#06 彼女と彼と私のいけない関係

「俺のほうが困る。未莉が危なっかしくて、見ていられない」
 耳にかかる優輝の吐息がくすぐったい。なぜこんなに近いの? 身を引き気味にしながらこらえるのに精いっぱいで、頭がぼーっとなる。
「じゃあ、見なければいいでしょう」
 やっとのことでそう反撃すると、優輝は私から遠のいてフッと笑った。
「俺にあんな啖呵切ったの、未莉がはじめて」
「それは……すみませんでした」
「一生忘れない」
「え? そこまで根に持つ?」
 見ないようにしていた優輝の横顔を、確かめずにはいられなかった。
 優輝の視線は宙に放たれている。まるで私が隣にいることも忘れたみたいに。彼の意識が別の世界へ行ってしまったように思えて、急に心細くなった。
「優輝?」
「ん?」
「いや、なんでもない」
 頬がカーッと熱くなった。何やっているんだろう、私。
 優輝は私のほうへ向き、真顔で言った。
「俺が戻るまで、ちゃんとここにいろよ」
「……どうして?」
「心配だから」
「なんで?」
 私の手の上に、優輝の大きな手が重ねられる。
「そばにいてほしいって、顔に書いてある」
 ええーっ、ウソでしょ?!
 空いている手で頬をこすると、優輝がプッとふき出した。
「なによ。どうせ優輝は、そうやっていつもかわいそうな女の子を慰めるふりして、口説いているんでしょう。でも私は……!」
「未莉」
 冷静な優輝の声が、私の攻撃の勢いを削いだ。
「証拠は?」
「え?」
「根拠もなく、女の子を口説きまくっているように言われるのは、心外だな。俺のこと、何も知らないくせに」
 そう言われると、私は少しも反論できない。でもそれは優輝も同じで、私のこと何も知らないはず。それとも、もしかして姉から何か聞いている――?
 黙っていると優輝の手がポンポンと私の手の甲を叩いた。
「とりあえず洗濯機の使い方、教える」
「あ、お願いします」
 優輝が先に立ち上がって廊下へ向かう。その背中が頼もしく見えるということは、やっぱり私、寂しいのかな。
 だけど彼の向こうに見え隠れする姉の存在を思うと、寂しさよりも底知れぬ不安な気持ちが湧き上がってくる。
 優輝によれば、姉は男性と一緒にいるらしい。その相手が恋人だとして、じゃあ姉と優輝はどういう関係になるのだろう。
 あれ、これって……。
 どういう関係もなにも……。
 もしかして優輝は……姉の愛人?
『俺、誰とも付き合う気はないから』
 うっ、妙に話のつじつまが合う気がして怖くなる。
 だって普通、自宅マンションを男性には貸さないでしょう。貸すとしたら、ものすごく信頼している相手だよね。男女の特別な関係と聞いて、清いものを想像できない私の心は荒んでいるかもしれないけど、やっぱりこの状況で一番しっくりくるのは愛人説だ。
「おい、ちゃんと話聞け」
「え?」
 妹の私に何も言わず隠しているのは、やましいことだから?
「未莉」
「はい」
 いや、だって、あのベッド、ひとりで寝るには広すぎるもの。
「そんなに驚くようなことか?」
「ええ、驚かないほうがおかしいですよ」
 どうしよう。疲れていたとはいえ、同じベッドで一緒に眠ってしまったけど。
「今までどんな洗濯機を使っていたんだ?」
「私、そこまで考えが至らなくて」
 どうせならもっと直接的に言ってくれればよかったのに……。
「ボタンを押すだけ、だぞ?」
「うわぁ! なぜこんな簡単なことに気がつかなかったんだー!」
 優輝が怪訝な目で私を見ている。
 ……あれ、今、私、何か口走っていましたかね?
「これまでどういう生活をしていたのか、見てみたくなるな」
「あ、いや、えっと、このボタンを押すだけ、でしたね」
「やっとこっちの世界に戻ってきたか」
 ぼそっと優輝がつぶやいた。
 ヤバい。全然違うこと考えていたのがばれてる。
 私は背筋を伸ばして、優輝をまっすぐ見つめた。
「あの、留守番はきちんとします。そして優輝が戻ったらすぐ新しいマンションに移ります」
「ふーん」
 じゃないと本当にお邪魔虫になっちゃう。一緒に眠るとか、絶対まずいよ。
 姉も優輝もどういうつもりなのか全然わからないけど、これ以上おかしなことになる前に、私がいなくなればいいのだと思う。
 優輝は呆れたような表情で私をしばらく眺めていた。

 その後、燃えたマンションの大家さんから現場検証の呼び出しがあり、私はひとりで外出した。出火元は私の部屋から離れていたけど、ガスの爆発で窓ガラスが飛び散り、その部屋のあった場所は黒焦げの無残な状態だった。ちなみに私の部屋も中途半端に燃え、放水の影響で水浸し。家財の救出はほぼ絶望的だ。これは私の落ち度ではないだけに、今後の出費を考えると泣きたい気持ちになる。
 昼過ぎに優輝の部屋へ戻ると、マネージャーの高木さんが来ていて、優輝の旅支度が終わるまで買い物に出ようと誘ってくれた。
 この高級マンションから一番近いスーパー、それからドラッグストア、万が一のときのための病院――当面の生活に必要と思われる近所の施設を案内してもらう。
「でも私、優輝が戻ったらすぐ新しい部屋に引っ越すつもりです」
 歩きながらそう言うと、高木さんは爽やかな笑顔を見せた。
「紗莉さんのいうとおり、未莉ちゃんはしっかり者だね」
「そうでもないです。優輝に『火事になるようなマンションに住むな』と言われたけど、そんなところにしか住めないのは、私がしっかりしていないからなんです」
 私からすべてを奪った叔父の顔が脳裏に浮かんだ。そしてつい、あんなことさえなければ、と考えてしまう自分にも嫌気がさす。
 そのとき頭上でフフッと笑う声がした。
「俺としては、あの部屋に未莉ちゃんがいてくれたら安心なんだけどな」
「安心、ですか? それはどういう……」
「優輝はああ見えてメンタルが弱いから」
「えっ、そうなんですか?」
「特に収録中はクールダウンができないらしくて、突然ひどく気落ちしたり、急にハイテンションになったり、夜ひとりにするのが心配なときもあるよ」
 高木さんは憂いに満ちた表情でため息をついた。
 そういえば昨晩も足を洗おうとしてくれたときとか、変にテンション高かったかも。
 やっぱり演じる役に入り込んでいると、帰宅してもスイッチを切って素に戻るみたいに、簡単には切り替えられないのだろう。俳優は大変な仕事だな、とあらためて思う。
 ついでに私とふたりきりのとき、優輝の口調が変わるのも何か関係しているのかもしれない。
 それにしても、夜ひとりにするのが心配……って、そんなに落ち込み方が激しいのだろうか。発作的に死にたくなったりする、とか?
 私は自分の考えにドキッとして、慌てて高木さんを仰ぎ見た。
「それは心配ですね」
「未莉ちゃんも遠慮することないよ。あの部屋は紗莉さんのものなんだし」
「それはそうですけれども、今は優輝が住んでいるので、私がいるのは問題が多いかと」
 姉と優輝の関係を思うと、やはりさっさと出ていくのが正解だろう。もしかすると優輝のメンタルが不安定なのも、姉のせいなのでは……?
「うわぁ! 姉妹で迷惑かけてごめんなさい!」
「おい、突然どうした、未莉ちゃん」
「えっ、あ……えっと」
 口をパクパクする私の隣で高木さんが爆笑している。
「おもしろいな。優輝が君をひとりじめするなんてもったいない。たまには俺のところにも来てくれない?」
 それって、どういう意味でおっしゃっているんでしょう。当然からかっているだけですよね。
 愛想笑いを浮かべることもできない私は、真顔で高木さんを見返した。その瞬間、高木さんの背後に人影を見つけて驚く。帽子を目深にかぶった長身のあやしい人影が口を開いた。
「なかなか戻ってこないと思っていたら、なるほどね」
 その声はまぎれもなく優輝のものだ。高木さんの笑みがひきつる。
「冗談だよ、冗談。怒るなって」
「怒るわけないでしょう。未莉が決めることだから、僕は何も言わない。高木さんのところへ行きたければいつでもどうぞ」
 後半は私に向けた言葉だった。感情を抑制した低い声は、まさにナイフのような切れ味で私の胸の内側をえぐる。
「俺が悪かった。でも冗談だから」
「冗談なら何を言っても許される、と?」
 優輝は帽子の下から高木さんへ軽蔑するような視線を送る。降参というように、高木さんは胸の前で両手を挙げた。
「未莉ちゃんをからかって、すみませんでした」
「あ、あの、私はきちんと留守番しますから!」
 私も黙っていられなくなって、ふたりに向かって妙な宣言をした。
「だからもうこの辺で……って、えええーっ?」
 険悪なムードを断ち切ろうと勇んでいた私の腕を優輝がいきなりつかみ、高木さんを置き去りにしてスタスタ歩き出す。
 ――あの、もしかして、本当に怒っていたりする?
 ――でも、どうして?
 気になって振り返ると、高木さんが苦笑いを浮かべて私に目配せした。

 ふかふかのふとんと寝心地のよいベッドをひとりで占領してぐっすり眠った私は、翌朝姉が用意してくれた服を着て出社した。
 向かいの席の友広くんは硬い表情で「おはようございます」と言ったきり、気難しい顔をしてパソコンに向かっている。
 だけどそれ以外は拍子抜けするほど変化がなく、私に関する変な噂が広まっている様子もない。友広くんは私が男性と一緒だったことを他言せずにいてくれたようだ。急に私生活が一変してしまったので、職場が以前のまま平穏でホッとした。
 午後から半休をもらい、用を足した後、姉の事務所へ向かった。
 しかし事務所にいたのは事務員の伊藤さんだけだった。30代の伊藤さんはいつも地味な格好をしているけれども仕事は完ぺきで、所属タレントやモデルのスケジュールがすべて頭に入っている。
 その伊藤さんが私に向かって淡々と告げた。
「社長は先週から約1ヶ月間、新しいクライアントとのお仕事で地方へ出張です。たまにこちらへ戻っているようですが、事務所に顔を出すことはないかもしれませんね」
「そうですか」
 少し落胆しながら、なにげなく伊藤さんの机の上を見て、おや、と思う。私の目に留まったのはケータイだ。私が持っているものより画面がかなり大きい。そしてそれを、つい最近どこかで見た記憶がある。
 そうだ。優輝の部屋で朝ごはんを食べていたとき、高木さんがローテーブルの上に画面の大きなケータイを置いていたんだ。それと同じ機種みたい。
 気がつけば伊藤さんが私に訝しげな視線を向けていた。
「あ、いや、ケータイの画面が大きいなーと思って。使いやすいですか?」
 慌てて言い訳すると、伊藤さんは笑顔になった。
「ええ。とても見やすいですよ。社長が選んでくれたんです」
「ということは仕事用のケータイですか」
「はい。プライベートのケータイはもう少しコンパクトなサイズです」
「なるほど」
 ということは高木さんのも仕事用のケータイなんだろうか、なんてどうでもいいことを考える私。
 それにしても仕事を早退して姉の事務所へやって来たのに、結局姉の所在はつかめず、柚鈴も1週間後まで仕事がびっしりだということがわかっただけ、とは。昨晩からのことを姉か柚鈴に話したかったけど、仕事を定時で上がれる私とは違って、ふたりとも簡単にはつかまらない。わかっていたつもりだけど、落胆は想像以上に大きかった。
 とりあえず優輝が戻ってくるまであの部屋の留守番をすると決めたのだから、その約束は守ろうと思う。
 でも、と事務所を出て帰る道すがら、私はずっと優輝のことを考えていた。
 メンタルが弱いというのは本当なのだろうか。
 確かに爽やかで健康的な高木さんと比べたら、体格においても性質においても、優輝のほうが繊細に見える。だけどひ弱な印象はないし、私とふたりきりのときの優輝は少々、いやかなり俺様っぽい気がした。
 ひとつだけ引っかかるのは、私の姉との関係だ。
 もし姉と優輝が愛人のような間柄であるとすれば、姉が優輝のメンタルに悪影響を与えている可能性は大きい。姉を悪く言いたくないけど、時折見せる氷の女王のような冷たい態度に妹の私ですら不信感を抱くことがあるのだから、彼女に恋する男性ならどれほどダメージを受けることか――。
 私はケータイを取り出し、姉にメールを送った。電話で話がしたい、と。
 考えていても何も解決しないし、姉には恨み言のひとつでもぶつけておきたい気分だった。

 優輝の部屋に戻り、食事の準備をしていると、ケータイが鳴った。
『未莉、ごめんなさいね。怒っている?』
 早口にそう言った姉は、私の反応をうかがっているようだ。
「お姉ちゃん、お仕事お疲れさま」
『今、どこにいるの? 守岡くんと一緒?』
「今はお姉ちゃんのマンションにいるよ。なぜか守岡優輝が住んでいてびっくりしたけど。ちなみに彼は地方ロケで昨晩からいない」
『そっか。驚いたでしょう。ごめんなさい、未莉に報告していなくて』
「お姉ちゃんのマンションだから、お姉ちゃんの好きにしていいんじゃない。でも守岡優輝とそんなに親しかったとは、ね」
 嫌味なセリフを口にしたら、ほんの少し胸がスッとした。だけどすぐに姉の困った顔が目に浮かび、やはり言わなければよかったと後悔が首をもたげた。
『親しいわけじゃないのよ。でも守岡くんがマンション探していたとき、ちょうど私もいろいろあって……』
「彼氏と一緒に住んでいるんだって?」
『まぁね。守岡くんには言ってあるけど、そこ、いつか未莉に住んでもらいたいなと思っていたのよ』
「えっ?」
 姉の話は予想外の方向に転がった。姉はこのマンションに私を住まわせるつもりだったということ?
 でも優輝と私が一緒に住むというのは、姉の希望とは違うはず。
「私の見た感じ、守岡優輝に引っ越す気はなさそうだけど」
『ねぇ未莉。私のこと、恨んでいるでしょう』
 姉は私の嫌味を無視して、唐突に言った。ずいぶん卑怯だと思ったが、私も瞬時に妹らしく甘えるなら今しかないと開き直る。
「ううん。でもお姉ちゃんに会いたいときに会えないのは悲しいよ。私、こんな立派な高級マンションに住みたいわけじゃない。私がほしいのは、そういうものじゃなくて……」
『そうだよね。ごめん。だけど私は、どうにかして女優になるという未莉の夢をかなえてあげたいの』
「いや、それは私の夢だから、私ががんばってかなえるしかないと思うけど」
『違うわ』
 やけにきっぱりと否定する姉の声に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
『せっかくオーディションへ招待してもらったのに、未莉が落選したのは事務所の力が弱いからよ。笑顔なんか関係ない。私の力不足が原因なの』
「お姉ちゃん……」
 そんなことを考えていたとは思いもよらなかった。でも落選したのは私に笑顔がないせいだ。西永さんがそう言ったのだから間違いない。
「お姉ちゃんのせいじゃな……」
『ねぇ、チャンスだと思わない?』
 またもや私の慰めなどあっさり無視して、姉は小悪魔のように囁いた。
「何が?」
『守岡くんよ。しばらく彼と一緒に過ごしたら、ものすごく勉強になると思うの』
「ちょ、ちょっと待って。私は優輝がロケから戻ってきたら、新しく部屋を借りるつもりだよ。彼と一緒に住むなんて無理!」
『私はもう未莉の保証人にはならないわよ』
「えっ、なん……で?」
『だって未莉がそこにいてくれたほうが、私も安心だもの。守岡くんもそのつもりでいるから安心してちょうだい』
 安心――できるわけないでしょう!
 まぁ確かに、ひと晩同じベッドで一緒に眠ったけど手を繋いだだけで、ほかには何もありませんでしたよ。がっかりするくらい、何も、ね。
 だけどそれだけでこれからも安心だなんて言い切れないのでは。それに恋人でもなんでもない私が、守岡優輝と一緒に住んでいることが知れたら、全国の女性ファンから袋叩きにあっても文句は言えまい。
 ついでに、姉が聞き捨てならないことを言った気がする。
 優輝が私との同居を了承している――?
「守岡優輝もそのつもりでいるって、どういうこと?」
『あ、ごめん。そろそろ切るね』
 電話の向こうが、がやがやと騒がしくなった。姉はまだ仕事中だったのかもしれない。姉の返答を聞けないままそっけなく「ありがとう」と言って、慌ただしく電話を切った。
 この人に訊こうとしたのが間違いだった。静かになった部屋の中で私はしみじみ思う。となると、あとは優輝に突撃するしかない。
 姉はいつも自分勝手だ。都合のいいことばかり並べて、私の話を、私の気持ちを聞こうとはしない。
 それでもやっぱり彼女を嫌いにはなれない自分がいる。どんな姉でも、私にとってはたったひとりの姉だから。

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#06 彼女と彼と私のいけない関係 * 1st:2014/04/09


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