この作品は2014/11/27 Berry's Cafeの壁ドン企画で公開したものです。



 けだるい昼下がりのオフィスで思うことといえば、明日にでも突然上司が渋い美中年にならないだろうかとか、季節外れだけど年下のかわいい同僚が増えないだろうかとか、本当にくだらないことばかり。
 ルーティンワークを繰り返す毎日は、あまりにも刺激が不足している。
 目の前にある図面の番号と同じ数字をモニターの中に探しながら、上司と年下同僚のどちらがより刺激的か考えてみるが、両方が揃えば最高に刺激的だと気がつき、私はこの思いつきに内心でにんまりとした。
 承認作業を黙々と進めていると、背後から「奈保子さん」と私を呼ぶ声がした。
 振り返ると眼鏡の孝平(こうへい)くんが突っ立っていた。
「これもお願いします。今日中に、と言われたんで」
 私は彼を見上げ、あからさまに嫌そうな顔をした。
「承認は孝平くんでもできるでしょ? 急いでいるなら自分でやればいいじゃない」
「すみません。僕、まだ権限ないんで」
 肩をすぼめて遠慮がちに図面をこちらへ差し出す孝平くんの姿は、私の苛立ちをますますあおった。
 ひったくるように図面を受け取ると彼に背を向ける。
「わかった。すぐにやっておく」
 冷たい調子で言い放つと、背後で孝平くんがすまなそうに立ち去る気配がした。
 手にした図面を見る。
 私は奈保子という自分の名前があまり好きではない。この部署にいる人間は誰もがそれを知っている。だから私を呼ぶときはみんな「なおちゃん」と言う。
 しかし唯一年下の孝平くんだけは、いつまでも「奈保子さん」を貫いていて、それが気に入らなかった。ついでにいえば、彼の眼鏡が許せないほどダサい。眼鏡を変えるだけで、少しはまともに見えそうなのに、本人にはそんな気がまったくないのだ。
 はぁ。大きなため息をついて、モニターを見据える。
 日常とはこんなもの。
 だけど私は性懲りもなく明日もイレギュラーなハプニングを期待してしまうだろう。そんなものは起こりやしないとわかっていても、期待するだけなら誰にも迷惑がかからないのだから。


 私の勤務するこの会社では、秋に恒例の社員旅行があり、病気でもない限り全員参加が義務づけられている。
 旅行といっても場所はバスで3時間弱の温泉で、取り立てて珍しいものがある場所でもなく、ただ宴会と温泉のために行くようなものだ。はっきりいってつまらない。仮病を使ってキャンセルしたいくらいだ。
 でも今年の私は少し違って、ひそかにこの社員旅行を楽しみにしていた。
 というのも、宿泊がこのあたりでももっとも人気のある有名ホテルへ変更されたのだ。このホテルは洗練されたおもてなしで一躍話題になり、休日は予約が取れないらしい。
 そんなところに堂々と泊まれるのだ。楽しみでないはずがない。
 一緒に行く相手が彼氏だったらもっといいのだけど、残念ながら私はもうすぐ恋人がいない歴2年になろうとしていた。


「で、なおちゃん、彼氏できた?」
 酔っぱらった同僚が私の前にドンと腰をおろし、ぶしつけにそう言った。
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
 私はあくまで笑みを絶やさないようにしながら答える。実際、どうでもいい話だ。
「よくないでしょう。やっぱり女の子は男にかわいがってもらわないと、な」
「かわいがってもらわないと、どうなるのよ? それに私、もう女の子という歳でもないから」
「俺よりひとつ下だろ? まだ26だろ? つーか女の子はいつまでも女の子でいいんだよ」
「で、男にかわいがってもらえないと、どうなるわけ?」
「ひねくれて、かわいくなくなるんだよ」
 頬を上気させ、普段より数倍饒舌な同僚をじっと見つめる。
「なにそれ、私にケンカ売ってるの?」
「違う、違う!」
 急に彼は私に顔を近づけた。鼻先にきついアルコール臭。私は身を引く。
「なおちゃん、俺と付き合わない?」
「……は?」
「かわいがってあげるよ」
「遠慮しておく。私にも一応選ぶ権利があると思うんで」
 きっぱり告げると、同僚は不満そうな表情でわざとらしいため息をついた。
「そうだよな。でも気が変わったら言って。俺はいつでも待っているから」
 私は苦笑いを浮かべた。酔っ払いの戯言でも、好意を寄せられるのは悪い気がしないものだ。少し冷たくしすぎたかな、と思いながら立ち去る彼の背を見送る。
 そこに「あれぇ」という上司の大きな声が聞こえてきた。
「孝平くん、さっきから姿見えないけど、大丈夫かな。トイレ?」
「たぶんトイレですよね。それにしてももう30分くらい経っている気がしますけど」
 40代後半のベテラン女性社員が答えた。宴会場には心配する声が飛び交うものの、誰も見に行こうとはしない。
 ちょうどいいタイミングだったから、私は立ち上がった。
「私、トイレついでに見てきますね」
「おっ、なおちゃん、頼んだよ」
 上司は無責任な感じに手を振って私を送り出してくれた。
 襖を閉めて通路に出ると、空気がひんやりとしていて気持ちがいい。とりあえずトイレに向かう。孝平くんの姿は見当たらないが、気にせず女子トレイに入った。

 手を洗ってトイレから出た私は、まっすぐ宴会場には戻らず、人気のない通路を覗いてみた。いくつかの広間の前を通ったが、どこも賑やかな声が漏れてくるだけで、異変は見つからない。
 そして孝平くんらしき人影もない。
 男子トイレに入ることはできないから、誰かを呼びに行こうと通路を引き返す私の背後で、襖の開く音がした。
「ちょっと待ってよ。逃げる気?」
 慌てたような女性の声が耳に届くのと同時に、誰かが私の腕をつかんでいきなり走り出した。引きずられるようにして私も足を動かす。
「な、なんなの、これ」
 階段を駆けおりる。私は前を走る男に言った。息が上がって、それだけ言うのがやっとだった。
 どうやら私たちがおりてきた階段は非常用だったらしい。1階にたどり着くと、防火用の重そうなドアが目の前に立ちはだかった。
「このドア、開くと思う?」
 そこで初めて私の腕をつかんでいた男が振り向いた。
 私は思わず息を呑む。
「どうしてそんな目で見るわけ?」
「何、その格好……」
「いいから、質問に答えてよ」
 胸がドキドキと音を立てる。この動悸は走って階段を駆けおりたせいで、決して彼の浴衣の胸元がしどけなく着崩れているせいではない。そう私は自分に言い聞かせた。
「ドアは開く、と思う」
「じゃあ行こう」
 どこへ?
 そんな問いかけの隙も与えない素早さで彼はドアを開けた。
 ドアの向こうは小さな温室になっていた。日中は日当たりのよさそうなガラス張りの空間だが、今は離れた外灯の淡い光しかなく、蛍光灯の明るさに慣れた目には暗闇と大差なかった。
「本当に、孝平くん?」
 遠慮なく温室へと踏み込んでいく背中に、おそるおそる声をかける。
「さぁ?」
「眼鏡はどうしたの? それに……」
「眼鏡は壊れた。いや、正確には壊された、だな」
 口調は異なるけど、声は間違いなく孝平くんのものだ。
「見えるの?」
「まぁ、ぼんやりと」
 私も彼の後を追って温室に入る。植物の香りが濃い。
「みんな孝平くんのこと、心配していたよ」
「奈保子さんが探しに来てくれるとは思わなかった」
 急に彼が立ち止まった。私も足を止める。
「トイレにいくついでに……」
「だろうね」
 笑いを含んだその声は、私の心の奥のほうを削り取るような鋭さがあった。
 温室を一周すると、彼は急に上を見上げた。
「星が見える」
「えっ」
 つられて空を仰いだ私は、次の瞬間、冷たいドアに背を押しつけられていた。星の残像がまぶたの裏に煌めく。
 唇が重なったのだと気がついたときには、彼の柔らかい舌が私の唇をこじ開けようとしていた。
「な、な、何よ、これ」
「口止め」
「は?」
 耳のそばでダンと鉄製のドアが音を立てた。
「誰にも言わないって約束してよ」
「言わない……って何を?」
 彼の顔が再び接近する。逃げたくとも彼の腕が私の逃げ場を奪っていた。
「部屋を間違えたんだよ」
「……あ」
 恥ずかしそうに目をそらした彼の表情に釘づけになる。
「そこがコンパニオンの控室でさ。お姉さま方にいいように遊ばれてたわけ」
 ああ、なるほど。
 確かに彼はいかにもひ弱そうで、からかいたくなるような立ち居振る舞いをしていた。私はそれにイライラさせられたけど、世慣れした女性におもしろがられるのも無理はない。
 でも、と目の前の彼を見つめる。彼も私をまっすぐに見た。
「眼鏡、ないほうがいいよ」
 私は正直に言った。彼の目が少し細くなる。そしてもう一度唇が触れた。
「キスするのに邪魔だから?」
 彼が悪魔のように微笑んで言った。私も同じように笑う。
「それもあるけど、それだけじゃない」
「へぇ、それって褒め言葉?」
「……たぶん」
 孝平くんが嬉しそうな表情をした。まだ胸がドキドキしている。頬が熱いのはアルコールのせい?
 それとも――。
「ねぇ」
 コツンと額同士がぶつかる。
「このドア、開くと思う?」
 私は彼のきれいな瞳に視線だけでなく心までも吸い寄せられそうだった。
「今はまだ……開かない」
「じゃあ『いいよ』って言って」
 懇願するようなセリフに目を見開くと、彼はまぶたを閉じる。
「これから、ふたりきりのときは『なお』って呼ぶから」
 ああ、それ、いいかも。
 そう思った途端、ふふっと笑ってしまった。
「本当に、孝平くん?」
「さぁ?」
 彼もニッと笑う。
 まさかこんなふうにイレギュラーなハプニングで出会うとは思わなかったけど。
「でも俺、なおの冷たい視線も好きだから」
「……は?」
「そういうとろけそうな顔は、俺の前だけにしといて」
「なによ。そこ、キスマークついてるわよ!」
 焦って鎖骨のあたりを擦る彼の慌てた表情さえかわいく思えるなんて、私もどうかしている。でもかわいい年下の出現に、いや発見に、少しくらい浮かれてもいいよね。
 明日から始まる退屈じゃない毎日――。
 その予感ではしゃいだ気分の私は、彼の腕を強く引っ張って思い切り背伸びをすると、驚いた顔の彼にキスをした。