この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍企画『プロジェクトうりゃま 〜ラブ&ハッピー〜 夏』に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR18相当の描写を含みます。18歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 月曜の朝、普段よりも更に生真面目な表情で出勤した結花は、まず体育教師の前岡をつかまえた。週末の飲み会の幹事は前岡だったのだ。
 保健室に前岡を引きずり込むと、結花は鍵をかける。
「どうした? この前は飲み会の途中で消えるし……」
「その件です! まず会費を払います。おいくらですか?」
「あ、日置ちゃんの分はバーで隣の席に座っていた男が払ってくれたらしいよ」
 驚きのあまり、声も出なかった。
「それより、あの後アイツとどこ行った?」
 ドアを背にして立つ結花の前に、前岡が一歩近づく。腕を伸ばせば届く距離に詰め寄られた。
(こ、これは一体どういう状況でしょうか!?)
 目を見開いたまま、ドアにはりついた。しかも結花は自ら鍵をかけたのだ。慌てて後ろ手で鍵を開ける。
「ど、どこって……どこでもいいじゃないですか」
「ここでは言えないような場所だろ?」
「そう……かもしれません」
「まさか日置ちゃんがそんなことをする子だと思わなかった」
 そう言いながら前岡はドアに手をついて顔を寄せてきた。
「俺はずっと結花を見てたのに」
 突然名前を呼び捨てされて、ピキッとこめかみに何かが走る。
「それは嘘です!」
 なおも近づいてきていた前岡の顔がピタリと止まった。そしてドアから手を離し、腕組みする。
「ま、『ずっと』は大げさかもな。でも結花のことが気になっていたのは嘘じゃない。それなのに結花は藤川先生が好きで、俺なんか眼中になかった」
「それは……」
「しかも出会ったばかりの男と……なんて、信じられない」
「私だって信じられませんよ」
 同時にため息が漏れる。
 酔っていたとはいえ、初対面の男性とあんな関係になってしまうなんて、今までの結花にはありえないことだ。
 だが、それだけでこれほど切ない気持ちにはならないはず。
(ヒデさん、どうして……?)
「何、浸ってるの? アイツ、そんなによかったんだ?」
 前岡は下卑た笑みを浮かべた。
 悔しいが今の結花には唇を噛むことくらいしかできない。
(そうですよ。違和感どころかあんなに自然に、あんな恥ずかしいことまでできちゃったのは、すごくよかったからですよ)
 そう思った途端、恥ずかしくなってうつむいた。
 しかし、顎に前岡の手がかけられ、無理矢理上を向かされる。
「俺とも試さない?」
「何、言ってるんですか!?」
(しかも朝から!)
 だからこの学校の教員はモラルが低すぎる、と思うのだ。とはいえ今朝の結花にそれを言う資格はない。
「どうせその男とは一夜限りだろ。それなら俺と試してみてもいいじゃん」
 まだ顎をつかんでいた前岡の手を、思い切り払いのけて睨みつけた。
「私ってやっぱりそういう扱いなんですね」
「えっ?」
 前岡はあっけに取られた表情だ。それを内心小気味よく思う。
 だが、またあの朝のことを思い出して、結花は顔を歪めた。
「……いなかったんですよ」
「はぁ? いなかった? どういうこと?」
 彼に抱かれてぐっすりと眠った結花が、朝になって目を覚ますと――。



「朝、目が覚めたら、ベッドの上には私ひとりだったんです! 部屋のどこにも彼がいなかったんですっ!」



「……えっ?」
 同情が含まれているのか、訊き返す声はか細い。余計にムカついた。
「どういうことなんですか!? 全然わかりません! しかも支払いをしようと思ったら、もう払ってあったんです」
「よかったじゃん。これで金も払わないでいなくなったんだったら、ひどすぎるだろ」
「そうですけど……じゃあ、どうして!? 結局やり逃げっ……うわっ!」
 不意に保健室のドアが開いた。
 ドアに身体を預けていた結花は、急に支えを失いバランスを崩す。身体がふわりと揺れた。
「うわっ!」
「ノックくらいしようよ、藤川先生」
 ドアを開けた張本人の藤川が咄嗟に結花を抱き止めた。結花も飛び跳ねるように藤川から身を離す。
 これが一時は憧れの目で見つめていた相手か、と疑うような違和感が全身を駆け巡ったのだ。
「だってドアに『不在』って書いてあったから。鍵かかってるかな、と思ったら開いてるし。それより『やり逃げ』ってどういうこと? 聞き捨てならないセリフだな」
 藤川は結花を押しのけるように保健室内に入ってきて、前岡に挑むような視線を投げかけた。前岡も負けじと藤川を睨む。
「つーか、藤川先生は朝から保健室に何の用?」
「前岡先生こそ朝からここで何してる? さっきの発言は前岡先生がやり逃げしたってこと?」
「俺じゃねぇよ」
「じゃあ、誰?」
 藤川と前岡の視線が一斉に結花へと降り注ぐ。
 しかしふたりから一度に見つめられても、結花には明確な返答ができない。
(名前は秀人で、職業は……サラリーマンでしたか?)
「あ、あの……そ、それは……」
 そこにドアをノックする音が聞こえてきた。続いて「失礼します」という生徒の声がする。
 室内の教員3人は一瞬お互いの顔を見合わせ、すぐに表情を改めた。藤川と前岡はそれぞれの仕事に戻っていき、その背中を見て結花はあの一夜のことはもう忘れてしまおうと咄嗟に思った。







 日常の時間はあっという間に過ぎ去る。
 飲み会から2週間経った週末、退勤するために玄関へ向かうと職員用靴箱の前に新卒の国語教師の高野美穂がいた。
「日置先生、外は土砂降りなんですよー」
「高野先生、傘は?」
「持って来ていません。だって朝はあんなに晴れていたし」
 朝の天気予報では夕方から雨となっていたが、美穂の言うとおり、朝の出勤時間は雲ひとつない爽やかな晴れだった。晴天の中、傘を持って出るのは確かに気が引ける。
 結花は玄関に響く激しい雨垂れの音に顔をしかめた。
「私、車なので送っていきますか?」
「わー、ホントですか? 嬉しい。お願いします」
 美穂の住むマンションは学校から徒歩圏内だが、この豪雨に傘だけ貸すのは薄情な仕打ちに思われた。
 助手席の美穂にナビをしてもらいながら車を走らせる。
「高野先生のマンション、ずいぶん高いところにあるんですね」
 急な坂道を登りながら結花は驚いていた。隣の美穂は「エヘヘ」と笑う。
「だってこの辺り、見晴らしがよくて、夜景が最高なんですよ! それだけでここに決めちゃったんです。日置先生も帰り道で是非チラ見していってくださいね」
 美穂をマンション前で降ろすと、結花は言われたとおり運転席に座ったまま眼下を見渡した。
(うわぁ! これは素晴らしいです!)
 展望台ほどの高さはないが、そのぶん直接迫ってくるような地上の明かりの数々に、少し目を細める。雨のせいでフロントガラスに光が滲んで見えた。
(この街のどこかに……あの明かりのどれかひとつに……きっと彼もいるんですね)
 夜の街を見た途端、結花の脳裏にはあの夜の出来事がよみがえる。
 すっかり忘れていたつもりでいたが、それが嘘だということを1番よく知っているのは結花に他ならない。
(こんなにたくさんの光の中から、どうやって探せばいいんですか?)
 視界に映る光の数が多すぎて、結花は絶望的な気分になった。
 愛してる、と聞こえた気がするのは、自分自身の都合のよい思い込みだったのだろうか。
(いいえ!)
 何の確証もないのに、はっきりと確信する。
(いくら酔っていても、溶けそうに気持ちよくなっていても、眠る一歩手前でも、絶対に聞き間違ったりしないのです!)



『結花、愛してるよ』



 秀人の低い囁くような声が頭の中でよみがえった。胸には甘く切ない想いが押し寄せ、あのときに帰りたいと全身が悲鳴を上げる。
 本当は結花も秀人を初めて見た瞬間から強く意識していたのだ。彼となら恋に落ちてもいい、と。
 だが、いきなりあんなことになって、しかも朝には彼の姿がないとなれば、秀人とは恋どころか一度限りの遊びで終わってしまう。
 それでもいい、と簡単に諦めがつくような男性だったら、今頃思い出して彼に会いたいなどと思うはずはない。
(私、ヒデさんに会いたいんだ)
 結花はようやく自分の本当の気持ちにたどりついた。そして、決心する。
(もう一度会って、私の気持ちも伝えなくては……)
 あの夜、どうしても言えなかった言葉を、直接彼に……。