この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One〜オンライン作家たちによるアンソロジー〜』(VOL.4)に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR15相当の描写を含みます。15歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 風が真正面から強く吹きつけてくる。それに時折砂粒も混じるが、騎乗の身であるため手綱を放すことはできない。目から大粒の涙があふれ、それが風にさらわれていくのを、私は他人事のように感じていた。
 首だけを後方に回し、その隙に大きく息を吸う。後方に追手の姿を見つけるなり、鞭を振り上げる。馬は短くいなないた。
 もうすぐこの道は険しい山道となる。ここまで詰め寄られてしまっては、逃げ切れるはずもない。馬も私のために懸命に駆けてくれたが、これ以上の全力疾走は無理だろう。
 複数の蹄の音が背後に迫る。そして私にも決断のときが迫っていた。
 思い切って手綱を拳で握りしめると、馬は従順に速度を緩め、やがて停止した。
 追手の数はちょうど10騎。馬首を巡らせながら、彼らを一人ずつ睨みつける。
 連中のうち、口髭をたくわえた眼光の鋭い男が前に出た。
「小娘のクセに逃げ出すとはいい度胸だ。しかしどこへ逃げる気だ? お前をかくまってくれる人間など、この世にはもう誰一人としていないはず」
「黙れ!」
 この薄汚い追手の隊長と思われる男を一喝する。だが相手は余裕の笑みを浮かべたまま、私を憐れむように言った。
「そういう勝気なところは嫌いじゃない」
「ふざけるな! 私の家族を返せ!」
「お前がお前の全てを差し出せばいい」
 怒りで腸(はらわた)が煮えくり返る思いだ。しかし男の言葉に反論したくともできないでいた。私の家族の命がかかっている。だから逃げ切れるはずもないことは最初からわかっていたのだ。それでもあの城でただじっとしているのは我慢ならなかった。
 私は愛馬を歩かせた。今しがた駆けてきた道を戻る。追手の連中も私を包囲しながらついて来た。口髭の男が隣に馬を並べてくるのを目の端で確認し、大げさにため息をついてみせると、男は満足げな声で言った。
「観念したのか。いい心がけだ。難しいことじゃない。領主様の言うことを素直に聞けばいいのだから」
「無駄口を叩けぬよう、その唇を縫いつけてやる」
 感情を押し殺して吐き捨てる。男は私をバカにしたようにフッと笑った。
「なぁに、ほんの少し我慢すればいい。今、歯を食いしばれば後でいくらでも楽しい想いができる。俺の言うことが信じられないか?」
「黙れ」
「お前だって本当はわかっているはず。逃げ出したら後でもっとひどい目に遭う。いいや、取り返しのつかないことになる、と」
 私は口髭の男が視界に入らないように、頑なに目を背けていた。男が言っていることは正論だった。だから引き返すことにしたのだ。
「まぁ、たとえ地の果てまで逃げようと、俺は必ずお前を捕まえてみせる。逃げても無駄だとよく覚えておけ」
 男は自信たっぷりにそう言った。横目でその姿を確認すると、身に着けているものはみな思ったより上質で、こんな小隊の隊長にしては不釣合いにも見えた。そして口髭のせいでわからなかったが、意外に若い。
「領主様がお待ちかねだ。お前に大事な話があるようだぞ。楽しみだな」
 ニヤリと笑う男の顔から、それが朗報ではないと容易に察しがつく。もっとも脱走を試みた私に、よい知らせが飛び込んでくるはずもないのだが。
 そうとわかっていてもしばらくの間、濁った澱(おり)のようなものが心の奥底に居座り続けた。

 ◇◆◇

 廊下には人だかりができていた。
 その人ごみから少し離れて、壁に貼り出された縦長の紙をぼんやりと見つめた。近づいて見なくとも、当然自分の順位は知っている。ただ私の今いる場所を確かめるために、わざわざ廊下に出てきたのだ。
「49って、不吉な数字だな」
 隣に人の気配を感じると同時にそのセリフが降ってきた。
 胸がドキッとしたけど、私はわざとゆっくり真横にいる男に目線を合わせる。首は最小限しか動かさないので自然と彼を睨む形になった。
「ラッキー7、おめでとう」
「別に嬉しくない。今回手ごたえあったのに」
 悔しいという感情がむき出しのセリフに私はイライラした。
「いいじゃない。どうせ数学はトップなんだし」
 隣の男はフンと鼻で笑う。
「当たり前だ。お前に負けたあの日以来、俺は誰にも負けていない」
 私も負けじとフンと笑ってやった。
「今思い出しても笑っちゃうわ。数学が苦手なこの私に負けた、あのときのアンタの顔」
「……お前、俺に口を塞がれたいんだな」
「そんなわけないし。それに……」
 言葉の途中で、男の向こう側をわざとらしく見る。
「アンタの嫁、ずっと見張ってるし。もう離れてよ。言いがかりつけられるのは迷惑なんだから」
 実際、人ごみの向こう側でふんわりとしたパーマ頭がこちらを窺っていた。隣の男は目の端で彼女の姿を確認したらしい。だけど立ち去るどころか、わざわざ私の顔を覗き込んでくる。
「……だから?」
「え?」
「俺にはお前と話をする自由もないわけ?」
 グッと言葉に詰まった。胸の中で様々な想いが交錯するが、結局口を開くことはおろか、どんな感情も表に出すことはできなかった。

 ◇◆◇

 劣化したプラスチック製のベンチに腰をおろして、読書をしながら電車を待っている。
 私は近頃、剣と魔法が出てくる異世界の物語にどっぷり浸かっていた。これはいわゆる現実逃避というヤツだ。でもどうしてもやめられない。だからあんな夢を見るのだと思う。
 深夜、受験勉強に行き詰まり、目が冴えたままベッドに入ると、決まって不思議な夢を見た。
 おそらく今読み進めている物語に影響されているのだろう。明らかにこの世界ではないどこかで、私は愛馬にまたがり疾走していた。もちろん、現実世界では愛馬どころか乗馬経験すらない。
 そしてその架空の世界で、私はなぜか過酷な運命を背負った姫としてふるまい、絶対的な権力を持つ領主とやらに自由を奪取されていた。
 急に視界が陰る。私の目の前に誰かが立っていた。
「アンタ、すごく目ざわりなんだけど」
 私は本から目を離した。ふわふわと柔らかそうな髪の毛が風に揺れる。私と同じ制服を着た見覚えのある女子が肩を怒らせていた。
 エイジの彼女、ナナだ。
「じゃあ、見なきゃいいじゃない」
「エイジのそばに寄らないでよ」
「向こうが勝手に寄ってきただけ。そんなに彼氏が心配なら鎖で繋いでおきなよ」
 私を見下ろすナナの眼光がいっそう鋭くなった。
「小学校から同じ学校だったってだけで、なにその態度? 生意気!」
「……すみませんね」
 どうして私が責められなければならないのだろう。
 怒りが私の体内を駆けめぐる。ナナの後ろ姿を睨みつけたくらいでは気が済まない。バンと乱暴に本を閉じて、ホームに滑り込んできた電車に飛び乗った。

 ◇◆◇

 エイジは私の通う小学校へ6年生のときに転校してきた。
 その頃からクラスメイトより頭ひとつ飛び抜けていて、おまけに成績もずば抜けてよかった。そして目つきは悪いが細面で綺麗な顔立ちだったため、それを妬んだ男子たちは彼に「宇宙人」とあだ名をつけた。
 転校してきたばかりのエイジの隣に座っていたのが私だった。ちやほやするクラスの女子には目もくれず、エイジはなぜか私にだけ話しかけてきた。
 そう、今日みたいにテストが終わった後、必ず私に身を寄せて、私にだけ聞こえるように。
 中学校に入ってもそれは続いた。
 だが、中学3年生になって、エイジは校内で一番人気のある女子と付き合い始めた。ショックではなかったと言いたいところだが、実際はひどく落ち込んだ。そこではじめて私は自分の気持ちに気がついた。しかし相手には彼女がいる。諦めて勉強に励んだ。
 そのおかげなのか、私はエイジと同じ進学校に合格することができた。エイジと中学時代の彼女は受験直前に別れてしまったらしく、エイジはまた私だけに話しかけるようになっていた。
 高校生になり、クラスが離れても、学年トップ50番までの氏名が廊下に張り出されると、エイジは決まって私の隣にやって来て、私の成績を確認するのだ。
 どうしてそんなことをするのだろう。彼の意図が私にはよくわからない。
 ただ、ここまでエイジに粘着される理由として、ひとつだけ心当たりがある。
 私は苦手な数学で一度だけ満点を取った。しかもそれは高校受験直前の模擬テストだった。
 黒板の前で当時の担任がなぜか得意げに私の名前を呼んだ。
 その瞬間、エイジが私を振り返った。
 あのときのエイジの顔は一生忘れないだろう。

 ◇◆◇

 それにしても彼女ができたのにわざわざ私に話しかけてくるなんて、エイジは何を考えているのだろう。
 電車に揺られて、ぼんやりとしながら今日の出来事を思い返していた。
 本当のことを言えば、すごく嬉しかった。
 だけど不甲斐ない成績のことを言われたのは悔しかった。
 高校でも常にトップ10入りしているエイジと、伸び悩む私との差は広がっていくばかり。50番からも転落しそうな私に、彼がライバル意識を燃やす必要などないとすれば、あれは単にからかっているのだろう。
 だって「俺に口を塞がれたいんだな」なんてセリフ、冗談じゃなかったらおかしいし、そんなこと言われても、私には聞き流すことしかできないのだから。
 もう、放っておいてくれないかな。
 きっとどんなに頑張ってもエイジのライバルには戻れない。そんな私がエイジの彼女に「目ざわり」と思われるのはまったくの筋違いなのだ。
 憂鬱だ。テスト、受験、就職……。
 立ち止まらず、駆け抜けなくては負けてしまう。なのに私は、幻想の世界へ逃げ出すことばかり考えている。
 現実は疲れることばかりだ。成長、成功、勝利……。それこそ幻想じゃないか。
 家に帰って早く寝てしまおう。夢の中なら、たとえ領主の城から脱走に失敗しても疲れたりはしないし、あの世界だったら、今よりもっと私らしく生きていける気がするから――。

 ◇◆◇

 領主の居城へ戻った私は、着替えを済ませると謁見の間へ連行された。その間に私の見張りは薄汚い連中から城の守衛へと交代し、私にあてがわれた侍女がおびえながら背後に控えていた。
「世話の焼ける娘だ」
 這いつくばった姿勢の私は大理石の床をじっと眺めていた。
「お前のような小娘が逃げ出したところで何ができる?」
 領主の落ち着いた声には怒りというより、むしろ慈悲深い響きがこもっていた。
「黙秘か。それもよい。だがお前の耳に入れておかねばならぬことがある。心して聞け」
 もったいぶった言い方につられて顔を上げると、領主は冷たい眼差しで私を見下ろしていた。今まで見た誰にも似ていないのだが、じっと観察しているとその顔に見覚えがあるような気もした。しかし思い出そうとすればするほど、記憶や映像があやふやになっていく。
「隣の国の王子が婚約した。南国の姫君が相手だそうな。残念であったな」
「……私には何の関係もないこと」
 喉の奥から言葉を押し出すのとほぼ同時に、内臓を引きちぎられるような痛みが襲ってきた。
「強がりだけは一人前か。お前がどうして囚われの身になったのか、少し頭を冷やして考えてみろ。この娘を西の塔へ連れて行け」
 私は目を閉じてうな垂れた。身体が鉛のように重く感じられたが、素早く両脇に跪いた衛兵たちにとって、私を担ぎ上げることなど雑作もないことだった。
 謁見の間から引きずり出された私は、西の塔と呼ばれる牢屋へ放り込まれた。

 ◇◆◇

 灰色の空を見上げてふうっと息を吐くと、白い煙が風に流された。雪を降らせる雲が頭上を覆う。もうすぐ受験生と呼ばれる学年になる私は、今日も色あせたプラスチック製のベンチに座って読書をしながら電車を待っていた。
 誰かが近づいてきて、私の手前で立ち止まった。知らないふりをしていたが、相手の視線を感じ、つい顔を上げてしまう。
 そして後悔した。
「お前、どうした?」
 細く切れ上がった目が私を睨んでいた。
 私は唇を固く閉ざしたまま、怪訝な表情でエイジを見返す。
「50番以内にお前の名前がなかった。何、手抜いてるんだよ」
 ああ、と納得した。今日は期末試験の結果発表があったのだ。わざわざ廊下まで見に行く必要がなかったからすっかり忘れていた。
「なんか言えよ」
「それが私の実力ってことじゃない?」
「お前、ふざけてるのか?」
 私を見下ろすエイジの顔が怒りに染まった。見ていられなくて目を逸らすと、エイジは踵を返しベンチから離れていく。
 無理矢理、本に目を戻す。だが何も頭に入ってこない。
 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ふうっとため息をつくと、私の視界は白く霞んだ。