この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.4)に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR15相当の描写を含みます。15歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 ◇◆◇

 この世界では、夜の帳が降りても星が見えない。漆黒の夜空は私の心と同様、入り口も出口も闇に塞がれていた。
「お前がおとなしいとつまらないぞ。何か喋ったらどうだ? ほら、隣の国の王子のことでも……」
「黙れ」
 西の塔は実質牢屋だが、私はその中でも最上級の部屋を与えられていた。しかし普通の部屋とは違い、扉に見張り用の窓がついていた。その外側からあの口髭をたくわえた目つきの鋭い男が私に話しかけてきた。
「本来ならお前が輿入れするはずだったんだろう? どんな男だ? 暇つぶしに話してみろ。聞いてやるぞ」
「お前に話すことなど何もない」
「なぁ、嘘をつくのはよくないぞ。好きだったんだろう? この国じゃ誰もがそのことを知っている」
 私は見張り用の小窓に背を向ける。
「……昔のことだ」
「そうか。もう諦めたのか。それも仕方がない。どこかの姫君と婚約してしまったんだから、何をするにももう手遅れさ。だが、お前はこの大陸で一番の美女になると言われていた。そして実際、お前は美しく育った」
「……私のことを笑いたいのなら、いくらでも気の済むまで笑えばいい」
「そうじゃない。お前だって思っているはずだ。お前の美しさに気がつかない男はバカだと。……違うか?」
「くだらないこと言うな。見た目の美しさなど何の価値もない」
「ほう。それが真実だとすれば、お前にあるのは鼻っ柱の強さだけか。それこそ何の役にも立たないとは思わないか?」
 口髭を生やした男に背を向けたまま、私は唇を噛んだ。
「お前は美人で利口なくせに、肝心なところは鈍感だな」
 男があきれたような声を出した。
「ここから脱走しようとしたお前は、少なくとも今のお前よりはマシだったぜ。だが、脱走に成功したところで結局、後はひたすら逃げ回るしかないんだ。そんな人生、俺ならごめんだな」
「私は……」
 何かを言おうと口を開いたつもりだった。振り返った瞬間、試すような男の鋭い視線が私に突き刺さる。言葉はどこかへ消えてしまった。

 ◇◆◇

 それ以来、しばらく異世界の夢は見ていない。
 読書もやめてしまった。あれほどのめり込んでいたファンタジーの世界が、急にただの絵空事にしか感じられなくなった。何よりのんきに読書などしていられる気分ではなかった。
 思い切って進路指導室を訪問したのは、春休みが間近に迫ったある日の放課後のことだ。先輩たちの合格報告に沸く校内だが、私の顔は悲壮感に満ちていたと思う。
「どうした? そんな顔して」
 進路指導室を仕切っている教師は、入学以来ずっと私のクラスの英語を担当していた。彼はパソコンに向かいながら、私に座るよう促した。
 近くにあった椅子に腰かけると、先生は私を一瞥し、ため息をつく。
「ついにお前も受験生だな」
「はい」
「もったいない、と近頃のお前を見ていると思うよ。今のままじゃ飛べない鳥になってしまうぞ。お前だって飛べるなら飛んでみたいだろう」
 先生が私の成績を気にかけていてくれたことに驚いた。
「ですが、私は一度もトップ10に入ったことがないですし……」
「今でも覚えているが、お前の高校入試の点数はトップクラスだった。英語は満点。だから強烈な印象があってな。お前のほかにもう一人いたぞ、英語で満点」
 思わず先生の顔をまじまじと見つめてしまう。
「ほら、お前と同じ中学出身のエイジ。アイツは数学も満点だった」
 唖然としていると、先生は私の目の前に一枚の紙を突き出した。
「これはな、ウチの学校で奇跡の逆転ホームランを打った先輩たちの資料だ。見てみろ。途中の成績はひどいもんだ。だが基礎のあるヤツはやっぱり強い。お前もまだ間に合う。当然、必死でやらないとダメだがな」
 私は資料の数字を見て、それから顔を上げた。
「先生、ありがとうございます」
「礼はまだ早い。勝負はこれからだ。期待しているぞ」
 たったこれだけのことだが、私の胸には俄然勇気とやる気が湧いてきた。
 進路指導室を出て廊下を歩きながら、そういえばあの先生は夢の中の領主に少し似ているかもしれない、と思った。

 ◇◆◇

 桜の季節が終わり、辺りはまぶしいほどの光で満ちあふれている。
 読書の代わりに面白い参考書を見つけた私は、電車を待つ間、いつもの古びたベンチに座ってその参考書を開いていた。
 予備校講師の授業を文章化した参考書はただ読み進めるだけでもずいぶん勉強になる。帰宅後もう一度読み返し、自分なりのノートを作るとだんだん自信がついてきた。
 春風に乗って、聞き覚えのある女子グループの声が切れぎれに耳に届く。何気なく顔を上げると少し離れた場所に同じ制服の集団を見つけた。
「それは彼がひどいよ!」
 うつむいて顔を手で覆っている女子を数人が取り囲んでいた。そのうちの一人が大声でそう言った。
「ナナは全然悪くない。受験勉強に専念するから別れるなんて一方的じゃない」
 私は驚いて女子グループを凝視する。どうやら輪の中心で泣いているのは、ふんわりとしたパーマ頭のナナらしい。仲間の女子は口々にナナを慰めている。
 だが、ナナは下を向いたまま首を横に振った。
 周囲の女子が「えっ?」とナナの言葉を訊き返す。
 嫌な予感がして、私は参考書へ目を戻した。横面に複数の視線を感じるが、素知らぬ顔で手元を睨み続ける。
 そもそも私には関係ないことだ。エイジが誰と付き合おうが、誰と別れようが――。

 ◇◆◇

 受験生になってはじめての入試模擬テストに臨むその日、少しの期待と大きな不安で私はガチガチに緊張していた。
 受験に全身全霊を傾けると決心してからは、不思議と迷うことも立ち止まることもない。しかしその覚悟を決めるまでに時間を浪費してしまったので、勉強はまだ不十分だ。だから余計に不安が膨らんだ。
 案の定、テストが終わってみれば、自信の持てる解答が半分くらいしかなかった。
 これではいけない。私はさらに受験勉強に打ち込んだ。
 ほどなく模擬テストの答案用紙と志望校の合否判定結果が戻ってくる。
「怒涛の追い上げを期待しているぞ」
 担任は私の目を見て不敵に笑った。受け取った紙切れに目を走らせる。
 校内順位、26位――。
 見間違いではないかと目を凝らして確認するが、間違いないようだ。思わず笑みがこぼれた。
 まず誰に報告しようか。そう考えて、最初に浮かんだのは母の顔だった。母は私が足踏みしている間も「勉強しなさい」とは言わなかった。おそらく辛抱していたのだと思う。
 成績が上向いたことで、きっと家族も喜んでくれるだろう。本当の受験はまだ先だけど、頑張れば成果が現れるとわかったのは大きな収穫だった。
 昼休み、頬を緩ませたまま教室の外へ出た。
 廊下に不機嫌な顔をした男子が突っ立っている。進路を塞がれた私は仕方なく立ち止まった。エイジがぼそっと言った。
「判定結果、見せろ」
「……なんで?」
「見たいから」
「私の成績なんか見てどうするの? ああ、笑いに来たんだ? いいよ、見せてあげるよ。そして笑えばいいよ」
 私はものすごく得意になっていた。だって26位なんてまさにゴボウ抜き。圏外から急にアンテナ3本エリアに返り咲いたのだから。
 スキップするような気持ちで自分の席まで戻り、飛ぶようにエイジの元へ帰ってきた。そして「はい」と二つ折りになった紙片を手渡す。
 次の瞬間、不可解なことが起こった。
 エイジはその紙切れを素早く制服のポケットにしまった。それからくるりと背を向けて歩き出す。
「ちょっと、待ってよ! それ、私の……」
 慌ててエイジを追いかける。肩越しに振り返ったエイジは、私と目が合った瞬間駆け出した。
 私は廊下を全速力で走った。
 突き当たりは階段だ。エイジは段飛ばしで上がっているのか、もう姿が見えない。手すりをつかんで駆け上がる。
 4階が最上階だが、校舎の端にあるこの階段だけは屋上へと通じていた。「立入禁止」と書かれた札と鎖は揺れていて、上のほうでギッとドアが開く音がする。鎖をまたぐか、くぐるか、一瞬迷い、結局くぐった。
「ここ『立入禁止』になってるんだよ」
 屋上に出た私は、エイジの姿を見つけると大声で苦情を言った。
 エイジは柵に寄りかかり、大きく息を吐く。
「誰も来なくてちょうどいい」
「そうじゃなくて『怒られるよ』って言ってるの」
 私はエイジに少し近づいて、中途半端な距離で立ち止まった。彼は私の言葉など聞こえないような素振りで、ポケットから紙切れを取り出した。
 胸がドキッと鳴る。
 エイジはチラッと私を見た。
「へぇ」
「頑張ったでしょ」
「まだまだ、だな」
「あのね、宇宙人のアンタと一緒にしないでよ。これでも私、頑張って……」
 ハッとして息をのむ。一気に間合いをつめたエイジが、私の肩を乱暴につかんだ。
 次の瞬間、唇が塞がれる。
 頭の中が真っ白になった。何が起こっているのか、なぜこうなったのか、全くわけがわからない。
 わかるのは、エイジが私にキスをしている、ということだけ――。
 数回瞬きをした後、エイジのまぶたが閉じられていることにようやく気がついた。こういうときは目をつぶるのだな、と慌てて了解する。
 しかもエイジの唇はなかなか離れてくれない。肩をつかむ手の力が抜けたかと思うと、彼は口づけたまま少しだけ首を傾げるようにした。角度が変わり戸惑う私の唇の隙間を、柔らかなものがこじ開けて侵入してくる。
 エイジの舌は私の唇をゆっくりと舐め取り、そして私の内側の湿った部分をじれったいほどの動きでなぞり上げた。くすぐったいような感覚は次第に甘美な刺激に変わり、ぼんやりとする頭の中はエイジのことでいっぱいになっていく。
 それは、まだ誰も踏み込んできたことのない心の内側をなぞられるような不思議な感覚だった。最初は遠慮がちだったエイジの舌が、いつの間にか私のそれに絡み、どこからどこまでがエイジで、どこからどこまでが私なのか、だんだんわからなくなる。ただ夢中で彼の求めに応えたくて、彼を追いかけて、彼を感じようとした――。

 ◇◆◇

「お前、この第3志望の大学……」
「あ、それは冗談で書いてみただけ!」
 長い長いキスの後、エイジは突然真顔で私のテスト結果をもう一度覗き込んだ。私は第3志望として記入した超難関校の悲惨な判定結果を思い出し、慌てて言い訳する。恥ずかしさで急に顔が熱くなった。
「冗談?」
「だってE判定なんて受験するだけ無駄でしょ」
 エイジは私の顔を正面から見つめてくる。
「今度から第1志望にしろよ」
「……は?」
 私はエイジが何を言っているのか理解できず、その切れ上がった目を茫然と見つめ返した。
「お前ならやれるよ」
「無謀だよ。それになんで?」
「俺の志望大学だから」
「……はい?」
「お前がいたから俺はここまで来たんだぜ? 同じところを目指さないと張り合いがないだろ?」
「ちょっと待ってよ! そんな勝手な……」
「それから」
 怒ったような声でエイジは言った。肩がビクッと震える。
「なに?」
「俺を『宇宙人』って言ったら、その場でお前の口を塞ぐからな。どこであろうと誰が見ていようと、関係なく」
 私は慌てて抗議しようと口を開いたが、ニヤリと笑うエイジの顔を見た途端、思わず言葉を呑み込んでしまった。気のせいだと思うが、この場面を前にも見たことがあるような……?
「逃げても無駄。俺は必ずお前を捕まえるから」
 クスッと笑ってエイジは私に背を向けた。
「お前、かわいいけどホント鈍感」
 デジャヴュに囚われ、まだぼんやりとしている私の耳にあきれたような声が届いた。思わず「あ!」と小さく叫ぶ。
 そうか。あの男――。
 考えたこともなかったが、もし口髭を取ったら意外に彼は美男子だったのかもしれない。それにしても王子とやらは暇を持て余す厄介な身分のようで、少し気の毒になる。
 こみ上げてくる笑いを必死で噛み殺しながら、私はエイジの背中の向こうへと目をやった。


◇ END ◇