目を開けて無意識に時計へと手を伸ばす。遮光カーテンのおかげで部屋の中は真夜中のように暗い。おまけに今は冬で、夜明けはまだ少し後だ。
私はぼんやりする頭でわずかでも眠ったのだろうかと考える。寝たという感覚はまったくないけど、明け方の数時間は意識がなかった模様。ということは、多少なりとも睡眠時間を確保できたと喜ぶべきか。
しかしどうせならぐっすり眠りたかったと思いながら頭を起こした。
「んぐっ……」
意志に反して頭がぼふっと枕に戻る。横から優輝が私の腕を引っ張ったのだ。
「なにするんですか!」
「まだ寝てろ」
優輝はうっすらとまぶたを開け、眠そうな声を出す。
「だめです。優輝はオフかもしれないけど、私は仕事があるからもう起きなくては……」
「なぁ」
突然、ふとんがバサッと動いて、私の上に優輝が覆いかぶさった。腕が優輝の手で押さえつけられていて、身動きが取れない。
「ちょっ……、なにをっ!」
昨日と同じ左の耳元に優輝が顔を埋めた。吐息が耳にかかってくすぐったい。比較的自由な足で身をよじろうと格闘したが、優輝の両足に阻まれて徒労に終わる。
次の瞬間、耳のふちを優輝の唇が食んだ。途端に電流のような刺激が全身を駆け抜ける。
「んっ……!」
彼の吐息を感じた部分から肌が熱をもち、とめどなく身を貫くしびれを黙ってやり過ごすことができない。知らないうちにくぐもった声が漏れた。
だが優輝はやめるどころか、唇を這わせた箇所をじれったいくらい丁寧に舌で舐め上げ始めた。
こそばゆいだけならまだしも、肌が粟立つような感覚の向こうに甘美な調べが見え隠れして、ついその甘く響くものの正体を知りたくなってしまう。
未知の感覚への恐怖、しかもそれに抗えない恐怖、そしてなによりそれを渇望してしまいそうな私自身への恐怖――。
「ゆう……き、私……」
「ん?」
優輝が顔を上げ、鼻がくっつきそうな位置から私の目を覗き込んだ。
「ちょっと怖くて……」
「なにが?」
目を細めてそう言った優輝の表情に、思わず釘づけになった。
急に胸の奥が苦しくなり、涙があふれてくる。
すると目の前のとろけそうなほど優しい顔が、わずかに曇った。
「俺が怖い?」
私は少し考えてから首を横にふる。優輝の表情がふわりと晴れ、陽だまりのように明るく輝いた。
「泣くことないだろ」
彼の言うとおりだと思った。どうして涙が出るのか自分でもよくわからない。
優輝が私の頭を撫で、それからこぼれた涙をそっと拭った。その指が今度は頬を撫でる。
次第にこわばっていた身体の力が抜けていく。ホッとして深呼吸をすると、優輝が私の鼻先でクスッと笑った。
「これくらいのことで泣いていたら、女優なんか務まらないぞ」
「カメラの前でこんなこと、いつもするわけじゃないし。それとも優輝は私にそっちの女優になれと言いたいのですか?」
そっちというのはつまり男性が隠れて見るような映像のことを指して言ったのだけど、優輝は即座に嘲るような表情で私を見下ろした。
「何も知らないくせに」
「なんですと!? ていうか、いきなり変なことしないでください」
私も調子が戻ってきたので勢いよく言い返した。
ふとんをはねのけながら上半身を起こした優輝は、嫌味なほど艶やかな笑みを浮かべる。
「嫌じゃなかったくせに」
くぅ。それは確かに。しかもバレているというのがなんとも悔しい。
「な、なんでこんなことするんですか」
「だから未莉はお子さまなんだよ。そんな野暮なこと、口にするヤツいない」
野暮? どういうこと?
舐められた耳たぶを隠すようにしながら考え込んでいる私に、優輝はもう一度顔を近づけた。
「俺は誰にでも優しいわけじゃない」
「え?」
「それに、誰にでもこんなことすると思うか?」
「は? 知りませんよ、優輝のことなんか」
急に優輝の顔が遠ざかった。彼は面倒くさそうな動作でベッドからおりると、私に鋭い視線を突きつけた。
「遅刻するぞ」
「う、ひゃー!」
私は飛び起き、出勤の準備を始めた。
朝食らしきものを作り、急いで食べてマンションを出た。その間、優輝はシャワーを浴びていたので、ついでに作っておいた彼のぶんを平らげたかどうかはわからない。
わからないことは他にもある。
会社に着いて、まず自分のデスクに座った。向かい側から「おはようございます」という声がした。友広くんだ。
「おはようございます」
「今日は寝坊でもしたんですか?」
友広くんが微笑みながら首を傾げる。
「え?」
「襟、直したほうがいいですよ」
慌てて襟に手をやると、シャツの襟が乱れていた。
「あ、本当だ。ありがとう」
「ちょっと待って」
そう言った友広くんは、立ち上がったかと思うとすばやく私の後ろに回り込んだ。そして頼んでもいないのに、私の後ろ髪を持ち上げ、襟を直してくれる。
「未莉さんって、うなじがとてもきれいですね」
彼の手が後ろから前に回ると同時に、耳元でそう囁かれた。それが優輝に触れられた左側だったので、思わず私は手で耳を覆う。
「ありがとう。もう、大丈夫」
「耳、苦手ですか」
座ったままで友広くんを仰ぎ見ると、彼は少しも悪びれたところのない爽やかな笑顔を向けてきた。
「得意な人っていないと思うけど」
「そうかな。そんな反応されたのはじめてだったので」
彼は女性にいつもこんなことをしているのだろうか。
自慢されたのかバカにされたのかよくわからないけど、優輝にもお子さま扱いされたばかりだったし、私は苛立っていた。
「ごめんなさい。私は慣れていないので、そういうことは他の人にしてもらえる?」
すると友広くんは口の端を器用にきゅっと持ち上げた。
「へぇ、慣れていないんだ」
「それにそういうことをする意味がわからないもの」
「意味?」
少しだけ眉に皺を寄せたかと思うと、友広くんは私のデスクの端に両手をつき、上体を折ると、私にだけ聞こえる声で言った。
「本気で言っているんですか。知らないなら教えてあげますよ。僕でよければいつでも」
「いや、あの、いいの。教えてほしいとかじゃないので」
「ふーん。あの人に教えてもらうんだ?」
――あの人!?
やっぱり覚えていたんだ、と背筋に氷が滑り込んだような戦慄が走り、友広くんの目を確かめないではいられなかった。
「なんのことだか……」
「とぼけなくてもいい。僕以外に未莉さんを落とせる男がいるとは思わなかったので、のんびりしすぎたことを後悔していたんだ。でもよかった。まだ僕にも見込みがある」
「な、なにを言い出すのよ」
彼の瞳が妖しく光るのを、目をそらすこともできず、ただ黙って見入ることになった私は、今朝の優輝の主張が正しかったのだと痛いほど実感していた。
しかしさすがにここはオフィスだし、友広くんもタイムリミットを悟ったらしい。私に挑むような視線を投げつけると、すぐに身を起こし、何事もなかったかのように自分の席へ戻った。
どうしてこんなことになったのか。頭の中からクエスチョンマークが消えないまま、1日の業務をこなすはめになった私は、時折かばうように左耳を触ってしまうのだった。
しばらく忙しいと聞いていた柚鈴からメールがあり、仕事が終わるとその足で事務所へ向かった。
事務所のドアを開けて、目に飛び込んできた光景に私は思わず息を呑んだ。
「お疲れさまー!」
「お疲れ―」
柚鈴に続いて声をかけてきたのは、今朝私が「いってきます」も言わずに飛び出してきた家の主だった。彼の周りを事務所のモデルたちが取り囲んでいて、ヤツもまんざらではない表情をしている。
「なんで、ゆう……守岡優輝がここにいるの!?」
「久しぶりに島村さんとご飯食べに行こうと思ってね。彼女が『親友も呼ぶ』というから待っていたんだ。そうか、君が島村さんの親友なんだね。この前のオーディションでは失礼なことを言ってしまって……」
「その謝罪はもうけっこうです」
優輝が一瞬だけ意地悪な笑みを浮かべた。他人行儀な愛想笑いより、その意地悪な笑みを見慣れてしまった自分に愕然としながら柚鈴を見る。
「じゃ、行こうか」
薄手の上着を羽織り、おしゃれな中折れ帽をかぶった柚鈴が、私の横へ来て腕を絡ませた。優輝が立ち上がるとモデルたちが口々に残念そうな声を出す。
「また遊びに来るよ」
その軽い口調と嫌みのない笑顔で何人の女性を落としてきたことか。女の子に囲まれてへらへらしている優輝は見るに堪えなかった。顔をそむけて柚鈴とともに事務所を出る。
ドアが閉まる音の後、優輝が大股で私たちに追いついた。
「怒っている?」
「は? 私が? どうして?」
私の顔を覗き込む優輝を、柚鈴が「へぇ」と意味ありげな目つきで見やった。
「そっか。明日香はカモフラージュだったんだ」
「カモフラ……?」
「『未莉を呼べ』ってずいぶん唐突だなと思ったけど、私が何も知らなかっただけか」
「な、何を言っているの」
柚鈴は私の背中をバンと叩いた。
「じゃ、これからゆっくり聞かせてもらいますか。おふたりののろけ話」
「違う!」
「ふーん、仲いいんだね。未莉と柚鈴」
隣からしみじみとした声が聞こえてきた。なぜこの男はそんなのんきなことを言っていられるんだろう。私は優輝を見上げて、思い切り睨みつけた。
しかし拍子抜けするほど優しい笑顔を向けられる。
その直後、優輝は急に立ち止まった。
「ふたりで先に行って」
「了解」
柚鈴に腕を強く引っ張られたけど、なんだか気になって私は肩越しに優輝を振り返る。
薄暗い通路に佇む優輝は、笑みを消し、愁いを帯びた眼差しを私に向けていた。
タクシーは繁華街の小路に入り、少し進んだところで止まった。
柚鈴は帽子のつばを下げ、店の入口へ向かう。
自然食レストランと書かれた看板の脇を通りすぎ、店内へ進むと個室へ案内された。どうやら柚鈴がこの店に予約を入れたらしい。食事に気を遣う柚鈴らしい店のチョイスだ。
優輝が来るまでの間、住んでいた古いマンションが火事で焼けたこと、それから姉のマンションへ行ったらなぜかそこは優輝の住居になっていたことを、かいつまんで説明した。
大げさなほど私に同情した様子で相槌を打っていた柚鈴は、突然目を輝かせて言った。
「それにしても、この短期間でそんなおもしろいことになっているとは!」
「私は全然おもしろくないし」
「さすが島村さんだね」
絶妙なタイミングで到着した優輝が会話に割り込んできて、私たちの向かい側に座る。注文を済ませると、私と柚鈴を見比べて、クスッと笑った。
「何がおかしいの?」
「いや、未莉にいい友達がいてよかったな、と思ってさ」
「うわー! ちょっと今、鳥肌たったよ! もう、そういうの、私のいないところでしなさいよ」
柚鈴は私の腕をバシバシ叩きながら、ひとりで照れている。
断じて私は悪くない。そう心の中で繰り返し、優輝を睨みつけた。
そこで注文した料理が運ばれてきたので、一旦会話が止まる。しばらくして、柚鈴が不思議そうな顔で言った。
「それで、どうして守岡くんがうちの社長のマンションに住んでいるの?」
優輝は動じる様子もなく、あっさりと返事をする。
「ま、いろいろあってね」
「いろいろ?」
その『いろいろ』がなんなのか知りたいと思っているけれども、優輝がこういう言い方をするときは端から説明する気がないのだ。いくら聞いても無駄だよ、と思いながら柚鈴を見る。
だけど柚鈴が思いつめた表情をしていたので、私はハッとした。
「もしかして、あのうわさ、本当だったの?」
「うわさ?」
柚鈴が私を横目で見る。
「守岡くんが何者かに脅迫されていた、と聞いたことある」
「脅迫!?」
穏やかではない言葉が飛び出したので私は驚いた。
向かい側で優輝がため息とともに箸をおき、コップを手にする。水を飲み干すと視線を落とし、観念したように静かに口を開いた。
「以前僕が住んでいたマンションに脅迫状が届いた。僕を追い出さないならこのマンションを爆破すると書いてあり、それが全戸に配られていた。他の住人に迷惑はかけられないし、犯人の目をくらます必要もあったから、急いで引っ越さなくてはならなかったんだ。そこに手を差し伸べてくれたのが紗莉さんだった、というわけ」
「ふーん。じゃあ犯人が成田プロの関係者かもしれない、というのも本当?」
成田プロというのは優輝の所属している大手プロダクションのことだ。ということは、優輝は同じ事務所内の人間から脅迫されていた――?
「わからない。脅迫状自体は何通ももらっていて、その内容が関係者でなければ知りえないことも含んでいたから、可能性は高いけど、断言はできないね」
「警察には届け出ていないの?」
「社長から『待て』と言われた」
そこで優輝は「まるで犬みたいな扱いだな」と自らを嘲笑った。
「でもそれ犯罪でしょう」
私は自分の声の大きさに驚いた。だけどどうしても言わずにはいられなかったのだ。
「そんなの許したらダメでしょう」
「僕だって許す気はない」
私に負けじと声を張り上げた優輝は、続けてきっぱりと宣言する。
「絶対許さない。犯人は必ず僕がつかまえる」
「あの……盛り上がっているところ、悪いんだけど……」
柚鈴が苦笑いを浮かべて口を挟んだ。
「匿名の脅迫状をもらうような危険な男の部屋に、未莉がいても大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫。引っ越してからは脅迫状が来なくなった」
「そうなんだ。なんでだろう? もう満足したのかな」
私は発芽玄米のご飯を噛みしめながら、柚鈴の言葉に首を傾げた。他人を脅迫する犯人の気持ちなどわかるはずもないが、そこまで大がかりな脅迫をしておいて、あっさりと満足するものだろうか。
優輝が私を見ながら言った。
「いや、狙いを変えただけかもしれない」
――狙い?
「僕に恨みがあり、困らせて陥れたいヤツだ。僕の弱みを見つけたら、当然それを狙うだろうね」
「えー、守岡くんに弱みなんかあるの? 隙なんかどこにもなさそうだけど」
柚鈴がからかうように言った。それには私も激しく同意する。
向かい側で優輝がフッと笑った。急に肘をつき、自らの拳の上に形のよいあごをのせる。
「僕にだって大事なものはある。それがあまりにもきらきらしていて、かわいくて、けなげだから、世界中の人間に見せびらかしたいと思う反面、ずっと誰の目にも触れないところに置いておきたい気もする」
一瞬、私も柚鈴も何も言えなくなった。私にいたっては皿に箸を伸ばしたまま、優輝の陶然とした表情から目を離せなくなっていた。
先にほうっと息を吐いたのは柚鈴だった。
「そりゃ、すごい弱みだ。どんなものか、ちょっと見てみたくなるね」
優輝は頬杖をついたまま、儚げな笑みを浮かべ、ゆっくりと瞬きを繰り返していた。
食事を終えると、優輝は高木さんに車で迎えに来てくれるよう電話で頼んだ。
どうやら優輝は近頃スクープ記事を売りにするライターに追われているらしい。それで厳戒モードで外出せざるをえないのだとか。
明日香との熱愛報道も、たまたま一緒にいるところを写真に撮られただけで事実無根だ、と優輝はつまらなさそうに説明した。
プライベートすら見張られているなんて、想像するだけでもうっとうしいのに、優輝は感情の波を荒げるわけでもなく、まるで他人事のような口調で語る。それがなぜだか私の心に引っかかり、さっき聞いた脅迫状のことを考えずにはいられなかった。
「でもさ」と唐突に柚鈴が言った。
「姫野明日香が持ち上げられている現状には、ホント納得いかないよ。別に演技がうまいわけでもないし、顔だってそんなにかわいいわけじゃないし」
持ち前の歯に衣を着せぬトークを展開し始めた柚鈴にハラハラする。周囲で聞き耳を立てている人もいるかもしれないのに――。
「守岡くんは知らないだろうけど、昔、未莉が表紙を飾った雑誌はめちゃくちゃ売れて、問い合わせ殺到! すごかったんだよ、この子」
「えっ、いや、それかなり昔の話で、今はもう誰も覚えていないし……」
焦った。ここでいきなり私の話題になるとは思っていなかったのだ。おいそれと引っ越しもできないような貧乏人と露呈している私が、優輝の前で過去の自慢など恥さらしなだけ。肩をすぼめて小さくなるしかない。
「あんなことさえなければ、今ごろ未莉はきっと私なんかよりずっと活躍して……」
柚鈴の声が震えたから、私も顔を上げずにはいられなかった。そんなことはない、と言おうとしたけど、何かが胸につっかえて言葉が出てこない。
急に湿っぽい空気になったのがいたたまれなくて、無意識に向かいの席を見る。
「へぇ。見てみたかったな。……未莉の笑った顔」
なぜか優輝は少し寂しそうに笑って、どこか遠くへ視線を放ったまま、決して私を見ようとはしなかった。