その部屋に足を踏み入れた途端、陸は顔を歪めた。タバコの匂いだ。
この匂いが苦手、というのが陸が喫煙しない理由のひとつでもある。そしてこの匂いが苦手になったのは祖父のせいだ。陸の祖父であり、K社の会長でもあるその人は、陸が生まれる前からのヘビースモーカーだった。
祖父が苦手だからタバコを好きになれないのか、それともタバコが苦手だから祖父を好きになれないのか、陸にはわからない。ただ、どちらも苦手であるのは明白だ。
隣の潤也を見ると、タバコの匂いなど気にする様子もなく、毅然とした態度で会長と向き合っていた。陸も表情を引き締める。
「お前たちが連れ立ってここへ来るとは、な」
そう言って会長は椅子に座るよう促し、自分も灰皿にタバコの灰を落としてから、陸と潤也の向かい側に腰をおろした。灰皿に残された吸殻を数えて、陸は少しだけ眉根を寄せる。
「それにずいぶん仕事が早いじゃないか」
「陸くんが優秀なので助かります」
「ほう。陸、褒められて、どんな気分だ?」
陸は祖父の顔を見る。
「上司の指示が的確だから仕事がしやすいというだけで、自分が優秀だとは思いませんね」
「なんだ、打ち合わせでもしてきたか」
タバコの煙を吐き出してから、祖父がつまらなさそうに言い捨てた。
「まぁいい。私のほうから言えることは、ひとつ。堂本側の強硬な態度を崩したいのなら、こちらが誠心誠意対処することと、思い切った譲歩の姿勢を見せることだ」
「譲歩……ですか」
潤也が苦しげな声を出す。その譲歩の姿勢とやらが、陸個人に求められていることは明白だった。
「世界に名だたる大企業が、ずいぶん小さなことにこだわるんですね」
思わず皮肉が漏れる。今日は我慢しようと思っていたが、ひと言くらい反撃しておかなければ陸の気が済まなかった。
「小さなことにこだわるから、あれだけ大きくなったのかもしれんな」
会長はひとりごとのようにつぶやくと、急に白々しい笑みを浮かべて陸の顔を覗き込んだ。
「そういえば、まだ言ってなかったな。沙希ちゃんがおめでた、なんだろう? おめでとう」
「どうもありがとう」
「だが、それとこれとは別問題だ。わかるな?」
悪態をつきたい衝動をなんとか抑え込み、陸はただじっと祖父の顔を見つめ返す。昔から祖父の横暴な物言いは変わらない。これが祖父の性質であり、そうでなくなったら祖父は祖父らしさを失ってしまうのだから皮肉なものだ。
(ま、この人は死ぬまでこのままかもな。自分の欲望をごり押しすることだけに、全精力を注いでいるんだから、さぞかし愉快な毎日だろう。そのせいで苦しむ人間がいるなんて考えもしない)
陸は病院で再会した沙希の青白い顔を思い出していた。
(だいたい、ジイさんが自分自身の精神世界と向き合ってる姿なんて想像できねぇし)
だから祖父は、沙希の苦悩を理解できないだろう。それを知っていながら、祖父の暴走を止められなかったのは自分のミスだ、と陸は後悔する。
そういえば、同じことを誰かが言っていた。記憶の中から、その言葉が立ちのぼってくる。
『彼女をこのような形で巻き込んだのは、私の責任でもある』
『会長の拡大路線を止めることができなかったのは、私の力不足だ』
(――おっさん、だ)
苦々しい表情でそう言った坂上を思い出し、陸は複雑な気分になった。長い間、坂上のことを嫌悪していたのは、坂上が祖父と同じような性質の人間だと決めつけていたからだ。
しかし坂上は、今、目の前にいる祖父とは明らかに違う。
「聞いているのか、陸」
「はい」
「お前の返事でK社の命運が決まる」
威圧的な言い回しだが、幼いころから聞き慣れている陸には受け流す余裕があった。ぼんやりとテーブルの上の灰皿を眺める。
隣から潤也の視線を感じたが、結局陸はなんの返事もせず、最後まで曖昧な態度で通した。
「あーっ! いつのまにケーキなんか買ってたの? 陸も案外気が利くね」
一緒に帰宅したテオが、車から降りた陸が手にしているものを見て、興奮気味に声を上げた。
「なんか沙希とケーキを食いたい気分なんだよ。ちなみにテオの分はない」
「はぁ!? ありえない!」
大げさに手を振り回して反応するテオに、陸は冷ややかな視線を送る。
「ウソ。ちゃんとテオの分も買ってきた」
「やったー!」
途端にテオは軽い足取りで玄関へ向かう。身体は陸よりも大きいが、口を開けば年相応の幼さが顔を出し、かわいらしい。自分の高校時代もそうだったのかもしれない、と思うと陸の頬に苦笑が浮かんだ。
沙希は横になっていたらしく、陸が部屋に入ると、背中に毛布をかぶったまま、ゆっくり起き上がった。
「ケーキ買ってきたけど、食べる?」
「うん」
「食欲あるのか?」
「……あんまり、ない。けどケーキ、食べたいな」
「じゃあ、下で待ってる」
そう言って部屋を出ようとすると、沙希がなにか言いたげな顔で陸を見る。
「ん?」
「ケーキを買ってくるなんて、なにかあった?」
「あれ、今日、沙希の誕生日じゃなかった?」
陸はわざととぼける。すると沙希は表情を崩してふにゃっと笑った。
「えーっ!? 私、また誕生日、来ちゃったの?」
「お前、今日で何歳になるんだ? 30?」
「ひどいなぁ、もう!」
「でもどっちにしろ、四捨五入したら30だろ」
「そこ、四捨五入しない!」
沙希は立ち上がってロングカーディガンを羽織った。ゆったりした服を着ていても、身体の線の細さが痛々しい。もともと痩せていたのに、このひと月でさらにやつれてしまった。しかも今はつわりのせいで食欲が落ち、栄養を十分に取ることができていない。
思わず陸は沙希のそばに寄り、肩に手を回した。ふらふらとした頼りない足取りを放ってはおけなかった。
「階段、心配だからやっぱり一緒に行く」
「大丈夫だよ。過保護だなぁ」
「沙希はなにもないところでもつまづくだろ? 階段で足を踏み外されたりしたら困る」
「ちゃんと注意してるって」
「ていうかこの場合、過保護じゃなくて『陸、やさしい』だろ?」
まったく似ていない陸のものまねに、沙希がふふっと笑った。
「『やらしい』に聞こえちゃった」
「……ったく、俺のどこが『やらしい』んだよ」
部屋を出ても、沙希は声を忍ばせて笑っている。気がつけば、不愉快な気分はどこかへ消えていた。
「俺、この家にはなんの思い入れもないけど」
唐突な陸の言葉に、沙希はすばやく反応した。
「ん?」
「いや、ジイさんの家のほうが行き慣れているのに、ここに帰ってきたらホッとしたから、不思議だなと思ってさ」
ふふっ、という笑い声とともに、階段をおりる沙希の肩が一瞬すぼまる。
「そういえば、陸はここをお化け屋敷だと言ってたね」
「ま、つまり俺にとっては、沙希のいる場所がホームってこと」
沙希の足が止まり、驚いたように目を見開いた。それから陸の腕にコテンと頭を預け、静かに言う。
「私も、同じだよ」
陸は1段おりると、沙希の唇に軽くキスをした。それから意地悪く笑ってみせる。
「だったら、もう家出なんかするなよ」
「……うん」
神妙な顔つきで頷いたかと思うと、沙希は眉を八の字にして「もう身軽じゃないしね」と続けた。
陸はつい噴き出す。
「そうそう、沙希はもう身重だもんな。……俺のせいで」
今度は沙希が噴き出した。
「陸は『やらしい』からなぁ」
「お前も、だろ」
「ま、そうかもね」
「お、今日は素直に認めたな。しばらく『やらしい』ことをしてないし、そろそろそういうこと、したくなってきちゃった?」
階下に到着したので、陸は沙希の耳元に囁く。くすぐったいのか、沙希はぎゅっと身を縮めて、レモンを舐めたときのような顔をした。それからすぐに目つきを鋭くして、陸を非難する。
「陸……」
「わかってる。わかってるって。こんな大事なときに、そんなことできねぇよ」
「当然でしょ」
「ちょっと、廊下でなにしてるの? ふたりとも早くおいでよ。そんなところでいちゃいちゃしてるなら、僕がケーキ、全部食べてしまうから!」
食堂から頬を膨らませたテオが顔を出した。同時に紅茶の香りが廊下にもふわりと漂ってくる。
陸は沙希の腰に腕を回し、食堂へと向かった。
それほど来客があるようには見えない会社であるにもかかわらず、学生に見間違うほど若い女性が入口のカウンターに座っていた。紺色のスーツに水色のスカーフはこの会社の制服だろう。陸と同行の弁護士の姿を認めると、彼女は慌てて立ち上がり、ぴょこんと元気な礼をした。
その受付嬢の先導で、デスクがずらりと並ぶオフィスの横を通り過ぎ、社長室の手前にある1室へ案内された。窓のない室内は、しばらく締め切られていたのか、異臭とまでは言わないが、かすかに空気が濁っている。ひと息吸い込んだ陸は、紙詰まりを起こしたコピー機の本体カバーを開けた瞬間を思い出した。
正面には演壇があり、壁に沿ってコの字に会議用テーブルが並べられている。受付嬢は陸をドアから最も遠いテーブルへ誘導した。
「そろそろ堂本さんもお見えになりますね。緊張していますか?」
受付嬢が退室すると、隣に座った弁護士が話しかけてきた。
陸はその若い担当弁護士と視線を合わせる。
「いいえ」
「さすが、ですね」
大げさに感心するその声音から、わずかに侮蔑の響きを聞き取った陸は、愛想笑いを浮かべたまま、目つきだけを鋭くした。
ドアをノックする音がぎこちない雰囲気を一蹴する。
「堂本様がお見えになりました」
先ほどの元気な受付嬢がはきはきとした口調で、真里亜が到着したことを告げた。戸口を見ると、歩きにくそうなヒールの高いパンプスをはいた真里亜が、絨毯敷きの床を睨(ね)めつけながら室内へ入ってくる。それに女性弁護士が無言で続いた。
「今日はベビーシッターを雇ったのか」
「どうでもいいでしょう、そんなことは」
陸の真正面の席に陣取った真里亜は、珍しくマキシ丈のロングスカート姿だった。テーブルの下で足を組む。
「そんなこと言っていいのかよ? もしかしたら俺の娘かもしれないんだろ?」
陸は口元に笑みを漂わせながら言った。すると真里亜は失敗したというように目を伏せ、押し黙った。
まもなく今回のDNA鑑定検査を受託した業者、つまりこの会社の社員が2名入室し、本日の会合出席者が全員揃う。
「では、さっそく始めます」
司会を務めるのは、最後に入室した2名のうち、この案件の営業担当者のようだ。首からぶら下げたIDカードには「大橋」と記されていた。
大橋は今回の依頼から細胞採取、そして検査・鑑定までの流れをおさらいし、陸と真里亜、双方に間違いがないことを確認した。真里亜は不機嫌な表情をしているが、異議を申し立てることもなく黙っている。それを目の端でとらえつつ、陸は右の拳を左手で握り締めた。
次に、大橋とともに入室してきた男性が立ち上がる。水沢と名乗った彼は研究所の所長で、白衣を着ていた。水沢の挨拶が終わると、大橋が大きな封筒を陸と真里亜の前に置いた。
陸は封筒の口を開き、書類を取り出した。1枚目はDNA鑑定説明文で、2枚目に鑑定結果が記された書面が現れる。
『DNA親子鑑定の結果:親子関係 否定』
まず目に飛び込んできたのはその1文だ。陸は安堵して、大きく息を吐いた。
3枚目はさらに詳しい鑑定結果の解説、4枚目以降はサンプル採取記録、申込書控えが添付されていた。
「な……なによ、これ!」
向かい側で真里亜が悲鳴のような声を出す。陸は鑑定結果が記された書面から目を上げた。
「どうして……この写真……!?」
真里亜の顔は蒼白になり、1枚の紙を取り上げた彼女の指先が細かく震えているのが陸にもわかった。
所長の水沢が無言で真里亜の前に立つ。
「どういうこと? 瑠璃亜の父親としてサンプルを採取したのは、陸のものだったじゃない!」
真里亜はテーブルから身を乗り出すようにして、陸を指差した。水沢は真里亜に小さく頷いて見せた。
「では、こちらをご覧ください」
水沢が差し出した別の封筒を奪い取ると、真里亜は急いで封を切った。少し乱暴な手つきで書類を引っ張り出し、紙をめくる。
「……う、ウソだわ。こんなことありえない。あなたたち、これがどういうことかわかっているの?」
「ええ、よくわかっています」
水沢の表情が見えないものの、落ち着いた声の調子から、陸は自分が賭けに勝ったことを確信する。
「私の父を知らないとは言わせない。父を敵にまわすとどうなるか、思い知らせてやるわ!」
憤る真里亜に、水沢は穏やかな声で「堂本さん」と語りかけた。
「私たちはお客様の依頼を受けて検査、鑑定をおこないます。お客様の存在がなければ、私たちの仕事は成り立ちません。今回のように個人的なDNA鑑定に限らず、いかなる検査においても、いかなる鑑定においても、私たちは結果に忠実でなければなりません。……それがなぜだか、わかりますか?」
真里亜が唇を真横に固く結んだ。水沢の言葉は土にしみ込んでいく水のように、心の深いところへ入り込んでくる。
「お客様と私たちは信頼によって繋がっているのです。お客様の信頼を得て、私たちの仕事は成り立ちます。逆に言えば、お客様の信頼を損なうことは、私たちにとって自殺行為に当たります。要するに、結果に忠実であることが私たちの誇りですから、これは私たちのプライドを傷つけるものでしかないのです」
そう言って、水沢は白衣の内側からぶ厚く膨らんだ茶封筒を取り出し、真里亜の前に丁寧に置いた。
「D自動車のような世界でも有数の大企業に比べれば、当社が零細企業にすぎないことは認めます。ですが、私たちは仕事に対するプライドを捨てるつもりはありません。これはお父上にお返しします」
「それは、なんですか?」
真里亜の隣で、女性弁護士が眉をひそめた。
水沢は彼女の問いに答えず、自席へ戻る。真里亜は茶封筒を視界に入れようとはせず、怒りをあらわにしたまま宙を睨んでいた。
「こちらからは束になった紙幣が入っているように見えますよ」
答えたのは陸の隣に座る弁護士だった。その微量の毒を含んだ言い方が愉快だったので、陸はフンと鼻で笑う。
紺色の地味なデザインのスーツを着た真里亜の担当弁護士は、厚みのある茶封筒へ腕を伸ばした。封はされていない。覗き込んだ彼女は、茶封筒を手にしたまま数秒固まった。
「驚きました」
小さな声でそう言うと、真里亜の前に茶封筒を戻す。それから今度は鑑定結果の書類を引き寄せ、1枚1枚丹念に目を通した。
「この方は……浅野さんもお知り合いなのですか?」
女性弁護士が写真付きのサンプル採取記録を陸に向かって掲げた。そこにトオルの顔写真を見つけた陸は「そうです」と答える。
「高校時代、一緒にバンドをやっていました」
「サンプル採取記録を見ると、この方のサンプルは2種類提出されているのですね。これはどういうことでしょうか?」
「不思議ですよね。僕も大橋さんから連絡をもらって、本当に驚きました」
陸はこの会社の営業である大橋の顔をちらりと見た。真里亜担当の女性弁護士は警戒するような視線を、陸と大橋の両方に送る。
それを受けて大橋が口を開いた。
「当研究所の所長のもとにガムのサンプルとその大金の入った封筒を持参された方がいます。『このサンプルを浅野陸のものとして鑑定しろ』と。あまりにも無謀なお申し入れでしたので丁重にお断りしましたが、最後まで聞き入れていただけず、それらを強引に所長へ押しつけてその方は帰られました」
「その人物は?」
「堂本真里亜さんのお父上です」
大橋の代わりに、所長の水沢が答えた。女性弁護士は表情を硬くしたまま、一瞬口をつぐんだ。
しばらく手元の書類を見つめていた彼女は、水沢に視線を合わせるとおもむろに問いを発した。
「しかしその時点では、ガムのサンプルが誰のものかわからない、ということになりますね?」
「そうです」
「では、どうやってこの男性に行き着いたのでしょうか?」
律儀に水沢が答えようとしたのを、陸が「ああ、それは」とさえぎる。
「以前、友人から相談されたことを思い出したんです。『ガムを噛むだけで金をもらえる、なんて美味しすぎる仕事、引き受けてもいいと思うか?』と、怯えた表情で言った彼の顔が忘れられなかった。すぐにピンと来て、彼に協力を頼みました」
「ちょ、ちょっと待って。トオルが陸に協力したって言うの? ウソでしょ?」
急に真里亜が声を上げた。
「どうしたんだよ。そんなに慌てて」
「だって、あの人は……なにも関係ないじゃない」
「安心しろ。トオルにはなにも言ってないから」
真里亜は夢中で首を横に振る。
「あの人が、こんな訳のわからないことに協力するはずない!」
「それをお前の父親にきちんと説明しておけばよかったんだよ。いや、それだけじゃない。お前はもっと正直にすべてを自分の父親に伝えておくべきだった」
「……なにを、知ってるっていうのよ。陸に私のなにがわかるっていうのよ!?」
激昂する真里亜を、陸は冬空に冴え返る三日月のような冷ややかな目つきで眺めた。