#05 いきなりどうしてほしいの

 朝、ふかふかのふとんに埋もれ、最高に幸せな気分で目が覚めた。
 適度な硬さのマットの上で寝返りをうち「あれ?」と思う。このスプリングの利いた感じ、まるでベッドに寝ているみたいだ。我が家の床の、のっぺりした硬さはどこへ行ったのだろう?
 次に「あれ?」と思ったのは、徐々にはっきりしてきた視界に人の顔らしきものを認識したときだ。
「ん……?」
 これって、隣に誰か眠っていませんか? ……誰か?
 私は無意識に手を伸ばしていた。指が人肌に触れる。温かい感触に驚いて反射的に手を引っ込めたのだけど……。
「え、えええええーっ!?」
 その手がふとんの中で大きな手につかまったのだ。
「おはよ」
「お、おはようございます」
「もう少し……寝たい」
 隣に眠っていた人が優輝に見えてびっくりしたのだけど、それが本物の守岡優輝だと気がついてさらに驚愕した。
 眠そうな優輝のまぶたが再びゆっくり閉じる。こうして近くで見ると睫が長い。目を閉じていても、こちらの心に直接何か訴えかけてくるような表情をしている。見つめていたら文字通り心が奪われてしまいそうだ。身の危険を感じ、視線を引きはがす。
「おやすみなさい」
 声をかけても優輝は微動だにしない。真夜中も仕事をしていたのだから、まだ眠いのは当然だ。しかも私の面倒まで見てくれて、すごく疲れただろうな、と思う。
 すっかり目が覚めた私はベッドを抜け出そうとしたが、なぜかしっかりと繋がれたままの手をふりほどけず、仕方がないのでベッドの中でぼんやりと数時間前のできごとを思い出していた。

「寝るぞ」
 パジャマを着た優輝とあらためて向き合った私は、目を見開いて彼を見返し、すぐに視線をそらした。優輝は私に貸してくれたパジャマの色違いを着ている。つまりパジャマがおそろいなのだ。
「あの、私はソファを使わせていただきま……」
「ソファは座る場所だ。つまり未莉は俺と一緒に寝るしかない」
「えっ、ちょっ、そんな、い、いきなり、こまっ、困ります!」
 我ながら笑えるくらいしどろもどろになってしまったが、優輝は真顔で私のほうへ近づき、腕をつかむと廊下へ向かった。
「いや、えっ、でも……」
「何が困るって?」
「だって、私はただのお邪魔虫ですし」
「だから?」
「あの、ご主人様といきなり一緒に寝る、なんて大それたことはできない、と言いますか……」
「ふーん」
 と気のない返事をしながら、優輝は寝室と思われる部屋のドアを開けた。引きずられてやって来た私は、視界に飛び込んできたベッドを正視できず、目をつぶって顔をそむける。
「で、未莉は俺に『いきなり』どうしてほしいの?」
「は?」
 この問いには、さすがに目を開けざるをえなかった。優輝は意地悪い笑みを浮かべている。うわー、ここで揚げ足を取るとは、嫌なヤツ。
「俺は困るようなこと、するつもりないけど」
「それはそうでしょうけど」
「何かしてほしいなら、素直に言えよ」
 背中がぞくりと粟立った。意地悪そうな表情が妖しく変化して、私を試すような視線がまっすぐに向けられる。
 どぎまぎしながら、懸命に言葉を探した。
「優輝にはご迷惑おかけして申し訳ないです。明日からは姉の事務所で寝泊りしますので、今夜だけはここに泊めてもらえると助かります」
「なにそれ」
 突然、優輝が私の腕をぎゅうっと力いっぱい握った。うわっ、まだ腕をつかまれたままでした。
「痛いっ!」
「事務所に寝泊りなんかできるわけないだろ。男ならまだしも、未莉は女として危機感なさすぎ」
 危機感ないって――ここに泊めてもらうことのほうが、いろんな意味で危機感覚えまくりなんだけど、私の認識は間違っているのだろうか。
「じゃあすぐに新しい部屋を探します」
「金、あんのかよ?」
「え?」
「マンションの賃貸契約にはそれなりの金が必要だし、火災保険はすぐに支払われるわけじゃない」
 そんなこと、私だってわかっている。おまけに今の私には貯金もほとんどない。
「姉に……借ります」
「ふーん」
 私が苦し紛れに言うのを、優輝は勝ち誇ったような顔で聞いていた。
 なぜ私にお金がないとバレているんだろう。
 というか、もしかして私、本当にここでしばらくお世話にならないといけない身だったりする……?
「あ、よく考えたら姉のところに厄介になればいいんだ!」
 今さらだけど、私はこれ以上ない最高の解決策を導き出した。というか、そもそもここに来たのは姉に厄介になろうと思ったからだ。ここに姉がいないのなら、姉のいるところへいけばいい。
 鼻歌でも歌い出しそうな私とは対照的に、優輝は盛大なため息をついた。
「それは無理」
「どうして?」
「紗莉さんは男と一緒だぞ」
 あーっ! ……やっぱり?
 私は頭上から冷水を浴びせかけられたような気分で優輝を見返した。
 そっか。それで姉は来てくれなかったんだ。今回も、また……。
 両親を亡くした火災のとき、姉は仕事で日本を離れていた。だからすぐに駆けつけられないことも理解できたけど、今回は違う。たぶん来ることができたはずなのに、来なかったんだ。
 唯一の肉親である姉は、焼け出された妹を赤の他人の優輝に押しつけて男と一緒にいるわけで――。
 もし私が普通に笑えるなら、思い切り笑いとばしたいけど、あいにくそれもできない。
「だから未莉はおとなしく俺の言うことを聞くしかない、だろ?」
 そうなのかもしれない……けど。
「あの、優輝は……いいんですか?」
 私なんかを居候させて、優輝になんの得があるだろう。
 姉からこの部屋の賃料を割引してもらえるとか?
 でも私の何十倍、いや何百倍も稼いでいるはずの優輝が、賃料の割引なんかに釣られるとは思えない。
 ただの厄介者を引き受けようとしている優輝の狙いがわからないから、私はその厚意を受け取っていいものか戸惑ってしまう。
「何が?」
「だって優輝には、その……彼女とか、いるでしょうし……」
 姫野明日香と熱愛発覚――と会社で友広くんが言っていたのを思い出し、目の前が暗くなる。まさかその日のうちに張本人に噂の真相を問いただすことになるとは、ね。
 だけどこれって大事なことでしょう。彼女がいるのに私を家に置くなんて、絶対にやってはいけないことだと思う。
「つまらないこと気にすんな」
「え、でも」
 それって問題発言じゃないですか。彼女がいるか、いないかは、つまらないことなんかじゃない。
 しかし優輝の口からは、まったく予想外の言葉が飛び出した。
「俺、誰とも付き合う気はないから」
「……そ、そう……なんだ」
 なぜか私の心が激しい衝撃を受けてズキンと痛む。
「これで気兼ねせずに俺と一緒に寝れるな」
 私の動揺など知るよしもない優輝は、私を引っ張るようにして寝室へ入っていく。それからベッドのふとんをめくると、茫然としている私をひょいと横抱きにした。
「疲れただろうから、ゆっくり休め」
「うん」
「素直だな」
 シーツの上にゆっくりと降ろされた。ベッドに横たわってみると急に眠気が襲ってくる。
「やっぱり疲れていたみたい」
「当たり前だ。安心して寝ろ」
 反対側から優輝もふとんに入ってきた。ドキッとしたけど、彼は必要以上に私に近づこうとはしなかった。その近すぎず、遠すぎない距離がなんだか心地いい。
 それにしてもこのベッド、かなり広い。ふとんはふかふかだし、マットレスは体圧分散ってヤツじゃないかな。身体が全然痛くない。
 しかも隣に寝ている優輝の体温が私のほうまで伝わってきて温かい。目を閉じるとすぐに意識が飛んだ。

 もうごちゃごちゃ言わないで、素直に「しばらくお世話になります」で済ませればよかったのに、と隣で安らかな寝息を立てる優輝を見ながら後悔する。おそらく不規則で多忙な毎日を過ごしている彼にとって、私の遠慮は時間の無駄でしかなかったはず。
 ま、おかげでいろいろなことがわかったんだけどね。
 しかし……。
 この状況で、幸せな気分にならない女子はいないんじゃないかと思う。
 私の手を握って無防備な寝顔を晒しているのは、世の女性を魅了している守岡優輝なわけで、なんだかわからないけど私はこの寝顔をひとりじめできちゃっているわけで。
 優輝から引き出した情報は、私にとって気が重いものだったのに、ほとんど落ち込んでいないのもたぶん優輝のおかげなのだ。
 さて、そろそろ起きようかな、と優輝の手をそっとほどいたとき、玄関のほうで物音がした。
 ガチャンと戸が閉まり、誰かが廊下を歩いていく。大股で力強い足音から察するに男性?
 さすがに私は隣で眠っている人の肩を揺すった。
「あの、誰か入ってきたみたいですけど!」
「ん? 高木さんだろ」
 うっすらとまぶたを開けた優輝が、面倒くさそうに言った。
「マネージャーさんですか?」
「そう。朝飯買ってきてくれたんじゃねーの」
「えっと、私、どうすれば? 隠れたほうがいい?」
 慌てている私を見て、優輝はプッとふき出す。
「好きにすれば。未莉のぶんもあるけど、俺が食っておくし」
「えっ、私のぶんもあるんですか」
「たぶん」
 優輝はふとんを跳ねあげて上体を起こした。
「じゃ、お先」
 ベッドをおりたかと思うと、寝室のドアを開け放ち、廊下へ消える。
 取り残された私はベッドの上に座り込んだまま、茫然としていた。
「おーい、未莉ちゃん。一緒に食べようよ」
 リビングルームのほうから高木さんの声が聞こえてきた。
「は、はい」
 私は辺りを見回し、パジャマの上に羽織るものを探す。だけど優輝の服を勝手に拝借するのはやっぱり気が引けた。仕方がないから廊下に出て自分のコートを着る。
「おはようございます」
 廊下からリビングルームを覗くと、高木さんがおいでおいでとジェスチャーで呼んでくれた。優輝はコート姿の私を見て一瞬眉をひそめたけど、何も言わなかった。
「昨夜は大変だったね。紗莉さんから着替えを預かってきたよ」
 高木さんが指さしたソファの脇に、大きなショッピングバッグが置いてある。
「姉が、私に?」
「うん。紗莉さんもすごく心配していた。でも今はうちの……」
 そこで突然、優輝が「ゲホゲホッ」と激しく咳き込んだ。
 私が目を丸くしている間に、高木さんはキッチンへ向かい、冷蔵庫を開け、マグカップに牛乳をなみなみと注いで持ってくる。優輝とは違い、見るからにがっしりとした男性的な体格の高木さんだが、さすがはマネージャー、私なんかよりはるかに動きが機敏だ。
「飲みものを用意していなかったね。ごめん」
 私の前にもコトンとマグカップが置かれた。
「ありがとうございます」
「ここ、優輝の部屋になっていてびっくりしたでしょう」
 高木さんは床に腰をおろして私に笑いかけた。
 さっきから優輝が無言なのは、高木さんがいるからなんだろうか。ちらちらと隣をうかがいながら返事をする。
「そうですね。だけど、いずれにしろ姉は来る気がなかったと思うし、優輝が来てくれて本当に助かりました」
「あれー!? 今『優輝』って言ったね。さてはふたりきりで、なんかあったな?」
「何もないよ」
 優輝がぶっきらぼうに言い放った。
 すると高木さんはため息をつき、慰めるように優しい口調で言う。
「ま、気持ちはわかるけど、少しは機嫌直せ。残り時間は少ないんだ。だけど順調に進めば1週間で終わる」
「順調、ね。そんなわけないでしょう。昨晩だって僕は未莉に助けられたわけだし。最悪の場合、2週間かそれ以上かかるかもしれないのに、憂鬱にならないほうがおかしい」
 残り時間は少ない? 昨晩私に助けられた?
 高木さんが買ってきてくれたホットドッグをほおばりながら、なんの話だろうと思っていると、優輝が突然私のほうへ向き直った。
「というわけで、今夜から地方ロケで家を空ける。その間、部屋は好きに使っていいから」
「え……?」
「未莉ちゃん、留守番よろしくね」
 高木さんの爽やかな笑顔につられたのか、私は反射的に「はい」と返事をしていた。

 朝食が終わると高木さんは慌ただしく帰っていった。
 時計を見るともうすぐ会社の始業時間だ。
「今日は会社、休むだろ。電話しなくていいの?」
 優輝が私の心を読んだらしい。
 ケータイは優輝の充電器を借りることができたので、フル充電されている。それを手に取って画面を操作し始めると、優輝は気を利かせたのかリビングルームを出ていった。
「もしもし、おはようございます。柴田です」
『あれ、柴田さん? 今日はお休みですか?』
 会社の所属部署直通番号へかけると、向かいの席の友広くんが出た。なぜか背筋に緊張が走る。
「そのことで……課長に電話を取り次いでもらいたいのですが」
『どうかしましたか? 欠勤なら課長には僕から伝えますよ。それとも何か僕に言えないようなこみいった事情ですか?』
「あの、少し困ったことが起きて……課長と直接話をしたいのだけど」
『困ったこと? 熱で起き上がれないなら、僕、お見舞いに行きますよ。買い物とか任せてください』
「いや、そうじゃなくて……課長は?」
 なかなか受話器を離そうとしない友広くんに少し苛立つ。火事のことを友広くんに伝えると今日の午前で社内中に知れ渡ってしまう気がした。
 しかし次の瞬間、甘い囁きが私の耳をくすぐる。
『未莉さん、僕に言えないようなこと?』
「いや、あの……」
 心臓がドキッと音を立て、返事に詰まった。そこへ背後からのんきな声が割り込んでくる。
「未莉、これ洗濯していいのか?」
「え? ちょっ! それ、待った!」
『未莉さん?』
 訝しげな友広くんの声が耳の奥に響く。でも、私の目の前にはもっと深刻な緊急事態がぶら下がっていた。
「洗わねぇの?」
「それ、どこから持ってきたのよ!」
 優輝が手にしている褪せたピンク色の布地、あれはどこからどう見ても私の安物パジャマ……!
『未莉さん、今、誰と一緒にいるの?』
「だから、早く課長に取り次いで!」
『……はい』
 言ってからハッとしたがもう遅い。年下とはいえ正社員である友広くんに、しがない契約社員の私がぞんざいな口の利き方をするのは失礼だ。
 口に手を当てて、どうしようと考えていると、視界の端で優輝がクスッと笑った。
 途端に、頭に血がのぼる。誰のせいでこうなったと思っているんだ!
「洗っておくわ。未莉の貴重な財産だから」
 くぅ。悔しいけど、言い返す前に課長の声が聞こえてきたので、フンと優輝に背を向けた。
 課長に昨晩の火事について説明すると、驚いて絶句した後、恐縮してしまうほどのいたわりの言葉をかけてくれた。
『それで今はどこに身を寄せているんだい?』
「あ……姉のマンションです」
 少し焦ったけど、決して嘘はついていない。ただ、そこに住んでいる人がなぜか守岡優輝だった、というだけで。
 課長との電話を終えると、私は脱力してソファに身体を預けた。
 問題は友広くんだ。きっと彼には優輝の声が聞こえている。明日出社したら何を言われるかわからない。どうしよう。
「何か悩みごと?」
「あのね、私が電話中とわかっていて、どうして声をかけるわけ? 課長には姉のマンションにいると説明したのに、最初に電話を取った人に優輝の声を聞かれてしまいましたけど!」
 勢いよく責めたててみたけど、優輝は涼しい顔のまま私の隣に腰をおろした。
「ふーん。それが何か?」
「困ります。明日出社したら絶対面倒なことになるんで」
「俺の声、聞かれたくなかったんだ? 電話の相手、男だろ」
 そう言いながら、優輝が私のほうへ顔を寄せてくる。私は思わず身を引いた。

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#05 いきなりどうしてほしいの * 1st:2014/03/30


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