#17 非常事態発生

 人がせわしなく行き交い、ざわざわとした話し声が絶え間なく空間を満たしていた。
 時折、携帯電話の軽やかな電子音や、ドンという重い荷物の落下音がアクセントになって、これから始まるお芝居への期待を否が応でも高めていく。
「アイツ、昨日は眠れたのかな?」
 私の隣で高木さんがつぶやくように言った。
 それとなく周囲を見渡してから、私も小声で答える。
「たぶん」
「そっか。少し安心した」
 高木さんは照れたように後頭部に手を回し、頭をかいた。
 マネージャーの彼が優輝のことを心配するのは当然だけど、まるで兄のように本気で心配していたのだとわかり、なぜか嬉しくなる私。今まで他人が他人を思いやる場面を見ても嬉しくなることなんか一度もなかったのに、ちょっと不思議な感覚だった。
 西永さんと打ち合わせをしている優輝を遠目に眺める。するとわざとらしく優輝に密着している姫野明日香が目に入ってきた。あれも役作りの一環なのだろうか。それにしてはベタベタしすぎのような気もするが、優輝はまんざらでもない様子で楽しそうに笑っている。
 確かに明日香さんはかわいい。笑顔がキラキラしていて、それを目にしただけで打ちのめされた気分になる。
 やっぱり誰だって24時間仏頂面の女子よりは、笑顔のかわいい女子と一緒にいたいと願うはず。
 ついため息が漏れた。
 それに渋い低音ボイスが重なる。
「これはまたかわいらしいお嬢さんだね。はじめまして」
 いつの間にか私の隣に初老の男性が立っていた。その人の顔を見て、私は驚きのあまり声を上げた。
「笠間(かさま)さん!」
「おお、私の名前を知っているとは嬉しいね」
 知っているも何も、私が幼い頃はドラマに引っ張りだこで、母が大好きだった俳優だ。その本人が私の目の前にいるのだから驚きを通り越し、軽く興奮を覚える。
「母が笠間さんの大ファンでした」
「ほう。『でした』ということは、今は守岡くんあたりに乗り換えたんだろうね。いやいや、いいんだ。でも若い頃は守岡くんに負けていなかったと自負しているがね」
 穏やかな笑顔の笠間さんを見ていられなくてうつむく。
「笠間さん、僕の悪口は僕がいないところで言ってください」
 自分のつま先に落とした視線をおそるおそる上げた。打ち合わせをしていたはずの優輝がゆっくりと私のほうへ近づいてくる。
「守岡くんは地獄耳だな」
 笠間さんが片方の眉だけを器用に持ち上げて笑った。優輝は私を一瞬睨みつけ、それから後ろを振り返る。明日香さんが「優輝さま」と大声で呼んだのだ。
「あら、柴田未莉さんじゃない」
 意外なことに明日香さんが私を見つけ、タタタッと駆けてきた。
「オーディションで隣の席でしたよね」
「はい」
「よく名前を覚えていたな」
 優輝が自分のあごを撫でながら言った。私も明日香さんの記憶力に舌を巻く。
 明日香さんはにっこりと微笑んで、とんでもないセリフをさらりと口にした。
「だって『ミリ』は『無理』って意味でしょ? ぴったりの名前だと思ったから」
 無邪気な笑顔を向けられた私は、口を半開きにしたまま絶句する。ものすごい勢いで足元から頭へ血がのぼってくるけど、この気持ちをひとことで言い表すことはできそうにない。
 凍りついた空気にいち早くナイフを差し入れたのは笠間さんだった。
「どういう意味だろう。私にはさっぱりわからないが、守岡くんはわかる?」
「わかる必要もないでしょう。くだらない」
「えー、優輝さまも未莉さんに『変な顔』って言ったくせにぃ」
 明日香さんは私を指さしながら優輝の腕にしなだれる。迷惑そうな表情をしたものの優輝は彼女を振り払おうとはしなかった。
 なんなんだ、これは。
 胸の中が不愉快な思いでいっぱいになり、今にも爆発しそうだった。何か言い返してやろうと口を開きかけたそのとき、優輝が私の顔を覗き込むようにして言った。
「僕は未莉さんにきちんとあやまりましたよ。ね?」
「え? あ、はい」
 不意打ちをくらい、気勢が削がれた。
 次の瞬間、優輝は蔑むような視線を明日香さんへ向ける。
「姫野さん、君もあやまるべきだと思う。今の君の笑顔は正直、不快でしかない」
「ひっどーい。優輝さまはこんな生意気な顔した女の肩を持つんですね。わかった。私のことバカにしているんだ! 頭悪いと思っているんでしょ? ひどい。ひっどーい!」
 一方的にまくしたて、手で顔を覆うと、明日香さんはスタジオから出ていった。いじめに遭った悲劇のヒロインさながらに走り去る姿を、事情を知らないスタッフがぎょっとした顔で見送る。
 残された私たちはあっけにとられていたけど、優輝のため息で呪縛から解放されたようにようやく互いに顔を見合わせた。
 笠間さんが私の肩にポンと手を置いた。
「結局、明日香くんは君に嫉妬した、ということだね」
「えっ、今のはそういうことなんですか?」
「君はとてもいい目をしている。誰もが思わず目を留めてしまうほどに」
 ――ほ、本当に!?
 私は驚いて目を丸くした。笠間さんのような有名な俳優に褒められて嬉しくないわけがない。
 目尻の皺が年齢を感じさせるものの、整った顔立ちの笠間さんに見つめられると、一瞬胸がドキッとした。年齢を重ねてにじみ出る色気というのもあるのだな、と思う。
 ぼうっとしかけたそのとき、さらに驚くべき事態が発生した。優輝が私のほうに一歩踏み出し、私の肩の上から笠間さんの手をどけたのだ。
「ここは仕事場です。ナンパするなら別の場所でどうぞ」
 ひやひやしながら隣の笠間さんの顔色を確認すると、意外にも彼は穏やかな笑みを浮かべて目を閉じた。
「これは失礼した」
「いえ、あの、私は全然……」
 反対側の隣で高木さんがフッと笑う。
 目の前の優輝は冷たい視線を私に向けた。
「見学は向こうでお願いします」
 そう言ってスタジオの隅を指さす。照明がついていないので薄暗いが、そこは大道具の置き場らしい。スタッフの姿も見えないから、ここよりは撮影の邪魔をせずにすむかもしれない。
「わかりました」
「あ、未莉ちゃんすまない。向こうで電話してくる」
 携帯電話を手にした高木さんが小走りでドアの向こうに消える。いつの間にか笠間さんはセットの前へ移動していて、優輝と私だけが取り残されてしまった。
「本当に危なっかしくて、見ていられない」
 優輝は小声で叱責するように言った。
 別に私が何かしたわけじゃないのに、なぜ怒られなきゃならないのかわからない。
「私はただここに立っていただけです」
「だから言ってるんだ。突っ立っているだけでトラブルを呼び込むなんて、ある意味すごい才能だよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
 唇を突き出してフンとそっぽを向いた。それから早足で薄暗いスタジオの隅へ向かう。
 そっか。優輝が朝から機嫌が悪かったのは、私の見学を快く思っていなかったから、か。なんだかんだ言っても明日香さんとベタベタしたかったってことなのね。男なんてそんなものだ。
 どうせ私は生意気な顔をした女ですよ。かわいげなど欠片も持ち合わせていませんよ。ついでにお邪魔虫ですよーだ!
 惨めな気持ちで勢いよく暗がりに進む。
 そのとき何かが足に引っかかった。
 あっと思った瞬間、ぐらりと頭上で何かが揺れ動き、みしみしと鉄骨が軋む音が私の全身を硬直させた。
「未莉、あぶない! よけろ!」
 ――この声……?
 コードが足に絡みつき、ふわりと体が宙に浮いた。
 まずい。転ぶ。
 とっさに手で受け身を取ったつもりだった。
 何かがタックルするように腰にぶつかってきて、体が予想より遠くへ飛んだ。
 床に激突する直前、目を閉じる。
 まるでコマ送りのように、ひとつひとつの場面がスローモーションに感じられ、プツッと意識が途切れた。
 静寂が私を包む。
 体がひどく重いことに気がついて、目を開く。
 私をかばうように男性が覆いかぶさっていた。彼の下半身は巨大な照明機材に押しつぶされている。
「キャーーー!」
 金属的な悲鳴が自分の頭のてっぺんから発せられていることに気がつき、慌てて手で口を覆うけど、金切り声を止めることができない。
 たくさんの足音が近づいてきて、口々に「うわぁ」とか「大変だ」とか「救急車!」と悲壮感を漂わせたセリフを私たちに投げかけた。
「優輝、大丈夫か?」
 倒れた照明機材の下から引きずり出された男性に西永さんが駆け寄った。私は腰を床に殴打したらしく、立ち上がることがままならない。両手で這うようにして彼らに近づいた。
「未莉ちゃん、けがは?」
「私は大丈夫です。でも、ゆう……、も、守岡さんが」
「足の上に落ちたな。出血はひどくないようだが、骨が折れているかもしれない。でも顔が無傷だったのは不幸中の幸いだな」
 こんなときに顔の心配をしているなんて信じられない。顔だけ無事なら他はどうでもいいのか!?
 とがめるような視線を送ったが、あいにく西永さんは優輝の体を検分するのに忙しく、私の軽蔑のまなざしに気がつくことはなかった。
 それにしても大きい上にかなりの重量がある照明機材の下敷きになったのだ。日々、体を鍛えていても、優輝は生身の人間だ。無傷で済むはずがない。
 私はさらに優輝のそばへとにじり寄る。
「もう少し……」
 まさに蚊の鳴くような声だった。
 優輝の目がうっすらと開く。
「優しく、丁寧に扱ってもらえませんか。あちこち痛いんです」
「おお! 優輝、生きていたか!」
 西永さんが優輝に覆いかぶさるように顔を覗き込んだ。すると優輝がほんの少し眉を寄せる。
「これが死後の世界なら最悪です。いきなり西永さんの顔のドアップなんて、どんな嫌がらせですか。僕にはそういう趣味はないんで。たとえ死んでも、ね」
「ずいぶん元気そうじゃないか」
 ホッとしたような声で西永さんは答えた。私も優輝の声を聞けたことで、全身のこわばりが解ける。よかった。命に別条はなさそうだ。
 優輝は疲れたようにゆっくりと目を閉じた。
「けがは?」
「そうだな、足の骨折は間違いなさそうだ」
「僕じゃなくて、未莉の」
「あ……」
 突然私の名前が出てきたので驚いた。西永さんはハッとして私を見る。
「未莉ちゃんは、立てるかい?」
「はい」
 そう返事をしたからには、実際に立って見せなければならない。「よっ」と両手を床につき、一旦しゃがんでから手を離す。おそるおそる腰を上げ、膝を伸ばした。
 節々が痛むけど、なんとか立ち上がることに成功する。
「大丈夫で……っ」
「おっと、急に立ち上がったらだめだよ」
 西永さんと優輝を見下ろすようにした途端、頭がふらふらし、上体がぐらりと揺れた。前のめりになった私の腕をつかんで支えてくれたのは高木さんだった。
「とにかくふたりとも病院へ」
 周囲のスタッフが口々にもうすぐ救急車が到着すると教えてくれた。
 また救急車のお世話になるなんて、本当に近頃私の周囲はどうなっているんだろう。しかもあの火事の夜、行き場のない私を受け入れてくれた優輝が、今は大けがをしている。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 私がもっと足元に注意していれば、優輝がこんなけがをすることもなかったはずだ。
 私がもっと気をつけていれば――。

 搬送先の病院で検査を終えた私は、処置中の優輝を高木さんとともに待つことになった。
「未莉ちゃんにけががなくて本当によかった。君に何かあったら俺は紗莉さんに顔向けできない」
 広い待合室にはドリンクサービスがあり、私たちは紙コップで緑茶をすすっている。
 つけっぱなしの大型テレビの前に年老いた老婦人が座っていて、部屋の奥のほうには幼児を連れた家族や、まだ寒い季節だというのに露出度の高い派手な服装の若い女性らがそれぞれテーブルを占領していた。
 病院という場所の性質か、大人は一様に沈んだ表情をしている。笑顔を浮かべているのは幼い子どもくらいなものだ。そのせいか、待合室全体にどんよりとした空気が満ち、病院特有のツンとしたにおいと相まって、私の気分も低空飛行気味だった。
 こんなとき無理にでも笑えたら、周囲の人を少しでも明るい気持ちにできるのかもしれない。
 でも笑ったところで優輝のけがが軽くなるわけではないのだ、と思い直す。
「……すみません。私のせいです」
 私をかばったから、優輝は負傷したのだ。全治どれくらいなんだろう。今、撮影中のドラマはどうなるのだろう。その次の映画の撮影は――?
 のど元にせり上がってくる後悔や不安を、無理矢理嚥下する。
「もし未莉ちゃんがけがをしていたら、アイツはきっと自分を許さないと思う。だから未莉ちゃんが責任を感じる必要はないよ」
「そういうわけには……」
「ま、案外なんとかなるもんだ」
「え?」
 力強い高木さんの言葉に私は目を瞠る。
「未莉ちゃんは責任感の強い、優しい女の子だから、アイツの仕事はどうなるのか、なんて心配をしているんだろう。違う?」
「責任感も強くないし、冷たい人間ですが、心配は……しています」
 私は正直に答えた。
 高木さんが小さく頷いてくれる。
「でも人生には、なるようにしかならないこともある。まず、けがを治さないことには仕事もできない。それに今の仕事がどうなるかは、俺たちが決めることじゃない」
「そう……ですね。なるようにしかなりませんね」
 とはいえ、到底明るい気分にはなれそうにない。両手で包み込むように空の紙コップを持つ。ため息をつきながら、紙コップの底に残った数滴の緑茶をくるくると回してみた。
 会話がとぎれ、沈黙が続く。息苦しさを紛らわすために、緑茶をおかわりしてみる。
 ただ待つというのは苦痛だ。でもこんなの、優輝のけがに比べれば全然大したことはない――そう思うと胸がズキズキと痛んだ。
 隣で高木さんがぐいと緑茶を飲み干し、咳ばらいをした。
「ちょっと、未莉ちゃんに訊いておきたいことがあるんだ」
 ずいぶんあらたまった口調だったので、私は背筋を伸ばして座り直した。
「なんでしょうか?」
「今日の事故の前に、何か気づいたことはなかった?」
 私の表情を見逃すまいとする厳しい目つきに、少し戸惑う。
 高木さんは、この事故が優輝への脅迫と関係があるかもしれない、と疑っているのだろう。
 でも私がコードに足を引っかけなければ、照明機材が倒れてくることはなかったと思う。誰かが意図的に機材を倒したのなら、事前に大道具置き場に潜み、タイミングをはかっていたことになるけど、人の気配は感じなかったし、それ以前に優輝自身があの場所に足を向ける可能性がかなり低い。
 優輝を狙うならもっと効率的な場所と方法があるはず――。
「特にこれといったことは何も……」
「そっか」
 高木さんは私の返答に落胆したのか肩を落とした。
「すみません。転ぶと思った瞬間、頭が真っ白になって、よく覚えていないんです」
「いや、俺の思い過ごしだったな」
 いつもどおりの爽やかな笑顔を浮かべる高木さんを見ながら、私は転ぶ瞬間のことを脳内で再生する。よく覚えていないというのは本当だけど、何かが頭の隅で引っかかっていた。
 ――前にも同じようなことがあった。
 だけどあれは夢の中のできごとだったかもしれない。そんなふうにも思えるあやふやな記憶で、思い出そうとすればするほど肝心な部分がぼやけていく。今となっては現実に起きたできごとかどうかを確かめる術などないのだ。
 それでも私は、妙な確信を持っていた。
 高校時代、信号待ちをしていたら、背後から突然バックしてきた車にぶつかって転んだ。
 そのとき助け起こしてくれた違う高校の男子生徒。眼鏡をかけていたけど、やけに整った顔立ちで、モデルみたいにスタイルがよくて、話す声が耳に心地よくて。
 たぶん、間違いない。あれは優輝だった――。

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#17 非常事態発生 * 1st:2014/10/23


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