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 占いって本当に当たるんだろうか?
 新幹線の車窓から、後方へと勢いよく流れていく街並みをぼんやり見ていると、やっぱりあの占い師の言ったことは嘘っぱちじゃないかと思う。


「アンタ、最近失恋したね?」
「はい」

 まぁ、失恋したことを当てるくらいは簡単だと思う。私の顔はいかにも泣き腫らした後で、やる気のない服装とメイク、そしてぼさぼさに伸びきった髪の毛は寝ぐせもそのままだった。誰がどう見ても失恋したか、あるいは失業したかと思うに違いない。
 占い師の女性はその私の顔をまじまじと見つめながら言った。

「うん、この失恋はアンタの人生の中でも最大の失恋だ。だけどまだ人生捨てたもんじゃないよ。……ん? アンタ、近々いい男に出会うよ。それも今までのタイプとは全然違う男だね」
「はぁ。それで、その男と出会って、私はどうなるんでしょうか?」
「これは……何というか、恋なのかねぇ?」
「え?」
「まぁ、いいことがある。でもその先はまだ誰にもわからん」


 遠くの高いビルのてっぺんに掲げられた大企業の看板を眺めながら首を傾げた。占い師のくせにはっきりしない言い方が気に入らない。
 話を総合すると、私は近々いい男に出会っていいことがある。それはどうも恋のようなものらしい。
 しかし、肝心なところが「誰にもわからん」で済まされてしまった。そりゃ未来のことなど誰にもわかるはずはない。わからないから占ってもらってるのだ。それなのに「わからん」は無責任じゃないか。最後にそんなことを言われると、言われたこと全部が疑わしく感じられる。まぁ、占ってもらおうと思ったのも気休めだから、最初から特別何かを期待していたわけじゃない。
 隣でぽっかりと口を開けて熟睡しているネネを見た。彼女は会社の同僚でしかも席が隣だ。同い年ということもあり、何かとつるんで遊んでいる。正確に言えば、ネネの遊び歩きに私が付き合わされているのだけど。
 そして今、こうして新幹線に乗り込んでいるのも、避暑地に行きたいとネネが言い出したからだった。占いの結果を話して聞かせたところ、ネネは目を輝かせて言ったのだ。

「よし、いい男、探しに行こう!」
「探しに? なんで?」
「ルリ、今はお金だってそのへんには落ちていない時代だよ? 恋だってそこらへんに落ちているわけないじゃない。向こうからやって来るのを待ってたら、私たちあっという間に賞味期限切れだよ」

 一気にまくし立てて、いきなりテンションをマックスまで上げたネネはニヤリと笑った。

「夏といえば、やっぱ避暑地でしょ!」

 よほど日々の事務仕事に疲れているのか、あるいは昨晩も一夜の恋を探しに出歩いていたのか、ネネは小さくいびきまでかいている。その寝顔を見ながら私は、それでもやっぱり占い師の言葉を信じたらバカを見るんじゃないかと思っていた。


 たどり着いた避暑地は、涼を求める人々で賑わっていた。ホテルは予約したものの、大した計画も立てずにふらりとやって来てしまったので、私とネネはガイドブックを頼りにまず遊園地へ向かった。 
 バスに乗り換え一直線に山を目指す。到着したレジャーランドでは色とりどりの花が咲き誇り、木々が濃緑の葉を揺らすと柔らかで心地よい風が辺りを吹き抜ける。これが都心と同じ太陽か、と思うほどに降り注ぐ陽光は穏やかだ。
「ルリ、ここに来て急に顔色よくなったね」
 ネネが私の顔をまじまじと見つめてくる。確かにここに着くまでの間、黙っていれば無意識に別れた彼のことを考えていた。別れた当日から少しずつその時間は短くなっているものの、彼をすっかり忘れてしまうにはもっと膨大な時間が必要らしい。
 でも乾いた都心を離れ、自然に包まれて新鮮な空気を吸うと、鬱屈した気分も晴れやかになる。深呼吸をするたびにどんどん心が癒されていくような気がした。
「これでいい男がいれば完璧なんだけど」
 早速ネネは額に手をかざして周囲を見回し、いい男を探すジェスチャーをする。
「そんな簡単にいい男が見つかるはずないって」
「いや、ルリの行くところにいい男が絶対現れる! あのオバさんの占い、当たるって有名だし」
 私はひきつった顔で首を傾げた。結局ネネの目的は私のいい男探しなどではない。私はいわばダウジングの棒なのだ。失恋した友人ですら有意義に利用しようという彼女のしたたかさには驚きを通り越して感心してしまう。
 利用されること自体は別にかまわないのだが、失恋の痛手を拭いきれていない私の目から見ると、あの占い師の言葉を純粋に信じ切れるネネの能天気さがものすごく羨ましかった。
 そのネネもしばらくはアトラクションを攻略することに夢中になる。基本的に彼女は楽しいことが大好きなのだ。勿論それは私だって同じ。ネネに負けじとテンションを上げる。失恋の痛みなんかジェットコースターで吹き飛んでしまえばいい。
 ひととおり絶叫系のマシーンと制覇すると、さすがに休憩しようということになった。ソフトクリームを食べながら社内の噂話で盛り上がっていると、ネネが急に私の腕を掴み声を潜めて言った。
「ねぇ、あのゴーカートに乗ってる男、結構イケてない?」
 指差す方向を見てみると、確かに同じ年代のちょっとカッコよく見える男性がゴーカートに乗っていた。
「でも隣に座っているのは彼女じゃない?」
「……だね」
 心の底からがっかりした様子でネネはソフトクリームのコーンを齧った。それを横目に見ていると、なぜか急に嫌味を言いたくなる。
「それに、あのレベルなら私は別に……」
 サクサクとコーンを齧る音が早くなり、全部を口に放り込むとネネは私をチラッと見た。その冷たい視線は容赦なく私に突き刺さり、心の傷を更に深く抉られたような気分になる。
「ルリはそうだろうね。だけど、あの男と同じレベルの男を探そうなんて無謀!」
 ため息が出た。ネネの言うとおりだった。元彼と同じレベルの男がそこらへんにいるわけがない。
 そんな険悪なやり取りをしている私たちの後ろから、突然「すいません」という男性の声がした。
 振り返ると、こんがりといい色に焼けたスポーツマンタイプの男性が立っていた。ネネと私を見比べて、それから満面に笑みを浮かべる。
「二人で遊びに来てるの?」
 すぐにこれはナンパだ、とピンと来た。
 ネネの顔にパーッと赤みが差す。もう彼女の視線は声を掛けてきた男性にピタリと貼り付き、目からは強い光線が放たれていた。
「そうなんです」
 普段より一オクターブくらい声が高い。男性は陸上選手のような細身の体型でもろにネネの好みだった。彼はネネの返事にますます気をよくしたようで、ネネのほうを向いて会話を続けた。
「こっちも男二人なんで、よかったら一緒に遊ばない?」
「いいですねぇ」
 ネネは私に同意を求めるように視線をよこす。もう一人の姿が見えないのが気になるけれども、異論はないのでとりあえず頷いた。男性は私にも柔らかく微笑みかけてきたが、笑顔を作りながら「微妙」と判定を下す。それにネネが彼を気に入ったようだから間違っても彼に誤解されるようなふるまいはするな、と自分自身に言い聞かせた。
「それでもう一人は?」
 待ちきれない様子でネネが訊ねる。すると男性はおかしいな、という顔をしながら振り返った。
「今、コーラ買いに行ったんだけどずいぶん遅いな」
 ネネと私は彼の連れらしき男性を売店に探すが見当たらない。男性が「どこまで買いに行ったんだ?」とつぶやくのを聞き、慌てて探索範囲を広げた。
 視線を巡らせていると、若い男性の姿に目が留まる。コーラの缶を二つ手にして、こちらに向かってくるので、もしかしたらあの男がそうではないか、と瞬間的に思ったが、いくらなんでもあれはない、と心の声が脳内に大きくこだまする。
「ああ、来た来た」
 ウソだ。だってあんな姿でまともな社会人のはずがない。
 まず目に飛び込んできたのは見事な金髪だった。ライオンの鬣(たてがみ)にそっくりだ。こんな髪型が許される職業なんて限られている。それになぜ金髪なのかがわからない。カラーリング技術は大幅に進歩し、色味だってたくさんある。あれが彼の趣味だというなら、私には彼のことを理解できそうにない。心の中に絶望のようなものが広がり、上げに上げていたテンションは瞬く間に急降下していった。
 軽薄な中身を象徴するかのように、金髪男はふらふらと軸のない足取りでこちらへ近づいてくる。がっかりしながらも私はその男を丹念に上から下まで観察していた。男二人が並ぶと、意外にもスラリと背の高いスポーツマン系の男性と金髪男はさほど変わらない背格好だ。
「自己紹介すると、俺がトシユキで、コイツはケイゴ」
「えっと、私がネネで、こちらはルリです。よろしくね」
 さすがにネネもケイゴと紹介された男にぎょっとしたようだが、気を取り直して愛想よく言った。私もネネと同じような表情をしながら、密かに金髪のケイゴが口を開く瞬間を期待する。
「あ、ごめん。二つしか買ってこなかった」
 グレーグラデーションのサングラスをしたケイゴは缶の一つをトシユキに渡しながら、最初は恥ずかしそうにネネと私を見比べた。声が思ったよりも硬質で、口ごもるようにぼそぼそと話しているのに案外はっきりと聞こえてくる。
「あ、全然いいの。私たちソフトクリーム食べたばかりだから」
 ネネの声は上擦ったままだ。私も隣でうんうんと頷いた。炭酸飲料が苦手なのでコーラは飲めないし、と思う。
「じゃあ、皆で何か乗ろうよ。あの気球みたいなヤツは?」
 トシユキがリーダー役を務めるようだ。すぐにネネが「あー、乗ってみたい!」と同意し、私を振り返る。別に何でもいいと思っていたので、またうんうんと頷くと、ケイゴは何も言わずに真っ先にアトラクションへ向かって歩き始めた。


 しばらく全員で楽しめるアトラクションを回って、その間に彼らが私たちと同じ25歳で、高校からの友達だという情報を入手していた。
「ウチらは同じ会社の同僚なんですよ。席も隣同士で、めっちゃ仲良し!」
 ネネは饒舌に私の分まで話してくれるので、相変わらず私は隣でうんうんと首を振る係をしている。
「へぇ、何の会社?」
「外資系の医療機器とか扱ってる会社。ウチらは事務だけど」
「外資系とかオシャレな感じだよね。二人ともそういう感じする」
「えー、そうですかぁ?」
 実際、会社にはオシャレなお姉様が多い。給料も悪くはないし、仕事も適度に暇で、うるさい上司もいない。女子同士の小さな事件は絶えないが、私にとってはそれも許容範囲だった。あまりにも居心地のいい会社のためか、お姉様方は順調にキャリアを積み重ね、その挙句にお一人様への道をまっしぐらに目指す羽目になる。25歳で大きな失恋をしてしまった私は、もしかしたら彼女たちと同じ道を歩むのではないかと密かに恐れ戦いていたりもする。
 ネネにそそのかされて避暑地に来たものの、と目の前の男二人を盗み見た。どっちかが占い師の言った「いい男」なのだろうか。二人には悪いけど、今のところそういう予感は全くない。私の考える「いい男」とは何かが違う。
「会社はどの辺にあるの?」
 ネネとトシユキはお互い支障が出ない程度に会社や自宅周辺の情報交換をしていた。あまりご近所だと引いてしまうが、少し接点があるくらいだと話が弾むものだ。実際、トシユキが以前通っていたスポーツクラブが、私たちの会社の近くだと判明して盛り上がる。
「あの近くにもうすぐ大きなビルが建つよね?」
「そうなんです。冬に開業予定って書いてありましたよ。今からすっごく楽しみ!」
 ぼんやりしていると「ね?」と隣から肘で突かれた。慌てて愛想笑いを浮かべて相槌を打つ。
「トシさんとケイゴさんのお仕事は?」
 屈託ない笑顔でネネが言った。すぐに私の耳がピンと反応する。それは是非とも聞きたい。場合によっては二人のうちのどちらかが「いい男」に昇格する可能性がある。やはりこの歳になると「いい男」の条件はより現実的に、そしてより厳しくなるというものだ。
「俺は建設会社の経理」
 そう言ってトシユキが口にした社名は大手ゼネコンと呼ばれる一流建設会社だった。ネネと私は思わず感心して声を上げた。これはかなりポイントが高い。ネネはあからさまにトシユキのほうへ身体を傾けて、全身でアピールし始めた。その隣で私は大きくため息をつく。まぁ、トシユキもそんなに好みじゃないからどうでもいいか、と思いながら。
「ケイゴさんは?」
 トシユキの隣でぼんやりしていたのか、ケイゴは声を掛けられて慌てて顔を上げた。
「小さな鉄工所で働いてる」
 つぶやくように言うとすぐに私たちから視線を逸らして遠くを見る。
「へぇ、どんな仕事してるんですか? 力仕事?」
「いや、CADとかレーザーのオペレーター」
「じゃあパソコンのお仕事?」
「うん。たまに工場の仕事も手伝うけど」
 私は妙な気分でケイゴとネネの会話を聞いていた。思わずケイゴの金色の髪をまじまじと見つめる。
「そういう職場って金髪とかオッケーなの?」
 軽い調子で言おうと思ったのに、どこか非難めいて聞こえたかもしれない。ケイゴが私の顔をじいっと見つめてくるので、心の中は急に慌てふためき鼓動が早くなった。サングラスをしているから彼の表情はわかりにくい。どうして私の顔をそんなに凝視するのだろう。怒っているのだろうか。でも怒気のようなものは感じない。むしろ彼も私を探っているようだと思う。気がつけば私はケイゴと三十秒以上見つめ合っていた。
「ルリちゃんっておとなしいのかなと思ってたけど、実は結構辛口だったりする?」
 トシユキの言葉で我に返った。同時にケイゴも気まずそうに顔を背ける。
「そんなことないですよ。ルリは今、ちょっとセンチメンタルな状態なだけで、いつもは見たまんまの優しい人ですよ」
 すかさずネネが私をフォローしてくれる。彼女の男好きは激しすぎて友達の中でも賛否の分かれるところだけど、でも彼女のこういう心配りはもっと評価されてもいいと私は思う。
「ごめんなさい。ちょっと気になってしまって……」
 せっかくフォローしてもらったので同調した。
「わかるわかる。俺もこの頭を最初に見たとき『それヤベぇだろ』って言った」
 トシユキが笑いながら言う。それなのに当の本人は自分に関係ない話題のように、ぼんやりと宙を見つめていた。
「ケイゴさんってクールですよね。見た目チャラ男っぽいけど」
 ネネもケイゴの態度が気になったのだろうか。それにしてもいきなり核心をつく発言で私は苦笑してしまった。
「俺、チャラ男に見える?」
 首を後ろに反らしてケイゴがこちらを向いた。愉快そうな口ぶりで、実際彼は笑っていた。
「うーん、見た目だけなら見えるかも。でもチャラ男ってウザいくらい喋るっていうイメージがあるから、ケイゴさんは違うかな」
「へぇ。……ルリは?」
 は?
 私は一瞬、眉をひそめた。
「え?」
 ワンクッション置いてから、改めて聞き返す。今、この金髪男が私のことを呼び捨てにしたような……。
「ルリは俺がチャラ男に見える?」
 や、やっぱり呼び捨て!
 いきなりずいぶんと馴れ馴れしい男だ。今まで初対面の男性から呼び捨てにされたことは一度もない。なんだかカチンときた。

「私、あなたに興味ないから何とも思わない」

 途端に周囲の空気が固まった。失敗したと思うがもう遅い。ネネとトシユキの心配そうな視線を感じるけれども、勇ましく啖呵を切ってしまった手前、怖い顔をしたまま静かに呼吸を繰り返した。
 それなのにケイゴはなぜかうっすらと笑みを浮かべている。
「率直なご意見、どうもありがとう」
 皮肉たっぷりの言葉に私はますますムカついた。ケイゴをキッと睨む。それでも彼は笑っていた。よくわからない男だ。でも彼が案外真っ当な社会人だとわかって、知らないうちにホッとしている自分がいた。何とも思っていないはずなのに、彼が怪しい職業に就いていなくてよかったという気分になっている。どうしてだろう。自分の気持ちもよくわからなくなってきた。そっとケイゴの横顔を盗み見ると、彼も何かもの言いたげな表情でこちらを向く。胸が締め付けられるような奇妙な息苦しさに苛まれながら、黙ってケイゴの顔を見つめ返した。


 偶然にもトシユキとケイゴは私たちと同じホテルだった。トシユキが車で来ていたので、ホテルまで便乗させてもらった。ナンパしてくる男なんて、と思う気持ちもあったが、これはラッキーな出来事だったので、密かに彼に感謝する。
 実際、トシユキは高スペックな男だ。でも彼を恋愛対象として見ることができるかどうか、と考えると私は首を傾げてしまう。それがたとえ軽い遊びだったとしても、彼とどうにかなること自体が想像できないのだ。それに最初からネネがあからさまにアピールしているのに、今更私も、とは言いにくい。
 たぶん今夜、ネネはトシユキと一緒に過ごすだろう。ネネからあんなふうに好き好きとサインを送られてなびかない男はほとんどいない。
 となると、私はどうなるのだろう。一瞬不安になるが、とりあえずそれは考えないことにする。
 車内でネネが「今夜は一緒に思い切り飲みましょう!」と提案すると、トシユキもすぐに同意した。こうなることは既に予想していたので、私も「そうだね」と相槌を打つ。
「お二人はお酒強いんですか?」
「俺はそこそこって感じだけど、コイツは半端じゃないよ」
「えー、ケイゴさんって強いんだ!」
 後部座席から身を乗り出してネネが言うと、ケイゴは笑いながら「いや」と否定する。トシユキは不満そうに反論した。
「ケイゴはザルだろ。コイツね、飲んでも飲んでも全然酔わないの」
「たぶん俺の内臓、どこかイカレてるんだって。でも皆が酔っ払って楽しく盛り上がっているのに、俺だけ酔えないって置いてきぼりみたいで結構切ない」
 ケイゴの自嘲気味のセリフに思わず共感していた。その感覚は私にもある。私は酔うことはできるのだけど、羽目を外すことがどうしてもできない。酔っていてもどこかで自分自身にブレーキをかけてしまう。だからそういうときは直情径行のネネが少し羨ましくなる。
「後ろのお二人は?」
「私たちはすーぐ顔が赤くなっちゃうんですよ。ね、ルリ?」
「うん」
 でも私たちは同じじゃない。ネネのように酔った勢いで奔放にふるまうことなんか私にはできない。
「今日は二人とも潰れるまで帰さないぞ」
 運転席のトシユキがふざけた調子で言った。冗談めかして言っているが、実は本気なのかもしれない。
 車は山道を登る。ちらほらと道路脇に温泉街にあるホテルの看板が見えてきた。狭く曲がりくねった道路を覆うように大木の枝が張り出している。こんな山奥まで来てしまったんだ、と今更だが思った。昼間なら自然がいっぱいで空気が美味しいと喜んでいられたのに、陽が傾き鬱蒼とした林がすぐそこまで迫っているのを見ると、急に不安な気持ちになる。
 ふと、元彼のことが頭をよぎった。不安な気持ちは芋蔓式に不安な記憶を呼び起こし、逃げるように彼の部屋を出た日のことを思い出す。胸の中は満たされぬ想いが鬱積して爆発しそうだ。
 何だか急に自棄を起こしたい気分になる。どうせ捨てられた私だ。めちゃくちゃ飲んで、めちゃくちゃ酔っ払って、めちゃくちゃ暴れて、目が覚めたら新しい自分になるっていうのはどうだろう。
 そういえば「この失恋はアンタの人生の中でも最大の失恋だ」と占い師は言った。ということは、この先これ以上の大きな失恋はしないはずだ。もし、あの占い師の言葉が当たっているとしたら、の話だけれども。
 どうせこんな山奥に来たのだし、一緒にいるのは気心の知れたネネとさっき知り合ったばかりの男二人だ。今まで人目を気にしすぎて無難にふるまうことに必死だったけど、ここでは人目を気にする必要もないだろう。
 今夜はこれまでにないくらい弾けてやる、と私は密かに決意した。

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2010/09/13

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