#09 甘い檻にとらわれて

 高木さんの運転する車で柚鈴をマンションへ送り、車内が高木さんと優輝と私の3人になると、優輝は運転席へ身を乗り出すようにして尋ねた。
「で、どうだった?」
「もちろん大歓迎、だそうだ。明後日、タイムリミットは1時間。それ以上は無理だ」
「1時間ね。十分だよ」
 どうやら仕事の話らしい。私は車窓に目をやり、ふたりの話を聞き流す。
「優輝、約束は守っているだろうな」
 不意に高木さんの鋭い声が耳に飛び込んできた。
 隣の優輝は運転席から身を引きはがすようにして後部座席に背を預ける。急に不機嫌になったらしく、黙ったまま目を閉じた。
「優輝、お前……」
 運転席の高木さんが低く唸るように言う。優輝は目を開けるとあごを上げ、天井を睨みつけた。
「僕も信用がないね」
「基本的に男は信用できない生き物さ。俺も含めて、な」
「それには同意するけど、僕は高木さんの数倍ストイックにできている」
「へぇ。ま、仕事中の優輝は、確かにこれ以上ないくらいストイックだが」
 なんの話かわからない私は、聞いていないふりに徹した。とはいえ『約束』とか『信用』とか『ストイック』というふたりの会話のキーワードが、否応なしに私の頭の中をぐるぐると回る。
「余計な心配しなくていいよ。それは高木さんとの約束じゃない」
「悪かったな」
「いや、それがあなたの仕事だということは理解している。だから思ったままを伝えたらいい。僕にはそれを拒む権利がない」
 感情を抑えた声でそう言った優輝は、車が止まるか止まらないかのタイミングで苛立ったようにドアを開け、「おつかれ」と言い残し足早にマンションの玄関へ向かった。
 取り残された私は、高木さんに「ありがとうございました」と告げ、優輝の後を追いかけようとした。
「未莉ちゃん」
 慌てたような声が私を呼び止めた。ハッとして運転席のほうへ向き直る。
「アイツのことで困ったことがあれば、すぐ俺か紗莉さんに言って」
「いえ、むしろ私が迷惑をかけてばかりで、申し訳ないと思っています」
 前を向いたままの高木さんがフッと笑った。そして何かを納得したように言った。
「そっか。アイツが怒るのも当然だな」
「あの、やっぱりあの人、怒っていますか」
「この頃ずっとイライラしているんだ。でも未莉ちゃんがそばにいてくれるから、とても助かるよ」
 本当にそうだろうか?
 私はただの居候で、優輝の役に立っていることがあるとすれば手料理くらいだ。それだって恥ずかしくて人に言えるような腕前じゃない。
「だといいのですが」
「早く行ったほうがいい。アイツ、心配するから」
 高木さんは私を振り返り、笑顔を見せた。感じのいい爽やかな笑みに軽く頭を下げると、私はマンションへ駆け込んだ。

 部屋に戻ると優輝は物憂げな表情を浮かべてはいたけれども、何もなかったようにふるまっていた。私も気にせず、いつもと変わらぬ態度を心がける。
 キッチンを覗くと、食器はきれいに洗ってあった。優輝は私がついでに作った朝食を食べ、皿洗いもしたらしい。少し感動して風呂に入る。
 寝る準備をし、今夜も優輝に促されて寝室へ移動した。
 私は意を決して布団をめくり、そこに正座した。電灯のリモコンを手にした優輝が、私を見て眉をひそめる。
「どうした?」
「あの、少しお話をしたいのですが」
「ふーん。いいけど」
 優輝はリモコンを持ったまま、ふとんにもぐりこんだ。頭を起こすと枕に肘をついて私のほうを向く。
「で、何?」
 面と向かって問われると言い出しにくいけど、言わないまま眠ることはどうしてもできそうにない。大きく息を吸い込んでから一気に言った。
「優輝を脅迫した犯人、私も一緒に探します」
 奇妙な沈黙が寝室を支配した。
 困ったような表情で優輝が私をじっと見つめる。しばらくしてため息と一緒に返答が吐き出された。
「未莉にそういうこと期待していない」
「でも、私にも何かできるかもしれないでしょう。むしろ誰からもノーマークの私なら犯人を見つけられるかも」
「未莉みたいな世間知らずのお嬢さまに何ができるんだよ」
 勝手な決めつけにカッとなった私は前のめりになって反論した。
「ちょっと失礼じゃないですか! 私だってそれなりに苦労はしてきましたけど」
 優輝は起き上がり、ベッドの上であぐらをかいた。
「未莉は女優じゃなくて探偵になりたいのか?」
「違います。私は理不尽な脅迫が許せないんです。世間は優輝が有名人だから、そういうことのひとつやふたつは仕方がないと思いがちだけど、それは違うと思う」
「未莉には関係ない」
 冷たく突き放すような優輝のセリフは、私の喉元にぐさりと突き刺さった。そのせいで次の言葉が出てこない。
「未莉がここでやるべきことは、正義感を振り回すことでも、探偵ごっこでもない。俺を利用して女優になる――違うか?」
「利用? そんなこと、できるわけな……」
 その先を続けることは許されなかった。優輝の唇が私のそれに重なったのだ。
 頭の中が真っ白になる。
 何が起こったのか、何を考えればいいのか、何もわからない。危うく自分が誰なのかもわからなくなりそうなくらい私の脳はパニックに陥った。
 気がつけば優輝が私の肩をつかんでいた。その指には痛いほど力が込められていて、肩に食い込みそうだった。
 そんなに強くつかまなくても、私は逃げることなどできないのに。そう思う反面、この痛みが愛おしく感じられ、もっと強い力でつかまえていてほしいと願ってしまいそうになる。
 どうしてこんなことを想うんだろう。
 寂しいから? 支えてくれる逞しい腕にすがりたかったから?
 それとも優輝がまれにみる端正な顔立ちで、さらには長身で均整の取れたプロポーションの持ち主だから?
 違う。――でもきっとそう。
 認めたくはないけど、私はやっぱりずっと寂しかったんだと思う。優輝みたいな人にどっぷり甘やかされて、もう何も心配せずにぐっすり眠りたかった。バカじゃないかと笑う人もいるだろうけど、そんな少女趣味丸出しの夢を本気で憧れるくらい、誰かの愛情に、ぬくもりに飢えていた。
 少し開いた唇の間から優輝の柔らかな舌が入り込み、じれったいほど丁寧に口内をなぞる。何かを探すように動く彼の舌につられて私もほんの少し舌を動かすと、あっという間に絡め取られ、重なるふたつの唇が音を立てた。
 その途端、私の中でぷつりと糸が切れる。
 もう受け身に徹しているのは限界だった。目を閉じて優輝の舌の動きとその感触だけを追いかける。胸の奥からわき起こる感情だか本能だか判別不能のうねりに身を任せ、思い切って優輝にぶつけた。
 どれほど時が過ぎただろう。
 さすがに苦しくなってのどの奥を鳴らすと、優輝がフッと笑って唇を離す。
「意外に情熱的で、夢中になっちまったな」
 突然、大胆なふるまいについて言及され、ボッと火がついたように顔が熱くなった。
「ごめんなさい」
「褒めているのに、そんな顔するなよ」
「だって……恥ずかしい」
 うつむいてそう言うと、優輝は私の頬を撫でた。
「そういうの、悪くない。でも俺だけにしとけ」
 どういう意味かと顔を上げる。優輝は少し怒ったように唇を固く結んでいた。
「キス。他の男とするな」
「いや、あの……なんで?」
「なんだよ。他の男にもこういうことできるのか」
「ちがっ、そもそもキスなんてはじめてだし、よくわからないし、他の男なんているわけないし!」
 ほぉ、とまったく心のこもっていない相槌が聞こえた。
「ファーストキスの感想が『よくわからない』か」
「だからそうじゃなくて!」
 握ったこぶしをシーツに叩きつけるようにする。さっきの甘いムードはどこへ消えたんだ、と腹立たしかったのだ。
 こぶしを振り下ろした腕が不意に前方へ引っ張られ、私は優輝の胸に倒れ込んだ。
「じゃあ今から未莉は俺の恋人な」
 いったいどういう脈絡でそのセリフが出てきたのだろう。驚いて息がとまる。嬉しいけど、突然すぎて俄かには信じられない。
「『な』って、そんないきなり……こ、こいびと……!?」
「それ以外だと執事とお嬢様か、ご主人様とメイド、あとは……」
「こ、恋人でお願いします!」
 ほとんど勢いで返事をしてから、なんだかとんでもないことになっていると気がついた。気がつくのが遅すぎると自分でも思うけど、よく考える暇がないんだもの。それに優輝の腕の中にいると、心臓がうるさく鳴ってよく考えられるわけがない。
 でも、恋人って、恋人って……えええっ!?
「ただし、ここにいるとき限定。外に出たら俺と未莉は他人だから」
「そ、そりゃそうでしょう。私だってそれくらいのことはわきまえています。優輝のファンにも申し訳ないですし」
 優輝がクスクスと笑い出した。
「未莉っておもしろいよな。俺、相当ずるいこと言っているのに『なにそれ』って怒んないの?」
 そっか。外で他人のふりをするのを『ずるい』と思う人もいるんだ。
 私はむしろありがたいと思ってしまう。だって私が優輝のただの1ファンだったら、恋人がいるなんて認めたくないもの。明日香さんとの噂だって信じたくなかったし。
 あれ、そういえば、どうして私は優輝と明日香さんの噂に苛立っていたんだろう。
 優輝のことは好きだけど、それはあくまでテレビの中のかっこいい人だから、だったはず。憧れの男性のひとりで、決して手の届かない人だから、だったはず。
 なのに、私は――。
 意識した途端、目の前で何かが弾けたような気がして、瞬きを繰り返す。
「黙っているとまたキスするぞ」
 長い指が私のあごをすくい上げたかと思うと、唇が重なる。もうはじめてのときみたいに知らない感触じゃない。それが嬉しいような悲しいような気分だった。だって優輝とキスするのは嬉しいけど、はじめての後は次のキスをいつでも待ち望んでしまいそうだから。
「どうして泣きそうになっているわけ?」
 優輝はこつんと額をくっつけてきた。彼の柔らかい前髪を額で感じる。
「それはきっと、幸せだからです」
 言いながら、確かに私は泣きそうな気分だ、と思う。
「じゃあ、もう少し幸せそうな顔しろよ」
「それはちょっと難しいかも」
「どうして?」
「だって、なんでキスするのか、わからないから」
 すると優輝の顔が遠のいた。急に鼻の奥がツンとして涙があふれ出す。
「理由なんて考えなくてもわかるだろ」
「え?」
「したくなった」
「……え?」
「それ以外に理由なんかない」
「じゃあ、優輝はキスしたくなったら誰にでもキスするんですか?」
「するわけないだろ。そこまで節操ないと思われているのか、俺は。つーか、泣くな。泣きながら責められるようなことをした覚えねぇし」
「そんなこと言っても、涙は急に止まらない……」
「そっか。未莉はまだ泣き足りないんだな」
 優輝はよしよしと私の頭を撫で、その後自分の胸に押しつけた。こぼれた涙は優輝のパジャマに沁み込んだけど、彼は何も言わずぎゅっと抱きしめてくれた。
 優輝の胸は温かい。じっとその胸に響く心臓の音を聞いていると、私の呼吸も自然に深くなる。でも心拍数が普段の倍になっている私とは対照的に、優輝は憎いくらい平静で、この状況にドキドキしているのはどう考えても私だけだった。
 つまりこれは、慣れているか、そうでないかの差なのだ。
 動揺しているのは私だけなんだ。優輝にとってキスなんか大したことじゃない。ということは、キスくらいで優輝の気持ちが私に向いていると考えるのは、勘違いもいいところだ。
 そう思うと急にひとりだけドキドキしているのが、恥ずかしくて惨めに感じられた。
「これもからかわれているのだと思えば、泣きたくもなりますよ」
 言ってしまってから、私は何を口走ったんだ、と驚いたが、完全に後の祭りだった。結局私は強気な自分を取り戻すために精一杯の虚勢をはったのだ。
 その瞬間、優輝の身体に緊張が走った気がする。些細な変化であってもそれは、まるで杭が胸を突き破るような衝撃として私に襲いかかった。彼の腕の中は居心地悪く感じられ、視界は涙で歪む。
「俺は最高に楽しいよ。未莉はからかいがいがあって」
 余裕たっぷりのセリフが私の肌の上を冷たく滑った。どうせならもっと致命的な言葉でこの身を切り裂いてくれたらいいのに、と思う。
 なのに、優輝は――。
「だからもう絶対逃がさない。余計なこと考えないで俺だけ見てろ」
 背中に回された腕が痛いくらい私を締めつけた。
 そんなに強く締めつけなくても、私は逃げることなどできないのに。彼が私に飽きて放り出す最後の瞬間まで。
 本当は優輝だって知っているんでしょう?
 いつまでも甘い檻に閉じ込められていたいと望む愚かな私の本心を――。

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#09 甘い檻にとらわれて * 1st:2014/05/13


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