1年が残り少なくなってきたこの季節、パジャマに裸足で焼け出された私は、とりあえずコートを手に取ったのは正解だったと感じていた。大きなくしゃみが出たので、コートの襟元をぎゅっと握りしめる。
さっきから耳にあてがっているケータイからはプルルルルル、と心細い呼び出し音しか聞こえない。姉は仕事中だろうか。でも時計を見ると午前1時を過ぎている。寝ている可能性のほうが高い。マンションの固定電話にもかけてみたが、こっちはなぜか「お客様の都合により……」なんてアナウンスが流れてきた。
1度ケータイをコートのポケットにしまった。この時間に身を寄せる場所は限られている。とりあえず姉のマンションへ行ってみよう、と思いタクシーに乗る。
運転手に行先を告げたところでケータイが鳴った。
「お姉ちゃん、マンションが火事で燃えちゃって……」
『ええ!? 未莉、大丈夫なの?』
さすがに姉の声にも焦りが感じられる。でも声の調子からすると寝ていたわけではなさそう。……ってことは、彼氏と一緒にいるのかな。うわー、お邪魔しちゃってごめんなさい。
「うん。無傷で救出されまして……でも今、パジャマ姿な上、裸足なの」
『あらー、困ったわね』
「とりあえずお姉ちゃんのマンションに向かっているんだけど、お姉ちゃん、いる?」
姉が電話の向こうで息を呑んだのがわかる。あーやっぱり……彼氏と仲良くしている最中でしたかね。だから焦った声だったのね。
『今、マンションにいないのよ』
ええーっ! 外泊中!?
「そっか。……私、どうすればいいかな」
なるべく明るい声で言おうと思ったのに、湿っぽくなってしまった。というか、私は泣いていた。自分でも頬を伝う涙に驚く。
『未莉、泣いているの? 大丈夫なの?』
「大丈夫。でも私、通勤かばんとケータイ以外何もなくて、ケータイももうすぐ電池なくなっちゃうよ」
そうなのだ。今日に限って充電せずに布団に入ってしまったのだ。これでケータイが使えなくなったら、姉の連絡先さえわからない。
真夜中だから姉の事務所だって施錠しているだろうし、勤務先のカメラメーカーには守衛さんがいるかもしれないけど、契約社員がパジャマ姿で押しかけたら困るだろうし……。
脳裏に一瞬、柚鈴の顔が浮かんだ。だけど多忙な柚鈴の睡眠を妨げたくはなかった。
姉は考えているのか、ややしばらく沈黙していた。
『未莉、私のマンションで少しの間待っていてくれない? 管理人さんに連絡してみるから、できれば管理人室で待たせてもらって……』
「いや、外で待っているよ」
『ダメよ、パジャマなんでしょう? 風邪ひいちゃう』
「コートを着ているから大丈夫だよ」
『いいから管理人室に行ってみて。わかった? 30分くらいで行けると思うから』
「うん。ありがとう。ごめんね、お姉ちゃん」
言いながら涙がぽろぽろとこぼれた。姉が来てくれると思ったら、今度は安堵の涙がこみ上げてきたのだ。
電話を切って車の座席に背中を預ける。タクシーの運転手が「よかったですね」と言った。本当によかった。……姉がいてくれて。
そうして姉のマンションに到着したけれども、しばらくぶりにやって来た姉の高級マンションは、やはりパジャマにコートを着ただけの若い娘が裸足でうろつくような場所ではなかった。
気を取り直し、とりあえず入口へ。ガラス張りのエントランスでインターホンに姉の部屋番号を打ち込んでみたが、予想通り応答はない。管理人室と書かれたドアを見つけたけど、どうやら管理人さんは眠っているらしく、窓は真っ暗だ。
うーん、どうしよう。ここで30分くらいなら待っていてもいいかな。夜風がしのげるだけでも十分温かい。足は冷えるけど仕方ない。姉の部屋に入れてもらったらお風呂を使わせてもらおう。
明日というか今日は会社お休みしてもいいだろうか。こんな大変な目に遭った翌日だから、休んでもいいよね。通帳燃えちゃっただろうし、銀行にも行かなきゃ。それから次の住む場所も探さないと……。
これからのことを考えていると、タクシーがマンション入口前に止まった。後部のドアが開いて、細身の男性が見える。マンションの住人がこんな時間に帰宅したらしい。
私は自分のみすぼらしい姿を恥じ入り、少しずつ隅へ移動し、コートの前を閉じてタクシーに背を向けた。バンと車のドアが閉まる音と、エントランスの自動ドアが開く音がほぼ同時に聞こえる。
「お待たせ」
耳に届いた声が、私に向けられたものだと気がつくのにしばらくかかった。
「え?」
振り返ったときには、もうオートロックのカギが解錠されている。
「足、血が出てる」
「え?」
足元を指さされて驚いた。私が移動したところに、うっすらと血痕が残っている。
いや、驚くべきところはそこじゃない。
タクシーで帰宅したその男性が、私に近づいたかと思うと、突然私を横抱きにした。
すごい! お姫様抱っこなんてはじめて!
……なんて感激している場合ではない。
いや、ある意味、感激している場合なのかも。
私はなぜか守岡優輝にお姫様抱っこをされて、高級マンションのエレベーターを上がっていった。
「あの、ここは姉の部屋……ですよね?」
私が姉の部屋と記憶しているドアに、優輝がカギを差すので、おずおずと尋ねた。
優輝は無言でドアを開けると、手でどうぞと中へ入るように促す。
「えっと、足が汚いんですけど」
ドアを閉めると優輝は土間に突っ立っている私を遠慮なしに上から下まで眺めまわした。
「とりあえず風呂に運ぶ」
「すみません」
「火事になるようなマンションに住むな」
「は?」
とっさに反論しようと意気込んだが、身体がふわりと浮いて言葉を失う。またしても横抱きにされているのだ。すみません、重くて……。
バスルームに到着すると、コートを脱いでバスタブに腰かけるよう指示された。
「お嬢様、足を洗って差し上げます」
シャワーを手にした優輝は、腕まくりをして私の前に跪いた。
な、なんで突然執事とお嬢様な設定になっているの!?
それに私、みすぼらしいパジャマ姿でものすごく恥ずかしいんですけど!
「え、いや、自分でできます!」
「いえいえ、お嬢様はお疲れでしょうから」
なんだかノリノリの優輝と、生地がペラペラの安物パジャマが気になって仕方のない私とで、シャワーヘッドの奪い合いになる。
「いや、そんなこと頼めな……!」
「未莉、言うことを聞……!」
ふたりの言葉が重なった瞬間、シャワーから勢いよく水が噴出した。
「な、なんでー!?」
「なんで、じゃねぇ。ここにスイッチがついているんだよ。だから言うことを聞けっつーの。どうしてくれるんだよ、俺までびしょ濡れになっちまっただろうが!」
シャワーヘッドについているスイッチを押してしまったらしく、私が優輝に向かってシャワーを噴射する格好になった。これは、誰がどう見ても私が悪かった。
「ごめんなさい」
優輝はしたたる水滴を拭いもせず、立ち上がってバスタブの栓をし、湯を張るボタンを押した。それから私を見下ろして小さくため息をつく。
「気にすんな。風呂、先に入れ」
「でも優輝も濡れてるし……」
「俺を心配するなら早く上がってこい」
そう言い置いて優輝はバスルームを出ていった。ひとりになった私は、一連のできごとについていけず、首をひねる。
まず、住居が火事になり真夜中に焼け出されたから、唯一の肉親である姉に電話して助けを求めた。ここまでは何も間違っていないはず。
問題は姉のマンションに着いてからだ。
えっと、ここは姉のマンション……だよね?
姉も電話では30分くらいで来るって言ったよね?
だけど実際にやって来たのは、姉ではなく、なぜか守岡優輝だった。……なんで?
しかも優輝は私に『お待たせ』と言ったような気がする。つまり、優輝は姉に頼まれて私を迎えに来たということ?
そして優輝は姉の部屋のカギを持っていて、私をここへ運んでくれた。部屋の内部は玄関からバスルームまでしか見ていないけど、明らかに姉が住んでいたときと家財が違っている。余計なものは一切なくてシンプルなのだ。姉があんな色気のない黒い傘を使うとは思えない。
ということは、ここは優輝が住んでいる部屋なのだろう。
結局、わからないのは姉と優輝の関係だ。そういえばひと月前のあの夜、優輝は『紗莉さんには恩があるんでね』と言っていた。それがこの部屋……?
考えても答えが出るわけではない。
とりあえずパジャマを脱いでバスルームの外へ置く。足を洗って、シャワーを浴び、バスタブに浸かった。温かい湯がじんわりと身体の内部の緊張をほぐしてくれる。真冬の寒空の下、パジャマにコートをはおっただけの姿では冷えて当然だ。風呂を貸してもらえたのは、本当にありがたいことだった。
バスルームから出ると、タオルと着替えが用意されていた。いつの間にか優輝が置いてくれたらしい。
着替えのパジャマは男性用で私にはぶかぶかだったけど、なんだかほっとした。だってここで女性用のパジャマが出てきたら、どうしたらいいかわからなくなるもの。
それにしてもこのパジャマ、どうやらシルクなんです。いや、タグを見たから間違いない。シルクなんです!
ますます私が着ていた安物のパジャマが恥ずかしくなる。もう、いっそのこと捨ててしまいたい。そう思いながら安物パジャマを小さく丸め、洗面所から廊下へ出た。
「お風呂、ありがとうございました」
声を張り上げると、優輝がリビングルームから顔を覗かせた。濡れた髪の毛は拭いたらしく、シャワーでびしょ濡れの痕跡はない。
「じゃあ俺も風呂入るから、後は適当にやっていろ」
「あの、ここって姉の部屋でしたよね?」
引き留めるべきではない、とわかっていたが、これだけはどうしても聞いておきたくて、早口で尋ねる。
優輝は表情を変えずにじっと私を見つめた。
「そう。訳あって今は紗莉さんから俺が借りている」
「私がここに来るって、姉から連絡があったんですか」
「撮影中だったけど、未莉のために飛んで帰ってきた」
「えっ」
「未莉が泣いているって聞いたから」
「な……!」
ウソでしょ!?
私は優輝を凝視した。すると優輝はニッと口の端を上げて見せる。
「泣いた?」
「いや、私が泣いたかどうかより、撮影を抜け出してきたことのほうが問題かと思いますが」
「じゃあ放っておいてほしかった?」
「そ、それは……」
「とりあえず風呂。話は後で」
「は、はい。いってらっしゃいませ」
言ってから、しまったと思ったけど遅かった。すれ違いざま、優輝は私の耳たぶをつかみ「『いってらっしゃいませ、ご主人様』だろ?」と嫌味たっぷりな声で囁いた。
リビングルームにはテレビとソファ、ローテーブルがあり、そのテーブルの上にペットボトルのお茶が置いてあった。『適当にやっていろ』というのはこれを飲んでいいということだろう。キッチンからコップを調達し、風呂上がりの喉の渇きを潤した。
あらためて部屋を見回してみる。間取りは確かに姉の部屋と同じで、こうしてよく観察するとやっぱり姉の部屋だったかな、という気がしてくるけど、姉の荷物らしきものはひとつも見当たらない。
壁際には本棚が並び、小説本や雑誌がぎっしり詰め込まれている。どうやら守岡優輝という人は想像以上に勉強家らしい。
ほかには、役者だから当然かもしれないけど、ラックにDVDがずらりと並んでいて壮観だった。ああ、この作品好きだったな、とタイトルを眺めて懐かしく思っていると、向こうのほうでドアが開く音がした。ご主人様のバスタイムが終わったらしい。
「あの……」
と、廊下を覗いた私は、文字通り飛びのいた。廊下に背を向けて、手で顔を覆う。
「なんて格好しているんですか!」
「俺の家で俺がどんな格好していようと自由だろ」
それはそうですよ。でも、私がここにいるのを知っているくせに、腰にタオル巻いただけの姿で廊下をうろつくのはダメでしょう!
「困ります!」
「誰が?」
「私が」
「なんで?」
「み、見たくないからです」
「ふーん。じゃあ見なきゃいいだろ」
あ、そうか。……じゃない!
「ダメです! 見たくなくても目に入るから困ります」
「まぁ、その主張は正しいな」
そうでしょう。そうでしょう。
フェアなところもあるんだな、と優輝を少し見直したときだった。
「じゃあ、慣れろ」
「……はい? 今、なんと?」
「だから」
なんだか優輝の声が背後に近づいてきた気がする。嫌な予感がするけど、それはきっと気のせい……。
そんな祈りにも似た私の想いはあっさりと踏みにじられる。
頑なに顔を覆い隠す私の手を、優輝がそっとつかんだ。風呂上がりのせいで優輝の手が熱い。その熱を次の瞬間、私は身体全体で知ることになる。
「慣れろよ。しばらくここ以外に行くところないんだろ?」
優輝の腕の中で聞いたそのセリフは、とろけるように甘くて、心を食い尽くしそうな不安までも溶かしていく。まもなく胸の内側で何かが爆(は)ぜた。
頭上でクスッと笑う声がした。
「やっぱり泣いた」
「泣いてなんか……ない」
私はウソつきだ。涙が次から次へとあふれて止まらない。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
優輝の大きな手が私の頭を撫でた。まるで子どもをあやすような手つきだけど、それが心地よくて、つい封じ込めていた想いをすべて解放したい衝動にかられる。
ダメだよ。だって違うもの。これはただの慰めだから……。
そうやって勘違いしないようにがんばっていたのに。
「未莉には俺がついている。だから好きなだけ泣いていい」
このダメ押しのせいで、私はしゃくり上げるまでみっともなく泣いた。今だけならきっと許される、そう信じて――。
#04 おまたせ * 2nd:2014/03/23 1st:2013/12/29