この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍企画『プロジェクトうりゃま 〜ピュア&ラブ〜 最終号』に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR18相当の描写を含みます。18歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 遠くの空で赤い光が点滅している。
 普段と何も変わらない風景だ。窓の外には高層ビルがひしめき合い、そのビル群の隙間から紅白模様の鉄塔が顔を出していた。毎夕、その頂上で赤い光が静かにウインクし始めるのだ。
 いつもは気に留めることもないその光が、今日に限ってやけにまぶしく見えた。窓から目をそらし、パソコンの画面と睨み合っても、頭の隅っこで赤い光が明滅し続けている気がして胸が騒ぐ。
 これではいけない。
 そう思って立ち上がると、隣の部署が目に入った。
 私と同じ制服を着た若い女性が上司の席へ向かう。その足音を聞きつけたのか、彼女の上司が目を上げて柔らかく微笑んだ。
 赤い光が私に警告する。早くしないからいけないのだ、と――。
 私はそのままストンと椅子に腰を下ろした。そして決心する。
 きちんと終わりにしよう。
 最後にもう一度会って、話をして、この不確かな関係を解消しよう。
 そう決めてしまうと気持ちが少しだけすっきりした。それから退勤時間まで仕事に没頭する。幸い私の机上には処理しなければならないデータが山になっていた。週明けはいつも忙しい。
 会社から外に出ると携帯電話を取り出しメールを打ち込む。覚悟を決めたせいか、私の指は迷いなく動いた。



 まさか上司に恋をするとは思わなかった。
 社内恋愛が禁止されている職場ではないが、できれば彼氏は社外で探したいというのが私のスタンスだった。実際私は頑固にそれを貫いていた。
 なのに、どうしてあんなことになったのだろう。眼下に広がる夜景を眺めながら、約1年前の出来事を思い返す。
「みどりのほうからメールをくれるなんて驚いたよ」
 真横に座る田島部長がそう言った。
 私は彼の顔を見ずに笑う。どうせ私のことなんか忘れていたんでしょう。そう言ってしまうことは簡単だけど、今は言わないでおく。
「ごめん。ずっと連絡しようと思っていたんだ」
 横面に田島部長の視線を感じるが、私は背筋を伸ばしてじっと前を向いていた。
 ここで彼と初めてデートをしたのが約1年前。高層ホテルの最上階にあるバーに誘われるなんてロマンティックなシチュエーションは、過去の恋愛にないものだったから、彼の特別な女性として扱われているようで、本当はものすごく嬉しかった。
 だけど1年前の私も、今と同じように押し黙って、ただぼんやりと夜景を眺めていた。緊張と興奮で粗相をしでかさないかと心配だったのだ。
「責められるのかと思っていたんだけど……」
 何も言わない私に焦れたのか、田島部長はひとりごとのようにつぶやく。さすがに私も彼が気の毒になった。
「部長になられてからますますお忙しいご様子ですし、メールも迷惑かと思ったのですが……」
「おいおい、敬語はやめてほしいな。ここは職場じゃないし。それより『話したいこと』って何?」
 私はようやく夜景から目を離し、田島部長の顔を見た。胸がドキッと音を立てる。彼の憂いを帯びた眼差しはいつも一瞬で私の心を奪っていく。
 決心が揺らいだ。
 彼の瞳を覗き込むと、彼もじっと私を見つめてくる。男性にしては切れ長の目が長い睫毛に縁取られていてとても美しい。見つめていると時が経つのを忘れてしまいそうだ。

 しかし突然、目の端に点滅する赤い光を見つけた。夜景が私に警告する。彼の瞳に映るお前はもう色あせているのだ――と。

「松本さんとはうまくいっているみたいですね」
「えっ?」
 笑みを浮かべてそのセリフを放った途端、田島部長は顔色を変えた。落胆する心を悟られないように、私はもっと大げさに頬の筋肉を緩める。
 私の上司だった彼、田島晴樹は先月の異動で部長に昇進し、隣の小さな部署へ移った。松本雪菜は田島部長の新しいアシスタントで、私よりも5歳若い。そして英語と中国語が堪能だ。
 かわいらしい松本さんの様子を思い出して小さくため息をついた。若くて仕事ができる部下に、彼の心が動くのは当然のことかもしれない。30歳の私と25歳の松本さんなら、当然松本さんを選ぶだろうと私自身ですら思ってしまうから。
 田島部長は難しい顔をしながら「まぁ」と口を開く。
「10歳も離れていると世代が違うのを嫌というほど実感するよ」
「でも彼女、かわいいでしょう?」
「まぁね」
 部長が私から顔を背けて夜景を見る。やっぱり、と私は思った。
「よかったですね。かわいらしい部下と一緒で、お仕事も順調で、本当によかった」
「みどりはそんなことを言うために俺を呼び出したの?」
 その言葉に驚いて、部長の横顔をまじまじと見つめた。彼は迷惑そうな表情で夜の街を眺めている。
「そういうわけではないのですが……」
 私は動揺した。怒らせてしまったのだろうか。松本雪菜との親密さを指摘したのがよくなかったのかもしれない。だけど、どうせこの関係も今夜で終わるのだから、最後に嫌味のひとつくらいは言っておきたかった。
 それなのに彼の気分を害したとわかった途端、胸が張り裂けそうな痛みを感じ、今にも泣いてしまいそうだった。私の心は彼のそばにいると信じられないほど脆くなってしまう。彼の些細な表情の変化に敏感になり、彼が私に対して距離を置いたと思った瞬間、私はこの世のすべてから拒絶されたかのような、どうしようもない惨めさに支配される。
 彼に出会う前はこんなふうになる自分を想像もしなかったのに――。



 約1年前、地方支社から私の所属する部署へ異動してきた田島晴樹は、当時まだ課長と呼ばれていた。私より5歳年上の上司は有能でありながら、誰も寄せつけないような暗い影をその身にまとい、自ら周囲の人間と親しく打ち解けようとはしなかった。
 私は容姿端麗な彼に目を見張ったものの、近寄りがたい雰囲気が苦手で、彼の赴任からしばらくはひたすら事務的に接した。
 でも不思議なことに、書類の承認を依頼するたび、彼は私の顔をじっと見つめてきた。それから少し慌てて書類に目を通すのだ。私はその間ずっと怪訝な表情をする羽目になる。女性社員の少ない部署だから私の存在自体が珍しく見えるのだろう。居心地の悪い課長席前で、いつもそんなことを考えていた。
 しかし整った容貌の彼を社内の女性たちが放っておくはずはない。勤務時間中であるにもかかわらず、ひっきりなしに女性社員たちが私のいる部署を覗きに来る。用もないのにやって来る彼女たちは、例外なく私を呼び出し、あの手この手で田島課長の情報を引き出そうとした。
「ごめんなさい。私、田島課長には嫌われているみたいで、仕事以外の話をしたことがないの」
 これは本当のことだった。私がそう言えばみんながっかりして立ち去った。でも中にはびっくりするほどの情報通がいて、私の耳に顔を寄せてこんなことを言った。
「田島さんってバツイチなんだって。前の奥さんと結婚後、奥さんの実家近くの支社に異動したけど、去年離婚しちゃったみたい。それで本社に戻ってきたらしいよ」
 私は目を丸くして情報通の彼女を見返すが、彼女は私のことなどお構いなしで田島課長に熱い視線を送っていた。
「あのちょっと寂しそうな背中がたまらないよね」
 同意を求められたので、私も課長席を見る。
「ここから背中は見えないけど」
「もう、永岡さんって変な人ね」
 笑いながら彼女は歩き去った。その笑顔は心底安堵したというしるしだった。彼女たちは田島課長を見学するついでに、彼の1番近くにいる私をそれとなく牽制していく。ぬけがけは決して許さない――と。
 そのさなか、田島課長の歓迎会が行われた。誰が呼んだのかわからないが、他部署の女性社員がゲストとして大勢混ざっていた。
 1次会は騒々しい中で適当な雑談をしているうちに終わり、若手を中心に2次会へとなだれ込む。ゲストの女性陣も田島課長を追いかけて来た。
 しかし2次会の予約は入れてなかったので、幹事行きつけの居酒屋に無理やり押しかけるかたちになった。夜は更け、店は予想以上に繁盛していた。私たちが案内されたのは、普段使われていない地下の部屋だった。
 むき出しのコンクリート壁には窓がない。その暗い部屋にあるのは古い座卓とビール瓶のケース、そしてゴミ箱だけだ。
「落ち着く部屋だな」
 そう言ったのも、それに同意したのも全て男性陣で、それまではしゃいでいた女性陣は急におとなしくなり、しばらくするとひとり、ふたりと姿が見えなくなった。

「結局残ったのは永岡さんだけか」

 1時間後それぞれの趣味の話が一段落し、場は急にシンとした。そのとき田島課長がなにげなくつぶやいたのだ。
 私は同僚の男性陣から一斉に視線を浴び、思わず苦笑した。
「私がいないほうが盛り上がるなら帰りますけど」
 腰を浮かせながらそう言うと、隣の同僚が私の腕を引っ張ってもう一度座らせる。
「みどりさんが帰るなら、俺たちも帰りますよ」
 そう言われてしまうと帰るとは言いにくい。結局それから1時間ほど宴は続き、終電直前にようやく解散した。
 気まずいことに私は田島課長と同じ電車だった。車内が混み合っているうちは無言でよかったのに、途中から人影がまばらになると居心地が悪くて仕方がない。何か話しかけるべきかと迷っているうちに隣から声がした。
「永岡さん、いくつ?」
「えっ?」
 突然年齢を尋ねられ、私は狼狽した。
「あ、ごめん。変な意味じゃないんだ」
「29ですけど」
 変な意味じゃないという田島課長の言葉には首を傾げてしまうが、隠すつもりもないので素直に返答する。課長は急に私の顔をまじまじと見つめてきた。
「俺が34ということは、5歳差……」
「そうですね」
 胸がドキドキして息が苦しかった。顔は勝手に赤くなる。ただ見つめられているだけなのに、私の心臓は壊れそうな勢いで早鐘を打ち、頭が真っ白になった。これほど綺麗な顔の男性に至近距離で見つめられたら、誰でも心が騒がしくなるはずだ。
「あの、何か……?」
 黙っていたら正気を失いそうだった。やっとの思いでそう口にすると、田島課長は口角を上げて微笑を作った。

 パン、と脳のどこかで何かが弾ける音――。

 その直後、わずかに掠れた声が聞こえてきた。
「君のこと、かわいいなって、ずっと思ってた」
 熱を帯びたその声の向こうに、不埒な欲望が見える。
 私は咄嗟に首を横に振った。子どもがイヤイヤをするような幼い仕草は、逆に媚を売っているようだと思ったが、やめることができない。わがままな女の私が目を覚ましたのだ。
 何もかも見透かしたような目をして、彼は私の手を握った。田島課長の手は燃えるように熱く、私はその熱情に抱かれて、彼の中で溶けてしまいたいと思った。