HOME


BACK / INDEX / NEXT
涙色の彼女 6



 土曜の朝、俺は目覚まし時計ではなく騒音に起こされた。

 隣の部屋から突然、人気アーティストの楽曲が大音量で流れてくる。いくら朝に弱い俺でもこの爆音の中で寝ていられるわけがない。俺は飛び起きて、隣の部屋のドアをノックもせずいきなり乱暴に開けた。

「うるせーぞ!」

 部屋の主であり俺の弟の寛人は机の前に座ってノートパソコンに向かっていた。チラッと振り返って俺の顔を見ると、またノートパソコンに目を戻す。

「兄貴、今日も学校だろ? 起こしてやったんだから感謝しろよ」

「はぁ!? こっちは聴きたくもない音楽を聞かされて迷惑なんだよ! つか、朝からゲームすんな!」

 パソコンの画面を覗き見るとオンラインゲームをやっているようだ。昔から寛人はゲーム好きで、今は無料でできるネットゲームにはまっているらしい。

 そういえばヤツの学校は土曜は休みなのだ。普段はS市まで電車で通学しているので寛人は早朝に出かけてしまう。ヤツが家を出るとき、俺はまだ夢の中ということだ。

 ふと壁の時計を見て、俺は一瞬目を疑った。

「え!? その時計進んでる?」

「5分遅れてる」

「マジかよ!」

 俺は慌てて寛人の部屋を出て、朝食もそこそこに準備をし自転車に飛び乗った。





 何とかギリギリで学校に到着したが、駐輪場は既に満車であるのと、玄関から遠いとういう理由で玄関の脇に自転車を停めた。俺と同じ考えの持ち主は案外多く、ざっと見て二十台近く違反駐車していた。これだけ同志がいれば怖いものなしだと安心して、俺は教室へと走った。

「おはよう」

 舞は読んでいた本から目を離し俺を見た。

「おはようございます」

 どうしていつも丁寧語なんだよ、と不満に思うが、挨拶をしてくれるだけマシかと思い直す。舞は基本的にこういうキャラなんだよな、たぶん。

 授業中はまだぎこちないが、それでも昨日に比べれば舞の態度はずいぶん落ち着いたようだ。昨日の事件はいわゆるショック療法になったとも言える。

 よかった。これで安心して悪戯ができるというものだ。……いや、さすがに今日はしないけどね。

 休み時間、教室の後ろのドアからイトコの神崎英理子がつかつかと入ってきた。俺と英理子がイトコだというのは、この学年では割と有名な話だ。なのでクラスメイトも大して気にしていない。

 英理子は俺の隣を見て「あら?」とすぐに声を上げた。

 ――やっぱり気がついたか。

「あなた、高橋さん……よね?」

「は、はい!」

 舞は慌てた様子で本から顔を上げてこちらを見る。その様子が可笑しくて、ついからかいたくなるんだよな。

「英理子、いきなり呼んだら高橋さんびっくりして椅子から落ちちゃうよ」

「なにそれ?」

 英理子は俺に一瞬軽蔑するような視線をよこし、舞にはニコニコしながら舞の姉の話題を振った。だが、舞は英理子が誰だかわかっていないようだ。

「英理子、高橋さんに自己紹介しないと」

 俺は助け舟を出した。二人のやり取りを観察する限り、舞は本当に英理子と俺のことを忘れてしまっているようだ。

 俺が舞と会ったのは一度きりだったが、英理子とはたぶん何度か会っているはず。舞のお姉さんのピアノのレッスン日に一緒に来ていたみたいだからね。でもその英理子ですら忘れられているのだから、俺のことなど覚えていないのも当然か。

 知らず知らずため息が漏れる。

 ――英理子はこの分厚い眼鏡姿でも舞のことにすぐに気がついたな……。

 何となく俺のプライドが傷ついた。正直なところ、俺は記憶力には人一倍自信があった。他の人間の忘却力に呆れるくらいね。

 それが英理子のほうがウワテだったというのが何とも腹立たしい。特にこの件に関しては、だ。

 英理子が去った後、舞の様子を見ると何だか考えるような顔をして、ボーっとしていた。

 ――……珍しいな。何を考えてるんだろう?

 少し憂いを帯びた表情に俺はしばし見とれていた。

 だが、舞はその俺の視線にも気がつくことなく、自分の世界に閉じこもってしまったようだった。





 授業が終わると俺はクラスメイトの田中と一緒に教室を出た。他愛もない話をしながら靴を履き替え玄関を出た俺は一瞬言葉を失った。

「……ありゃ、今日も陣内さんの鎖に何台もひっかかったな」

 田中が他人事のように(実際他人事だが)そう言った。陣内とは書道の先生で、怒ると烈火のように激しい。その怒る様子を瞬間湯沸かし器に例えてそのメーカー名があだ名になっているくらいだ。

「おい、清水?」

 玄関から一歩も動かない俺に田中が不審な顔で振り返った。

「……やべぇ。俺の自転車もそこにある」

「マジかよ。今日は大漁だから噴火してるかもな」

 田中は心底可笑しそうに「じゃ、がんばれ」と俺に手を挙げて見せ、自転車置き場へ消えた。

 ――くっそー!

 陣内先生自体は悪い人ではないと思うが、自転車の違法駐車取り締まりに過剰な情熱を傾けているのがいただけない。そしてもっといただけないのが、罰金ならぬ罰ゲームが待ち構えていることだ。

 俺は仕方なくまた靴を履き替え書道準備室へ向かう。他にも鎖に繋がれてしまった自転車の持ち主が集まってきていた。

 そこへ陣内先生がお出ましになった。小柄で白髪が多いがシャキシャキと姿勢良くやって来る。

「あそこは人が通る通路で、自転車を停めると邪魔になることくらい、見てわからんのかぁ! このボケナスどもがぁ!」

 独特の節回しで陣内先生は全体に怒鳴った。そしてついに今日の罰ゲームの発表だ。

「お前ら、これから書道教室の雑巾がけだ!」

 ――……って、もうピカピカだろうが!

 彼の逆鱗に触れた者はもれなく書道教室の掃除をさせられているので、教室内は他の教室に比べると驚くほど綺麗なのだ。

 だが、逆らう者はいない。過去に逆らった生徒が「反省」の文字を半紙に百枚書くまで帰らせてもらえなかったという話は既に伝説と化して、この学校の生徒なら誰もが知っている。

 俺は仕方なく雑巾がけを始めた。今日は違反者が多いので案外早く終わった。陣内先生は教室内を点検し渋々OKを出す。ようやく俺の自転車も先生のゴツイ鎖から解放された。

 ケータイを見ると母親からメールが来ていた。

 ――「昼ご飯はありません」……って、どういうことだよ!?

 たぶんあの母親のことだから友達とランチに行っているのだろう。親父もよく何も言わないよな。言っても無駄だというのもあるけど。

 俺はそれなら本屋に寄って帰ろうと思い、駅のほうへ向かって自転車を漕いだ。

 もうウチの学校の生徒はほとんどいない。土曜なんて用事がなければさっさと下校するものだ。

 そう思って角を曲がると思いがけずウチの学校の女子の制服が見えた。しかも白い車が低速で車線を無視して彼女の横にぴったりとつけている。なんだ?

 ――あれ? もしかして……

 近づいていくとその女子が知っている人に見えてきた。そう思っている間に開いている運転席の窓から手が伸びて、その女子の腕をつかんだ。

 ――おいおい! 何してるんだ?

 俺は胸騒ぎがして自転車のスピードを上げた。

 彼女はつかまれた腕を何とか振りほどこうともがいている。その横顔は紛れもなく舞だった。



「高橋さん」



 確信すると同時に俺は彼女の名前を呼んでいた。

 すると突然、運転手の男が高橋さんの腕を放し、彼女は勢い余って倒れそうになる。車が急発進した。

「危ない!」

 何とか間に合って、藁にも縋る思いで手を伸ばした舞を俺は受け止めた。 



「うぎゃっ! ……ご、ごめんなさい!!」

 俺に密着してしまったことに気がついた舞は気が動転しているのに、更にパニックに陥ったようだ。俺から飛び退るように離れて、鞄を拾った。

「大丈夫? ていうか、何あれ?」

「ひ、ひ、ひっ……」

「……?」

「人さらいっ!!!!!」



 一瞬、俺は舞をまじまじと見つめた。

 ――……人さらい?

「ぶはっ!」

 ちょっと、舞ちゃん! 可笑しすぎて腹が痛いんだけど!!

 俺は我慢できずに思い切り爆笑してしまった。こんなに可笑しくて笑ったのは久しぶりのような気がする。

 ひとしきり笑って舞を見ると珍獣を見るような目で俺を見ていた。サーッと血の気が引く。まずい、笑いすぎた。

「いや、ごめん。高橋さんが『人さらい』なんていうから可笑しくて……。でも危ないところだった。怖かったよね?」

「えと……声も出なくて……」

 そりゃそうだよな。それが普通の反応だと思う。

「大声って咄嗟には出ないらしいよ。普段から練習しておくといいみたい……って今は練習しなくていいけど。俺が疑われるから」

「そうなんだ」

 ようやく舞は落ち着きを取り戻したようだ。本当によかったと思った次の瞬間だった。



「あ? ……あーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」



「だから、今練習しなくても!」

 ――おい! 俺はまだ何もしてませんが。

「ち、違う! 電車が……」

「ああ。もう行っちゃった?」

「……もう間に合わないわ」

 舞は相当がっかりしたらしく切ないため息をついた。

 すぐに俺はいいことを思いついた。母親に感謝しなきゃな。

「じゃあさ、お昼一緒に食べない?」

「へ?」

「駅の近くに美味しい定食屋さんがあるんだけど、どう?」

「定食……」

 そういうのは好みじゃないか。でもファーストフードとかファミレスだと学生が多いからいろいろと面倒だしね。俺はどこでも全然かまわないんだけど。

「どうせ電車しばらくないんでしょ?」

「よくご存知で」

 ま、それくらい当然予備知識として既にリサーチ済みだから。

「じゃなきゃ、あんな大声で電車に乗り遅れるのをがっかりしないんじゃ?」

「さすが、学年一番」

 ――へぇ。舞も言うね。

 彼女のちょっとした嫌味が不思議と嬉しかった。だってそれって俺に少し慣れてきたってことだし。 

「で、どうする?」

「でも私なんかと一緒だと迷惑じゃ……」

 ――ふーん。やっぱりそうか。

「高橋さんって、俺のことそんなに嫌いなわけ?」

 俺は舞が気後れしなきゃいけないような人間じゃない。むしろ……

「……嫌い」

 一瞬、その言葉がグサリと胸に突き刺さった。

「……とかじゃない……けど」

 ――焦ったーーー!

 俺はホッと胸を撫で下ろす。

「じゃあ……」

「どうして私のことを構うのかわからない!」

 それまで小さな声で口ごもりながら話していた舞が突然はっきりと大きな声で言った。 

 その勢いにのまれて俺は次の言葉を発することができなくなってしまった。

「私をからかうと楽しいから? どうせ面白い玩具か何かだと思ってるんでしょ? そして……み、みんなで私を笑って……た、楽しいですか?」

 ――……違う、違うよ。

 だけど、即座に否定できなかった。彼女がそう思うのも無理はない。

 実際、俺の行動は舞の気持ちを考えてのものじゃなかった。ただ静かにひっそりとあの教室の隅にいることに満足していた舞にとって、俺が隣の席だというだけでもきっと迷惑な話なのだ。

「楽しいのは、当たってるかな」

 ――ごめん。ガキっぽいことしちゃって。

「でもちょっと違うな」

 ――これだけはわかってほしい。



「気になるんだ、高橋さんのこと」



 俺はかなり思い切って告白した……つもりだった。

 が、次の瞬間、顔を上げた舞の瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。

「うわぁ、俺が泣かせちゃったんだよね……ごめん」



 ――ていうか、俺の話、全然聞いてないだろ!?



「からかったわけじゃなくて……あーでも今更何言っても遅いか」

 渡したティッシュペーパーで鼻をすする舞を見て、俺は確信する。

 ――完璧に流された……。

 仕方ない。まだ早すぎる。俺はがっかりしながらも舞のスピードにあわせようと思い直した。

「高橋さんをついからかいたくなったのは確かです。ごめんなさい。でも、高橋さんって他の人と違うから楽しい……っていうか、嬉しかったんだよね」

 もし隣が舞じゃなかったら俺は居眠り三昧の毎日に決まってる。あんな特等席にいて居眠りするな、というほうが無茶な話だ。

 それに舞は悪戯し甲斐があるってわかったし。

 不思議そうな顔をしている舞に俺はもう少し噛み砕いて説明した。

「思ったことがストレートに言動に現れるでしょ? なんていうか……他のヤツらはワンクッションあるんだよね、俺に対して」

「それは清水くんが学年一番でカッコいいからじゃ?」

 誰がそんなこと言い出したのか知らないけど、それは決して俺が努力して手に入れたものじゃない。

 その評判のせいで舞が俺を敬遠するなら、こんな外見なんかほしいヤツにくれてやる。

「俺は、そんないいもんじゃないよ」



 ――わかるかな、君に。……俺の気持ちが。



 舞は少し表情を曇らせた。もうすっかり涙は乾いていた。

 ――優しいね。さっき自分を泣かせた人間に同情なんかしなくていいのに。

「さて、駅に着いたけどどうする?」

 俺は駅の入り口前で立ち止まり改めて舞を見た。

 思案顔の舞が時計を見る。次の電車まで時間はかなりあるはずだ。俺に当惑した視線を投げかけたその時……



 グウゥゥゥゥゥ…………



 舞は慌ててお腹を押さえた。聞くまでもないが、一応ダメ押しで質問する。

「……行くよね? 定食屋」

 舞は恥ずかしそうに下を向いてかすかに頷いた。俺は密かにニヤリとし、自転車置き場へと急いだ。


BACK / INDEX / NEXT

HOME


Copyright(c)2009 Emma Nishidate All Rights Reserved.

 1st:2009/09/24