよう。もしかしたら何か思い出すかもしれない。もっと確かな何かを――。
『未莉』
 その声で私の意識は会話に引き戻された。
 いつもより硬く、感情の読み取れない声音に心臓がズキンと痛む。
 なにか嫌な感じがした。続きを聞きたくない。
 だけど私には黙っていることしかできなかった。
『もう病院には来るな。絶対に』
「ど……して?」
『どうしても、だ。未莉は何もなかったように、普通に生活してろ。そういうの、得意だろ?』
「無理だよ、そんなこと」
『電話も、もうしない』
「なんで?」
『じゃあな』
 音もなく通話は終了した。一方的に電話を切られて腹が立った。一方的な要求にも全然納得がいかない。
 風呂の湯が定量になり、電子音が鳴り響く。その無神経な音量のせいで胸がズキズキと痛んだ。
「結局『もう来るな』と言うために電話してきたのか!」
 浴室に向かってひとりごちる。するとそれが無駄に反響し、ひとりでわめいている自分自身がむなしく感じられた。
「はぁ」
 とりあえずため息をつく。
「理由くらい説明してよ」
 まぁ、あの優輝にそんなことを頼んでも無駄だ。
 彼が懇切丁寧に理由を説明する優しさを持ち合わせていたら、彼と私の関係はこんなにおかしなことにはなっていないはず。
 それになんとなく理由は想像できる。
 私だって彼の職業について、ある程度理解はしているつもりだ。
 たぶん明日になれば、いやもしかしたら今夜にも、優輝がドラマ撮影中に大けがをしたとニュースになるはず。
 そうなると病院に取材陣が押しかける。ゴシップ記事を狙うなら本人がいる場所に張りつくのが一番いいわけで、そんなところにのこのこ私が出向けば、自ら罠に飛び込むようなものだ。
 だから優輝が私に「来るな」というのはもっともな要求である。
 私だってそんなことはわかっている。わかってはいるんだけどね。
 でも――ただ「来るな」とだけ言われて「はい、わかりました」なんて私が素直に聞くと思ったのだろうか。
 まさか優輝が退院するまで、私が何もなかったような顔をしていられると本気で思ったのだろうか。私をかばって大けがをした人がいるというのに?
 見くびってもらっては困る。
 このまま自分だけのうのうと通常生活を送ってやろう、なんて思うわけないでしょうが!
 俄然やる気がわいてきた。
「絶対に来るな」というのは、つまり「来れるものなら来てみやがれ」ということだ。
 よし、その挑発に乗ってやろうじゃないか。
 脱衣所で服を脱ぎ捨てる。実はまだ体のあちこちが痛いのだけど、それすら些細なことに感じられた。もはや私の頭の中は、どんな変装をするか、という命題でいっぱいになっている。
 目立ちすぎてもいけないよね。病院内で目立たない格好といえば、やはりナース?
 いやいや、もし制服が手に入ったとしても、関係者にはすぐに部外者だとバレるか。
 じゃあ身内を装うとして……優輝の身内って?
 だめだ。ヤツは謎が多すぎる。下手な嘘は身を滅ぼしかねない。やめておこう。
 他には……事務所の関係者とか。あー、これ案外いけるかも!
 しかし事務所の関係者っぽい変装というのは、そもそも変装なのだろうか。馬面や大仏さまを頭にすっぽりかぶるようなわかりやすい変装と比べると、意外に難易度が高いかもしれない。
 バスタブに体を沈める。関節がギシギシ音を立てたような気がするけど、骨折の激痛に比べればこんなもの大したことはない。
 そうだ。明日事務所に行って装備を少々拝借しよう。
 おとなしく待っていろ、守岡優輝!
 どうせ動けないだろうけどさ。

 翌朝ベッドから起き出してすぐにテレビをつけ、同時に携帯電話でもインターネットのニュースを確認したが、優輝のけがについてはまだ報道されていないようだ。
 なんだか気が抜けた。
 優輝の今後がどうなるのか、気になることが多くてよく眠れなかった。私が悩んだり心配してみてもどうにもならないのはわかっている。でも仕方がないと割り切ってぐっすり眠れるほどの図太い神経を持ち合わせてはいないのだ。
 食欲はなかったが、買い置きしてあったパンを胃に詰め込む。空腹で倒れたら恥ずかしいし、私をかばって負傷した優輝に申し訳ない。
 ひとりの朝は驚くほどスムーズに支度が終わり、いつもより5分早く家を出た。
 おかげで友広くんに会わずに済み、少しだけホッとする。毎朝必ず会うわけではないのに、一度鉢合わせすると必要以上に身構えてしまう。ま、今は完全に無視されているから、そこまで警戒することはなさそうだけど。
 しかし友広くんがいまだにあの態度を貫いているのは、いくらなんでもおとなげない気がする。
 逆に私がふられた立場で相手に会うのがどんなにつらくて泣きそうでも、顔を合わせたら挨拶くらいはしようと努力する。それが大人のお付き合いというものだ。
 そう考えると、友広くんはまだ中身が大人になりきれていないのかもしれない。
 新入社員はそれで通用すると思っているのだろうか。周りも甘やかしすぎだ。容姿が整った人間をちやほやしてしまう気持ちはわからないこともないけど、図に乗る人間もいるのだからほどほどにしたほうがいい。
 ロッカールームを出て給湯室へ向かう。途中で課長が私を呼び止めた。
「昨日から設計図のファイルが見当たらないんだ。別のファイルと一緒に違う場所に紛れ込んだかもしれないんで、探してみてほしい」
「わかりました。見つかり次第、お持ちします」
 コーヒーを淹れようと思ったが、先にファイルを探すことにした。まずは書庫のようにファイルがずらりと並ぶ棚へ赴く。
 目的の棚を見てみると、確かに設計図を閉じた最新のファイルが抜けている。
 背表紙のラベルを目で追うが、別の場所に間違ってしまわれたわけではなさそうだ。ということは、誰かが持っていったまま返却していない可能性が高い。
 くるりと回れ右をすると、優輝のポスターが目に飛び込んできた。あっと思ったが、もう遅い。雄弁な瞳に一瞬で私の意識すべてが吸い寄せられる。
 無駄のないシャープな輪郭、スッと通った鼻梁、女性のように上品な唇。
 ひとつひとつを脳に刻むように見つめる。こうしていると私は彼を見つめるためだけに生まれてきたのだと錯覚しそうだ。時が経つのもどうでもいい。彼を見ているときだけ、本当の私が目覚めていられる――そんな気さえした。
 あまりにも真剣に見入っていたせいで、周囲への警戒心は薄かった。だから隣に人が立っていることに気がついた瞬間、驚いて声にならない声を上げてしまう。
「そんなに驚くこともないでしょう。彼と違って、僕はここの社員です。顔を合わせないほうが難しいくらいなのに、僕の顔を見た途端、悲鳴を上げられたら傷つきます。いったい僕にどうしろと言うんですか、未莉さんは」
 ここ数日ほとんど口を利かなかったのが嘘のように、ひと息にそう言った友広くんは爽やかな笑顔を私に向けた。だけど目は笑っていない。背筋が凍る。
「べ、別にどうもしなくていいです」
「未莉さんの敬語、新鮮でいいですね」
 うわっ、まずい。友広くんにまで敬語になってしまった。完全に友広くんのペースだ。どうにかしてこの場を脱出しなくては。
 しかし敵も心得たもので、いきなり私の腕をつかんできた。
「ちょっ、何?」
「訊きたいことがあるんです」
 友広くんは必要以上に接近し、余裕の笑みを浮かべた。避けようと思っても腕をつかまれているので1歩後ずさりすることすら難しい。
「もう知っているかな?」
 このセリフ、前にも聞いた!
 私は目を見開いて次の言葉を待つ。
「守岡優輝は大けがをしたらしいですよ。ドラマの撮影中にセットが倒れてきて、姫野明日香をかばっての負傷だとか」
「えっ!?」
 思わず大声を上げた。
 友広くんがニヤリとする。
「とっさにかばうくらいだから、本気で惚れていますよね。どうです、嫉妬しますか?」
 嫉妬――いや、そうじゃない。
 なぜここに姫野明日香の名前が出てくるの?
 あのとき明日香さんはふて腐れてスタジオから飛び出し、事故現場にはいなかった。それに事故後、ドラマ出演者は全員控室待機になったのだ。
 なのにどうして優輝が明日香さんをかばったことになっているわけ?
 私があの場所にいたことを知る人間は多くはない。そして優輝がかばった相手が無名の私ではなく明日香さんだったと報じるほうが話題性は高いだろうけど。
 え、そういう理由で事実を捻じ曲げたということ?
 もしかしてそのニュースって、誰かに都合よくねつ造……いや、やめよう。
 考えたことを慌てて消し去る。
 友広くんの情報だって出どころがわからないし、鵜呑みにはできない。まず自分の目で確かめなくては。
 頭の中はひどく混乱していたが、それを悟られるわけにはいかない。私は単に驚いた表情で返事をした。
「何も知らなかったから、びっくりした。大けがをしたなら、しばらくテレビには出られないんでしょうね」
 友広くんは私から視線を外して、宙を睨む。
「あんな恋する目でポスターを見ていたくせに、まるで興味がないような返事ができる未莉さんって、実はとんでもない演技派だったんですね」
「私、本当に芸能人には興味ないの。住んでいる世界が違いすぎるし」
 わざとらしくならないよう細心の注意を払いながら、友広くんの顔を覗き込む。彼は嫌なものを見るように、私を横目で眺めた。
「違わない」
「え?」
「この男も僕たちと同じ世界に生きている。未莉さんはそれを誰よりよく知っているはずだ」
 ――どういう意味!?
 とっさに返す言葉がみつからなかった。
 心臓がバクバクと鳴り、脳内では危険信号が激しく点滅している。
 もしかして、友広くんは何か気がついている? まさか……。
「うわーーーーー!」
 私が大声を上げると、すぐに腕が自由になった。「どうした?」と課長の心配そうな声が少し離れたところから聞こえてきた。
「黒いアイツが出現しました!」
 課長に聞こえるように声を張り上げる。
「今、スプレーを持ってきます」
 友広くんが私を置いて大股でファイル棚の間をすり抜けていった。入れ違いで課長が顔を覗かせる。
「大丈夫?」
「はい。でも見失いました。それから、ファイルもここにはないみたいです」
「そうか、ありがとう。あとは自分で探すよ」
 課長が軽く手を上げて去った。
 誰もいないことを確かめて、ファイル棚に寄りかかり、ふうっと息をつく。
 まずいことになった。――優輝がいないこんなときに。
 でもここは私の職場。誰かに頼るわけにはいかない。
 私がひとりでがんばらなくては。

web拍手 by FC2
#18 真実という名の不確かな幻想 * 1st:2014/11/20


Copyright(c)2014 Emma Nishidate All Rights Reserved.
Designed by starlit / banner image by NEO HIMEISM , FOOL LOVERS