この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍企画『プロジェクトうりゃま 〜ピュア&ラブ〜 最終号』に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR18相当の描写を含みます。18歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 真新しいシーツの波間に身を泳がせる瞬間、私はこの世で1番の幸せ者だと感じていた。男性としては特上の部類に入る彼の寵愛を一身に受けるのだ。歓喜の渦にさらわれ、私は快楽の世界の虜となる。優しく降り注ぐ彼のキスに、肌を撫でる彼の指先に、身も心も激しく乱された。
 でも溺れるように愛し合う日々は、半年をすぎると落ち着きを見せ始めた。
 今思えばそれは私のせいかもしれない。私は田島課長に対してある不満を持つようになっていたのだ。
 彼とのデートはいつもワンパターン。食事をして、ホテルに行き、別々の家へ帰る。毎回場所は違うものの、必ずこの流れだった。
 どうして彼の家に誘われないのだろう。
 デートのあと、ひとりでとぼとぼと夜道を歩きながら虚しさを噛み締める。それが幾度か繰り返されると、田島課長と私の間には越えられぬ壁があることを確信するようになった。

 最初から彼は私に全てを見せるつもりなどなかったのだ。
 彼は私を恋人ではなく愛人にしたかったのだ。

 諦めのようなものを感じた私に、突然ひとつの疑念が生じた。
 田島課長が私の顔をじっと見つめる理由は、私が誰かと似ているからではないだろうか。

 誰か――?

 私の脳裏には疑念と同時にその答えが浮かび上がっていた。
 異動してきたころの暗い瞳、誰も寄せつけないような緊張感――それらは離婚が原因だったはず。そして私を見つめる目が時折驚いたように見開かれたり、何かを確かめるように慎重な動きをするのは、もしかしたら私が田島課長の前妻に似ているからではないか。
 だとしたら私が田島課長に恋人のような関係を期待するのは、彼にとっては酷なことかもしれない。
 そう思うとふっ切れて、田島課長とはこのままの不確かな関係で十分だと感じた。彼が離婚のショックから立ち直り、新たな人生を再出発するときまで、私の存在が少しでも慰めになるのならそれもいいか、と。



「こういうことをするのも久しぶりだな」
 ふたりが身体を重ねるだけなら、ダブルベッドは広すぎる。彼と最初のデートも同じ感想を持ったことを思い出し、私はフッと笑った。
「何がおかしい?」
 田島部長は鋭い目つきで私を見下ろしていた。その冷たい表情に胸がチクッと痛む。
「部長に抱かれたいと思う女性はたくさんいるでしょう?」
 素直な気持ちを告げるよりも、皮肉を言うほうが簡単だ。自分でもこんな女は最悪だと思う。魅力的な男性である田島部長を、私のようなあまのじゃくがいつまでも独占していたら罰が当たるだろう。
 私なんか本当に嫌われてしまえばいいんだ。
 そう思った瞬間、田島部長が少し乱暴に私の唇を覆い、バスローブの胸元を引き開けた。声をあげることもできず、ただ目を見開いている私に、彼は冷たい視線をよこす。
「そういうことを言うために俺を呼び出したのか?」
「そうじゃない……けど」
「じゃあ理由を言ってみろよ。それに俺の名前は『部長』じゃない」
 言いながら彼はあらわになった胸の膨らみを大きな手のひらで包み込み、円を描くように揺さぶった。私はこれまでにない荒々しい動作に戸惑いながらも、嫌がるどころか喜びのようなものを感じている自分に愕然とする。
 しかしどんなに熱い吐息を漏らしても彼の瞳は冷ややかなままだ。
 彼は胸の突起を口に含み、舌で軽く転がすようにしたかと思うと、突然歯を立てた。電流のような痺れが身体を走り、腰のあたりが疼く。
 それを察して彼の指が太腿の間を割って入り込み、奥に潜んだ熱い蜜を絡め取ると、先ほどの荒い動作からは想像もできないほどの優しい指づかいで花の蕾を撫で始めた。蜜は続々と溢れ、ふたりきりの部屋には私の喘ぐ声と卑猥な水の音だけが響く。
「晴樹……」
 助けを求めて彼に手を伸ばすと、彼はそれをするりと抜けて足元へ移動した。
 次の瞬間、優しい指の動きがざらっとした感触にすり替わる。
「やぁ……っ!」
「嫌じゃないくせに」
 意地悪な声が聞こえてきた。言い返したいけれども、考えることすら難しい。少しの余裕もない私を、足元にいる彼が遠くから観察しているように見えた。
 それでも蕾に舌を這わす彼の呼吸が次第に荒くなるのがわかると、なぜだかとても嬉しかった。
「もう我慢できない」
 準備が整うと、彼は私の顔を真上から覗き込んだ。
「みどり……」
 彼の大きな手が私の片頬を柔らかく包む。
 急に胸の中がいっぱいになった。これが最後なのだ。見上げていた彼の顔がぼやける。
 そしてついに私の秘められた熱い部分へ逞しいものが突き立てられた。同時に痺れるような強烈な刺激が私を貫く。
「ごめん、痛い?」
 こみ上げてきた涙を彼は苦しそうな表情で見つめている。私が首を横に振ると、彼のものはためらわずに奥へと突き進んだ。最奥まで埋め尽くされると、その存在感に圧倒され、ますます感情が昂った。
 切羽詰まった表情の彼が動く。置いていかれないように彼の肩につかまると、大きな衝撃が全身を襲った。

 その瞬間、目尻からぽろっと涙がこぼれ落ちる。

 彼のものが私の最奥に達するたびに、ぽろり、ぽろりと溢れ出る涙のしずくを、彼は悩ましい表情で見下ろしていた。次第に激しくなるふたりの濃密な遊戯はやがて最高潮へ達する。最後に彼は私の頭を抱き、私の中で弾けると同時に、目尻から流れる涙に優しく唇を寄せた。



「こういう場所で会うのは、今夜で最後にしましょう」
 シャワーを浴びて身支度を整えた私は、シャツの前をはだけたままの田島部長に向かって言った。
 彼は面倒くさそうにまばたきをした。そして長いため息をついたあと、憂いを帯びた瞳をこちらに向けてフッと微笑んで見せる。
「みどりが俺を呼び出したのは、それを告げるためか」
 私が小さく頷くと、彼は目を伏せた。重苦しい沈黙が支配する部屋の中央で、立ち去るタイミングを逃してしまったことに気がついた私は焦燥に駆られる。
 さようならと言って、今すぐここを出なくては――。
 しかし、先に動いたのは田島部長だった。

「じゃあ最後にプレゼント」
「えっ?」

 鞄の中から綺麗に包装された小箱が出てきた。驚いているうちにビリビリと外側の包装紙は破かれ、箱の中から小ぶりのアクセサリーが田島部長の手に滑り落ちる。
 彼は棒立ちになっている私の前に来て、私の手をつかんだ。

「昔、すごく好きになった女の子がいたんだ」

 手を繋いだまま、田島部長は静かにそう言った。彼に別れを切り出した直後なのに、嫉妬で胸がズキッと痛む。シャツの間から見える彼の素肌が少し憎らしくなった。
「好きというのは大げさかな。その子のことは大学の構内でたった一度見かけただけだから」
 今さら、なんの思い出話をするつもりなのか、私にはわけがわからなかった。でも手を振りほどく勇気もない。
「その日は雨が降っていて、俺は傘を持っていなかった。駅までは走れば3分。本当は濡れて帰ってもよかったんだ。だけどターコイズブルーの傘が目の前を横切るのを見て、気がつけば俺は『傘に入れてほしい』と頼んでいた」
 そこで一旦言葉を区切ると、田島部長が私の目を覗き込んできた。

 ターコイズブルーの傘。

 私は彼の目を、そして彼の顔を凝視した。
「……なんの、話……ですか?」
「髪の長い綺麗な女の子だったよ。メイクをしていないのに、彼女の横顔はキラキラしてた。まぁ、見た瞬間から俺がその子に恋をしてしまったので、そう見えたのかもしれないけど」
 それから田島部長は首を少しだけ傾げた。

「覚えているでしょ? 雨の日に大学構内で傘に割り込んできた男のこと」

 返事のかわりにゴクリと喉が鳴る。脳裏には古い記憶の断片がよみがえっていた。それでもまだ私は確信を持てずにいる。
「私もターコイズブルーの傘を持っていました。だけどそれは高校生のころです」
「そう。みどりはまだ高校生だった。俺は大人っぽい雰囲気の君を同じ大学の学生だと頭から決めつけてた。あれからずっと君を探していたけど、見つかるはずもない。俺がようやく勘違いに気がついたのは1年前、あの夜だった」

 思い出の中に埋もれていた、古い、たった数分間の記憶が私の中で鮮明に再生される。

 大学教員である父の研究室に忘れ物を届けた雨の日、突然背の高い大学生が「駅まで傘に入れてほしい」と話しかけてきた。私は「いいですよ」と返事をしてから、その人の顔を見て慌てた。あまりにも整った顔立ちで、心臓が胸から飛び出してきそうなほど驚いてしまったのだ。
 かっこいい男性が間近にいることで極度に緊張してしまった私は、駅までの道のりで彼と何を話したのか、まったく覚えていない。たぶんほとんど口を利かなかったのだと思う。それに恥ずかしくて彼の顔をまともに見ることができなかったのだ。
 ふと我に返る。
 課長として赴任した直後、驚いたように私を見つめる彼の瞳――。

「そんな……私、勘違いしてた……の?」

「勘違い?」
 言ってから、ハッとして口に手をあてがったが、もう遅い。田島部長は不思議そうな表情で私を見つめている。
「部長が私を変な目で見ているのは気がついていましたが、それは私が部長の前の奥さんに似ているせいなのかと……」
「変な目って、ひどいな。それにみどりを誰かと重ねたことなんかない。俺は一途にみどりを好きでいるのに、部下に手を出さずにいられないエロオヤジみたいに言うし」
「そこまでは言ってません。それにバツイチの男性に一途だなんて言われたくありません」
 突然、繋いでいた手が離された。
 私は取り返しのつかない発言をしてしまったことに今さら気がつく。
 頭上で大きなため息が漏れた。
「バツイチでなければ、みどりは俺を好きになってくれたかな?」
「……ごめんなさい。私、本当にひどいことを……ごめんなさい」
「あやまらなくてもいいよ。本当のことだし」
 何度も首を横に振った。すると頭の上に大きな手がポンと置かれた。
「みどりは俺のことを好きなんだよね。さっきあんなに泣いてたのは、本当は俺と別れたくないからでしょ?」
「……それは……」
「このひと月、わざと連絡しなかったんだ。みどりを試すために」
「試す?」
「俺に会いたいと思ってほしかったから」
 そう言って田島部長は私を抱き寄せた。彼の腕の中で私は数度まばたきする。身体がふわふわとして夢を見ているような気分だ。
「俺の気持ちを押しつけるようにして始まった関係だから、みどりが俺のことをどう思っているのか、ずっと知りたかった。もし俺を少しでも好きだと思ってくれるなら、バツイチだとか会社の上司だとか、そういうこと全部抜きにして俺を見てほしい」
 私は田島部長の胸に頭を預け、少しの間考える。
 もうここから出たくない。このぬくもりを失うくらいなら身体ごと溶けてしまいたい。
 感じることはそんなことばかり。

 つまり、私は――。

「無理です。私が恋をしたのはバツイチの上司だから」
「みどり……」
「私、田島部長と堂々と恋をしたいです。普通の恋人がするデートもしてみたいし、田島部長のおうちにも行ってみたい」
 クスッと笑う声が聞こえてきた。途端に私の顔は真っ赤になる。
「嬉しいよ」
 そう言って彼は私の左腕をつかみ、銀色に光るリングを私の薬指にはめた。私の指にすんなりと馴染むシンプルなデザイン。
「これは……?」
「俺の愛と勇気の結晶。みどりにあげる。いらないなら捨てていい」
 信じられない言葉が彼の口から飛び出す。この1年間、心の奥底でひたすら求め続けたものが、私の薬指でキラキラと輝いていた。
「何があっても絶対捨てません」
 私は思わず左の薬指を右手で押さえた。田島部長は楽しそうにクスクス笑う。
「じゃあ明日、うちにおいで。両親に紹介するから」
「え? えええーっ!?」
「ごめん。言ってなかったよね。俺、実家に住んでて、気軽にみどりを連れて行けるような状況じゃなくてさ」

 私はいったいどこまで思い込みの激しい人間なのだろう。
 そして決死の覚悟で別れを告げた私の勇気はいったいなんだったのだろう。

 情けないやら、恥ずかしいやら、それに気が抜けてホッとしたせいか、おかしくて仕方がなかった。
 涙を流しながら笑う私に、田島部長は優しいキスを落としていく。額に、頬に、鼻の頭に、唇に……。
 そのたび私の心にポン、ポンとターコイズブルーの傘が開いた。雨の日の憂鬱を吹き飛ばしてくれるように、と選んだ爽やかな緑がかった青色。しのいでくれるのは冷たい雨粒だけではなかったと今になって気がつく。
 あの傘、今はどこにあるのだろう。
 今度実家に戻って探してみようと思った。もちろん、そのときは彼と一緒に――。


◇ END ◇