正直に言おう。今、俺は猛烈に気分が悪い。
一日の最後の授業をこんなに不愉快な気分で終えることになるとは思わなかった。
その不愉快の原因は、言うまでもない。俺の隣に座っている眼鏡女子だ。
舞が少しずつクラスメイトに興味を持ち始めたことは、俺にとっても嬉しいことではあるが、いくら広い心の持ち主の俺でも、俺以外の男に見とれるなんてことを許すわけがない。
――俺、俺って、自己主張激しいのか、俺。
とにかく、非常に面白くない。
あれから何度目かわからないが、もう一度堀内のほうへ視線を放った。「チャラ男」と呼ばれている割にこのクラスでは口数の少ない男だ。それもそのはず、高梨と付き合っているから、自慢のフットワークの軽さを披露する場面がない。
――しかし高梨もよくあんなヤツと付き合ってるよな。
チャラ男こと堀内は、高梨と付き合い始めるまで、学年でちょっとかわいいと噂される女子に片っ端から声を掛けていた。俺の目算では、当時の勝率は五分というところか。細身で案外整った顔だから、女子に毛嫌いされるようなタイプではない。
だが、彼女がいてもかわいい女の子を見つけるとすぐにちょっかいを出すから、付き合いが長く続いたためしがない。……それも高梨と付き合い始めるまでは、の話だが。
俺が思うに、高梨はとんでもない女だ。
まず彼女はこのクラス内の女子グループの枠を超越した存在である。一応、西こずえたちとは別のグループに所属しているようだが、西グループのメンバーとも仲がいい。舞のようにグループからはみ出している女子とも交流を持っている。
結束の緩い男子のグループなら比較的高梨のような立場の人間は多いのだが、女子グループは基本的にそこまで融通の利かないものだ。グループ内におさまりきらず、あちこちでいい顔をしていれば爪弾きに合う。
しかし高梨のすごいところは、決して「いい顔」をして歩いているわけじゃないということに尽きる。彼女は誰かに気に入られようだとか、取り入ろうとは一切考えていないのだ。
――いや、「考えていないように見える」というべきか。実はアレが計算されたふるまいだとしたら、それはそれで怖いな。
そしておそらく高梨の頭の中では男女の性差に対する観念が、一般的なソレと比べて自由なのだと思われる。普通、思春期を迎えると異性に対して「恥ずかしい」という感情が芽生えるものだが、高梨はきっとその感情が薄いのだろう。
堀内と高梨が付き合いだしたのは何がきっかけだったのか、俺は知らない。
気がつけば堀内が高梨に夢中になっていて、奔放すぎる高梨に堀内がいちいち嫉妬し、さすがのチャラ男もよそ見している暇なしに今日に至る、という感じか。
この場合、高梨の手綱さばきが絶賛されていいはずだ。ヤツらが付き合い始めて半年以上経つ。そろそろ堀内の「チャラ男」も返上していいんじゃないかと誰もが思い始めていたと思うから。
――しかし綾香さんも罪な人だな……。
俺は高梨に同情すると同時に、やっぱり高梨は堀内が好きなんだ、と変な実感を持っていた。
というのも傍観者の俺からすると、堀内の高梨に対する想いばかりが強くて、高梨が堀内を彼氏だと認識しているようには見えなかったのだ。
もしかしたら堀内の一方的な片想いなんじゃないか、と。
そのくらい高梨の態度はわかりにくかったと言える。
――まぁ、俺の隣に座っている人も高梨に匹敵するわかりにくさだけど。
だが彼氏彼女の内情ってヤツは他人には見えないものだ。当人ですら見えていない場合が多い。
結局、俺もそうなのだと思う。
夏期講習中に舞が俺を「女好き」と決めつけたのも、それまでに舞が腹の中に溜め込んでいた本音なんだろう。
――俺なんか全然マシだと思うけどな。
そもそも舞以外の女に対して誤解されるような態度をした覚えはない。
むしろ舞のほうが諒一と何かあったらしいのに、それを言わないばかりか、堀内に見とれるなんてとても許しがたい行為だ。
胸中には暴風が吹き荒れているが、表面上は何事もなかったように穏やかな態度を心がけている俺は、なんて物わかりのいい彼氏だろうか。
――しかも二人きりになったところで、舞の態度は今と全然変わらないっていうのが納得いかない。
あの高梨はどうなんだろう。堀内の前で特別に甘えたりするのだろうか。
隣の席に座る人を盗み見ると、普段と寸分違わぬ無表情を頬に貼り付けて、黒板を真っ直ぐに見つめていた。
「あのさ、今日は放課後残ってほしいんだけど」
帰りのホームルームが終わる寸前、俺は誰にも気づかれないように細心の注意を払いつつ、舞に囁いた。
「え、でも電車の時間が……」
「家に電話すれば大丈夫じゃない? ケータイあるんだし」
舞は俺の提案に対して目をぱちくりとさせ、肯定とも否定ともつかない、斜めに首を振るという返答をした。
――なにそれ。
思わず俺も目を丸くした。
ガタガタと椅子や机が動く音がして、クラスメイトは一斉に立ち上がる。さようならの礼だ。俺も慌てて立ち上がった。黒板の前には綾香先生の姿も見える。
「清水! 掃除が終わり次第、職員室に来なさい。学校祭の企画書の件で修正してもらいたい部分がある」
礼が終わった後、担任は俺に向かって大声を張り上げた。仕方なく「はい」と返事をした。
すっかり企画書担当と見なされているのは納得行かないが、企画書の内容を熟知しているのは俺しかいない。たぶん他のヤツが担任から指示を受けたところで、内容を正確に理解できるとは思えなかった。
箒を動かしながら舞の動向を探る。
――鞄はあるけど、どこ行った!?
しばらくすると舞は高梨とともに教室へ戻って来た。
高梨は最後の授業には席に着いていたが、完全に机の上に突っ伏していた。先生に注意を受けると「具合が悪いけれども授業は聞いている」と堂々と言い訳をし、それがなぜか簡単に許された。確かに顔面蒼白な上、目の周りだけが激しく腫れ、彼女がついさっきまで泣いていたということは誰の目にも明らかだった。
その高梨も少しは元気が出たのだろうか。舞を引っ張るようにして廊下へ出て行った。
――おいおい、どこへ連れて行く。
掃除当番の任務を遂行しつつ、さりげなく二人の行き先を探ろうとしたが、廊下にはもう舞と高梨の姿は見当たらなかった。
舞が高梨と連れ立ってどこに消えたのか、そればかりを気にしながら俺は職員室に向かった。
常に開け放たれたままの職員室のドアを形式的にノックして「失礼します」と小声で言った。戸口付近には誰もいないし、大声を張り上げても返事をしてくれる人はいない。
スタスタと目的地へ向かって進んでいくと、担任の机がある島に綾香先生の姿が見えた。
綾香先生は背筋をピンと伸ばして、真剣な表情で指導教員の話を聞いている。どこから見ても隙のない美しさだな、と思った。
そこに教頭が近づいてきた。
黒縁眼鏡をかけて、いかにも堅物そうな教頭は、綾香先生の前で立ち止まる。そして不意ににこやかな顔で話しかけると、彼女にせんべいの小袋を差し出した。
――え?
俺は自分の目を疑った。
――なんなんだ。教頭って暇なのか!?
対する綾香先生は恐縮しながらそのせんべいを受け取った。
なんというか、見ている俺まで心が洗われるような光景だ。これがせんべいでなければもっと美しいのに。心の中で教頭に向かって「もっとシャレたお菓子を渡せ」と叫ぶ。
「おい、清水。聞いていたのか?」
突然至近距離で担任の声がした。
「聞いていましたよ。消防からのお達しで照明付近の装飾は禁止」
「ふむ」
二の句が告げなくなった担任を密かに見下ろした。聖徳太子とまでは行かなくても、綾香先生を眺めながら担任の話を聞くことなど、俺には造作のないこと。ついでに言えば、脳内では舞と高梨が行きそうな場所を考えている。
綾香先生の様子をもう少し見ていたい気分だったが、用が済んだので職員室を後にした。
教室に戻ると室内は学校祭準備で活気に満ちていた。授業中は精気を失った抜け殻状態のクラスメイトたちが、息を吹き返したように忙しく働いている。
俺はリーダー格の菅原たちを呼んで、担任からの指示を伝えた。それから田中の作業を手伝おうと机の間を歩いていると、いきなり後ろから制服が引っ張られた。
振り向くと、しかめ面の堀内が俺を見上げていた。
「悪いな。清水にも迷惑かけてるみたいで」
「お前、何やってんだよ」
「マジに受け取らなくてもいいのに。アイツ、最近ちょっと情緒不安定なんだ」
「ふーん」
俺は急に気恥ずかしくなった。堀内と高梨の間にのみ存在する何かがチラッと見えた気がしたのだ。
「それで高梨はどこに行った?」
「たぶん図書室。でも少し放っておいてやってよ。話が終わったら教室に帰ってくるからさ」
堀内は自分の前髪を弄る。俺よりも数倍落ち着かない様子だ。
「わかった」
俺がそう答えると堀内は細い目を更に細くして笑った。いつものへらへらした笑い方ではなく、どこか心もとない笑顔を一瞬だけ見せたのだ。そしてすぐに前髪で表情を隠す。
堀内の席から離れ、田中が企画書と睨み合っている場所に到着したが、そこで俺は金槌を持ったまましばらくぼんやりしていた。
「清水、なんかあった?」
田中が不思議そうにこちらを見ている。
「なんでもない」
「あ、そう」
何の疑問も持たずにあっさりと作業に戻る田中の様子を眺めていると、開け放たれた戸口に女子二名が現れた。俺は反射的にそっちを見る。
――舞……!?
予想通り舞と高梨が並んで戻って教室へ帰ってきた。驚いたことに、高梨が比較的元気になっているのに、今度は舞の顔が青白く精彩を欠いている。
――どうなってんだよ!?
これは何かあったな、と直感が訴えるものの、クラスメイトがほぼ全員揃っている教室内では尋問することもかなわない。
だから俺は仕方なく作業に専念するふりをしながら、密かに舞の様子を観察し続けることにした。
そしてようやく待ちに待った下校時間がやって来た。
ちなみに舞はその後高梨によって強制的に学校祭準備を手伝う羽目になった。
舞がおろおろしているうちに、ベニヤ板を刷毛でひたすら真っ黒に塗りつぶす仕事が割り当てられた。これはお化け屋敷の外壁にあたる廊下部分に貼り付ける予定で、一部には人魂が浮遊するイラストなんかが描かれている。
人影の少ない駅までの道のりで、舞は真っ黒になった自分の手に驚き、それから恥ずかしそうに隠した。その仕草をかわいいと思いながら俺は自転車を押す。
「それで高梨とは何を話した?」
暗い夜道というのはそれだけでドキドキ感がアップする。やはりこれからは毎日学校祭準備を手伝わせよう。
「え……、何と言えばいいのかわからないのですが」
また舞の言葉が丁寧語になっている。俺は怪訝な面持ちで舞の表情を探った。
舞は俺と目が合うと、見てはいけないものを見たかのように、パッと目を逸らす。些細なことだが、俺は結構傷ついた。
「俺には言えないようなこと?」
「あ、あの……というか、実は私もよくわかっていないのですが」
まどろっこしいな。だが俺は次の言葉をじっと待った。
隣を歩いている舞が、大きく息を吸う。
次の瞬間、舞は縋るように俺を見た。
「アレが来ない、という場合のアレとは、やはりアレのことですよね? それって……」
――は!?
「アレ……が、来ない?」
俺の脳にミサイルが投下された。舞が何を言っているのか一瞬わからなくなり、わかった後も再び脳内で過激な爆発があった。
逆に一度問題のセリフを口にして気が楽になったのか、舞は俺に同情するような目をしている。
――あ!
俺は我に返った。
「それは高梨の話?」
「あの……まだわからない、ということですし、私にだけ話してくれたことのようなので、絶対に口外しないでほしいのですが」
「誰にも言えるわけない」
「あ、あの……」
舞は俺に言ってしまったことを後悔しているのか、しきりに指で唇を擦り始めた。
非難するつもりはないのだが、事の重大さにさすがの俺も動揺していたのだ。
――俺を信用してくれたのは嬉しかったんだけどね。
しかし、なんということだ。
――堀内! お前、何やってんだよ!
心の中でチャラ男を思い切り罵った。
そりゃ高梨が情緒不安定になるのは当然だろ。しかもそんなときに綾香先生にちょっかい出すとか、どうかしてる。
「もし、アレが来なかったら、……どうなるんですか?」
舞が泣きそうな表情で言った。
「まぁ、どうにもならないだろうね。まず産むか、産まないかを決めて、でもいずれにしろ高梨は今までどおり通学するのは無理だろうな」
「そ、そんな! どうしよう……」
その答えを俺に求められても困るのだが、実際世の中にはそういう事例がないわけではない。一般的には妊娠・出産は慶事であるにもかかわらず、この国で高校以下の学生が妊娠するということは禁忌なのだ。
そして産むにしろ産まないにしろ、世間からは白い目で見られてしまう。残念ながら一度貼られたレッテルは簡単に剥がすことができない。それが現実というものだ。
考え込むように舞は唇をギュッと噛み締めて下を向いた。
俺までいたたまれない気持ちになる。堀内と高梨に同情するわけではないが、これって高校生カップルのほとんどがぶち当たる壁の一つじゃないだろうか。
――つーか、これがもし俺たちの問題だったら、どうする!?
考えたくはないが、考えずにはいられなかった。
この先も舞との付き合いが続いていけば、少なくとも俺は、この問題を無視できないだろうと思うのだ。
しかし高校生の俺たちにはとてつもなく重い問題だ。……それまでの行為が簡単にできてしまう割には。
そうだ。急にいいことを思いついた。
「綾香先生に相談してみたら?」
「え!?」
舞は上目遣いで俺を見る。あ、その顔、何か勘繰っているね?
「だって担任には無理でしょ。高梨は誰にも言えなくて悩んでる。でも舞じゃアドバイスは難しい。となれば綾香先生は適任だと思うけど。経験も豊富だろうし」
「け、経験も豊富……」
舞の顔が赤くなるのを苦笑しながら眺めた。
「舞が言えないなら、俺が綾香先生に聞いてみるよ。かなり恥ずかしいけど」
「……いいえ。それくらいのこと、私にだってできます!」
キッと厳しい視線で俺を見据えた舞は、何だか頼もしかった。さっき泣きそうな顔をしていたのは誰だよ。
――でも、それってジェラシー?
俺は急にしっかりとした足取りで歩き始めた舞を愛おしく思った。
諒一と何があったのかは気になるけど、今俺の隣を歩いているということは信じてもいいよね? ……舞が俺を好きだっていう気持ち。
とはいえ、近いうちに絶対聞き出すつもりだ。押してだめなら引いてみる。これが駆け引きの鉄則だろ?
それにしても、キスもまだだというのに、いきなり「アレが来ない」なんて事態を考えなければならなくなるとは、他人事とはいえ大変なことになってしまった、と暗い夜道に甘いムードのかけらもない現状を内心嘆きながら、自転車を押す俺だった。
1st:2011/10/01