この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍企画『プロジェクトうりゃま 〜ラブ&ハッピー〜 夏』に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR18相当の描写を含みます。18歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 翌日、結花は学生時代からの友達を誘って秀人に出会ったあのバーへ足を運んだ。
 マスターは結花の顔を覚えていてくれて、親切に応対してくれる。同行してくれた友達もそれには満足した様子だった。
 しかし結花の意識は全く別のところにあった。
 友達が席を立った隙を逃さず、小声でマスターに話しかける。
「あの、この前ここに座っていた男性は常連さんですか?」
 マスターが意味ありげに微笑んだ。心臓がドキッと音を立てる。
「あれから2回ほどいらっしゃいましたよ。おひとりで。そしてあなたのことを訊かれました」
「私……のことですか?」
「ええ。あなたが来店されたかどうかを気にされていました。そしてこれを預かっています」
 そう言ってマスターは手元の引き出しを開け、結花の前に紙製のコースターを置いた。
 おそるおそるそのコースターを手に取る。裏返してみると、結花の目に男性らしい角張った文字が飛び込んできた。



“会いたいと思うのはいけないことかい?”



 その文字を目でなぞり、それから逸る心を抑えてマスターを呼んだ。
「私もお返事したいのですが」
「お預かりしますよ」
 マスターはすぐに同じコースターとペンを貸してくれた。友人が戻る前に書き終えなければならない。ペンを持つ手が震えた。



“会ってお話ししたいです”
  
 バーの入り口に友人の姿が見えたので、慌ててマスターにコースターとペンを返す。そして秀人からのメッセージ入りのものは自分のバッグにしまった。
 結花は友人との話に花を咲かせつつも、僅かな望みを捨てることができず、終電の時間までバーで粘ってみた。だが、結局その夜、秀人に会うことはできなかった。







 次の週は、秀人がバーに残していったコースターを、いつも大事に鞄に入れて持ち歩いて過ごした。
(ヒデさんも私に会いたいと思ってくれているんですね!)
 ひとりの時間にそのコースターを取り出して、ひっそりと眺めては幸せな気分を自分の心に充填する。
 やり逃げかと思っていた頃はまるで砂漠のように荒涼としていた結花の心だが、秀人のメッセージを見た瞬間から一変した。心の砂漠にはオアシスが出現し、そこでは秀人を想う気持ちが滾々(こんこん)と湧き出している。
(早く会いたいです)
 もしかしたら誰かと心を通い合わせることができるかもしれないと、結花の胸の中ではたくさんの小人が小躍りしているが、それでも不安な気持ちが全て消えてしまったわけではない。
(ヒデさんは本当に私を愛してるのですか? 裸で抱き合ったから、そんな気分になっただけではないですか?)
 身体だけが愛されているのかもしれない。そう思うと胸がキリキリと痛んだ。
(でもそれはきっと私も同じですね)
 コースターの文字をそっと指で擦る。
 お互いの身体以外ほとんど何も知らない同士が惹かれあうとしたら、やはりそれしかないだろう。だが、始まりが身体からでもこの際かまわない、と結花は思った。
(それにしても普段の私はつまらないと思われそうです)
 結花の取り柄と言えば真面目、それしかないのだ。ジョークだってあらかじめ準備していなければ、口にすることはできない。会話の最中、咄嗟に機転を利かせて面白く切り返すなんて技は、結花にとって難易度が高すぎた。
(あーだから私はモテないんですね)
 もし、もう一度秀人に会うことができても、すぐに飽きられてしまうかもしれない。
 しかしそのときはそのときだ。
(会えばわかります)
 会って話すことができたら、何もかもわかるはず。
 そのためならどんなことでも頑張れる、とコースターを見つめながら結花は思った。







 できるなら秀人と出会ったバーで毎日張り込みをしたいと思うが、教員の毎日は忙しい。1日の業務を終えて学校を出ると、家に直帰する体力しか残っていない日が多かった。
 特にこの頃はもうすぐ開かれる球技大会に向けて全校が熱くなっている。全学年対抗の球技大会のため、生徒たちは早朝から日が落ちるまで練習に明け暮れていた。
 養護教諭の結花としては、やはり生徒たちの怪我や体調が気になり、普段よりも早めに出勤し、生徒たちが練習を終えて下校するまで彼らのサポートに徹した。
 教員の仕事は生徒に学問を教えるだけではない。学校運営や地域との連携、進路指導、生活指導、そして結花が先頭に立って行う保健指導。放課後は部活動もある。
(他にも研修会などありますし、保護者への対応は難しいご時勢ですし、教科担当の先生は授業の準備もあって、本当に大変です)
 更に職員会議も案外体力を消耗するものだ。教職員の間にも派閥が存在する。その中で結花は空気を読むどころか、空気になろうと努力していた。
(まだ何色に染まるか、決めたくないのです)
 それに結花は教員の頭数には入っているものの、意見を求められてはいない気がする。結局、会議中黙っているだけなのだが、これがドッと疲れるのだ。
 週末が来ると、自分の背中に翼が生えたような気分になった。
 今度は友達を誘わず、思い切ってひとりでバーへと向かった。時間が早いせいか、まだ客はいない。
「ヒデさんにお渡ししましたよ」
 マスターの言葉を聞いて、結花は目いっぱい頭を下げた。
「本当にありがとうございます!」
 顔を上げて、それで、と期待を込めた目でマスターを見る。マスターもそれを察知して口を開いた。
「残念ながら今週末は来られないそうです」
「そうですか……」
 胸にほろ苦い想いが広がった。でも、とマスターが続ける。
「来週の金曜日にここで待っていてほしい、とのことです」
「ホントですか!」
 結花は慌ててメモ帳を開いた。恋人もいないので、基本的には週末に予定などないのだが、それでも友達との約束が入っていることもある。
(来週は……大丈夫! もし約束があってもヒデさんが優先ですけど)
 現金なもので目標ができると急に元気になった。そして何事に対しても前のめりになりそうな勢いで臨む。
 体育教師の前岡は廊下で結花とすれ違うたび怪訝な顔をしたが、結花はそれにも蕩けそうな笑顔で答えた。
 恋愛相談のために保健室を訪れていた藤川もさすがに異変に気がついたようだ。毎日の訪問がぱったりと止んだ。
 しかし結花にとってはどれもこれも些細なことだった。
(もうすぐヒデさんに会えるのです!)
 それだけを心の支えにして生きていると言っても過言ではない。
(お会いしたら何を話せばいいのでしょう? えっと、いきなり好きとか言うのはちょっと品がないですか?)
 だが、あの夜のことをほんのり思い返すと、最初から品などないも同然で、その事実に結花は愕然とした。
(じゃあ、もういきなり「好きです!」でいいですね)
 自分にしてはずいぶん大胆なことを考えていると思う。
(でもきっと今しかないのです。これを逃したらダメなのです)
 結花とて恋愛経験がないわけではない。恋愛は生ものなのだ。すぐに食べてしまわないと腐ってしまったり、誰かに食べられてしまったりする。
(あああああ! そんなの絶対イヤです!)
 早く金曜日になれ。
 ここに来て、遅々として進まない日常に少し焦りを感じるが、その分結花の心の中では秀人への想いが積もり積もって爆発しそうになっていた。







 そして運命の日がやって来た。
 結花は軽やかな足取りで退勤すると、地下鉄でバーのある繁華街へと向かった。いつもより少しおしゃれを意識したベージュのスーツを着ている。ついでに言えば、当然下着も厳選してきた。
(まさに勝負服です!)
 地下鉄車両のドア脇に取り付けてある鏡の中に、期待と不安の入り混じった自分の顔が見える。その自分に「頑張れ」と心の中で呼びかけた。
 バーに到着するとマスターが出迎えてくれた。秀人の姿はまだない。
「今夜はお約束の日でしたね」
「はい」
 結花はまた最初の夜と同じ席に腰かけた。左隣が空席で寂しい。
 しばらく甘いカクテルを飲みながら、バーの暖簾に人影が見えるごとに秀人ではないかとチェックする。
 しかしそのたびに結花は失望を味わった。
(……もうすぐ来てくれますよね?)
 うつむきがちになった結花にマスターが声をかけた。
「遅いですね」
「……ですね」
「連絡先はご存知ないのですか?」
「はい」
 消え入りそうな声で返事をするのがやっとだった。
 カップルの楽しそうな話し声が妙に耳につく。次第に左側の空席を見ていられなくなった。
 そして無情にもバーの閉店時間が来た。
(どうして……)
 マスターにお礼を言って席を立つ。何か物言いたげなマスターの視線を振り切るようにしてバーを出た。
(どうして来てくれなかったんですか!?)
 終電の時間はとっくに過ぎている。ビルの外に出ると、結花はすぐに待機していたタクシーに乗り込んだ。
「よかったらどうぞ」
 タクシーの運転手がキャンディの入った籠を後部座席のほうへ差し出す。乗客へのちょっとしたサービスなのだろう。
 結花はそのキャンディをひとつ手に取った。
「ありがとうございます」
 言い終える前に涙で視界がぼやける。それを誤魔化すようにキャンディを口に放り込むと、レモンの酸っぱい味が口内に広がり、頬に一粒、悲しみの詰まったしずくがポロリとこぼれた。