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夏休みの魔物 4



 普段、電車に乗る機会は滅多にない。通学は自転車だし、休日に家族と出かけるのは自家用車だ。だから電車という乗り物の融通の利かない部分があまり好きではない。

 でも舞と付き合うようになって、それがほんの少し変わった。むしろ融通の利かない部分が、俺にとって好都合になったのだ。

 今日も電車の時間に救われたな、と思う。そうでなければ舞ときちんと話すこともなかったかもしれない。彼氏、彼女という関係において、互いに話をしないうやむやな状態が一番よくないのだ。自然消滅への第一歩と言ってもいい。

 電車の心地よい揺れ具合に、本来なら睡魔が喜んで飛びついてくるところだが、今日はさしもの睡魔様も俺から距離を置いているらしい。

 ――疲れた。

 疲労が極限に達している。それも肉体的なものではなく、精神的な疲労だ。

 でも眠くはなかった。T市に着くまで一瞬でも眠ったほうが頭の回転もよくなるとは思うものの、眠くないのだからどうしようもない。仕方がないので、ただひたすら車窓の外の景色を眺めていた。

 家に帰り着き、夕食と風呂を済ませると俺はさっさと自室に引きこもった。そしてパソコンの前に座る。

 ――記憶障害……か。

 検索窓に「記憶障害」と打ち込む。

 こうしてインターネットが普及したおかげで、今は一瞬にして最新の情報を得ることができる。しかし情報が多くなりすぎてその取捨選択が難しいという難点もある。

 実際、検索結果の上位に現れるページに書かれていることが信頼できる情報かどうかはわからない。情報の出所も作成者も不明の場合がほとんどだ。それでも俺は検索結果の上から順番にページを開き、記憶障害に関する記事に目を通していった。

 そして何となくわかってきたことは、まず記憶障害を起こす原因は大きく分けて二つあるということだ。

 一つは心因性記憶障害。強いストレスなどの心の問題に起因する記憶障害ということか。

 もう一つは器質的記憶障害。つまり脳内の病変等に起因する記憶障害ということになるだろうか。具体的な例としては頭部外傷で起こる記憶障害などが上げられる。

 舞の場合は厄介なことにどちらの可能性も捨てきれない。そもそも俺自身が持っている情報が少なすぎて正しい判断ができるとは到底思えなかった。

 ――それにあの従兄の言うことを鵜呑みにしていいのか?

 おそらく諒一は自分の知っていることを俺に語ったのだろう。だが、それが全て正確な情報かどうかはわからない。諒一は目撃者ではないからだ。

 ――わからないことだらけだな。

 結局、小六だった舞が家族とともに交通事故に遭い、一番軽症だった舞に記憶障害があるが、本人はそれを全く知らない、というのが今のところ事実と考えられることだった。

 ――それで、それを知った俺はどうするのか?

 たぶん今の俺が考えなくてはいけないことはそれなのだ。

 ――どうって言っても……

 俺はパソコンをそのまま放置し、ベッドの上に仰向けになって横たわる。そして今日何度目かわからないため息をついた。

 天井をぼうっと見つめているうちに、身近に舞の過去と接点のある人物がいたことに気がつき、勢いよく身を起こすとケータイでメールを送る。用件しか書かなくても文句を言わない相手だから、気兼ねなく用件を打ち込んで送信した。

 しばらくすると返信が届く。

「そういえば舞ちゃん一家が交通事故に遭ったと聞いたことがあるような気がする。でもそれがどうしたの?」

 英理子からのメールも用件のみの短いものだった。

 ――そうだよな。「それがどうしたの?」……だよな。

 俺はケータイをベッドの上に放り投げて、また寝そべった。

 ――それがどうした!

 心の中で明るくそうつぶやいてみるが、胸の内側に広がる重苦しい黒い雲は晴れる気配がない。むしろ光の差し込む隙間を全て埋め尽くして、いつ墨汁の雨が降ってもおかしくない様子だった。

 こうしていても埒が明かないと思い、パソコンの前に戻る。

 検索した記憶障害に関するページにもう一度目を通した。記憶と呼ばれるものが人間の脳内ではどのように形成され、処理されるのかということを簡単に説明した部分がある。そこに目がいった。

 更に記憶について調べてみると面白い。とりわけ俺が面白いと思ったのは、記憶についての研究が比較的新しい分野であるという点だ。俺は夢中になって記憶に関する記述を読んだ。

 ――これは……

 久しぶりに俺は興奮していたと思う。といっても、変な意味ではないので誤解しないでほしい。知的興奮というヤツだ。

 しかも人間の脳は科学が進歩した現代においても未知の領域が多い。刺激に飢えていた俺が、少しどころではなく、大いに興味を持ったのは当然かもしれない。

 急に気分が浮上して、部屋に一人でじっとしているのが辛くなってきた。誰かにこの思いつきを話したくてしようがない。とりあえず階下に行くと、母と妹はテレビドラマに釘付けで、リビングルームの奥にある書斎からは彼女たちに配慮しているのか、控えめなクラシック音楽の演奏が聴こえる。

 ソファの横を素通りして、書斎の戸口から内部を覗き見ると、口内の写真が多数掲載されている冊子を片手にした父が、俺に気がついて目を上げた。

「珍しいな。どうした?」

 父はいまいち掴みどころのない性格だ。激しく怒るようなこともなければ、腹を抱えて笑うなんてこともない。感情の起伏が乏しいというべきか、あるいは表現するのが下手くそというべきか……。

 勿論、上機嫌のときもあるし、酔えば愉快そうな顔もする。だが非常にわかりにくい。もともといつも難しいことを考えているように見える顔のせいかもしれない。

「父さんはどうして歯医者になろうと思ったわけ?」

 咄嗟に俺はそう言っていた。会話の糸口が見つからず、父が手にしている冊子が妙に目に付いただけだったのだが。

「簡単に言えば、俺の親父も歯医者だったからだろうな」

「あ、そう」

 当たり前の答えが返ってきて拍子抜けした。俺は父の書斎に入って行き、本棚に並ぶいろいろなジャンルの本の背表紙を眺める。経営関係の本があるかと思うと、その隣にはベストセラー作家のミステリーが並び、その次は酵素について書かれた本だ。

 ――酵素?

 首を傾げたところで父の声がした。

「お前のじいさんが優秀な歯科医だったら、俺は違う道を選んだかもしれないな」

「え? じいちゃんってヤブだったの?」

 父は少し笑った。

「まぁ、近所では悪名高い歯医者だったことは間違いない。まだ使える歯を抜くのは日常茶飯事で、診断も不的確な上、処置も下手だった」

「それはひどい」

「そういう自分の父親が嫌いで、評判が悪い歯科医院である自分の家が嫌いだった。でも、あるとき思った。このまま親父の代で終わってしまうと、この辺りでは我が家が悪いイメージのままだ、と。そしてそのイメージはかなり長い間払拭できないだろう、と」

 俺は頷いていた。確かに一度定着した悪い印象は簡単には消えない。特に近所の評判というのは目に見えない割に根強いものだ。

「そうなると迷惑を被るのは自分や自分の家族だということになる。ま、親父に借金があって逃げることもできなかったんだが」

 親父は鼻で笑ったが、じいちゃんを恨んでいる様子は感じられず、俺はしばし親父の顔をじっと見つめてしまった。

「そう決めたのはいつ頃?」

「ここで歯科をやろうと思ったのは大学を卒業する頃だな」

「じゃあ歯学部に行こうと思ったのはどうして?」

「歯学部以外には金を出さないと母親に言われていたからな」

 俺はばあちゃんの顔を思い出した。父の少し気難しそうな顔はばあちゃん譲りだろう。目が細く切れ長で、その見た目だけでも冷たい感じがする人だ。実際は冗談も言う面白い部分もあるが、全体的な評価としては外見と中身が違わぬケチで我の強い老婦人なのだった。

「なるほどね」

 そう考えると俺は恵まれているな、と思った。両親は「歯学部に進め」とは言わない。

 ――いや、聞いたことがないだけで、もしかしたら歯学部に進学してほしいと思っているかもしれないな。

 顔を上げると、父と目が合った。

「進路のことか?」

「うん。先生には両親と話し合ってこいって言われてる」

 父は持っていた冊子を机の上に置き、改めて俺に向き合う。そしてあっさりと言った。

「お前の人生だからお前のしたいことをすればいい。興味もないのに歯学部に進む必要はないな」

 予想通りのセリフだったが、すぐに「うん」と返答することができない重い言葉だった。

「でも、そしたら、どうするんだ?」

 ――もし俺も寛人も笑佳も継がなかったら?

 父は俺の顔を見たまま、フッと皮肉な笑みを浮かべた。今夜は機嫌がいいようだ、と思う。

「お前に心配されるようになるとはな。興味などないくせに」

「そういうわけじゃない」

 ――ぶっちゃけ、親父の言うとおりだけど。

 それでも自分の家のことが気にならないわけがない。俺自身が歯医者になりたいとは思わなくても、自分の家が歯科医院じゃなくなったらどうなるのか、ということが心配なのだ。

「それよりもお前は自分のことをしっかり考えるんだな。お前にはお前にしかできないことがあるはずだ。時間はかかっても、それを見つけることが重要だと思うぞ」

「父さんってずいぶん楽天的だね」

 俺は思わず苦笑した。進路を決めるこの大事な時期に、そんな悠長なことを言っていたら、数年後にはものの見事に路頭に迷っているはずだ。今からどんな社会人になりたいのかを考えて進路を選択しなければ、何もかもが手遅れになってしまう。

「お前には余計なアドバイスをする必要はないと思うからだよ」

「そう?」

「自分で自分の生き方くらい決められるだろう。それでお前は何に興味があるんだ?」

 全面的に信頼されているのか、あるいは息子の将来に過度の期待をしていないのか、微妙にわかりにくい父の反応に戸惑いつつ、俺はようやくここに来た目的を思い出した。 

「ずっと数学や哲学が面白いと思っていたんだけど、急に脳に興味が出てきたんだ」

「のう?」

「伝統芸術の能とかじゃなくて、頭脳の脳。それも人間の脳」

 父は鼻の頭をかいた。どうもピンと来なかったらしい。そして腕組みをして言った。

「その研究は金になるのか?」



 ――金だぁ!?

 

 顔が引きつった。すぐに回れ右をする。

「もう少し考えてくる」

 俺はそのまま親父の書斎を出て、リビングルームを素通りし、自室に戻った。



 ――なんだ、あの親父は!?



 自分にしかできないことを見つけろとか、ちょっとカッコいいことを言いながら、結局は金か!

 そりゃ世の中、金だ。金がなければ生きていけない。

 俺だって親父が稼ぐ金で今日まで養育してもらってきた。そんなことは嫌というほどわかっている。

 だけど、金にならない研究は無駄なのか?

 金になるか、ならないかが、俺の進路を決めるモノサシなのか?

 ――頭が痛い。

 親父の最後の一言で、俺の清らかな心が穢されたような気分だった。やはりあの親父はあの祖母の息子だ。間違いない。

 狐のような目をした吝嗇家の老婦人の姿を思い出して嘆息をつく。ちなみに俺のじいちゃんは俺が中学生のときに他界し、ばあちゃんは近所で一人暮らしをしている。

 そして祖父の歯科医院を父が継いだおかげで、現在の祖母は肩身の狭い思いをするどころか、老人会で第二の青春を謳歌するかのごとく活躍中らしい。喜ばしいことだ。

 だが、父のなすべきことは祖父母の老後の安寧を約束することだったのか、と思うと俺は急に失望を覚えた。

 それは確かに父にしかできないことだし、これ以上ない親孝行だということは俺にもよく理解できる。でもそんな父が何だか寂しく思えた。

 ベッドに横になる。

 ――夢とか希望ってなんだろうな。

 諒一という舞の従兄の自信に満ちた態度が脳裏にちらついて心が落ち着かない。自動車事故防止システムを研究していると言っていたが、舞の家族の事故が引き金でその進路を選んだことは間違いない。そうでなければわざわざ大学で何を研究しているかなんて説明しないだろう。

 認めたくはないが、そういう生き方はスマートに見えるし、それを堂々とできることが羨ましかった。

 しかも自動車事故防止システムというのは、現在ものすごく期待度の高い研究分野だ。運転者が安全運転を心掛けるのは当然だが、それだけでは事故をなくすことは実際問題無理だろう。なぜなら車はそれなりのスピードで走り、それぞれが意志を持って進んでいるからだ。

 しかし、いくらその研究が有用だとしても俺は諒一と同じ分野に進もうとは思わない。

 ――まさに父さんの言う「金になる研究」だろうけど。

 父がやたらと現実的なことを言い出したせいで、俺の進路は一気に暗礁に乗り上げた気分だ。もともと方向性すら定まっていなかったのだが、あの一言で進路というものを根本から考え直さなければならないような気にさせられた。

 気がつくと無意識に頬を触っている。舞の唇が触れた側の頬だ。



 ――「かわいい」って言えばよかった。



 最近の俺はどうかしている。そんなことすら言うことをためらうなんて、全然俺らしくない。

 でも舞に「子どもっぽい」と言われたときは、さすがに槍がグサッと胸に刺さったような衝撃があった。

 舞は飛び抜けて気が強いほうではないが、不当な仕打ちを受けた場合、おとなしく泣き寝入りするタイプというわけでもないようだ。むしろ一矢報いてやろうという気概を持っていて、そういうときの舞は、男の俺でも一瞬怯んでしまうような強固な意志の片鱗を見せる。

 クラスの中にいるときは凪いだ水面のような静かな佇まいなのに、時々、舞の中には皆と同じかそれ以上に熱い心があるんだと思い知らされた。

 ――あーあ。

 相手がただかわいいだけの女の子なら、こんなふうに考えたり悩んだりせず、何となく付き合うこともできたのかもしれない、と俺のどこかで囁く声が聞こえてくる。面倒なことなど考えずに、今、このときだけ楽しければいいじゃないか、と。

 確かに少し前まではそれでよかったのだ。

 一緒にいても面白おかしく過ごすだけで、互いに傷つけることもなければ、何かに気がついたりもしない。嫌なところが見えてきたら、ためらいもせずにさようなら。

 自分から相手の心の中に踏み込んでいくこともないし、自分の本心など見せることもない。むきになったりすることもなくて、いつも俺は安全なところにいることができる。

 ――でも、今の俺はどうだ?

 正直、みっともない。諒一に対する嫉妬を垂れ流し、弱音を吐いて舞の同情を引いたり、全くいいところがないじゃないか。

 諒一に今の俺が勝てるのは、若さ? ……それすら弱点になっている気がするが。

 舞だって英理子のように「大学生のほうが大人で付き合いやすい」と、いつ言い出してもおかしくないのだ。

 ――ヤバいな、俺。

 しかし、どう考えても従兄というポジションは反則だろう。舞のような事情があれば尚更だ。

 それでも俺は舞の彼氏を返上しようとは思わない。

 もう一度自分の頬を触った。照れて、振り返りもせず階段を駆け上がる舞の背中が思い出される。

 消灯後もしばらく俺はベッドの中でひとりニヤニヤと笑っていた。











 翌日も前日と同じように舞と一緒の電車に乗って予備校に向かった。夏期講習の間だけとはいえ電車通学はいい。俺の家もいっそ舞の町に引っ越せばいいのに、とさえ思う。

 そして今日の舞は昨日ほど挑戦的な服装ではない。それを確認した途端、俺は酷く安堵し、顔が不自然に緩んだ。気持ちも大きくなる。

「今日もかわいいね」

 ここで重要なのは「今日も」の「も」であることは言うまでもない。わざとらしく「も」を強調して言う。

 舞は俺の顔を横目で見て、それから嬉しそうに笑った。

 ――ホントにかわいい。

 舞の喜ぶ顔を見ると俺は更に幸せな気持ちになる。どうして昨日はこの一言が言えなかったのかと悔やまれた。昨日の惨めな敗北の原因はそこだ。間違いない。

 そんな意味不明の確信を抱いて、俺は舞に話しかけた。

「コンタクトには慣れた?」

「とても見やすくなったけど、ここに何もないのがまだ落ち着かない」

 舞は自分の手を目と鼻の前で左右に振る。そりゃそうだろう。長い間の習慣を変えたのに何の違和感も感じないほうがおかしい。

 ――長い間の習慣?

 俺の脳裏に何かがひっかかった。

「そういえば舞はいつから眼鏡を使ってるの?」

「……いつから?」

 舞の反応を注意深く見守る。俺の顔を見ながら首を傾げた舞は、考えるように視線だけを電車の天井方向へ放った。

「覚えてない?」

 おそるおそる小声で訊く。やっちまったか、と心の中がひやりとした。

「確か……中学生になったとき」

 舞は眼鏡をかけているときとあまり変わらない、感情を抑えた不機嫌そうな顔でそう言った。

 俺は胸を撫で下ろしながらも、ほんの少し残念に思う。いきなり核心に触れるようなことをするつもりはないが、諒一の話を自分自身で確認したいという欲求は、捨てても捨ててもどこからともなく湧いてくるのだ。

 だがこれはとてもデリケートな問題だ。中途半端な気持ちで地雷を踏んだら、負傷するのは俺じゃなくて舞なのだ。

 ――焦るな、俺。

 とりあえず話題を変えようと思う。

「それで数学はどう?」

 できる限り優しい気持ちになって言ってみた。するとこちらを見た舞の目が驚きで見開かれ、すぐに視線を逸らされてしまう。その一瞬はひどく傷つくが、舞の頬が赤くなるのを見ると、俺は内心ほくそ笑んだ。

「難しいけど、先生の話が面白いから何とか頑張って聞いてる」

「それはよかった。でも俺よりできるようになるのは困るけど」

「そんなことありえない」

 舞は苦笑して、本当に切なそうにため息をついた。

 数学が苦手で困るのは大学入試時くらいなものだ。実は微分積分などできなくても何の問題もなく生きていくことはできるだろう。

 むしろ生きていくのに必要なスキルは学問とは全然別のものだ。市村由布を見ているとそれを嫌というほど実感できる。今日もアイツと同じ講義を受けるのかと思うと、軽く疲労を覚えた。

 更に話題を変える。舞も苦手な数学の話を長々と続けても嬉しくないはずだ。

「そういえば沖野から借りた本、読む?」

 実はもう読み終わっていたのだが、舞に貸すのをためらっていたのだ。だいたいラノベとはいえいきなり10冊も貸すバカがどこにいるんだ、と思う。あまりにも重くて腹が立ち、もう少し相手の都合を考えて持ってこい、と沖野にはメールしておいたが、今日までヤツからの返事はない。

 舞はすっかり忘れていた様子で「ああ」と言った。俺はまた内心ほくそ笑む。

「今は夏期講習のことで頭がいっぱいだから、終わってから読もうかな」

「え? 何?」

 電車の騒音で聞き取れなかったふりをした。そして舞の腕に寄りかかってその耳元に小声で言う。

「今は俺のことで頭がいっぱい?」

「違います!」

「あやしいなぁ。『違う』じゃなくて『違います』って」

「揚げ足を取らないで」

「事実を言っただけだよ。どうして丁寧語になるの?」

 舞がむきになってきたので俺もだんだん楽しくなる。どうして舞をからかうとこんなに楽しいんだろう。

「とにかく、私は夏期講習を頑張りたいの!」

「うん。でも俺のことを考えるのは別腹っていうか別脳?」

 咄嗟に変な言葉を作ってしまった。別脳。他人には全く通じない言葉だ。

 さすがに舞も顔を背けて笑い出す。

「そんな言葉、聞いたことない」

「うん。俺の造語。今年の流行語になるかもしれないから」

「絶対ならないと思う」

 まずい。話が脱線している。

 笑い続ける舞を一瞥して、俺は笑顔を作った。何しろ俺には今、とっておきの印籠があるのだ。気持ちもこれ以上ないほど寛大になるというものだ。

「ま、夏期講習中は勉強を頑張りなよ。俺もその間は我慢するから」

「が、我慢……?」

 舞は大きく目を見開いて俺を見た。恐ろしいものを見るような目つきだ。俺は更に優しい笑顔になる。

「そう。偉いでしょ。本当は片方だけじゃなくて反対側にもしてほしいところだけど」

「ま、待って。何の話か、全くわからない」

 身を縮めた舞は俺との間に隙間を作った。俺は一瞬眉をひそめる。

「昨日のことなのに忘れたの? 自分から俺にあんなことしておいて」



「ふぎゃーーーっ!」



 猫が威嚇するときに出すような音がした。勿論、発信元は隣の舞だ。彼女は両耳に手を押し当てて塞ぎ、目をぎゅっと瞑っている。

「……っぶ!」

 その姿と声にならない悲鳴に、不覚にも俺は吹き出してしまった。

 ――ほっぺにちゅーくらいでそんなに動揺して、この先どうするの?

 少し意地悪な気持ちで舞を見ると、早くも立ち直った彼女は俺をキッと見据えていた。おや、と思いながら表情を改めたところに、舞がぼそぼそとつぶやくのが聞こえてくる。

「でも私、ラノベも好きですよ。面白いし、挿絵もあってお得じゃないですか」

 俺は笑いながら頷いた。

「早く夏期講習が終わるといいね」

「あ、あの……それって変な意味じゃない、よね?」

 舞が俺をちらりと横目で見る。勿論、俺はとても優しい気持ちで頷いた。

「うん。でも、優しくしてね」



「……はい?」



 これでもかと眉に皺を寄せ、これ以上ないほど険しい顔をした舞はそのまま俺を数秒睨んでいたが、俺もこれ以上ないほど優しい顔で舞を見つめ返した。

 やがて根負けしたのか舞はフッと肩の力を抜いて項垂れた。

「やっぱり清水くんは悪魔だ」

「え?」

 意外な言葉に驚いて聞き返すと、舞はおそろしく長いため息をついた。それから、少し肩をすくめると「なんでもない」と言ってクスクスと笑った。



 ――ねぇねぇ、それってOKってことなの?

 俺は無言で舞を見る。

 ――嫌とかダメって言わないと俺の都合のいいほうに解釈するから。

 舞は俺の視線に気がつくと、眩しそうに目を少し細める。



 これが電車の中でなければ危ないところだったが、幸か不幸か俺の理性は正常に働き、舞を自分のほうに抱き寄せたい衝動を必死でこらえた。

 そんな俺の中の葛藤ならぬ死闘など舞は知るはずもない。電車がS市に着くまでニコニコと無邪気に笑っていた。

 まぁ、舞が笑っていれば俺も嬉しいんだけど、ね。



 こうして俺たちの夏期講習は二日目以降、平穏に続いていった。少なくとも、俺にとっては、の話だが――。


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 1st:2011/02/01