HOME


BACK / INDEX / NEXT

第三部 30

 ヴァージンロードという言葉を知ったのはいつだろう。沙希は遠い日の記憶を探る。昔、好きだった人気アーティストの楽曲にヴァージンロードを冠したタイトルがあったから、それが初めての出会いかもしれない。

 チャペルのドアが開き、パイプオルガンの荘厳な音色が沙希の身体を包み込んだ。父親のエスコートで1歩ずつ慎重にヴァージンロードを進む。その真紅の絨毯の両脇には白いバラが咲き乱れ、参列者席にはキャンドルが道しるべのように灯されていた。

 長い道の向こうには、シルバーグレーのタキシードを着た陸が待っている。

「彼は本物の王子様みたいに見えるね」

 沙希の父親は、沙希だけに聞こえる声で言った。

「今日のお父さんもカッコいいよ。さすが私の自慢のパパ!」

 沙希がそう言うと、父親はクスッと笑う。

「今まで沙希はたくさん泣いて、その涙のぶんだけきれいになったけど、これからはいつも笑って、その笑顔のぶんだけ幸せになるんだよ」

 思わず父親の顔を見た。優しい視線が沙希に注がれる。胸に熱いものが込み上げ、慌てて前を向くが、視界が涙で霞んでしまう。

 白い手袋を汚すわけにもいかないので、涙をこぼさぬよう、無理に笑顔を作って参列者席をそっと盗み見る。新婦側の席には、同僚だった房代の姿があった。沙希の友人が他にいないため心細そうな様子の房代だが、沙希と目が合った途端、人のよさそうないつもの笑顔になる。

 房代の前の列で、白いドレスに黒いベルベットのボレロを着た幼い子が沙希に向かって懸命に小さな手を振っていた。

 沙希の妹、里奈の娘だ。沙希にとっては姪にあたる。沙希と里奈の幼少時を彷彿させるかわいらしい女の子で、里奈譲りの物怖じしない性格だから、どこへ行っても人気者だ。

 沙希は姪に小さく手を振った。姪は感激してヴァージンロードへ飛び出そうとするので、沙希の母と里奈が全力で阻止する。

 そんな様子を微笑ましく思っていると、もう陸が目の前にいた。

 ベールの内側から見ても、陸の立ち姿はうっかりするとぼんやり見とれてしまうほど格好よかった。さすがナルシスト、いつも立ちポーズを鏡の前で研究しているだけある、と内心でツッコミを入れて、平静を装う努力をする。しかし頬が緩むのはどうしようもない。

「沙希をよろしく」

 父親は陸に短く告げると、沙希の手を陸の手のひらへと導いた。

「はい」

 陸がしっかりした声で答える。それを聞くと、また涙で視界がぼやけた。

「階段、気をつけて」

「うん」

 軽く添えるはずの沙希の指に力が入った。沙希の靴は、はき慣れていない上、ヒールが5センチあるので、階段はいつもより腿を上げる必要がある。陸の腕にすがり、よろめきながらもなんとかバランスを保った。

 階段をのぼりきると、賛美歌の合唱が始まり、神父の朗々とした語りで聖書が読み上げられた。ヴァージンロードを歩く速度がゆっくりだったためか、祭壇に到達した途端、挙式の進行がスピードアップしたように感じる。

 沙希は高揚した気分の中、神父の背後にある5枚のステンドグラスを見上げた。見学に訪れた昼間は陽光を受けてまぶしく輝いていたが、夜はライトアップされて幻想的な雰囲気だ。それぞれに物語を感じる絵が描かれ、なにを表しているのかわからなくても、見たものを思わず虜にする美しさは、心に直接訴えかけてくるような圧倒的な神々しさを持っていた。

「ここに手を置いてください」

 ステンドグラスに目を奪われていた沙希はハッとした。神父は聖書をふたりの前に差し出していたのだ。

 沙希が手を置くと神父は陸を見つめて、淀みなく誓約の質問を投げかけた。



「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限りかたく節操を守り、ともに生きることを誓いますか」

「はい、誓います」



 事前に神父からそう答えるように、と指示されていたのだが、それでも陸の声で答えを聞くと胸がいっぱいになった。

 次は沙希への問いかけだ。

「川島沙希、あなたはこの男性と結婚し、神の定めに従って夫婦になろうとしています」

 沙希は最前と同じ神父の言葉を、ひとつひとつ心に刻みつけるように聞いた。心の中ではずっと前から何度も誓ってきたことだ。それでも神父から、それを声に出して問われると、不思議な感動があった。

「はい、誓います」

 強固な決意のわりに沙希の声は小さかったが、ようやく自らの誓いを堂々と口にすることができた、という満足感で胸がいっぱいになる。

 続く指輪交換では、陸の指が緊張のせいか冷たくなっていて驚いたが、沙希も心臓に全身を乗っ取られたようで、指が思うように動かない。苦笑しながら陸の指が長いことをひそかに恨んだ。

 互いの指に指輪がはまり、次は、と確かめるように沙希は神父を見た。笑みをたたえた神父は、陸にベールを上げるよう指示した。

(……誓いのキス、だ)

「早くこっち向けよ」

 陸が怒ったようなささやき声を出す。

「ごめ……」

 沙希は肩をすぼめた。陸の手がベールをつかみ、持ち上げる。同時に沙希は少しだけかがんで、陸を助けた。無事にベールが背中側へ落ちると、陸は丁寧な手つきで肩にかかるベールを払い、むき出しになった肩を両手でつかんだ。

 次の瞬間、陸の顔が近づき、唇に軽く触れる。キスなどこれまで何度となく重ねてきたのに、この数秒が永遠にも感じられた。

「キャーーー!」

 お世辞にも黄色い声とは言い難い、男性の金切り声が参列席から聞こえてきた。発信源はテオらしい。「おい」とたしなめるような声は潤也だろうか。

 目を開けると、陸は一瞬だけはにかみ、すぐにそれを不敵な笑みへとすり替えた。

 しかし沙希はそうもいかない。

 参列者の大きな拍手の中、今さら恥ずかしさがこみ上げてきて、消え入りたいような心境だった。ただ、参列者の反応をまじまじと見る暇のないことだけが救いである。他人が見ている前でキスをするのは、いくら相手が陸であっても、これっきりにしたいと切実に思う。

 結婚式の最大のイベントが無事に終わり、沙希はホッとしていた。その間も神父は粛々と式を進め、最後に「新郎新婦の両名は、神と皆様の前で夫婦であることを宣言いたします」と大きな声で言った。

 専属ソリストの独唱で賛美歌がチャペル内に響き渡る。スタッフが沙希のもとに歩み寄り、ドレスの裾を持ち上げた。

(これで終わっちゃうんだ)

 結婚式などしなくてもいい、とうそぶくこともあった沙希だが、それは虚勢を張っていただけで、人並みに、いやむしろ熱烈に花嫁に憧れ、この日を夢見ていたのだと今になって思い知る。

 幼いころ大好きだった童話のお姫様みたいに、美しいウエディングドレスを着て、王子様の隣に立つ日――。

(ううん、違う。結婚式は終わるけど、ここからが私たちの始まりなんだ)

 ずいぶん前に入籍も済ませ、沙希と陸はすでにまごうことなき夫婦である。しかしこうして、親しい人の面前で一緒に生きていく誓いを立てる儀式は、書類を役所に提出するのとは別の決意表明なのだ。

 ふたりの結婚を祝福するパイプオルガンの明るい音色とともに、沙希はゆっくりと1歩踏み出した。陸とともに出口へ向かってヴァージンロードを歩く。緊張していた入場とは違い、参列者全員に笑顔を振りまきながら……。

 沙希はあらためて、今夜は最高の挙式だった、と思う。そしてこの夜を準備してくれた陸に心の底から感謝していた。

「あっという間だったな」

 陸が小声で言った。満足そうな顔をしている。沙希は「そうだね」と相槌を打ち、ブーケに目をやった。

「お義母(かあ)さんにも見てもらいたかったな」

「ま、ぜいたく言うなって」

 仕方ないという表情で陸は苦笑する。

「ごめん」

「写真、楽しみにしてるって言われた」

「うん」

 ヴァージンロードの端までたどり着いた沙希と陸は、祭壇のほうへ向き直った。ふたりそろって頭を下げると大きな拍手に包まれる。参列者とスタッフから温かい祝福を受け、沙希はにこやかな笑顔で退場した。


     


 その後ひとしきり写真撮影や歓談に興じ、ゲストを見送ると、控室に戻りウエディングドレスを脱いだ。

 魔法が解けてしまったシンデレラのような気分と、大仕事を終えた充足感が同時に沙希を襲う。あとは坂上の屋敷に帰るだけ、と思うと物足りないような気さえした。楽しみにしていたイベントのひとつが終わるのだから、寂しさを感じるのは当然かもしれない。

 スタッフに何度も礼を述べ、控室を後にする。エントランスでは、プランナーが持ち込んだ荷物を陸に手渡していた。沙希は陸の横に立って、ともに謝辞を口にし、教会のスタッフたちに見送られてエントランスを出た。

 駐車場には陸が運転してきた車しか残っていない。

「体調はどう?」

 陸は荷物を車に積み込みながら、沙希に声をかけた。

「おかげさまで、元気だよ」

「よかった。じゃあ、少しドライブしない?」

「ドライブって、どこへ?」

「沙希に見せたいものがあるんだ」

 バンと勢いよくトランクを閉めた陸は、いたずらを企んでいるような表情を見せた。沙希が首を傾げると「乗って」と言う。当然、抗う理由はない。むしろこのまままっすぐ帰りたくなかったから、喜んで助手席に乗り込んだ。

「前にも夜のドライブしたことあったよね」

 沙希は、新入社員の陸と再会した夏、海の方角へドライブした夜のことを思い出していた。まぶたの上を指でそっとなぞる。車の中から見えたのは、黒い布を張り巡らしたような真っ暗な空と海だ。

「お前を誘ったのは、一応理由があったんだ。でもあのときはまだ言えなかった」

 運転席の陸は複雑な表情をする。沙希はその横顔をじっと見つめた。

「今はその理由、聞いてもいいの?」

「今夜のドライブは、その告白をするためだからね」

「なんだろう。ドキドキする」

 陸の頬が緊張しているように見えるので、沙希は必要以上に明るくふるまう。

「別に隠すつもりじゃなかったんだ。でもばあちゃんとの約束で、見込みができるまではお前にも言うなって……」

「見込み?」

 聞き返すと、前を見たまま陸がフッと笑った。

「そう。実は……俺、多額の借金を背負っているんだ」

 さすがに沙希は驚いて目を見張る。

「多額って、どれくらい?」

「億」

「奥?」

「お前のそれ、なんか違う漢字だろ」

「だって、そんなお金見たことないし、想像もつかないもん」

「だよな。俺も実際はよくわかんねぇ。でもまぁ、それがあるおかげで俺はめちゃくちゃがんばらないといけなくなったわけ」

 陸が一瞬だけ沙希の顔を見た。その自虐的な笑みが、沙希にはやけに印象深い。

 これまで陸ががむしゃらにがんばっているのは、実の父親である坂上を見返すためなのだと思っていた。それはそれで立派な動機であり、陸の性格からすればそれ以外の理由は考えられないくらいだ。

 だが、実はもっと具体的かつ逼迫した理由があったのだ。完全に意表を突かれた沙希は、こみ上げてくる笑いを噛み殺すのに失敗した。

「ごめん、笑うところじゃないのはよくわかっているんだけど、びっくりしすぎておかしくなっちゃった」

「沙希の頭が?」

「うん。……って、違うから!」

「いや、怒っていないなら、いいよ。ま、沙希はわかってくれると思ったんだ。普通の女じゃねぇし」

「あれ、普通の女性なら怒るところ?」

「じゃね? 結婚した後で多額の借金を背負っていたことが発覚。ヤバいじゃん、そんな相手」

 沙希は首を傾げた。

「うーん。確かに相手が陸じゃなかったら考え直すかも」

「お、信用されてるな、俺」

「だって佐和さんとの約束って言ったよね?」

「そう。ばあちゃんから頼まれて……って、お前が信用しているのは俺の親族かよ!」

「そうじゃないけど、陸がひとりでなにかをしでかして背負った借金じゃないなら、大丈夫だと思うから。それに陸は私に借金を押しつけて逃げるようなことは絶対しないもんね?」

「それは絶対にない」

「うん」

 頷いた沙希は窓に額を寄せ、外の景色に目をこらした。予想通り、陸は海の方角へ車を進めている。沙希も薄々あの場所にはなにかあるようだと気がついていた。陸の幼少時に、よく家族で遊びに行った臨海公園が近くにあり、思い出がたくさん詰まった場所らしい。

 だからこそ陸があえて言わないことを、根掘り葉掘り聞き出すような真似はしたくない、と思うのだ。

 それから車内には沈黙のときが流れた。陸と一緒だと、それも心地よい時間だ。沙希は静かに挙式を振り返り、幸せな気分を思う存分噛みしめる。

 しばらくして口を開いたのは陸だった。

「お前ってさ、ホント、変わっているよな」

「え?」

「普通はなんのために借金したのか、気になるだろ。質問攻めにされても仕方ないと思うんだけど」

 沙希は「ああ」と間延びした声で返事をし、陸の横顔を見つめた。

「これからそれを見せてくれるんでしょ?」

 陸の頬が緩む。

「俺は沙希のそういうところ、すげぇ好き」

 返事のしようがなく、困ったように笑っていると、思わぬタイミングで陸がウィンカーをあげた。以前のドライブの場所へは、この道をまだまっすぐ行かねばならない。しかし車は工場が立ち並ぶ中を進む。

「もうすぐ着く」

「どこに?」

「未来」

「え?」

 驚く沙希を横目で見た陸は、愉快そうに笑った。車は工場地帯を抜け、市街地へ入っていく。どこへ向かっているのか、と沙希の不安が強くなったちょうどそのとき、陸はマンションの駐車場へ車を滑り込ませた。

 駐車場には、車の影が見当たらない。いや、それどころかタイヤの跡すら見つからないのだ。どうやら新築マンションらしい、と助手席の窓から建物を見上げて、沙希はひそかに思う。

「ここは……?」

「駅から徒歩10分くらいかな」

「いや、そうじゃなくて」

「とりあえず行こう」

 陸は言い終えないうちに車のドアを開け、すばやく助手席側へ回り、沙希の手を取った。マンションのエントランスを通り抜け、ポケットから真新しい鍵を取り出す。ロック解除音の後、自動ドアが開き、陸が不敵な笑みを見せた。

「新しいよね? 最近できたばかり?」

 沙希がエレベーターの中で問うと、陸は小さく頷いた。

「まだ誰も入居していない」

「分譲? 賃貸?」

「分譲」

「……ってことは買ったの?」

「うん、まぁね」

 エレベーターは最上階に到着した。どうやらここが目的地らしい。沙希は遠慮がちに左右を見回した。以前住んでいた坂上のマンションと同じように、このフロアにはドアがひとつしかない。

「どうぞ」

 ドアを開けた陸が、沙希を恭しく案内する。

「お邪魔します」

「窓から外を見てよ」

 陸の言葉に従って、沙希はまっすぐにリビングルームへ向かった。

「うわーっ! きれいだね」

 目の前に広がる光景は、これまで見たことのない夜の東京の姿だった。海の向こうに小さな光がきらめいている。そして海の手前に大きな観覧車が見えた。

「あ! あの公園……」

 陸が沙希の隣に並んだ。眼下に、陸が幼いころに両親とよく遊びに来たという臨海公園が広がっている。

「本当は一戸建てがよかったんだけどさ、それだとこの景色は見ることができないし、金もないしね」

「えっと、その億の借金って……このマンション?」

「ここもそのひとつ」

「……ひとつって、他にもあるの?」

「マンションじゃないけど、ある」

「それって……」

 沙希は陸の顔をまじまじと見つめた。突然陸が「あのへん」と観覧車より左の方向を指差す。

「ばあちゃんの幼稚園があそこに移転して、その隣に研究所を作った。以前はS社の子会社があった場所で、数年前その事業所ごと廃止になり、土地を売却したいって話がばあちゃんのところにきたんだ」

「それを陸が?」

「相続が面倒だから俺に買わせたんだ。でもここは違う。向こうの土地を買った後、ここにあった小さな工場が移転することになって、土地が売りに出た。マンションを建てて販売すれば、回収も早いだろ?」

「そうだけど」とつぶやいた後で、沙希は絶句する。陸の言うことは理論的には可能だが、実際、普通の人間がやすやすと実行できるものではない。佐和や坂上という強力な後ろだてがある陸だからこそ可能なのだ。

「最上階は売却せず、俺の家にしようと思うんだけど……気に入らなかった?」

 陸が心配そうな表情で沙希の顔を覗き込んできた。

 その目を見つめ返して、にっこりと笑う。

「すごく気に入った」

「よかった。なんか難しい顔してるから、怒っているのかと思ってドキドキした」

「やっぱり金額が金額だし、大丈夫なのかなって心配だけど、でも陸ならきっと大丈夫だね」

 突然横から陸が抱きついてきた。

「誰に言われるより、沙希にそう言ってもらえるのが1番嬉しい」

 肩に顔を埋めるようにするのでくすぐったい。笑いながら抗議すると、今度は耳のふちを甘噛みされた。

「やっ……!」

「家族3人で、ここに一緒に住もうな」

「ん……っ」

「かわいい返事」

「耳、やめ……て」

「やめない」

「いじ……わる」

 息も絶え絶えにそう言った途端、唇をふさがれた。陸の舌が沙希の唇をなぞってこじ開ける。おずおずと舌を絡めると、陸はさらに深く口づけた。

 誓いのキスとは違い、時間も今いる場所もなにもかも忘れてしまうほど、ふたりは長い間キスに没頭していた。部屋といってもなにもない。時を刻む時計すらない場所だ。感じるのは、ただ互いの存在だけ――。

 外は闇の色をした夜の帳がおりているにもかかわらず、沙希の脳裏にはまばゆいほどの光が溢れていた。力強いくせに、優しくて、温かなその光へおずおずと手を伸ばし、抱きしめるようにすると、なぜか頬に涙がひとつぶこぼれ落ちた。


     


 腕に大事なものを抱えて沙希は玄関をくぐる。靴を脱いで上がるが、ダンボールが部屋の主のように陣取っていて、くつろげそうな場所がソファ以外に見つからない。とりあえず「よいしょ」とソファへ腰をおろした。

「あれ、ベビーベッドはどこだ?」

「どこだろうね」

 沙希は気だるい声を出す。そしてスリングをかばいながら、ソファに身体を横たえた。

「疲れた?」

「うん、まぁ、少し」

「まず沙希のふとんを用意しなきゃな。でもその前に抱っこする」

 スリングの中ですうすうと寝息を立てていた乳児が、突然抱き上げられて驚いたように目を開けた。しかし陸の腕におさまると、またゆっくりと目を閉じる。

「お前は今寝ないで、夜寝なさい。じゃないとママがかわいそうだろ?」

「昨日はパパも眠れなかったもんね。ホント、ありがとう」

「別に。どうせ俺は抱っことオムツ替えくらいしかできないし」

 陸は簡単にそう言うが、夜中の1時間は長い。ましてや布団の上に寝かせた途端、目を開けて泣き叫ぶ息子を、抱っこしながらうろうろと家の中を歩き回らなければならないのだ。

 ここのところ暑さのせいか、小さな暴君は夜中に必ず目を覚ます。そして抱き上げて歩き回ることを要求した。昼夜問わず数時間おきの授乳で、まとまった睡眠を取れない沙希は、日中もぼんやりしたり、些細なことでイライラするようになっていた。

 だから陸が、特につらい真夜中の1時間を肩代わりしてくれたことは、気持ちの上で救われるできごとだった。

「ううん、すごく嬉しい。昨夜はよく眠れたよ」

「そんな眠そうな顔で言われても説得力ゼロ。でもホントに無理すんなよ。いつでも俺を起こしていいから」

 沙希はふにゃっと笑った。こんな顔を見せられるのは、陸だけだ。

「優しいパパでよかったよね、海翔(かいと)」

「優しくてイケメンのパパでよかったな、海翔」

 陸はおそろしく真面目な表情で言い直す。

 プッと噴き出した沙希は、急に立ち上がり、目を輝かせて言った。

「ねぇ、公園に行こうよ」

 あっけに取られたのか、陸は一瞬ポカンとした。

「ママが突然元気になったぞ」

「観覧車に乗ろうよ。3人で!」

 沙希はスリングを肩にかけ直し、かたわらに放ってあったボストンバッグから帽子をふたつ引っぱり出す。ひとつは小さな息子用の帽子だ。

 陸の腕の中で安らかな寝息を立てる息子の形のよい頭に帽子をかぶせた。沙希の目には陸に似ているように映る。だが、陸は沙希にそっくりだと言う。

(陸みたいな優しいイケメンになってほしいな)

 そう思いながら息子の顔を覗き込んでいると、陸の胸に引き寄せられた。陸が片手で沙希をつかまえたのだ。息子の小さな身体の上に顔をのせる格好になり、乳児特有の甘いミルクの香りが沙希の鼻腔をくすぐった。

「こんな日が来るなんて、夢のようだな」

 感極まったような陸の声が、沙希の心に響く。

「そうだね。でも夢じゃないよ」

「わかってる」

 陸は沙希の頬にキスを落とし、玄関へ向かう。沙希も陸の腕をつかんでサンダルに足を入れた。

 外へ出ると、夏の日差しがじりじりと照りつけ、沙希の腕は熱くなる。いつもなら日陰を探して歩くが、今は強烈な陽光から力を分け与えてもらえるような気がして、日に焼けることがちっとも嫌ではなかった。

 ゆっくりとした歩調で15分。公園にたどり着いた沙希と陸は、大観覧車へ向かう。遠くから眺めていてもその大きさを実感できなかったが、真下で見上げた沙希は、そこではじめてこれほど巨大な観覧車だったのか、と驚嘆した。これまで乗ったことのある観覧車がおもちゃに思える。

 幸いなことに観覧車は空いていて、沙希と陸、そして陸に抱かれた海翔はすぐにゴンドラのひとつへ乗り込んだ。エアコンがついているので、ゴンドラ内は思ったよりも快適だった。

「すげぇ久しぶり」

 陸は首をねじり、海を見つめた。風のない穏やかな海原は、どこまでも続いているような錯覚を引き起こす。

「うちのマンションも眺めがいいけど、この観覧車にはかなわないね」

「そりゃそうだ」

 陸の腕の中の海翔が目を覚まし、もぞもぞと動き始めた。いつもはすぐに泣き出すのだが、目に映る景色が違うことに気がついたのか、外を見ようと首を伸ばしている。

「すごい! 海翔もきれいな景色が見たいんだ」

「お前に見せたかったんだ。パパが大好きだったこの景色を……」

 そう言うと陸は海翔を抱き直して、外がよく見えるように身体をずらした。沙希は陸と海翔の向かい側に座り、ふたりの様子を微笑みながら見守っている。

 陸がぽつりとつぶやく。

「たまに思うよ。あのおっさんも、こんな気持ちになったことがあるのかな、ってさ」

 沙希もふたりが見ている方角へ視線を向けた。はるか遠くで水平線がにじんで見える。いつか、どこかで、この景色を見たことがあるような気がして、沙希は目を細めた。

「きっと、あるはず」

 陸が少し笑った。

「やっぱり、そうかな」

「そうじゃなきゃ、あんなこと……」

「あんなこと?」

 沙希はハッとして口をつぐんだ。

「……なんでもない」

「もしかして、お前……知って……た?」

「知らない。……パンフレットのことなんか」

 フッと笑ったかと思うと陸は一瞬だけ沙希を睨みつけて、また海へ目を戻した。



「会いたかったんだ」

「え?」

「沙希に会いたくて、会いたくて、会いたくて……」



 意地でも海から目を離そうとしない陸を、沙希は黙って見つめた。

「沙希に出会ってからの俺は、気がつけばいつだってそれだけ想っていた」

「陸……」

「今は素直に感謝しているんだ。あの人のおせっかいが、俺の背中を押したのは事実だから」

「うん」

 ゴンドラが少し揺れる。陸は海翔を抱いたまま、腰を浮かせて沙希にキスをした。

「幸せ」

 満足そうな陸の顔を見ていると、沙希の心も幸せで満たされる。ゴンドラが揺れないように緩慢な動作で立ち上がったつもりだが、予想に反して陸のほうへガクンと大きく傾いた。

「ぎゃ!」

 とっさに沙希は両手で陸の肩をつかみ、よろける身体を支えた。

「もうすぐ頂上だ」

 間近でそう言った陸の頬に、沙希はすばやくキスをする。

「陸に出会わなかったら、私はずっと知らないままだったと思う」

「なにを?」



「私にも明るい未来がある……ってこと」



 沙希を見上げた海翔が「あー」と意外なほど大きな声を上げた。

「絶妙な相槌だな。そうか、海翔も会話に入りたかったのか。よしよし」

 陸が海翔を高く抱き上げる。ふたりの背後に澄んだ青空と夏の雲が見えた。そろそろ夏が終わる。そしてすべての始まりがふたたび訪れるのだ。

 今年もすぐそばまでやってきたな、と沙希は思う。



 陸とはじめて手を繋いだ、懐かしくて愛おしい、あの季節が――。


〈 第三部 END 〉

 

BACK / INDEX / 拍手する

1st:2013/08/24
HOME
Copyright(c)2008- Emma Nishidate All Rights Reserved.
Image by web*citron / Designed by 天奇屋