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第三部 25

「そうだな。俺にはなにひとつ理解できない。最初の言いがかりから意味不明だったのに、ここまで辛抱強く茶番に付き合ってやったことを、もっと感謝してほしいよな」

「茶番……?」

「お前が産んだ子どもの父親は、そこに書いてあるだろ」

 真里亜は陸に視線を定めたまま、「いいの?」と小声で言った。

「別に、いいんじゃね?」

「本当にいいの? K社が潰れても?」

 最後の強がりなのか、真里亜は顎を上げて陸を挑発する。

 しかし陸はそれに皮肉っぽく笑って答えた。

「勘違いするなよ。金ですべてが思いどおりになるなんて信じているのは、金に執着している連中だけ。もしK社が、どこかの世界一の企業に踏み潰されたとしても、いつか俺がもう一度作り直してやるよ」

 室内がしんと静まり返る。

 気がつけば真里亜は敗北を認めるように、テーブルをじっと見つめていた。



「陸はもう、優しいだけの陸じゃないんだね」



 ぽつりとつぶやいた真里亜の目に、涙が浮かんでいる。

 陸は小さくため息をついた。

「優しさにもいろいろあるだろ。お前の知っている俺は、たぶん本当は優しくなんかなかった。お前といると、沙希のことを気持ちよく考えることができたから、俺だってお前を利用してたんだ」

「……どういうこと?」

「手のつけられないお前を見ながら『沙希も元カレと一緒にいるときはこんな気持ちだったのか』とかさ。もう会えないかもしれない人のことを想って感傷に浸るのは、好きでもない相手と抱き合うよりよほど気持ちがいい。お前も試してみろよ」

 陸の痛烈な皮肉を聞くなり、真里亜は頭をかきむしった。きれいに手入れされた長い茶髪が乱暴に踊る。

「ひどい。ひどいじゃない!」

「お互いさま、だろ」

「そこまで言うことないでしょ」

「言わないとわからないから、言ってやったんだ。俺だってこんなこと、言いたくて言ってるわけじゃねぇ」

 陸と真里亜は互いに睨み合ったまま、呼吸を整える。次の口火を切ったのは真里亜だった。

「私にはなんの魅力も感じなかったってこと?」

 陸は目を細めて、憮然とした表情の真里亜をまっすぐにとらえた。

「悪いけど俺は、子どもの前で平気な顔してウソをつくような女に、魅力なんか感じないね」

 真里亜は陸から目をそらし、口元をふるわせた。それを見て、陸は続ける。

「俺の好きになった女は、お前の笑えないウソを真に受けて、お前の子どものために俺と離婚しようと考えた。お前からすれば沙希はバカに見えるだろうし、実際バカな考えだと俺も思う。でも俺はそういう沙希が好きなんだ」

「なによ、そんなの、いいコぶってるだけじゃない」

「そうかもな」

「男はみんなそういうのが好きなんだ」

「表面だけ飾って、自分のことしか考えてない女よりは、いいコぶってるバカな女のほうが好きだね、俺は。……トオルがどうだか、知らないけど」

 驚いて目をむいた真里亜に、陸は嫌味な笑顔を見せた。

「お前らの関係はよくわからないけど、少なくともお前は、子どもを産みたいくらいトオルのことを好きだったんじゃねぇの?」

 その言葉が矢となって真里亜の身に突き刺さったらしい。石のように固まって身動きひとつしない。そのまま数秒。それから突然、思い出したように大きく息を吸い込んだ。

「……気づくのが、遅かっただけ」

「へぇ」

 曖昧な表現はどういう意味にも取れるが、興味がないので陸は軽く受け流す。黙っているのが限界とばかりに、隣の弁護士が「では」と声を上げた。

「まとめに入りますが、よろしいですか?」

 それまで空気のように気配を消していた女性弁護士が、姿勢を正して「どうぞ」と返事をした。


     


 夕食前に帰宅した陸は、出迎えた沙希に「ほい」と大きな封筒を押しつけた。沙希は封筒の中身よりも陸の表情が気になって、玄関を上がる彼の顔を覗き込むようにする。その仕草を不審がる陸の目に悪戯っぽい光が見えたので、沙希はホッとして封筒を開いた。

「これは?」

「DNA鑑定結果。ま、当然の結果だけどね」

 上機嫌の陸は歌うように言った。

 逸る心をなだめながら書類をゆっくりめくると、その文字が沙希の目に飛び込んできた。

(「親子関係:否定」――ということは)

 紙から目を上げると、柔らかく微笑む陸が、沙希をじっと見つめていた。

「安心した?」

 長い冬に幕を引き、春の訪れを告げる明るい陽光のように、まばゆく、暖かく、すべてを包み込んでしまう優しい微笑が沙希にだけ注がれている。それが自分だけのものとは今になっても信じられなくて、瞬きする間を惜しんで見つめ返した。

「なんだよ。無反応?」

 陸が不満げに眉を寄せるのを見て、沙希はようやく「あっ」と声を上げた。

「いや、よかったな、と思って……。あと、私は幸せだな、と思ってた」

 クスッと笑いながら陸が沙希の背中に手を回す。壊れものを扱うようにふわりと陸の腕に包まれるのは、力任せにきつく抱きしめられるより何倍も嬉しかった。

「だろ? 俺がそばにいれば、お前は幸せになれるんだよ」

 陸の断定的な言い方がおかしくて、沙希もクスッと笑う。

「そうだね。じゃあ、陸は私といて幸せ?」

「もちろん、幸せ。……お前じゃないと俺は幸せにはなれないんだ」

 耳元で囁くようにそう言った陸は、沙希の額にキスを落とし、愛しげに背中を撫でた。

「そうだ。晩飯までの間、一緒に音楽聴こうよ」

「うん」

 断る理由もないが、これまで音楽を聴こうなどと誘われた記憶がないので、珍しく思いながら頷いた。

 陸とは音楽の趣味が似ている。それが沙希と陸の仲を深めたきっかけでもある、と沙希は思っていた。ささいなことでもそのひとつひとつが、ふたりを結びつける大事な鍵になっているのは間違いない。

(なんだか不思議な感覚だよね)

 腹部に向かって心の中で語りかける。

(「だからなに?」って言われると困るけど、でもやっぱりこれって奇跡みたいな出会いだと思わない?)

 返事はない。それでも沙希は満足して頬を緩めた。

 いつかきっと、その奇跡そのものが沙希と陸のもとに訪れるのだから。……いや、もうすぐきっと――。

 沙希が物思いに耽っている間に、陸に背中を押されて、廊下の奥にある書斎の前へ進んでいた。陸は書斎のドアを開け、沙希を振り返った。

「先客がいるらしい」

 かすかにピアノの音色が聞こえてくる。音は確かにピアノだが、生演奏ではないようだ。壁越しに伝わる音の振動が、楽器を演奏しているにしては弱い。そして運指に生の息遣いが感じられない。それでも一瞬判断を迷う程度に、よい音がする。

 沙希は陸に促されて書斎へ足を踏み入れた。

 書棚の間を通り抜け、右手へ曲がる。窓と大きな机のある解放的な空間とは反対側だ。壁には、この坂上の屋敷にしては控えめな扉が見えた。

 陸はノックもせずにドアを開ける。途端に音楽が溢れ出し、沙希を包み込んだ。

「入るぞ」

「いらっしゃい」

 深緑色の絨毯が敷きつめられたその部屋の中央で、ロッキングチェアに腰かけた坂上が返事をした。彼は穏やかな笑みを浮かべていて、気分を害した様子は見受けられない。

「これって……」

 沙希は思わず声を上げた。

 坂上の正面には美しいデザインの木製ラックが備え付けられ、そこには沙希の見知らぬ機器が配置されている。

(真空管……だ)

 実家の父の部屋を思い出す。オーディオを自作することを趣味にしていた沙希の父親が、家族を呼んで誇らしげに真空管アンプを披露したことがある。キットを用いず、寄せ集めの材料で製作したものだったので、見栄えは決してよくなかったが、父の得意げな顔は今でも忘れられない。

 そんな父の自作アンプとは比べものにならない精巧な機器が坂上の前にあり、部屋の隅にはいくつものスピーカーが並べられていた。

「どうだい? なかなかのコレクションだろう」

 坂上はリモコンで音量を下げた。音楽は波が引くように遠ざかるが、控えめに部屋の中に美しい旋律を奏で続けている。

「私は詳しくないのでわかりませんが、これを私の父が見たら羨ましがると思います」

 陸と坂上が同時に笑い出した。

「へぇ、沙希の父さんもオーディオ好きなんだ」

「うん。自分で真空管アンプを作ってた」

「ほう。それはすごい」

 坂上が素直に驚きの声を上げる。

「あの、そんなに素晴らしいものではないんです。ここにあるような高価なアンプとは、とてもくらべものにならないガラクタですから……」

「いやいや、自作するという趣味が素晴らしいじゃないか。世界にひとつしかない自分のアンプだなんて、とても金には換えられない価値がある。ガラクタなどと言ってはいけないよ」

 諭すように言う坂上の横で、陸がクスッと笑った。

「白々しいお世辞はいらないって。父さんがオーディオ好きなら、娘の沙希もここにあるものが無駄に高いってことくらいひと目でわかる」

「お世辞ではないよ。私にはそこまでの知識や技術、それに情熱がない。だからたとえアマチュアでも、なにかを産み出す能力のある人をとても尊敬しているんだ」

 坂上は沙希に向かってそう言った。

 困ったように笑うしかできない沙希を、陸が肘でつつく。「あれ、見てよ」と陸の指が示した方向へ視線を移すと、古い木枠の大型スピーカーがあった。

 ギッと椅子が軋む音がして、坂上が立ち上がる。

「スピーカーも進化していて、いい音がするものならたくさんある。今なら家庭用の小さなスピーカーでも気軽に音楽を楽しむなら十分だ」

「気軽……じゃない音楽の楽しみ方ってどんなだよ?」

「正装して正座で聴く、とか?」

 陸と沙希の他愛ないやり取りを聞きながら、坂上は目を細めてふたりの前を通り過ぎる。陸が指さした古いスピーカーの前に立つと、木枠にそっと手をかけてふたりを振り返った。

「私がこれに出会ったのはまだ学生のころで、コーヒーの味を覚えたてのただの若造だった。ま、いつも陸が言うように、私は今でもただの『おっさん』なんだがね」

 自嘲気味に付け足すのを、沙希は小さく首を横に振って否定する。

「苦いコーヒーをおいしいと感じ出すと、喫茶店でコーヒーを飲むことが楽しくてね。穴場がないかといろいろな喫茶店を回ったものだ。今のように大手チェーン店はなく、個人でやっている喫茶店がほとんどだった。それぞれの店に、それぞれの味とこだわりがあり、新しい店を発見するとわくわくしたよ。……そんな喫茶店めぐりの最中に、このスピーカーと出会ったんだ」

 そこで坂上は目で陸になにかを指示した。陸は沙希のかたわらを離れ、オーディオラックの前に屈む。いくつかのスイッチを操作し、配線を弄る。それが終わると坂上にリモコンを手渡し、壁際に置いてあったスツールを沙希の後ろへ運んだ。

「座って」

 ありがとう、と陸に小声で言い、スツールに腰をおろすと、坂上は徐々に音量を上げた。先ほどとは違う暖かみのある音が部屋に充満する。

「なんだか懐かしい気持ちになります」

 沙希はしばらくしてから坂上に言った。

 嬉しそうに微笑を浮かべた坂上の代わりに、陸が口を開いた。

「このスピーカーを作ったのは誰だと思う?」

 あらためてスピーカーを見る。坂上が手をかけている木枠のすぐ下に、見覚えのあるロゴマークを発見していたが、「誰」という問いには答えられず、黙ってしまう。そんな沙希を、陸も坂上も意味ありげな微笑を浮かべて見つめていた。

「わかりません」

 仕方なく沙希は降参を宣言する。

 ポン、と陸が沙希の肩に手を置いた。



「あれを作ったのは、俺のジイさんなんだ」 



 突然、軽やかなピアノの音の粒がスピーカーから弾かれたように飛び出してくる。明るいアップテンポのジャズ曲が沙希の耳の奥で心地よく響いた。皮膚が粟立つ。脳裏では色とりどりの丸い飴玉が、袋の中から勢いよく転がり出した。

「会長が……」

「そう。このスピーカーを作ったのはK社の現会長。これがK社の始まりさ」

 坂上がK社の旧ロゴマークを指でなぞった。

「私は楽器をやらないけれども、これに出会って音楽に親しむ術を得た。もちろん生演奏ほどエキサイティングな音楽体験はないが、誰もがそんな贅沢な環境にいられるわけではない。さっき沙希ちゃんが言ったように、着飾ってコンサートへ行くのは特別なイベントだろう。しかしこれはそれを日常のイベントにしてくれる。忙しい主婦も家事をしながらオーケストラからアイドルの最新ヒット曲まで、なんでも好きなものを聴けるんだ」

 坂上の言葉は次第に熱を帯び、沙希はそれに引き込まれて大げさに「そうですね」と相槌を打った。それから気になって陸を見上げる。いつもここで冷ややかな視線を送ってくる陸が腕組みし、彼の祖父が作ったスピーカーをじっと眺めていた。

「とある喫茶店でこのスピーカーに出会った私は、すっかり感激して店のマスターにメーカーを尋ねた。マスターは笑いながら言った。『メーカー名はまだない』と。そして『そんなに気に入ったのなら製作者に会ってみるか』と問われたので、会いたいと即答した。この世に生まれて、まだ何者でもなかった私が初めて、自分にもなにかできるのではないか、と思った瞬間だよ。私と同じように、多くの人にこのスピーカーと出会ってほしいと願い、それを実現させるために走り出したというわけだ」

 ピアノが正確なタッチで音階を駆け上がる。BGMにしておくにはもったいないほどの熱演だが、沙希は坂上に話を続けてほしいと思った。おそらく隣の陸だって同じ気持ちのはず――。



「それでアンタは家族を省みず、海外でも売りまくったんだよな」



 突如、容赦ない言葉が坂上へ投げつけられる。沙希の甘い期待は粉々に砕け散り、急に呼吸が苦しくなったが、陸を諌める言葉が出てこない。

 しかし坂上は表情を変えることなく、まっすぐに陸を見た。

「そうだ」

「アンタはすげぇよ。実際、今のK社はアンタのおかげでここまで大きくなったんだからな」

 陸が苦しみを吐き出すように言うと、坂上はスッと目を細める。

「俺はずっと父親としてのアンタを嫌っていた。憎んでいたと言ってもいいくらいにね。だけど……」

 そこで言葉が途切れた。心配になった沙希が陸の横顔を見上げると、頬がぎこちなく動いた。

「俺はなにもわかってなかったのかもな。坂上譲一っていう人間のことを」

「いや、私を誰よりもよく知っているのはお前だよ。父親失格のどうしようもない人間だと……」

「あのさ、そういうの、俺、もうどうでもいいわ」

 ぶっきらぼうな口調で坂上の言葉を封じ、陸は沙希の背後に回った。会話が途絶え、沙希の耳にまたピアノの音がなだれ込んでくる。

 曲のリズムに合わせて、陸は沙希の肩をギュッギュッと揉み始めた。

「アンタがいてくれてよかった、と思ったんだ。だからアンタもこれからは、わざわざ憎まれ役なんかする必要ないから」

 照れ隠しなのか、陸の手つきが普段にくらべるとずいぶん荒いのだが、沙希はされるがままになっていた。ここで動いたり茶化したりしたら、すべてを台無しにしてしまいそうだ。月並みだが、よかった、と沙希も心の底から思う。

「お前は親に似ず、親孝行だな」

 坂上が嬉しそうに頬をほころばせたところに、ドアをノックする音が聞こえてきた。

「夕食の時間のようだ。今夜はヴィンテージワインで乾杯しようか。ああ、沙希ちゃんは飲めないか」

「私のことは気にせず、ぜひおふたりでどうぞ」

「俺、明日も仕事なんだけどね」

 そうは言うものの、まんざらでもない口調だったので、沙希は声を立てずに笑う。すると身体のどこかで沙希とは別のなにかがそれに共鳴し、喜んでいるような感じがした。

 これまで体験したことのない、とても不思議な感覚だ。

(もしかして、君が喜んでいるの?)

 沙希は腹部にそっと手を当てた。

 つわりの症状は相変わらずで、食欲はあまりないが、今夜の食卓はきっと楽しくておいしくて嬉しいものになるだろう。

 肩越しに振り返ると、陸は照れたように目を細めて柔らかく微笑んだ。


     


 翌日出社した陸を出迎えたのは長谷川だった。晴れやかな表情の陸を見て、長谷川も笑みを浮かべる。

「首尾よく進んだようですね」

「長谷川さんに協力してもらったおかげです」

 笑顔で小さく頷いた長谷川は、それから急に表情を消し、言いにくそうに口を開いた。

「実は、こちらはD自動車から完全に見限られた形です」

「そうですか」

 一応返事をしたものの、陸の頭の中はひどくぼんやりしていた。真里亜を出し抜くことができたら、すべてがうまくいくような幻想を抱いていた自分に呆れる。

「それから、潤也さんが役員から外されました」

「……ああ」

 陸は自分のデスクの上を意味もなく眺めて、長谷川の言葉を耳の奥で繰り返し再生した。潤也が役員ではなくなっても、K社の経営にはなんの支障もないはずだ。それでも陸はその事実を呑みこむことを躊躇してしまう。

「ショックですか?」

 陸の心を見透かしたような長谷川の口ぶりを、不快に思う余裕もなかった。長谷川を鋭く一瞥し、短く問う。

「亀貝さんはどこへ?」

「会議中です」

 陸はパーテーションをすり抜け、通路を大股で歩き、別棟にある会議室へと向かった。なにかを考えようとしても、脳の一部が痺れているような感覚に邪魔されて、思考はひとつにまとまる気配がない。ただ足だけが意志を持って動いている。とにかく会議室へいかなければならない――そんな本能的な直感が、陸を突き動かしていた。

 渡り廊下を足早に通過し、角を曲がる。いくつもの会議室が並ぶ通路が目の前に伸びていた。

 陸は迷うことなく一番奥の会議室へ進んだ。そこは役員会議専用の一室だ。「使用中」のプレートが陸の前に立ちはだかる。それでも陸は大きく息を吸い込むと、手の甲をドアへ叩きつけた。

 少しの沈黙の後、扉は突然開いた。

「なにをしに来た?」

 ドアノブを握ったままそう言ったのは潤也だった。困惑気味の潤也の表情を、目を細めて観察する。

「邪魔をしに来た」

「帰れ」という潤也の言葉に、低くハスキーな声が覆いかぶさった。

「ちょうどいい。入りなさい」

 陸はドキリとした。聞き覚えのあるその声が、なぜ室内から聞こえてくるのかわからなくて一瞬混乱しかけたが、スイッチが切り替わるのも早かった。

「それなら遠慮なくお邪魔します」

 会議室に足を踏み入れて、室内を眺めまわした。

 互いの顔が見えるように、向かい合わせに配置されたテーブルには役員たちが居並ぶ。正面にあるはずの演台は隅に片付けられ、その場所には進行役のためのテーブルがあった。テーブルには3人のいずれも年配者が書類を広げている。

 陸はまん中に座る進行役の右隣の老人を見た。皺の少ない張りのある肌や、頭部の豊かな黒髪のおかげで、老人と呼ぶには若すぎる外見だ。

 姿勢を正し、できる限り上品な笑みを浮かべる。そして陸は酷薄な唇をゆっくりと開いた。

「お元気そうでなによりです、会長」

 途端に、室内から一切の物音が消えた。

 

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1st:2013/02/28
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