この作品は2011/03/11東日本大震災チャリティ電子書籍企画『プロジェクトうりゃま 〜ラブ&ハッピー〜 夏』に掲載されていた作品の再掲載となります。

このコンテンツはR18相当の描写を含みます。18歳未満の方、苦手な方は閲覧をご遠慮ください。



 遠くから見る夜の街の明かりは、まるで宝石箱をひっくり返したように色とりどりに煌いているが、実はそのひとつひとつにはそこに住む人々の息吹が宿っている。星空を真似た小さな光の粒は、大地に輝く星と言えるかもしれない。
 しかしここは、と結花(ゆか)は真正面の窓から見えるどぎついネオンサインを冷めた目で眺める。
(そりゃあ全国でも知らない人はいないくらい有名な夜の街ですよ)
 地方都市の中でも1番北に位置する結花の故郷は、他県の人々から憧れの地に上げられることの多い街だ。勿論、結花も故郷を愛しているし、ここから出ようと思ったことは一度もない。
 それにしても、あからさまに女性の裸体を描いた看板を高らかに掲げているのは、いくら故郷を愛する結花でも目を覆いたくなる。いや、愛する故郷の街だからこそもう少しロマンティックな表現方法ができないのか、と思うのだ。
「日置(ひおき)ちゃん、飲んでる?」
 隣に職場の先輩が腰かけた。
 前岡(まえおか)は体育教師だ。カモシカのように美しく伸びた手足に、甘いフェイス。「昔は日の丸を背負って走ったこともある」というのが彼の口癖で、実際に結花がテレビや新聞でしか見たことのない有名スポーツ選手たちと電話で話をする仲だったりもする。
「飲んでますよ」
「全然酔ってないじゃん」
「結構酔ってますよ」
 苦笑しながら結花が前岡の顔を見た瞬間、若い女性がいかにも酔っ払っていますという足取りでやって来て、前岡の背中にこてんと身を預けた。
「ねぇねぇ、前岡しゃん。向こうのお店に面白いお兄さんがいるんですよぉ。一緒に行きましょうよぉ」
 結花はこの若い女性の顔を見て、今更だが今日は何の飲み会だったかを思い出していた。
(新任の先生たちの歓迎会でしたね)
 前岡の背中にくっついている新卒の国語教師、高野美穂(たかのみほ)は、一見すると真面目そうな女性だが、これがどうしたことか、口を開けば見事に弾けた女性だった。これで本当に生徒指導ができるのだろうか、と密かに心配になるが、結花はその考えをササッと頭の隅っこに追いやった。
(だめだめ。いくら新卒でも彼女も教員のはしくれです)
 いくら個人のモラルが内部で崩壊していようと、教員として勤務するなら、自らの行動の責任は自ら取るべし、と結花は思う。
(でも、ウチの学校の教員は全体的にモラルが低すぎます!)
 新卒の美穂に引きずられて店外へ出て行く前岡の背中を見ながら、結花はフンと鼻息を荒くした。
 隣が空席になり、静かになったところに「美穂ちゃん」と呼びかける男性の声が聞こえてきた。
 突然、結花の耳はピクッと反応し、バーの出入り口に掛けられた暖簾の隙間に視線が釘付けになる。ほどなくどこか垢抜けない男性が美穂の手を握ってバーの店内に戻ってきた。
「ねぇ、美穂ちゃん。俺のこと、どう思う?」
 小声だが、結花はそのセリフをしっかりと聞き取っていた。鼻にかかった甘ったるい声に心底うんざりするが、それでも聞き耳を立てるのをやめられない。カウンターの端に座るふたりを結花はチラリと盗み見た。
「えー? 藤川(ふじかわ)先輩はぁ、カッコいいですよぉ。私、実はぁ、眼鏡男子フェチなんですぅ」
「マジで? そんなこと言ったら今日は君をひとりで帰せないな」
 壮絶なため息が結花の鼻から漏れた。



「あのふたりがそんなに気になる?」



 右側を向いていた結花は、今まで壁だと思いこんでいた左側から低い声が聞こえてきて、飛び上がらんばかりに驚いた。
 空席だったはずの左隣に、いつの間にか見知らぬ男性が座っている。結花はその男性をまじまじと見つめた。
「こんなにかわいい子を放っておくなんて、アイツら皆、どうかしてるな」
「いえ、あの……皆さんからすれば私なんか同僚というよりは、いれば便利だけど、用のないときはいてもいなくてもいい存在なんです」
「ん?」
 と、左隣の男性は首を傾げた。
 これが驚くことに、かなりのイケメンなのだ。端整な顔立ちを引き立てるように知性的なオーラが全身から出ていて、優しそうな眼差しが真っ直ぐに向けられると、結花の心臓は急にドキドキとうるさくなる。
「君はOLさんかな?」
「あ、えっと……大きな声では言いにくいんですが、実は私たち高校の教員なんです」
「ああ。それで君は……あっ、待った! 俺が当ててやるよ。ズバリ……養護教諭!」
 結花は小さく息を呑んだ。
「当たり!」
 隣のイケメンはにっこりと笑った。歳は結花より少し上であろう。30代前半だと勝手に決めつける。
「名前は?」
 結花はほんの少しためらったが、「日置結花です」と素直に答えた。どうせこの出会いはここで永遠のお別れとなるのだ。
「俺は芦沢秀人(あしざわひでと)。ヒデって呼んで」
「ヒデさんですか」
「それで結花ちゃんはいくつ?」
「62歳です!」
「え?」
 秀人があっけに取られているのを、結花はウシシと意地悪な目つきで眺めた。だが、秀人もすぐにピンと来たらしい。
「26か。じゃあ、俺はいくつに見える?」
「えーと、28歳?」
 教員の飲み会と言うと、一般的には掛け軸などが飾られた奥ゆかしい座敷で、面白くなさそうな話題でしんみり飲むようなイメージがあるかもしれないが、この学校に限っては全然違う。
 結花自身が着任したとき、歓迎会として連れて行かれたのはこの辺りでも有名な大きなキャバレーだった。このとき初めてキャバレーに足を踏み入れた結花は始終唖然としていた。麗しい容姿の美人ホステスがかわいらしい声でリップサービスを並べると、ベテラン教師陣は一様に鼻の下を長くする。口下手な結花は、世辞すらすんなり出てこない自分がひどく惨めだった。
 だから自分がどんなに頑張ったところで、一流ホステスの話術に敵うはずもないことはよくわかっている。
(でもこれくらいはサービスしますよ)
 イケメンだから、ということもある。
 この戦術は功を奏したようで、秀人は嬉しそうに笑った。
「そんなに若く見える?」
「私と同じ歳の男性に比べるとオトナの雰囲気があると思うんですけど、でもお若いですよね?」
「それがもう32だよ」
(当たった!)
 結花は自分の直感が当たったことに喜びを感じつつ、顔だけは同情するように複雑な表情にして見せる。
「26歳なんて1番いい時期だね。しかも保健室の先生ってモテるでしょ?」
「全然なんです」
 よく言われるセリフだが、結花は悲しくなるほど本当にモテない。
 同僚たちも適当にちやほやしてくれるが、結局それはお世辞だ。歓迎会の二次会というくだけた場で、結花がひとりぼっちでいることが何よりその証拠だった。
 しかし秀人は不思議そうな目で結花を見る。
「結花ちゃん、ホントかわいいのに」
 とても嬉しい言葉なのに思わずうつむいてしまった。
(どうして私はモテないんでしょう?)
 カウンターの右端にはまだ藤川と高野美穂が顔を寄せ合って親密そうに内緒話をしている。
 はぁ、と切ないため息が出た。
「もしかしてあの男のことが好きなの?」
 耳元で秀人が囁いた。
 その小声にビクッとして左側に視線を戻す。秀人がニッと笑った。
「好きとかじゃなくて、彼は来月結婚するんです」
「え? 結花ちゃんと?」
「勿論、違います」
「なーんだ。びっくりした」
 そう言って秀人はカウンターから上半身をはなし、腕を組む。
 その腕を結花はガッとつかんだ。
「そんな男が、新卒で新任の女性教員を口説いているんですよ!」
 精一杯の小声で訴えると、秀人は「うーん」と唸った。
「結花ちゃん、彼のこと好きなんじゃないの?」
「それは……少しは好きだったかもしれません」
 この職場に来て、なかなか馴染めない結花に、最初に親しく話しかけてくれたのが化学担当の藤川だった。結花よりふたつ年上で物腰が柔らかく、男女問わず生徒にも人気がある。保健室の前を通りかかると、彼は必ず顔を見せてくれた。
「それが、ですよ。ある日授業のない空き時間にやって来て、『相談に乗ってくれないか』と言うから喜んで話を聞いたんです。それが、よりによって恋愛相談だったんですっ!」
 興奮気味に、それでも声を潜めて、秀人に話した。
「バカだな、ソイツ」
「しかもその後、毎日ですよ。私は本格的に好きになる前に失恋して、更に毎日傷を抉られるんです。でも頑張って耐えました。そして結婚が決まって解放されるかと思ったのに、お相手の方がマリッジブルーになったと……!」
 そんな経緯で恋愛相談地獄のループが続く。
「よくある話だ」
「それなのに何ですか、あの光景は!?」
 秀人も首を伸ばしてカウンターの右端を見る。
「キスしそうなくらい顔近いね」
「きっとしてますよ」
 グラスを口につけるとやけくそでぐいっとあおった。氷が解けて薄まったカクテルは水で割ったジュースのようだった。
 すると隣からフッと笑う声がした。
「よしよし。結花ちゃん、今夜は俺と飲もう」
「はい、よろしくお願いします!」
「いいねぇ。それじゃあ、マスター。彼女に俺と同じヤツ」
 次のグラスを勝手に注文され、慌てて左隣のグラスを見た。白色の液体が華奢なカクテルグラスの中で揺れる。
「あの、それは何ですか?」
「XYZ」
 妖しい笑顔が結花に向けられた。
「エックス・ワイ・ジー? カクテルの名前ですか? 初めて聞きました」
 秀人は笑顔のまま頷いた。
「飲みやすくておいしいよ」
「でも強いんですよね?」
 友人の入れ知恵によると、この漏斗(じょうご)に似た華奢なグラスの中味は総じてアルコール度数の高いものらしい。酒に疎い結花もこのグラスで出てくるカクテルは危険だと記憶している。
 秀人はシェーカーを振るマスターを見た。苦笑しながらマスターが口を開く。
「強いけど飲みやすいから、女性にも愛好家は多いですよ」
 そうして出来上がったXYZに、結花はおそるおそる口をつけた。意外にもさっぱりとして飲みやすい。
「これはおいしいですね!」
「だろ? 『これ以上のものはない、最高のカクテル』という意味らしい。ね、マスター?」
「そうです」
 なるほど、と思いながら少しずつカクテルを口に含んだ。さすがにぐいぐい飲むのはためらわれたが、飲んでいるうちに強いカクテルだということを少しずつ忘れていった。
 気がつけばバーには結花と秀人とマスターしかいない。結花の同僚たちは同じフロアの向かい側の店で騒いでいるようだ。ひとりぼっちには慣れているが、さすがに小さなため息が出る。それでも結花は席を立とうとはしなかった。
 グラスに残っていたカクテルを一気に飲み干すと、結花は改めて秀人のほうを向いた。
「それでヒデさんは何をしている人ですか?」
「まぁサラリーマンだね」
 当たり前の返答なのに、なぜだか妙に笑いたくなって、結花はエヘヘと目を細める。だんだんまぶたが開きにくくなっているのだ。
 さすがにこれは少し酔ったかな、と思う。
 しばらくの間、秀人が出した「魚偏のつく漢字クイズ」を一生懸命考えていたが、そのうち結花の頭の中は楽しく幸せな気分で満たされ、周りの音がどんどん遠のいていった。