この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍企画『プロジェクトうりゃま 〜ラブ&ハッピー〜 夏』に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR18相当の描写を含みます。18歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 生徒の保護者が病院に到着し、結花の付き添い任務は終わった。
 帰り際に生徒の顔を見に行くと、元気のない声で「ありがとうございます」と言われ、心の底からホッとする。熱中症は発症してから、いかに迅速な対処ができるかが問題だ。改めて命の尊さと重み、そしてそれを預かる自分の責務について深く考えさせられた。
 秀人が学校まで送ってくれると言っていたが、黙って待っているのも決まりが悪く、麦わら帽子を持ってとぼとぼと病院を後にした。
 気が抜けたのか、何かを考えることが面倒に感じられる。
 ぼんやりしながら歩道を歩いていると、後ろから来た車が結花の横で急に減速した。
「夕方には帰宅できそうだよ」
「えっ?」
「生徒くん」
「あ、ありがとうございます」
 頭が全然働かず、秀人の言葉の意味を理解するのに少々時間を要した。そして改めて秀人の運転する車を見て、結花は目を丸くする。
「乗って」
「この車に、ですか?」
「そう。大丈夫。ちゃんと走るよ」
 それはわかる。
 しかし真っ赤なボディとサングラス姿の秀人だけでも十分目立つというのに、この車には屋根がない。
「派手な車ですね」
「あ、わかった。日に焼けるとか、髪が乱れるとか思ってるだろ?」
「いいえ。そんなことは気にしません。それに私にはこれがあります」
 結花が持っていた麦わら帽子を深くかぶるのを見て、秀人はクスッと笑った。
「結花は面白いね」
 何気ない調子で秀人が言う。結花は驚いて立ち止まった。
「私、面白いなんて言われたの、初めてです」
 真っ赤なオープンカーも結花の真横に停車した。
「他には?」
「えっ?」
「今まで誰にも言われたことがなくて、言ってほしいセリフ」
 秀人の低い声に心臓がドキドキし始める。頭の中はごちゃごちゃになり、考えがまとまらない。
 だが、ハンドルを持つ彼の長い指を見ているうちに、急にいいことを思いついた。
「是非ヒデさんに言ってもらいたいセリフがあります」
「うん」



「まんまと騙されるなんてバカな女」



 皮肉たっぷりに言うと、秀人の顔から柔和なものが消えた。そして素早い動作で車から降りてくる。結花はくるりと身を翻し、今来た道を全速力で戻った。
 しかし後ろから明らかに結花よりも速い足音が追いかけてくる。すぐに腕をつかまれた。
「結花!」
(だってあやまってもくれないなんてひどいじゃないですか! たとえ嘘でも言い訳くらいしてほしいですよ!)
 むきになって秀人から顔を背けると、大きなため息が聞こえてきた。
「金曜日、行ったよ。急いでタクシーを降りて、顔を上げたら反対車線で結花がタクシーに乗るのが見えた」
「…………」
「咄嗟にそのタクシーを追いかけた。でも途中で見失った」
 言葉が出なかった。
 しばらくの間、止まっていた涙が訳もなく溢れる。
「じゃあ、どうして最初の夜は先に帰っちゃったんですか?」
 自分の涙声がみっともなくて、この場から消えてしまいたいと思ったそのとき、突然結花の身体が宙に浮いた。
「とりあえず車に乗ってもらうよ」
「ちょっ……! 降ろしてください。自分で歩けます」
「嫌だ」
 結花は秀人の腕の中で横抱きにされている。いわゆるお姫様抱っこだ。車まではかなり距離がある。
(な、なんでこんなことに!?)
 そう思いながらも結花は秀人の腕の中に納まっていた。身体は意志に反して素直なのだ。
 もうすぐ停車しているオープンカーにたどり着くというタイミングで、聞き慣れない音がする。結花の身体がビクッと震えた。
 だが、秀人は平然としていた。
「あの、電話が鳴っていませんか?」
「鳴ってるね」
「出なくていいんですか?」
 秀人は結花を助手席に降ろすと、急いで運転席に飛び乗った。そしてポケットから携帯電話を取り出し、結花の膝の上に放った。
「えっ……」
「コイツは俺の都合に関係なく鳴りやがる」
 それから車を急発進させた。結花は膝の上で鳴り止まない携帯電話をじっと見つめる。
「もしかして病院からですか?」
「出てみる?」
 秀人は笑いながら言った。滅相もない、と結花は首を何度も横に振る。運転席から「返して」と催促するように手のひらを差し出されたので、その大きな手の上に携帯電話を戻した。
 信号で停車した隙に秀人はようやく電話に出て「今、車の運転中です」と短く告げる。用が済むと面倒くさそうにポケットにしまった。 
「結花と初めて会った夜、結花の幸せそうな寝顔を見ていたくて、一瞬仕事用の携帯電話なんか捨ててしまおうかと思ったけど……まぁ結局、俺にはできなかった」
「それは当然です!」
 言葉に力がこもった。結花だって、仕事を放ってまで一緒にいてくれても素直には喜べない。特に秀人の仕事は、一刻を争う場合もあることが容易に想像できた。
「それにぐっすり眠っているお姫様は、最後まで言ってくれなかったから」
 結花はギクッとした。秀人が前を見たまま、意地の悪い笑みを浮かべる。
「俺を愛してるって」
「そ、それは……あのときはまだよくわかってなくて……」
 隣でクスッと笑う声がする。
「今はよくわかってるんだ?」
 心臓が壊れそうなほどドキドキと音を立てていた。しかもあと数分で学校に到着してしまう。あれほど秀人に伝えたいと思っていた言葉が、喉に詰まって出てこない。
(ああ、もうっ! 今しかないのに!)
 言い出せないうちにオープンカーが学校の前に到着した。昼休み時なので開け放した窓には生徒の姿が見える。この目立つ車が学校の前に停車すると、結花の予想通り、校舎の窓という窓から生徒たちが顔を出し、口々に歓声を上げ始めた。
(この車に屋根さえあれば、こんな騒ぎにはならないのに……)
 困惑しながら運転席を見ると、サングラスを外した秀人が結花の肩に手を回した。
 途端に「キャーッ!」とか「うぉー!」という声が辺りに響き渡る。



「教えてよ、結花の気持ち。……言わないとキスするよ」



 結花は目を見開いた。秀人の顔が近すぎることに気がつき、頬は発火しそうなほど熱くなる。
「脅しですか?」
「目が腫れてる」
 うっ、と詰まった。その隙に秀人が更に顔を寄せてくる。
 接近する秀人の身体を押し返そうと腕を突っ張らせたが、逆に逞しい腕に捕らわれてしまう。
 だが、ここでキスされるわけにはいかない。
 チラッと校舎のほうに視線を送ると、興味津々の目をした生徒たちに混ざって若い教員の姿も見えた。前岡かもしれない。
(ええいっ! 私の気持ちを言えばいいんですよね!?)
 最後の砦である麦わら帽子が剥ぎ取られ、結花はぎゅっと目を閉じた。



「あなたを、好きになっちゃったんです!」



 やけくそで叫んでからおそるおそる目を開くと、目の前の秀人の顔が満足そうにほころぶ。
「先生! おめでとう!」
「結婚式にはウチらも呼んでよー!」
「では新郎新婦、誓いのキスを、どうぞ!」
 窓から身を乗り出してこちらを見ている生徒たちが冷やかすような声を上げる。男子生徒たちがふざけて抱き合い、カップルの実演をしている姿も見え、結花はくらくらした。
「キス! キス! キス! キス!」
 球技大会の開催日ということもあり、生徒たちのテンションが普段と違っている。どこからともなくキスを催促する掛け声が上がり、手拍子までついて、学校中に「キス!」の連呼が鳴り響いた。
「嘘……でしょ?」
 すぐ隣にいる人は何も言わずにクスッと笑い、結花の顎に手を掛けて少し上を向かせると一気にキスする。あまりにもスムーズな動作で結花が抵抗する余地はまるでなかった。
「おおーーーっ!?」
 生徒たちのどよめきは、ふたりの唇が離れると小さくなり、今度はふたりを祝福する温かい拍手が沸き起こった。
「私、とんでもないことをしてしまった気がするのですが……」
 秀人は爽やかな笑顔を見せる。
「キスするのがいけないことかい?」
「だって、救急車で生徒が運ばれた後なのに、不謹慎じゃないですか?」
「彼は結花のおかげで無事だよ」
「いいえ、それは秀人さんのおかげです。だけど……昼休みとはいえ、生徒も見ている学校の前でこんなことするなんて、私は教員失格です!」
 自分の言葉に酔って興奮気味の結花とは対照的に、秀人はニヤニヤと笑っているだけだった。
「そうかもな」



「わ、私……、辞職してきます!」



「いってらっしゃい。あ、その前にこれ持ってて」
 結花の悲壮な決意をあっさりと受け流した秀人は、ポケットからスマートフォンを取り出して、結花の膝の上に置く。先ほどの仕事用携帯電話とは違い、おそらく彼のプライベートな電話だ。
「でもヒデさんが困るんじゃ……」
「結花を捕まえられないほうが困る」
 結花はあっけに取られて秀人を見た。
 彼は静かに言う。



「今、1番大事なことは、俺が結花のことを好きで、結花が俺のことを好きってことじゃない?」



 結花はただ瞬きを繰り返すことしかできない。
「それで結花が罰を受けるというなら、俺が責任取るよ」
「……えっ?」
「だから、安心していっておいで」
 ポンと肩を叩かれた。
 すると心の中がジンと熱くなり、今なら誰に何を言われてもかまわないという気持ちが腹の底から湧き上がった。秀人がついていてくれる。
(私だって教員の端くれです。自分の始末は自分でつけてきます!)
 秀人に見送られ、結花は堂々と午後の学校へ戻った。