HOME


BACK / INDEX / NEXT
夏休みの魔物 3



 妙なことになった。

 私の予備校デビューがこんな複雑なことになるとは思いも寄らなかったのだ。

 顔を上げて正面を見ると、おしゃれな黒縁眼鏡をかけた美声の男性講師が英作文の講義を行っている。ジャケット、シャツ、ネクタイ、ズボン……そのセンスのよい組み合わせが大人の余裕を醸し出していた。

 なんでも女子にものすごく人気のある講師らしい。私としては顎が少ししゃくれ気味なのが気になるけど。

 しかし、低音の滑らかな声質で英文を話すとこんなに心地よく聞こえるものだろうか。

 あの声だけで「ステキ!」と目がハートになってしまう女の子もいそうだ。

 ――はぁ……。

 知らず知らずため息が漏れる。

 これが壇上にいる松岡先生に恋焦がれるため息だったらよかったのだけど、そうではない。

 自分の右隣にチラッと目線を走らせた。

 隣には清水くん。この人は真面目な顔をしていても綺麗な顔だ。綺麗というか目立つというか。とにかく印象的な顔立ちだ。

 この人の顔がほんの少しでも視界に入ると、私の意識はほぼ自動的に彼へと引きつけられてしまう。

 ――私、清水くんの顔が好きなのかな?

 確かに彼の顔は好きだと思う。いつまでも見ていたいと思うのだから、好き以外の何物でもないはずだ。

 ――顔だけ好きなのかな?

 正直なところ、よくわからない。いや、わからなくなった、と言うべきか。

 清水くんの向こう側には女子が座っている。そう、あのミニスカートを履いた、やたらと目力を強調しているユウだ。

 清水くんとは中学の同級生だというが、ただの同級生がこんなふうにべったりとくっついているものだろうか。

 少なくとも私は、付き合っている男女以外でこれほどまでにベタベタしている二人組を見たことがない。

 ユウはしきりに清水くんの耳元に何かを囁いている。私には聞こえないし、私自身も興味がない。でもとても嫌な光景だ。

 ――これってなんなんだろう。

 もう一度、清水くんの顔を見る。

 彼は微動だにせず、ただじっと黒板を眺めていた。たぶん午後の講義が始まってからずっと同じ姿勢で、ほとんど身動きしていない。

 私は彼から目を逸らすと、板書に専念した。

 コンタクトレンズを装用しよく見えるようになったから、清水くんに手伝ってもらう必要がなくなったのだ。

 これで授業に集中できるというものだ。

 それでも何か清水くんの態度にはひっかかるものがあって、私はノートに英文を書き込みながらまた小さくため息をついた。

 清水くんの様子が変だと気がついたのは、諒一兄ちゃんとご飯を食べた後からだ。

 本屋に現れたのは清水くん一人で、諒一兄ちゃんは先に帰ってしまったらしい。迎えに来てくれた清水くんも暗い顔をしていて、ほとんど喋らない。清水くんと諒一兄ちゃんが二人で何を話したのか、聞きたくても聞けない状態だった。

 もしかすると、清水くんはユウの話など聞いていないのかもしれない。それくらい彼は深刻そうな顔で黙りこくっている。

 ――うーん……。

 本当に妙なことになった。

 それにしても諒一兄ちゃんは何をしに来たのだろう。母がチズ子伯母さんに電話していたので、伯母さんから頼まれて……?

 いや、そんな感じはしなかった。伯母さんの話が全然出なかったし。

 しかも諒一兄ちゃんは清水くんをよく思っていないみたいだ。

 どうしてだろう。清水くんはモテるくせに、なぜか表面的には敵が少ない人だ。男子の友達も多い。初対面の諒一兄ちゃんが彼を嫌う理由が思いつかない。

 ――それに男二人で何を話していたんだろう?

 この清水くんを黙らせるくらいだから、相当破壊力のある話だったに違いない。でも初対面の二人に共通する話題といったら、この私に関することくらいじゃないだろうか。

 私を追い出して話すくらいだから私の悪口だったりして。

 ――でも諒一兄ちゃんはそういう人じゃないな。

 私の知る限り、高橋諒一という人はユーモアもあるけれども基本的にはものすごく真面目だ。

 高校時代から弓道部で活躍し、その腕前を買われてあのKO大学の関係者からスカウトされたにもかかわらず、それを蹴って自分のやりたい研究のできる大学に入ったという逸話の持ち主でもある。

 そして諒一兄ちゃんはいつも私のよき理解者だった。

 親戚の中で大好きな本のことを語り合えるのは彼しかいない。不思議と好きな作家の傾向が似ていて、諒一兄ちゃんと物語についてあれこれと話すのが私の楽しみの一つでもあった。

 先生の独特な喋り方に慣れてきて、ようやく授業にも集中できた頃、あっけなく終わりのベルが鳴った。やはり学校の授業と違って、エッセンスが凝縮されているのか90分という長さがさほど苦にならない。

 予備校に通うことにしてよかったな、と思いながら清水くんを見ると、ユウに思い切り睨まれた。

「はるくんの彼女さん」

 へ? ……私のこと?

 私はきょとんとしてユウの顔をまじまじと見つめる。

「高橋さん、だよ」

 横から清水くんの面倒くさそうな声がした。

「ふーん、高橋さんね。はるくんと同じ学校なの?」

「そう……です」

「ふーん。サヤカさんのほうが断然おしゃれでかわいかったのに、ずいぶんレベル下げちゃったのね」

 ユウは得意げに言った。



 ――サヤカ……さん?

 ――おしゃれで……かわいい……



 いつのまにか教室の中は静かになっていた。ハッとして辺りを見回すと私たち三人しか残っていない。

「市村、余計なこと言うな」

 清水くんの声は静かだが怒気を含んでいた。「市村」と呼ばれたユウは目を見張る。

「本当のことを言って何が悪いのよ」

「お前の友達いない理由はそれだ」

 ため息混じりにそう言うと、清水くんは私の手を取った。

「言っていいことと悪いことがあるだろ。他人にモノを言うときは、もっとよく考えてから口にしろよ」

「何よ、はるくんまで私が悪いって言うの?」

 ユウは清水くんの背中に言葉を投げつけた。その苦し紛れのセリフに私は思わず立ち止まる。

「別に。これ以上お前の相手をしてる暇はない。じゃあな」

 そっけなく言い放つと清水くんはユウを置いて教室を出た。ズンズンと廊下を進む。手を引っ張られて私も同じように廊下を小走りで過ぎる。

「あの、市村さんって友達いないの?」

 予備校の玄関を出て、辺りに人がいないことを確かめてから清水くんに訊ねた。清水くんは少しだけ歩く速度を緩める。

「中学のときはいなかったね。今も、あれじゃあ無理だな」

「そうなんだ……」

 いろいろと複雑な気持ちになった私は隣に歩調を合わせつつ、自分のつま先ばかりを見つめていた。

「舞?」

「いや、私も友達いないから……」

 他人事には思えなかった、というのが本音だったりする。

 清水くんは急に大げさに驚いて見せた。

「いやいや、舞とは全然違うよ!」

 それまで無表情だった人が突然豹変してオーバーな身振り手振りをするので、私もびっくりした。

「そ、そうかな」

「そう。それにアイツが変なこと言い出して、気分悪くさせたよね。ごめん」

 今度は萎れた花のように首をがくりと垂らして、清水くんは元気のない声で言った。

 ――サヤカさん?

 たぶん清水くんの前の彼女なんだろう。私の前に何人くらい彼女がいたのかなんて想像もつかないが、やはり特定の人の名前が出てくるとどうしようもなく胸が痛んだ。

「何のこと?」

 すっとぼけてみたが、逆に寒々しい空気が二人の間に漂い始める。

「あ、いや……」

 ここまでたじろいだ清水くんの姿を見るのはある意味爽快だけど、やっぱり私には言いたくない何かがあるのだと思い知ってますます暗い気持ちになった。

 喉元まで「サヤカさんって誰? どんな人?」と出かかっているのだが、それを聞いたら自分がどうなってしまうかわからなくて怖い。

 ――やっぱりやめておこう。

 知らぬが仏、って言うよね。どうせ過去の出来事なんか私にはどうすることもできないのだから。

 もやもやと、ぐるぐると、言いようもないもっさりとした嫌な感情が心の奥底でうごめいていた。

 ここは何か話題を変えようと思い、とりあえず頭に浮かんだことを口にする。

「あ、そういえば諒一兄ちゃんと何を話していたの?」

 言ってから清水くんの顔を見たのだが、その瞬間私の心は凍りついた。



「大したことじゃない」



「そう……なんだ」

 私はいけないものを見てしまったような気がして、また自分のつま先に視線を落とした。

 鋭く射るように私を一瞥したその視線は、彼から目を背けた後も私の胸に深く突き刺さり、じわじわと私の内部を侵食していく。

 身体中の細胞が悲鳴を上げているような気がした。

「ごめんなさい」

 わけがわからないまま許しを請う。結局私にはこれしか言う言葉が見つからなかったのだ。

 清水くんが繋いでいた手を握り直した。二人とも酷く汗ばんでいる。

「どうして謝るの? 舞は何も悪くないのに」

 おそるおそる顔を上げると、心配そうな目をした清水くんと目が合った。

「でも諒一兄ちゃんが予備校まで来たのは……私のせいだし」

「舞、一つ聞いていい?」

 急に清水くんが改まった調子でそう言った。私はドキッとしたが、小さく頷く。



「諒一さんとはどういう関係?」



「へ?」

 質問の意味がわからず、怪訝な表情で首を傾げたまま清水くんの顔を見返した。

「どうって……普通に従兄妹だけど」

「諒一さんが舞のことをどう思っているか、知ってる?」

「何……言ってるの?」

 どんなに鈍い私でもさすがに清水くんの言いたいことは察せられた。しかしどうしてそういう話になるのだろう。

「従兄妹だから全くの他人よりは親しいかもしれないけど、それは当然じゃない?」

「当然……か」

 揚げ足を取るように私の言葉をおうむ返しすると、清水くんは酷薄な笑みを口元に浮かべた。途端に背筋がぞくっとする。今まで見た中で一番冷たい笑みだった。

 それでも私は勇気を奮い起こして言った。

「清水くんと英理子さんだってそうでしょ。イトコ同士で仲がいいよね? でもそれをいちいち『どういう関係』なんて訊く人はいないよ」

「そうかもしれない。実際、俺も英理子もお互いただのイトコとしか思っていないから」

 フッと鼻で笑うと清水くんは私に厳しい視線をよこした。

 頭ではわかっているくせに、それでも彼は私に対する疑念を捨てられないらしい。

 その頑なな態度に私はだんだん腹が立ってきた。なぜ私が責められなければならないのか!?

 そもそも私より、アンタの女子への対応のほうがよほど問題があると思うけど!

 大きく息を吸い込むと、心に積もり積もった鬱憤を一気に吐き出した。



「そういう子どもっぽい態度、やめてくれない!?」



「はぁ!?」



 清水くんの態度は更に硬化した。たぶんお互い引くに引けないところまで来てしまったのだ。

 しかも妙なやり取りを続けているうちに、私たちは駅にたどり着いていた。

 帰りも途中までは彼と同じ電車に乗るのだけど、今はそれが苦痛でしかない。駅の構内を無言で歩き、時間も確かめずにホームへ向かう。

 隣にいるのは間違いなく私の好きな人だというのに、どうしてこんな惨めな気持ちになってしまうのだろう。

 後ろに並んでいる大学生っぽい男女が楽しそうに会話をしている。

「そのドクロすごいじゃん。どこに売ってるの? 私、そういうの結構好きだな」

「マジで? 俺、言っとくけどドクロ歴長いよー」

「『ドクロ歴』って何!?」

 キャハハと笑う女性の声が本当に愉快そうで、私は密かに唇を噛んだ。ドクロには興味がないけど、そんな普通の会話ができる関係が羨ましくて仕方なかったのだ。

 ドクロの話題が普通の会話かどうかはわからないけど……。

 でも「従兄とどういう関係?」なんてバカバカしい質問をされるよりは全然平和だ。痛くもない腹を探られる私の身にもなってくれ、と心の中で隣の男に毒づいた。

 電車の中でも結局黙ったままだった。清水くんはずっとケータイを見ながら何かしている。

 ――女の子にメールしてるのかも。

 そんなことを思う私もかなり嫌な人間だ。でもそう思ってしまうのだからどうしようもない。

 私のことを彼女と言いながら、絡んでくる他の女子を拒まないのはどういう了見なのか?

 自分のことを棚にあげて私を責めるなんて、ホントどうかしてる。

 乗換駅で電車を降りると、ようやく清水くんが口を開いた。

「舞の電車は30分後に来るから、それまでここで待っていよう」

 改札口の手前に広い待合スペースがあった。隅にはベンチもある。清水くんは当然のようにベンチへ向かった。

 いかにもやる気のなさそうな動作で彼は腰を下ろした。私はベンチの前でしばし突っ立っていたが、清水くんが隣に座れと言わんばかりにポンポンとベンチを叩く。

 仕方ない。私はわざと少し離れた場所に浅く腰掛けた。いつでも逃げ出せる体勢とも言う。

「今の俺ってすごく嫌なヤツだよね」

 清水くんは顎を天井に向けた。

 自覚があるのならどうにかしてくれ、と言いたかったが、彼の切なげな表情を見たら何も言えなくなってしまった。

「やっぱり諒一さんと比べたら、俺なんか全然ガキだし」

「さっきのはそういう意味じゃないよ」

「どういう意味でも関係ない。俺自身がそう思うって話だから」

 ――うーん、これは重症だ。

 諒一兄ちゃんに対して異様にライバル意識を燃やしていることは間違いない。どうしてそんなことになったんだろう。訝しく思いながら私は言った。

「何を話したのか知らないけど、清水くんは誤解していると思う。諒一兄ちゃんが私のことを従妹以上に思うわけないもの」

「どうして?」

「昔、諒一兄ちゃんは私の姉が好きだったから」

「ふーん」

 ――あ、あれ? 「ふーん」だけ?

 これはかなり強力な切り札だろうと思っていた私は内心派手にコケた。

 清水くんは腕組みをして嘆息を漏らす。その挙動は私の心をひりひりさせた。

「舞は自覚が足りないよ」

「え?」

 急に彼は私を見た。上から下まで眺め回す視線は普段のものと全然違う、男の目線だった。まるで裸を見られているような恥ずかしさがこみ上げてくる。

「眼鏡をしていないだけで印象が全然違う。すごくかわいいし、すごく目立つ」

「へ? だけど市村さんは私のことをダサくてかわいくないって言ってたよ」

 私は身を縮めながら茶化すように言った。清水くんの視線だけで身体の内部が沸騰するように熱くなってしまい、この状況は危険だと本能が察知したのだ。

 ――わ、私……ど、どうしちゃったんだろう。

 身を硬くしながらも、頭の片隅では前に清水くんに抱きとめられたときのことや、おでこにちゅーされたことなどがぐるぐると回っている。

 ――だあっ! 散れ! 散れ!

 突然湧いた邪な感情を慌てて追い払う。しかし清水くんの顔を見て、私の脳内の思考は全て吹っ飛んだ。

 怒ったように鋭い目をした綺麗な顔が私の眼前にあった。



 ――近すぎっ!



 驚いて飛び退いた途端、腕をぐいと掴まれる。

「落ちるよ」

「は、はい!」

「逃げないでよ」

「は、はい!」

 硬直した私は何とかベンチの端を反対の手で押さえて座り直した。しかし、この隙に清水くんが私との距離をあっさりと詰めてしまい、彼に腕をつかまれたままの私は逃げ道を失った。

「ちゃんと俺の話、聞いてくれる?」

「う、うん」

 頷いたものの、いきなりベンチに密着した状態で座ることになり、心は全く落ち着く気配がない。

「サヤカさんっていうのは、中学のとき俺が初めて付き合った人。二つ年上で英理子のおばさんのピアノ教室に通っていた」

「サヤカ……って、小原(おばら)さやかさん? ウィーンに留学した?」

 私は母と姉の話を思い出していた。彼女は神崎ピアノ教室では誰もが一目置く才能の持ち主だったと聞いている。

「そう。発表会で見たことあるでしょ?」

「うん。さやかさんの演奏で先生……英理子さんのお母さんがステージの袖で泣いたって、姉が言ってた」

 毎年、ピアノの発表会で彼女が弾く曲は先生が聴きたいからという理由で選曲されていたそうだ。確かに音楽の道に詳しくはない私でも、彼女の演奏の表現力には圧倒されるものがあった。

 ――初めて付き合った人、か……。

 私は何となく気まずくて清水くんから視線を逸らす。

「でも付き合っていたと言っても、恋人らしいことは何もできなかった。すぐにウィーンに留学することが決まって会えなくなったから」

「…………」

 唇をぎゅっと結んだまま、かなり離れた向かい側の壁に貼ってある大きな温泉のポスターを見ていた。さっきまで発火しそうだった私の身体は、汗が冷えて急速に体温が奪われていく。

「それに向こうから好きだと言われて付き合うことになったから、俺自身は常に受身だった。別れてからやっと『やっぱりもう一度会いたい』ってことに気がついたけど、時は既に遅し。今考えれば、あまりにも俺がガキで何もできずに終わったってこと」

「何もできずに……」

 いろいろと含みのありそうなセリフだな、と思う。そこを聞き逃さない私は、たぶんものすごくさやかさんに嫉妬しているのだ。

「そう。何もしなかった」

「何も?」

「うん。こんなふうに隣に座ることすらもない」

「え?」

 私はおそるおそる隣を見た。

 清水くんは私の腕を放し、足を組んでまた少しだらしない姿勢になる。それが何だか様になっているから、この男は得だなと思う。

「こうして半径一メートル以内にいる時間は、舞のほうが長い」

「ウソ……」

 即座に隣でフッと笑う声が聞こえた。

「ウソじゃない。しかもあまり言いたくないけど……」

 そこで清水くんは大きくため息をついた。そして私の顔を見る。

「その後付き合った彼女っていうのはみんな、相手から告られて断る理由がないから付き合ってみただけで、結局俺の気持ちがついていかないっていうか……」

「……それは、酷い……」

 思わずそう口走っていた。これまで異性と付き合った経験のない私だって、自分に気持ちがない彼氏なんてゾッとする。

 清水くんは私から顔を背けた。

「だよね。俺も最低だと思う」

 そこで私はハッとした。



 ――え、……ってことは何? 私のこともそうなの!?



 胸がズキンズキンと痛み始める。酸欠になったよう息苦しさだ。

「今日が初めてかも」

 その言葉の意味がわからず、悔しそうな表情の清水くんをじっと見つめた。



「舞をとられたくないって思った」



 彼がゆっくりとこちらを向いた。柔らかい微笑が眩しい。今日はずっと冷たい表情ばかりだったから、その笑顔に懐かしさすら覚えた。

 ずっと見ていたいと思う私の気持ちをよそに、清水くんはケータイを取り出して「そろそろ時間だ」とつぶやいた。仕方なくホームへと向かう。

「清水くんの電車は?」

「俺は大丈夫。一時間に最低二本走ってるから。舞はこれを逃したら特急に乗らないといけなくなるでしょ」

 ――ぐっ……。そうなんです。家が田舎ですみません。

 でも考えてみれば、清水くんは私の電車の時間に合わせて待っていてくれたことになる。

「あの、ありがとう」

 私は言葉を端折った。察しのいい彼のことだから全部を言わなくてもきっとわかってくれるはず。

「いいよ、お礼なんて。ほっぺにちゅーとかで」

 そう言った清水くんの笑顔はいつもと違って少し翳りがあるように見えた。ホームへ向かう階段が暗いからそう見えただけかもしれない。

 ――でも……!

 階段を昇る清水くんのTシャツを鷲掴みして振り向かせると、私は数段駆け上がって彼の一段上に立ち、「えいっ」と彼の頬に自分の唇を押し付けた。

 それから「じゃあまた明日」と言い捨てると、彼の顔も見ずに一目散に走って逃げた。 



 ――うわーっ! やっちゃった!



 冗談を本気にするなんて寒すぎる。でも清水くんのあんな顔を見て、何もせずに彼から離れることが我慢ならなかったのだ。

 ――いや、でも、いきなり私から……とか!

 自分のやってしまったことを思い返し、誰が見ているわけでもないのにうつむいて真っ赤になった頬を押さえた。

 明日、どんな顔をしたらいいのだろう。だあっ! もうっ!

 でも不思議と後悔する気持ちはない。むしろこみ上げてくる笑いをこらえるのが辛くて、電車の利用客が少ない田舎に住んでいることを心からラッキーだと思う能天気な私だった。


BACK / INDEX / NEXT

HOME


Copyright(c)2011 Emma Nishidate All Rights Reserved.

 1st:2011/01/10