#07 悪い冗談だとしても

 火事で焼け出された私が、優輝の部屋で過ごすようになってちょうど1週間。
 高級マンションでのひとり暮らしにも慣れ、本音を言えば、この快適な生活から抜け出すのが惜しいと思い始めていた。だから優輝の帰りが1日でも遅ければいい、とひそかに祈る私。優輝は2週間くらいかかるかもと言っていたし、まだ数日は猶予があるに違いない。
 会社から帰宅し、夕食を終えた私は、バスルームで湯に浸かりながらそんなことを考えていた。
 ロケに出かける直前、優輝が不機嫌だったのは、1週間の収録が予定通りに終わりそうもないのを見越してのことだ。普段の撮影も真夜中過ぎまでかかり、優輝は疲労と不満を溜め込んでいたのだろう。そんな優輝には悪いが、もう少しがんばって撮影されてきてください、と心の中でエールを送った。
 ほかほかになった私はバスルームを出て「あっ」と声を上げた。着替えを持ってくるのを忘れてしまった。
「ま、いっか」
 ひとり暮らしは他人の目がないので、気を遣わずのびのびできるのがいい。バスタオルを体に巻きつけて寝室へ向かう。廊下に出た私は、予期せぬガタンという物音に肩を震わせ、そこにあるはずのない人影を認めて息を呑んだ。
「ど、どうして!?」
 玄関に無表情の優輝が立っている。私をじっと見つめていたかと思うと、靴を脱いで近づいてきた。
「あの……!」
 後退りする私を壁際へ追い詰めた優輝は、私の頭を挟むようにして両腕をついた。耳のそばに優輝の顔が接近する。
「未莉、わかっていてやっているんだろうな」
「何を?」
「男の部屋でそんな格好していると、どうなるかってこと」
 私はバスタオルの合わせ目をぎゅっと握りしめた。うつむいて耳にかかる優輝の吐息をよける。
「……知りません」
「じゃあ教えてやろうか」
「け、けっこうです」
「遠慮するなよ」
 耳のふちに生暖かいものが触れる。ぞくりと身体が震えるのと同時に、触れているのが優輝の唇だと気がつく。
「……っ!」
 濡れた髪を優輝の長い指がそっと払い、彼の唇が首筋へと降りてくる。
「ちょっ、だめ……」
 優輝の肩をつかんで押し返したいところだけど、バスタオルから手を放すほうが危険なので、なんとか逃れようと懸命に身を捩った。でも抵抗すればするほど、優輝の腕の中に閉じ込められてしまう。
 しかも、首筋を這う唇は強引なくせに私を壊れもののように扱うから、くすぐったいようなそのかすかな刺激を本気で嫌とは思えない。
「ゆう……き、こんなの……困る」
「……だろうな」
 そう言うと優輝は私の肩の上にあごをのせた。私はホッとして全身の緊張を解く。
「わかっているなら、こんなことしないで」
「わかっていないのは未莉のほうだろ」
「でも優輝は私が困るようなことしないって言ったし」
「だからわかっていない。未莉は男のこと、何もわかっていない」
 わかっていない、と繰り返し言われるとさすがの私も腹が立ってきた。
「優輝だって私のこと何も知らないでしょう」
「女子校育ちの男にまったく免疫のないお嬢さま」
「は……? なんでそれ……」
 優輝は一歩下がって、私を見下ろした。この人の秀麗さは無表情のときほど際立つ気がする。すべてを見透かすような視線を向けられ、私は思わず自分の腕で自分をぎゅっと抱きしめた。
「姉に聞いたの?」
「これくらいのこと、君のお姉さんに聞かなくてもわかる」
 バカにされたのだとわかり、私は奥歯を噛みしめた。
「なによ。からかっておもしろがるなんて悪趣味だわ」
「そんな格好でうろうろしているほうが悪い」
「それは、その……着替えを持ってくるのを忘れて……」
 不機嫌そうな優輝の顔がフッと緩む。
「腹減った。なんか食うものある?」
「残りものでよければ。あ、でも私が作った料理なので味の保証はしません」
 優輝は私に背を向け、廊下を進んでいく。
 今日はおいしそうなじゃがいもを買ったので、ポトフを作ったのだ。明日も食べようと思い、多めに作り置きしてある。
 キッチンのほうから鍋の蓋を開ける音が聞こえてきた。
 優輝に触れられて熱くなった身体が急速に冷える。私は小走りで寝室へ駆け込み、身支度を整えた。

 とりあえずパジャマを着てキッチンへ向かうと、優輝はまだ食事中だった。
「あのー、お口に合いましたか?」
 おそるおそる声をかけると、優輝は口をもぐもぐさせながら私を手招きし、ここに座れとばかりに自分の隣を指さした。1週間前の朝食と同じ場所だ。
「おいしい」
 それだけ言うとまたスプーンを口に運ぶ。男の人と食事をする機会がないので、その食べっぷりに思わず見入ってしまった。
「おかわり」
「えっ?」
 空になったスープボウルが私の前に差し出される。私は戸惑いつつも立ち上がり、ポトフの2杯目を優輝へ渡した。
「未莉は料理好き?」
「嫌いではないけど、好きと言えるほど上手ではないですね」
「ふーん。すごくおいしいのに、上手じゃないんだ?」
 優輝は私を横目に見ながら食事を再開する。
 どうやら彼は私の料理を褒めているらしい。そう気がついた途端、私の心の中が騒がしくなった。ついでに頬まで勝手に熱くなっている。
「いや、あの、これ、別に難しい料理じゃないんで……」
「いつも自分で作るんだ?」
「ええ。優輝は料理しないんですね」
 そう、実際キッチンに立って気がついたのだけど、料理をした痕跡がほとんどないのだ。優輝はもちろん、私の姉も料理を一切していなかったらしい。そういえば姉はみそ汁すらまともに調理できないと自ら豪語していたかも。自慢げに言うようなことではないのに。
「しない。面倒だし、自分で作るメシはおいしくない」
「ということは、作ったことはある?」
「昔、他に作る人間がいないから、仕方なく作っていたことはある」
 優輝は目を細めて渋い表情を作ると、小さくため息をついた。
 私はその横顔を食い入るように見つめた。というのも、優輝の過去や出自は公表されておらず、それが彼を一層ミステリアスな存在に仕立てているからだ。
 その優輝本人が自らの過去に触れるなんて、めったにないチャンス。できればもう少し昔の話を聞いてみたいと思い、懸命に言葉を探したが、糸口をつかめないうちに「ごちそうさま」と言われてしまう。
「何がいい?」
 唐突に問われ、優輝に探りを入れることばかり考えていた私は面食らった。
「えっ?」
「メシのお礼」
「いえいえ、礼には及びません」
「未莉は欲がないな。『さっきの続き』っていうのもアリだけど」
 な、何を言い出すんだ、この男は!
 私が目を剥いて反撃しようとすると、それを見透かしたように優輝は頬に余裕の笑みを浮かべた。
「ああ、俺、悪趣味だから」
「は?」
「さっき未莉が言っただろ。『からかっておもしろがるなんて悪趣味』って」
 ええ、確かに言いましたとも!
 しかし私をからかっておもしろがっていると認めてもらったところで、全然嬉しくない。そもそもそんなこと、胸を張って言うことじゃないし。
 でも――。
「まぁ、私が新居に移るまでせいぜい楽しんでください」
 もし笑えるならニヤリとして言い放つセリフなんだけど、ね。
「へぇ、都合ついたんだ。紗莉さんが金出してくれるって?」
 優輝が鋭い視線を私に向ける。
「えっと、それはアレですけれども」
「アレってどれだよ?」
「いえ、姉に頼らずとも自分でなんとかします」
「ほう。紗莉さんに頼らず、未莉ひとりでどうやって賃貸契約を結ぶのか、詳しく説明してほしいね」
 うわっ、なんて嫌味なセリフ。
 優輝はローテーブルに肘をつき、涼しい顔で私を眺めている。
「それは、ですね。今は保証人不要の物件もあるので……」
「甘いな。保証会社だって天涯孤独の人間を簡単に保証するとは思えない」
「天涯孤独って……」
 大げさな表現に唖然とする私。でも姉以外に頼れる身内がいないというのも事実だ。
 だけどなぜ優輝はそれを知っているんだろう。姉は『親しいわけじゃない』なんて言っていたけど、身の上話って誰にでもぺらぺら話すようなものじゃないと思う。……少なくとも私は、ね。
「紗莉さん以外に頼れる身内がいるのかよ」
 すぐ隣に座る優輝のまなざしが、いつの間にか真剣なものにすり替わっていた。それを私は複雑な気持ちで受け止める。
「前から気になっていましたが、どうしてそのことを知っているの? 姉とはどういう関係なんですか?」
 ずっと聞きたかったことを思い切って口にした。でも返事を聞くのも怖い。ドキドキしすぎて心臓が壊れそうだ。
 考えるような表情をしていた優輝が、私から視線を外し、姿勢を正した。
「まぁ、ひとことで言えば、女王陛下と下僕、だな」
「……なんですか、それ? も、もしかして……あ、愛人!?」
 ここまで来ると曖昧な言葉でごまかされるのは、私の性に合わない。握ったこぶしがぶるぶる震えているけど、これは誰がなんと言おうと武者震いなんだから。
 聞きたくないけど覚悟はできた。さぁ、来い! と、意気込んだ私の耳に届いたのは――。
「プッ」
 ――えっ?
「悪い冗談だとしても、もっとマシなこと言えねぇの?」
 ――は? 冗談?
「あの、私は別に冗談なんか……」
「俺、紗莉さんには興味ない。むしろ興味があるのは未莉のほう」
 ちょ、ちょっと待って。
 今、目の前の人が、私に興味があると言ったよね?
 頬がカーッと熱くなり、目は勝手にぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「な……んで?」
 そう口にした途端、両頬をむにゅっとつかまれた。優輝は私をまっすぐに見つめる。
「今、ちょっと笑いそうになっただろ?」
「ほーでひょーは?」
「何言っているのか、わからん」
 だからこの手を離してよ、と内心で叫びながら、優輝の腕をつかんで大きく左右に開いた。優輝につかまれていた頬がひりひりと痛む。それを手のひらで撫でていると、すぐ隣で優輝がクックッと腹を抱えて笑いだした。
 なぜ笑う。私は全然おもしろくないし。
「少しも笑いそうにはなりませんでしたが」
「ふーん。ここまで強情だと、無理やりにでも笑わせてみたくなるな」
 ああ、なるほど。つまり笑わない私に興味があるということか。それって結局、会社の男どもと同じだ。
「そういう興味なら十分足りていますのでけっこうです」
「それ、どういう意味?」
 急に優輝がムッとした。
「会社で私に寄ってくる男性がみんな興味本位だ、ということですよ」
 言いながら、腹が立つのは私のほうだ、とつくづく思う。私だって笑えないことが苦しくて仕方ないのだ。なのに簡単に『笑わせてみたくなる』とか言わないでほしい。
「へぇ。寄ってくる男がいるんだ」
 優輝の形のよい指が、肩にかかる私の髪をすくいあげた。しばらくするとその髪は、はらはらと優輝の指からこぼれ落ち、私の肩へ戻ってくる。
 触れられているのは髪だけなのに、ドキドキと心臓がうるさく鳴る。
「いますよ。迷惑するほど、ね」
「ふーん。それはすごい」
 優輝が少し首を傾げてにっこりと微笑んだ。整った顔立ちが妖しく歪む瞬間を目の当たりにし、息が止まる。わざとらしいのに、私にはまぶしいほどのきれいな笑顔。直視してはいけないと思っても、視線がそらせない。
 彼の長い指が、今度は私の首筋に触れ、それから髪を軽く引っ張った。
「ある国に生まれてから1度も笑ったことのない姫がいました。自慢の美しい姫が笑わないことを嘆いていた王はある日『笑わない姫を笑わせることができた者と、姫を結婚させる』というお触れを出しました」
 優輝は物語を朗読するように滑らかに語り出した。その低く温かみのある声音に聞きほれそうになるが、内容を理解した私の脳はハッと我に返る。
「なんですか、それ?」
「こんな話があったな」
「童話?」
「さぁね」
 童話なんて幼稚園児の頃に読んだきりで、笑わない姫の話は残念だけど記憶にない。それに私は『笑わない』わけではなく、笑えないのだ。……と脳内で力説してみたが、どちらも同じような気がしたので、ふぅと息を吐く。
 そのとき、いきなり優輝が私の腕をつかんだ。正確には、パジャマの袖を、だ。
「これ、色気ねぇな」
「そりゃ優輝のパジャマですからね。というか長い間お借りしていてすみません」
「未莉のパジャマはどうした?」
 うっ、あの色あせたピンク色の安物ペラペラパジャマのこと?
「あれは……その、恥ずかしいので洗い替えに……。でも私のパジャマ姿に色気を求めるのは間違っていると思われます」
「ま、それもそうか」
 あっさり納得されるのもなぜだか腹が立つ、とひそかに口を尖らせたところで、優輝が短く「風呂」と言い捨て廊下へ消えた。
 私はローテーブルの上に残された食器を茫然と見つめる。つまりこれは私に洗えということですか。
 居候の身だから当然かもしれないけど、さんざんからかわれた挙句、食事の後片付けまでさせられる私って、冗談ではなく本気でご主人様のメイドなのか。
 それにしても姉と優輝が『女王陛下と下僕』なのに、姉妹で立場が正反対とはいったいどういうことだ。
 悪魔みたいな姉のことだから、何か優輝の弱みを握っているのかもしれないな、なんて思いながらキッチンに立つ。とはいえ、いくら女王様な姉の前でも、優輝が簡単に隙を見せるとは考えにくい。
 結局、姉と優輝の謎は深まるばかり。
 まぁ、別にどうでもいいことなんだけどね。だって優輝は私をからかっておもしろがっているだけのひどい男だから、さ。

 そして今夜もそのときがやってきた。
「寝るぞ」
 ええ、寝ますとも。しかしこの前は火事の直後で疲れていたから眠れたけど、今晩はそういうわけにはいかない気がする。
 とぼとぼと優輝の後について寝室へ向かう。優輝は明日だけオフらしいけど、私は仕事にいかねばならない。
 眠れなかったらどうしよう。
 ベッドの前まで来た私は、まるで死刑を執行される直前のように蒼ざめていた。
「普段から無愛想だけど、それにしても顔色悪くないか?」
 さすがに優輝も私の様子が変だと気がついたらしい。ひとこと多いのがむかつくけど。
「いいえ、早く寝ましょう」
「今夜はずいぶん積極的だな」
 余計なことは言わないで。ますます眠れなくなりそう。本当に私、眠れないときは徹底的に眠れないのだから。
 放っておいてほしいのに、優輝は私の両肩に手を置き、顔を覗き込んでくる。急接近されたせいで、心臓がドキンと跳ねた。彼の腕に抱きしめられた感覚が、勝手に呼び起こされたのだ。
 しかし肩をぽんと突き放すようにして優輝の手が離れた。まさに肩透かしを食らった私は目を瞬かせる。
「早くふとんに入れ。風邪ひくぞ」
「うん」
 そう。早く寝ましょうと言ったのは、この私。
 ふわふわの羽毛ふとんとシーツの間に身体を滑り込ませ、ぎゅっと目を閉じる。それから私は小刻みに頭を横にふった。
 違う。絶対に違う。何かの間違いだ。
 一瞬でも、抱きしめてもらえるんじゃないか、と期待してしまったなんて。
 一瞬でも、抱きしめてほしい、と思ってしまったなんて。
 リモコンで電灯が消され、優輝が隣に入ってくる。見なくても彼がこちらに背を向けているのがわかって、少しだけ胸が痛んだ。おかしい。ホッとしなければいけないところなのに、どうして――?
 ふとんが私と優輝のぬくもりで温まった頃、まるで時を刻むように規則正しい彼の寝息が聞こえてくる。ひとりぼっちではないのに不安ばかり募る不可解な心を抱きしめて、睡魔がやってくるその瞬間を私はひたすら待ち続けることにした。

web拍手 by FC2
#07 悪い冗談だとしても * 1st:2014/04/15


Copyright(c)2014 Emma Nishidate All Rights Reserved.
Designed by starlit / banner image by NEO HIMEISM , FOOL LOVERS