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第一部 1

     今でも鮮明に覚えている。

     あのとき、彼が私に言った言葉。

    「もうお前のこと、前みたいに好きじゃなくなったわ」

     そのあとのことは覚えていない。





 沙希(さき)はなにげなく手に取った書類に目を通した。次の瞬間、ドクンと心臓が飛び跳ねるような感覚に襲われた。

 そこには明日から隣の課に配属になる新入社員の名前が書いてある。

『浅野 陸』

(アサノ リク……?)

 心臓がドクドクと音を立てるのがわかる。沙希はその名前から目が離せなくなった。

(……いや、この世に同姓同名なんて珍しくない、よね?)

(……そうだ。きっと同姓同名で、同じ学年の……)

「川島さん! 川島さんってば!」

「は、はいっ!」

「どうしたの? ぼーっとして」

「あ、いや、えっと……」

 いつの間にか背後に立っていた太田里美(おおたさとみ)の不審な顔を見て、沙希はようやく我に返った。

「ああ、それ、明日から来る新卒のコね」

 太田は沙希が手にしている書類をチラっと覗いてから、隣のデスクにドカっと抱えていたファイルの山をおろした。

 彼女は沙希より7つ上の先輩だ。職場結婚をし、2人の子どもがいる。しかしスラリとした背格好は20代に見えるし、黙っていれば彼女が母親であることに気がつく人はいないだろう。

「なんでもT大卒のイケメンくんらしいよ」

 お局キャラではないものの、愛想のよい太田はさすがに情報通で、明日からこのフロアにやって来る新人の噂をすでに聞き及んでいたようだ。

(T大? ……それなら間違いなく同姓同名の他人だわ)

 安堵した沙希は、ラベルプリンターで『浅野 陸』シールを作成し始めた。彼のデスクや持ち物につけてもらうために、事前に準備しておくのだ。

「なにか気になることでもあったの? 浅野くんに?」

 隣から太田がしつこく突っ込んできた。

「いえ、私、なにか変でしたか?」

 沙希は平静を装って答える。

「うん。でもまぁ、沙希ちゃんはいつも変だから」

 太田先輩は勝手に納得すると、ファイルを広げて仕事を始める。切り替えが早い。

 その様子を横目で見ながら、沙希はひそかにホッと胸をなでおろした。





 川島沙希(かわしまさき)は音響・映像系を得意分野とする電機メーカーK社のOLだ。北国出身の27歳である。

 大学は出たものの、とりわけ高い志があるわけでもなく、仕事ももっぱら庶務ばかり。

 このような電機メーカーでは、文系出身の沙希にできる仕事はそんなものしかない。いや、あるのかもしれないが沙希自身にそこまでの上昇志向がないのだ。

 だから現状には特に不満はなかった。

 毎日決まった仕事を決まったように片付けると、ほぼ定時に退社できる。そして給料もそれなりにもらえる。土日が休日の完全週休2日で、その他にも様々な休暇を取得することができた。

 こんなに理想的な職場が他にあるだろうか、と思う。

 結局、沙希は仕事に生きがいを求めていないのだ。仕事は生活の糧でしかない。

 それでも今の仕事は、ある程度やりがいを感じるから好きだった。

 この会社の営業部は1課から3課まであり、所属している社員も50名近い。沙希自身は1課の所属になっているが、実際は1課から3課までの庶務をほぼひとりでこなしていた。

 明日から隣の課に配属になる新人のデスクなどの準備も沙希の仕事だが、今回は人事からの連絡が遅れたため、先ほど初めて新人の名前を知ったのだった。

「コピーとってきますね」

 隣の太田に声をかけて席を立つ。

 コピー室に向かいながら、そっと隣の課を覗く。

 覗くといっても沙希の所属している営業1課と隣の2課の間にはパーテーションすらない。広大なフロアにところ狭しとデスクが並べられているが、席に着いて仕事をしている人影はまばらだ。

 明日からここに新人がやってくる。

 彼の名は『浅野 陸』。そしてT大卒のイケメンであるらしい。

(まぁ、アイツもイケメンだったな。イケメンというより女の子みたいなかわいい顔だったけど)

(でもT大は絶対無理だし。だって私がアイツに教えていたころは、大学を目指すこと自体が無謀な成績だったもん)

(だから、別人……だよね。たぶん)

(でも、もしかして……もしかしたら、どうしよう……)

 沙希はコピー機から次々に輩出される紙をぼんやりと眺めながら、明日やってくる新入社員の名前を反芻(はんすう)していた。


     


 沙希が知る「浅野陸」と出会ったのは、大学4年のときだった。

 彼は当時高校2年生で、家庭教師の派遣会社からの依頼を受けて、沙希が1年だけ彼の勉強を見ることになった。

 初めて会う日、彼は自宅の近くにあるファストフードまで迎えに来てくれた。

(あのコかな?)

 所在なげに立っている少年の姿が見えた。線が細くて、思ったより背が高い。

 彼も沙希に気がついたようだった。

 視線が合う。

(……あ)

 なぜか目が彼から離せなくなり、心臓がドキッと音を立てたのがわかった。

(なんだろうな、この感覚)

 彼も黙って沙希を見つめていた。

「えっと……浅野くん?」

「そう。……先生?」

「はじめまして」

 それが彼と交わした最初の言葉だった。





 そして1年が経ち、彼と最後に話したのは確か電話だったはずだ。

「もうお前のこと、前みたいに好きじゃなくなったわ」

 沙希が聞いた中で一番冷たい声だった。

 意味が、わからなかった。

 本当にこれで最後なんだと思った。

「もう会えないんだね」

「そう……かもな」

「じゃあ、もう私からは電話しないね」

「…………」

「じゃあ、体に気をつけて、元気でね」

「……ありがとう」

 電話を切った沙希はあまりのショックに涙が出なかった。

 その代わり、一睡もできず、翌日は一日中泣き明かした。

 自分の中にこれほど激しい感情があると知ったのは、このときが初めてだった。

 そう、沙希は浅野陸という少年を愛した時期があったのだ。


     


(あれからもう5年か)

 沙希はカルピスサワーを飲みながら、昔のことを思い出していた。

 忘れたのではなかった。

 本当はどんな冷たい言葉でも、一字一句正確に、陸の声で再生することができる。

 しかし沙希は思い出すことを極力避けていた。かさぶたを無理にはがせば、傷は治りにくくなる。まだ自分が完全に癒えていないような気がして怖かったのだ。

 だから過去は封印して、できることなら生まれ変わったような気持ちで、幸せな恋愛――などというものがこの世に存在するなら――をしてみたかった。

 なのに沙希は今も、過去のある地点に立ち止まったままでいる。動き出したいという希望は、いつの間にか沙希の中にある暗い闇に呑み込まれてしまうのだ。

 グラスを傾けると、氷がぶつかる音がした。

 そういえば最後に陸と会ったのはいつだろう。沙希はグラスの外側についた水滴が滑り落ちていくのをぼんやりと見つめた。

(よく考えると、4年前にも会っているんだ。あれは浅野くんが高校3年生の誕生日――)

 正確には、あの電話が「最後」ではない。だが、ふたりの恋愛はやはり5年前のあのときに終わったのだ、と沙希は改めて思う。

「ちょっと、川島さん、聞いてる?」

「え?」

 向かいの席に座る男が大げさにため息をついた。

「今日はどうしたの? 全然食べないし、上の空だし」

「あ、すみません。ちょっと考えごとを……」

「ま、いいけどね」

 呆れたように返事をしたのは隣の課の矢野主任だ。

 矢野とは、付き合っているわけではないが、たまに食事をする。

 沙希は気の合う異性の友人のつもりで接しているが、矢野が沙希をどう思っているかはわからない。知ろうとも思わなかった。

 矢野が沙希に理解を示してくれる数少ない身近な人間であることは、疑いようもない事実だ。それに仕事のできる若手社員として尊敬の念も抱いている。

 しかし沙希には矢野との恋愛を想像することができない。

 沙希より3学年上で30歳の矢野は、甘いマスクの好青年で女性社員にも人気がある。

(いい人なんだけどな。こういう人と恋愛すれば幸せになれるのかも)

「川島さん、俺の顔に何かついてる?」

 無意識のうちに矢野を凝視していたらしく、彼は恥ずかしそうにナプキンで口を拭いている。

「えっと、目と鼻と口と眉毛が」

「なんだよ、それ」

 ふてくされた顔をする矢野を見て沙希は笑った。

 いつまでもこういう軽口を言える気軽な関係がいい。そして男女の間にも友人関係が成立すると信じたい。

 こんな関係が1年も続いているからだろうか。勝手ないいぐさだとわかっていても、沙希はそう望まずにはいられなかった。

 カルピスサワーを飲み干して、思い出したように話題をふる。

「明日、矢野さんのところに新人が来ますね」

「ああ。俺、彼の指導係になっちゃったんだよね」

「T大卒らしいじゃないですか」

「そうそう! ……なんでそんなヤツが営業とか来ちゃうかなぁ」

 言われてみればそうだな、と沙希も思う。

 沙希の気持ちを読んだのか、矢野は小さな声で言った。

「なんか、部長がチラっと言ってたけど、上と関係あるらしい」

「……上?」

「詳しいことはわからないけど、たぶん会長じゃないかな?」

 沙希は眉間に皺を寄せる。

「だからほら、会長の親戚関係とかさ」

「ああ。それはまた、ずいぶんと大物ですね」

「そう。だから指導係が俺で大丈夫なんだろうか」

「そうですね……」

「……ん? その『そうですね』ってどういう意味だろう?」

「いや、きっと女性社員は喜びますよ。イケメンがイケメンを指導するってことで」

「え? なに? 川島さんも俺をイケメンだと思ってくれるわけ?」

「それはどうでしょうね」

 沙希はクスクスと笑いながら、はぐらかした。

「実際、そこのところ、どうなの?」

 珍しく矢野が突っ込んでくる。

「どうって……矢野さんは女性社員に人気ありますよ」

「そうじゃなくて」

 矢野が大きな声を出したので、沙希の肩がビクッと震えた。

「川島さんが俺をどう思うかってこと」

「……矢野さん、酔っ払ってます?」

「いや、全然」

 矢野はいつになく真剣な顔で、まっすぐに沙希を見ていた。

「なんで急にそんなこと……?」

「聞いてみたいから、さ」

「……それは難しい質問ですね」

 沙希は苦しまぎれにそう答えた。

 頭の中に危険信号が点滅している。早急に軌道修正しなければ、この展開はまずい。

 矢野が期待する返答と、沙希の心の中にある本音はたぶん違う。

 しかし本当のことを口にしたら、沙希が望む矢野との関係は終わってしまう気がした。

「……ごめん、困らせちゃった?」

「……いいえ。でも答えにくいです」

「そうか。ごめん。そういえば、川島さんはかわいい年下が好きだったよね?」

「あ、いや……それは昔のことで」

 沙希はいきなりしどろもどろになった。

 好みのタイプを聞かれると冗談まじりで「かわいい年下」と答えているのだが、このタイミングで言われるとなぜかひどく狼狽した。

(そうか。さっき浅野くんのことを考えていたからだ)

「じゃあ、明日が楽しみじゃないか」

 矢野はニヤニヤしながら沙希の顔を覗き込む。

「……どうでしょう? 私も27で、若くはないし」

 沙希はシニカルに笑った。すると向かい側から残念そうな声が返ってくる。

「27はまだ十分若いのに、どうしてそういう言い方をするんだろう。ていうか、川島さんがずっとフリーなのが不思議で仕方ないよ」

 今日はずいぶんそっちの方向へ話を引っ張るな、と沙希は内心苦笑した。

「もう、いいんですよ。恋愛は」

「なに……それ?」

「私、結婚願望とかないですし……なんていうか、恋愛は疲れるというか……」

 矢野は眉をひそめた。

「それは……前の恋愛を引きずっているせい?」

「引きずってはいませんけどね」

「じゃあ、恋愛が嫌になるようなことがあった、とか?」

「ないですよ、なにも」

「川島さんの年齢で、しかもそのルックスでそんなこと言われたら悲しいよ。川島さんと付き合いたい男はいっぱいいるのに」

「いませんよ、そんな物好き」

「わかんないなぁ」

 矢野は額に手を当てて後ろの背もたれにドカッと寄りかかった。

「もったいない! 俺が川島さんなら男を『ちぎっては投げ、ちぎっては投げ』するぞ」

 沙希はプッと噴き出して「なんですか、それは」と小声で突っ込む。

「でもそういうクールな感じも、きれいなお姉さんが好きなヤツにはたまんないだろうな」

「それはかなりマニアックな人ですね」

「ていうか、本当に他人事だもんなぁ」

 矢野は小さくため息をついた。

「まぁ、だからこんなところで俺と飲んでるんだろうけど」

 沙希はそれには答えず、テーブルの下に視線を落とし、ただ自分の手のひらをじっと見つめていた。


     


 翌日、営業部長が新しく配属になった新入社員を紹介するために、臨時の朝礼を開いた。

 部長のあとに続く若い男性の姿を見て、沙希は自分の目を疑う。



(な! ……浅野くん!?)



 部長からの紹介が終わると、浅野陸は顔を上げ、そつなく新入社員らしい挨拶をした。

 そしてゆっくりと全体を見渡し、最後に沙希のところで視線を止めた。

 陸と初めて会った日と同じように、沙希の心臓はドキッと跳ね上がり、彼から視線を離すことができなくなる。

 陸も沙希をじっと見つめていた。

 時が、止まったかと思った――。

 

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