#16 眠れない夜は君のせい

 通常より早めの夕食そして片付けまでを終えた私は、そわそわしながらふたり分のお茶をローテーブルに運ぶ。優輝は風呂の準備をしている。手持ちぶさたになり、落ち着かない気分のまま、とりあえずソファに腰をおろした。
 まだ熱いお茶を一口すすったところで、優輝がリビングルームに戻ってきた。彼は私の姿を一瞥するなり、ソファの脇にあるロッキングチェアに座る。
「高木さんが俺のマネージャーをしているのは暇つぶしのためなんだ」
 優輝の第一声がそれだった。私は鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんとする。
 暇つぶし――いったいどういうこと?
 口を半開きにして呆けた顔をしている私を満足そうに見やると、優輝は茶碗に手を伸ばし、それから話を続ける。
「高木さんの実家は都内にいくつもの不動産を所有し、一生金に困ることはない家なんだ。だけどああ見えて高木さんは案外真面目な性格で、一族が経営する事務所を手伝っていた」
 案外とは高木さんには失礼じゃないか、と思いつつ「事務所というのはもしかして」と口を挟む。
「そう、成田プロ。そこで高木さんは紗莉さんに出会った」
「あれ? でも姉は成田プロに所属していたことはないはず」
 何しろ姉が独立して現在のグリーンティを立ち上げるまでは、いわゆる芸能大手の成田プロではなく、モデルを多く抱えた事務所にいたのだ。私も一緒だから間違いない。
 優輝は私から目をそらし、小さくため息をついた。
「当時紗莉さんは……成田プロの人間と親しくしていた」
「親しく?」
「俺の口から言いたくはないが、とある人物の愛人だった、ということだ」
 あ、愛人――!?
 優輝の口ぶりからすると、その「とある人物」って社長とか重役なのでは。
「そう……なんだ」
「紗莉さんの名誉のために言っておくけど、そのときの紗莉さんは幸せそうだったよ」
 へ、へぇ。それはよかったね。でもなんだか胸がむかむかする。あまり想像したくないというか。
 ここはさらっと流そう。
「で、いつの間にか心変わりして、高木さんと付き合うようになったんだね。確かに高木さんはなかなかの男前だもの」
 茶化すように言ってみた。
 でも優輝は険しい表情をし、迷うように視線をさまよわせ、それから私を見た。
「俺がこの世界で仕事をするようになったのは、紗莉さんのおかげなんだ」
「……へ?」
 我ながらなんともまぬけな声が出た。でも仕方ない。話が飛躍しすぎだし、それは初耳だった。
「人生について悩んでいたときに、たまたま紗莉さんと知り合った。はじめて会ったその日に紗莉さんから俳優をやってみないか、と誘われた。他にこれといってしたいこともなかったから、とりあえずOKしたんだ」
「へぇ」
「紗莉さんは当初俺をグリーンティで育てるつもりでいたらしい。だけどそれはちょうどグリーンティが資金繰りで苦戦している時期で、苦肉の策で彼女は俺を成田プロに売ったんだ」
「ええー!?」
「誤解するな。別に恨んでいるわけじゃないから。前にも言っただろう、紗莉さんは俺の恩人だ、と」
「それは覚えているけど」
 でもやっぱり人間を売るとか買うとか、実際あってはならないことだ。それが自分の姉のしたことだと思うと、なんだか胸がむかむかしてくる。
 優輝はお茶をひと口飲んで、話を続けた。
「そこでたまたま事情を知った高木さんが俺のマネージャーを買って出た。高木さんはおそらく以前から紗莉さんに好意を抱いていたんだろうな。でも紗莉さんは年上の女性で、ましてや一族の人間の愛人だ。迂闊に手を出すわけにもいかない。俺の存在は高木さんにとって渡りに船だったわけだ」
「なるほど」
「結局、紗莉さんと高木さんがいたから、俺の今がある」
「は、はぁ……」
 言葉が見つからない私は、ただ感心したように相槌を打った。
 最後はものすごく強引なまとめだったけど、あっという間に3人の関係を理解できてしまったから、優輝の説明は簡潔で的確だったと言えるのかもしれない。
 だけどなぜ唐突にそんな話をするのだろう。
「あの、どうして急に姉の話をする気になったの?」
「物事には順序があるだろ?」
「それはそうだけど……」
「ついでに、これだけは未莉に知っていてほしい」
 何を?
 眉根をぎゅっと寄せて優輝を見る。
「俺への脅迫は、そのターゲットが俺自身なのか、それとも紗莉さんか高木さんなのかわからない、ということ。今は静かだけど、この先も脅迫が絶対にないとは言い切れない状況で、もしかすると未莉を何らかの形で巻き込んでしまうかもしれない」
「そんなの、気にしません」
 条件反射的に即答した自分に、私自身が驚いた。考える前にそんなこと言っちゃって大丈夫なの、私!?
 ロッキングチェアがギシッと鳴った。優輝がソファに移動してきたのだ。膝の上に肘をのせ、背中を丸めている。
「もし」
 そう言った声はつぶやくように弱々しくて、私は思わず「え?」と聞き返した。
 優輝はうつむいている。私の視線を避けるように、長めの前髪が彼の横顔を隠した。
「火事が起きなくても、もう少ししたら未莉はここに来ることになっていたんだ」
「……は? なんで?」
 私は優輝の横顔を覗き込もうとして首を伸ばした。すると急に彼がこちらを向いた。顔が近い。瞬時に頬が熱くなる。
「未莉が住んでいたマンションは1年以内に取り壊す予定だった。再開発計画であの辺一帯は高木地所が買い上げたから」
「高木地所というのが高木さんの実家ですか」
「そう。だからオーディションの審査を引き受けたんだ。未莉に会えると聞いたから」
 オーディション、と聞いて私は「あっ」と声を上げた。
「招待状! あれは優輝じゃないんですか?」
「招待状?」
 怪訝な表情を浮かべたのは一瞬で、みるみるうちに優輝の頬が蒼ざめていく。
「俺は……知らない」
 どうしたのだろう。招待状の存在を知らなかったからといって、そこまでショックを受けることもないだろうに。
 だけど優輝は握った拳を口に当て、険しい顔つきで考えごとをしている。
「あの……」
 邪魔しないほうがいいのかもしれない。
 しかし、こんなときだけど――風呂の湯が冷めてしまう!
 私は一旦気になり始めると、いても立ってもいられない性格なので、黙って座っているのがつらい。
 なんて言い出そうか悩んでいると、優輝が何かを吹っ切るように大きく息をついて私に笑顔を見せた。
「嫌ならやめてもいい」
「何を?」
 突然、なんなの?
 驚く私を、優輝は目を細めて見つめる。
「俺が出ていくよ」
「は?」
「必要なものは置いていくし、新しくしたければ買ってあげる」
「……どうしたの、急に」
 だいたい「買ってあげる」なんて『僕』の優輝ならまだしも、『俺』の優輝が言うと違和感がある。
 ――ていうか、今の優輝は、どっち?
「もう限界なんだ」
 のどの奥から絞り出すようにそう口にする優輝はひどく苦しそうだった。
「何が?」
「眠れない夜が続くのは」
 私は鋭く息を吸い込んで、優輝を凝視した。呼吸だけでなく、思考も止まる。
 さすがに酸欠になる手前で息を吐くことを思い出した。すると同時にわけのわからない感情も怒涛の勢いで押し寄せてきた。
 ――それは私のせいなの?
 ――嫌ならやめてもいい、って恋人のこと?
 ――眠れない夜が続くのは、私がここにいるから?
 ――出ていく、って私を置いていく気?
 そう思った途端、頭の中が真っ白になった。
「ごめんなさい」
 とっさにそれしか思い浮かばなかった。私のせいで優輝が苦しんでいるなら、あやまるしかない。
 優輝はソファに背中を預け、腕を組んだ。
「それはどういう意味の謝罪なんだろう」
「どうもこうも、優輝が眠れないのは私のせいなんでしょ? だったら……」
「だったら、未莉は俺に何をしてくれる?」
「え?」
 なんだか急に声の調子が変わった気がするのは、私の思い過ごしだろうか。
「眠れるようにしてくれるんじゃないのか」
 話の論点がものすごい勢いですり替えられている気がするのは、私の思い過ごしだろうか。いやいや、だまされてはいけない。このままでは絶対、変な方向に誘導されてしまう。
「あの、そういう言い方って……!」
 反撃しようと意気込んだ私の横で、優輝は急に大きく伸びをした。
「風呂の湯が冷める」
「あ、はい。お先にどうぞ」
 覚えていたんだ。あー助かった。
 しかし変なことを言い出したかと思えば、勝手に話題を切り上げるし、本当にわけがわからない。
 あのまま優輝が出ていくと言い張ったらどうなっていたのだろう。思いつきっぽい唐突な言い方だったけど、冗談にしては笑えないくらい真剣な表情だった。そこまで優輝を追い詰めるようなことを、無意識でやらかしてしまったのだろうか。
 リビングルームを出ていこうとする優輝を、私は慌てて引き留めた。
「あの」
 優輝は立ち止まり、首だけまわしてこちらを見た。探るような視線を投げつけられ、肌がぞくりと粟立つ。
「私は……嫌じゃない、かも」
「何が?」
 うっ、やっぱり突っ込まれるよね。とりあえず「それは、その……」なんて口をもごもごさせていたら――。
「……とは訊かないでおく」
 優輝は最後に怖いほど艶やかな笑みを浮かべ、バスルームへと消えた。

 翌日私は有休を取り、高木さんの車でとあるスタジオへ向かった。隣には珍しくヘッドホンをつけた優輝がいる。漏れ聞こえる音から察するにロックが再生されているようだ。
「しかし未莉ちゃん、西永さんに本気で好かれちゃったみたいだね」
 運転席の高木さんが苦笑交じりに言った。同意できかねる私は窓の外へ視線を放った。
「本気、なんですかねぇ」
「だってそうじゃなかったら、昨日の今日でいきなり『ドラマ撮影現場を見学に来ないか』なんて誘わないよ」
 それはそうかもしれない。朝、姉から電話が来て、西永さんがかなり強引な調子で私をドラマ撮影現場に連れてこいと言ってきたから高木さんの車に同乗しろ、と指示があったのだ。仕事で同行できない姉の代わりに、高木さんが私のマネージャー役も兼任してくれるらしい。
 しかし私は昨日も午後半休をもらい、今日も有休を使っている。
「この調子で会社を休むと、契約社員の更新は難しいかもしれないです」
「そっか。ま、会社はやめてもいいんじゃない?」
 高木さんはさらりと言った。
「えー、困ります。次の仕事を探すのも大変なんですよ」
「別に無理して就職しなくても、今の未莉ちゃんは生活に困っていないでしょう」
 うん。まぁ、確かに。
 でもそれって姉のマンションに優輝と一緒に住んでいるから、なんだよね。むしろこの生活はいつ終わってもおかしくないのだから、またひとりになる日のために仕事はなんとか維持したい。
「いつまでも姉と優輝に甘えているわけにもいきません」
 短い期間にいろいろあったけど、私だって頭の片隅ではいつもこの先のことを考えているんです。
「本当に未莉ちゃんはけなげだね」
 高木さんはうんうんと頷きながらそう言った。
 すると突然、隣から声がした。
「うるさいな」
「あ、ごめんなさい」
 私はとっさにあやまった。
 優輝の周りだけ空気がぴりぴりしているように感じるのは、撮影前だからかもしれない。役に入り込むための貴重な時間を邪魔したのなら申し訳ない、と私は肩をすぼめた。
「その話は昨日もしたはず」
 ヘッドホンをつけたまま、優輝は迷惑そうに言った。
「まだ未莉がおかしなことを考えているなら、それはけなげとは言わない。強情なだけだ」
「おかしなことって何?」
 ムッとして言い返すと、隣から冷たい視線が飛んできた。
「あのマンションを出てひとり暮らしをする」
「それのどこがおかしなことなの? 当たり前のことでしょう。今の状態のほうがよっぽどおかしなことになっているじゃない」
「僕が言ったこと、何も理解していないね。わかってくれたと思ったのに残念だよ」
 優輝は音楽を止め、ヘッドホンをはずし、わざわざ私のほうへ向き直る。ドキッとしたけど、それは気取られないよう口を固く結んだ。
「そんなに僕と一緒にいたくないとは、さすがに傷つくね」
「ちょ、ちょっと待って。そういう言い方、ずる……」
「ははははは!」
 車内に笑い声が弾けた。高木さんがこらえきれないように笑い出したのだ。
「ふたりとも朝から熱いなぁ。ごちそうさま」
「ち、違います!」
 慌てて否定したけど、高木さんは取り合ってくれず、まだ笑っている。
 優輝は正面を向き、ヘッドホンを耳にあてがった。どうやら本格的にへそを曲げてしまったらしい。
 なぜこんな展開になったのか、あれこれ考えてみるけど、結局よくわからない。中でも一番わからないのは、優輝が私と同居することをすんなり了承した理由――これにつきる。
 直接訊けばいいのかもしれない。でもきっと優輝ははぐらかすに決まっている。
 私の気持ちを知りたがるくせに、自分の気持ちはほんの少しも見せようとしないなんてずるいよ。そのくせふたりでいるときは恋人だなんて、むちゃくちゃだ。
 ――もし。
 私がもう少しだけ素直になれたら、優輝も私の疑問に答えてくれるだろうか。
 ――そんなわけないよね。
 だったら素直になる必要はない。
 単なる意地の張り合いだと言われたら否定できないけど、優輝とは最初からずっとこんな感じできてしまったし、もはやこれが互いに無理のない自然体のように思えた。
 だったらこのままでいいのかもしれない。
 いつかこのままでいられなくなるその日までは――。

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#16 眠れない夜は君のせい * 1st:2014/10/16


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