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第三部 22

 窓ガラスに雨粒がびっしりとはりつき、次から次へと流れ落ちる。空が泣き出したのは、つい10分ほど前だ。雨雲のせいで暗い昼下がりである。沙希は雑誌から目を離し、しばらく窓の外を眺めていた。

 1日中安静にしているというのは、案外過酷な試練だった。

 この数日、腹痛もずいぶんおとなしくなっている。そのせいで1日中なにもせず、ただじっとしていることがつらい。堂々と怠惰をむさぼっていられる立場になったというのに、不思議なもので、罪悪感がちくちくと沙希の心をつつくのだ。

 それに、今はどうしても気持ちが落ち着かない。

 陸から説明を受けて、DNA鑑定に関しては納得しているし、陸を信じている。それでも安らかな気持ちで陸の帰りを待つことは難しい。

 自分の幸せのことだけを考えようと、妊婦向けの雑誌を開いてみたが、幸せな気分に浸っていたのは数分で、いつの間にかまた陸を心配してため息をついている。それを3回繰り返したところで、さすがに飽きた。

 真冬の雨は冷たいのだろう。パジャマ姿でも寒さを感じない部屋にこもっていると、季節が冬であることすら忘れてしまいそうだ。冬は嫌いではないが、できれば雨ではなく雪が降ってほしい。北国に生まれ育った沙希はそう思う。

 静かな部屋に突然、電話の音が鳴る。

 沙希はのろのろと立ち上がり、受話器を取った。耳になじみのある、意外な人の声が飛び込んでくる。

『起きているかい?』

「佐和さん!?」

 電話をかけてきたのは陸の祖母、佐和だった。

『明日退院するんだろう。ちょっと顔を見にいってもいいかい?」 

「はい、もちろんです」

 明るく返答するが、喉の奥が引きつれたようになり、苦しい。

 電話を切って、身支度を整えていると、品のよいノックが聞こえた。ドアが静かに開き、同時に「いいから横になりなさい」と厳しい声が飛んでくる。

「私に気を遣うことはない。楽にしていなさい」

 佐和はドアの近くで出迎えた沙希の背中を押して、ベッドへ連行する。仕方なくベッドに上がり、足だけふとんに入れると、佐和はいつも陸が座る椅子に腰かけた。

「仲直りしたのかい?」

 部屋を見回した後で、佐和は言った。部屋の隅にあるポールハンガーに陸の黒いジャケットがかかっている。それを見つめながら沙希は「はい」と返事をした。

「それはよかった。このあいだ、陸を叱ってやろうと珍しく会社に出向いたら、逆に手ひどく叱られてしまってね」

「えっ……?」

「私もジイさんと同じだと言われたよ。どうやら陸とアンタのことに干渉しすぎていたんだね。すまなかった」

「あの、待ってください。私はそんなふうに思ったことはありません」

「だがあの夜、律儀に私のところへやって来たのはなぜだい?」

「それは……」

 沙希は口ごもった。

「いや、アンタを責めているんじゃない。結局私が、そう仕向けたってことさ。アンタは自由を得るために私のところへ来た。そうだろ?」

 優しい口調で佐和が言う。しかし沙希は素直に頷くこともできず、そうではないと否定もできない。

「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

 うつむいて、そう言うのが精一杯だった。

「なにもあやまることはない。陸と仲直りできたのなら、それでいいんだ。それに今は大事なときだから、面倒なことは考えなくたっていいさ。心配事は身体に障るからね」

 佐和はニッと笑う。たぶん陸の外出理由を知っているのだろう。慰められているとわかり、沙希は苦笑いした。

「そうですね。面倒なことは考えないようにします」

「陸は頼りないかもしれんが、アンタを大事に想う気持ちだけは人一倍強いんだ。それを覚えていておくれ」

「はい」

「それと幼稚園のことは気にしなくていい。アンタの気持ちを考えず、強引に押しつけるようなことを言ってすまなかった」

 そう言った佐和は深々と頭を垂れた。沙希は驚いて足をベッドから下ろし、佐和の正面を向いて座る。

「いいえ、そんな、あやまらないでください」

「幼稚園の今後は私のほうでなんとかするから、あの話は忘れておくれ」

「でも……」

 心臓がドキドキと激しく鳴った。慌てて言葉を探す。佐和が顔を上げた。



「私、やります」



 沙希は思い切って言った。

 正面から突き刺さるような佐和の視線が飛んでくる。それを跳ね返すように、沙希も佐和の目を見つめた。

「お話を伺ったときは突然だったので、簡単にお返事することはできないと思いました。子どもの教育に関わる重要な仕事で、責任も重大です。子どもに関わる経験が少ない私に務まるだろうか、と不安もありましたし……」

 佐和は静かに頷いた。

「でも今回、新しい命を授かり、あらためていろいろなことを考えさせられました。それから私にできることはなんだろう、と。これまで子どものことは、恥ずかしいくらい無知な上、無関心でした。だからこれからたくさん勉強しなくてはならず、今すぐ引き継ぐことは難しいのですが……それでもよければ、私にやらせてください」

「沙希ちゃんは本当に困った子だね。この私を泣かせるんだから。でも……ありがとう」

 鼻を啜りながら佐和が組紐のバッグを開け、ハンカチを取り出し、それで目元を押さえた。

 パチンとバッグが閉まる音の後、佐和は晴れやかな笑顔を見せた。

「これからしっかり勉強してもらうよ。だがその前に、まずは元気な子を産んでもらわないとね」

「……はい」

「ほら、足を戻して横になりなさい。大事にしすぎて困ることはないんだから」

「はい」

 素直に返事をして横になると、佐和が立ち上がり、ふとんをかけてくれた。そして沙希の手を取り、手首を眺める。

「細すぎるじゃないか。もっとたくさん食べなさい」

「でも入院してから少し太りました」

「これのどこが太ったっていうんだい!?」

 佐和は肩をすくめた。それから沙希の腕を丁寧にふとんの中へしまう。まるで母親に寝かしつけられる子どものような気分で佐和を見上げた。その手の温もりをいつまでも覚えていようと沙希は思った。


     


「お前、最近トオルに会った?」

「は?」

 陸は真里亜の背後から問いかけた。真里亜は娘に上着を着せるのに手間取っていた。その手つきの悪さを苦々しく思いながら、陸も自分のコートを羽織る。

 口腔内の細胞採取が終わり、検査を受託する業者の担当者から説明を受け、解散となった。民間で行われているDNA鑑定は、その多くが鑑定を海外の研究所へ委託しているようだが、この業者では自社で研究所を持ち、精度には絶対の自信があると言い切っている。

 この業者を指定したのは陸だ。担当の弁護士とともに偽証される可能性の低い業者を探し、相談の段階で営業担当者へ事情を説明してある。

 それでも堂本側が裏から不正を働きかける隙がないわけではない。営業がいくら「絶対に不正はない」と言い切っても、鑑定を担当する技術者が金を積まれて不正を働かないとは言い切れない、と陸は思うのだ。

(ま、やれるならやってみろって感じだけど)

 しゃがんでいた真里亜が立ち上がって、陸を振り返った。

「ずいぶんトオルのことを気にしてるみたいだけど、急に男の友情でも感じちゃったわけ?」

「アイツ、女と別れたぞ」

 陸がそう言った途端、真里亜は挑みかかるような目を向けた。

「それがどうしたっていうのよ」

「なんで怒るんだ?」

「そんな報告されても、私には関係ないから」

 真里亜は娘の瑠璃亜を抱き上げると身を翻した。その背中に、言葉を投げつける。

「自分の人生がうまくいかないのを、俺のせいにするな」

 一瞬、真里亜が身動きを止めた。それからわざとらしいため息をついてカウンセリング室を出て行った。彼女の担当弁護士が無言で続く。

 ドアがバタンと閉まると、陸の口元に笑みが浮かんだ。


     


 病院へ戻った陸は、事務の奥にある応接室へ呼ばれた。なにごとかと訝しく思いながら応接室を覗くと、そこには祖母の佐和と優祐が談笑する姿があった。

「ばあちゃん」

「案外早く戻ってきたね」

「やんちゃな陸もさすがにあれからは、用が済んだら飛んで帰ってくるようになりましたよ」

 優祐が余計な解説を入れるので、陸は彼を睨みつけた。

「けがはよくなったのかい?」

「まぁね」

 佐和が腰を浮かし、陸の座るスペースを空けた。突っ立っているのもおかしいので、そこへ座る。優祐が不自然な笑みを浮かべて陸を見つめてきた。

「なに?」

「佐和さんから聞けよ」

 どうやら悪い話ではなさそうだ。陸は真横の佐和へ視線を移す。凛とした祖母の横顔がフッと緊張を解いて緩んだ。

「沙希ちゃんが引き受けてくれることになったよ」

「……なにを?」

「幼稚園。もちろん、今すぐではなく、そのうちの話だがね」

「……どういうこと?」

 佐和の言葉の意味がすんなりと理解できず、陸は首を傾げた。佐和が沙希を見舞いに来て、その後ここで優祐と茶を啜っているというところまではわかる。しかし沙希が佐和の幼稚園を引き継ぐ話は、陸にとってまさに寝耳に水だった。

「つまりようやく沙希ちゃんがお前と一緒に生きていく決意をした、ということだな」

 ニヤニヤと笑いながら、優祐はソファの背もたれに身を預ける。

「沙希のところに戻るわ」

 落ち着いて座っていられなくなった陸は、勢いよく立ち上がった。


     


 ドアを開けると、沙希がベッドに横たわっているのが見えた。抱き枕を抱えて目をつぶっている。眠っているようだ。

 陸は静かに部屋に入り、コートを脱ぐ。ついでにスーツも脱いでニットを頭からかぶる。顔を出したところで、首を起こした沙希と目が合った。

「おかえり」

「ただいま。寝てた?」

「うとうとしてたみたい」

「ばあちゃん、来たんだろ? 下で会った」

 沙希は驚いた顔をする。

「でもここを出たのは30分以上前だよ」

「ああ、下で医者と茶を飲んでる」

 スーツをハンガーにかけて振り返ると、上体を起こした沙希が表情を翳らせていた。

「どうした?」

「もう聞いたよね」

 陸は返事を迷い、少しの間沙希を見つめていた。不安そうな目が陸に向けられる。沙希の困った顔を見るのもたまになら楽しいが、近頃は満腹だ。苦笑を浮かべて「うん」と答える。

「意外だった。沙希は文章書くほうで勝負するのかと思っていたから」

「できるならそっちも頑張りたいけど、勝負なんかできるレベルじゃないよ」

 それは謙遜だろうと思いながら陸はベッドサイドへ向かう。沙希の顔色が悪くないことを確認して椅子に腰をおろした。

「文章書くより、幼稚園の経営のほうが面倒くさい気がするけど」

「そうかもね」

 沙希が愉快そうに笑う。

 優祐の言葉通り、これが沙希の決意だとすれば、陸には反対する理由がない。それでも心にわだかまるものがあって、手放しで喜べない。向かい側で沙希が小首を傾げた。

「いや俺は、沙希には好きなことをしてほしいって思うから。……本当にいいのか?」

「うん」

「ま、今さら『やっぱりやめた』なんて言えないぞ。ばあちゃん、めちゃくちゃ喜んでるし」

「うん。それはない」

「そっか。……じゃあ、よろしくな」

「陸は反対なの?」

 一瞬、答えに詰まる。

「そういうわけじゃないけど、なんか沙希に悪い気がして、素直に喜べないんだ」

「私は全然嫌じゃないよ。もともと教育には関心があったし」

「そういえば家庭教師のバイトしてたくらいだしな」

 沙希は恥ずかしそうにうつむいた。

「あまりいい家庭教師ではなかったけど、ね」

「そんなことない。お前はすごくいい先生だったと思うぞ」

「でも……」

「俺とのことは仕方ないんだよ。あれはそうなる運命だったんだ」

「運命?」

 聞き返した沙希は眉に皺を寄せている。

「俺とお前が結ばれるのは、運命だろ。だからいい加減、後ろめたく思うのはやめてくれ。俺は今まで後悔したことねぇし」

 むしろ運命に感謝している、と心の中で付け足す。それでも沙希は頑固に後悔するのだろうと半ば諦めていたが。

 そんな陸の耳に、沙希のか細い声が届く。

「……私だって後悔はしてないよ」

「マジで?」

「運命じゃなくて、私が望んだからこうなったんだと思っているよ」

 陸は絶句した。

 苦笑いしながら沙希が続ける。

「だけど、私がしたことは決して褒められることではない。それを忘れてはいけないと思っているの」

(沙希、お前は……)

 背後で椅子がガタンと鳴った。陸は沙希の頭を自分の胸に押しつける。それから顔を上に向かせた。大きく見開いた目が瞬きの後、なにかを求めるように瞳孔を絞る。それに応えて陸は唇を重ねた。

 柔らかい沙希の唇を端から丁寧に唇でなぞり、舌先を閉じた割れ目に忍ばせる。じれったいくらいゆっくりと時間をかけて舐める。

 おずおずと沙希が自らの舌を絡ませてくる瞬間が愛おしくてたまらない。侵入を許されても陸は同じところを何度も舐めながらじわじわと進む。急ぐ必要などどこにもない。切なげな吐息を漏らす沙希の背中を支えてベッドへ押し倒した。

「あ、あのね……」

「キス以外はなにもしないから。でも、少しだけ」

 陸は沙希の胸の間に顔を埋めた。甘く懐かしい匂いに包まれて、目を閉じる。温かく柔らかな感触は、陸の尖ったものを溶かし、優しい気持ちで満たしていく。

「重い?」

 沙希の腹部に負担をかけないように気をつけたつもりだが、心配になって沙希の顔を見上げた。沙希は陸の頭に手を置く。

「大丈夫」

「キスだけで我慢するのはつらいな」

「え……」

「キスだけでもこんな気持ちにさせるお前が悪い」

「ちょ、ちょっと待って。私はなにも……」

 フッと陸は笑った。

「ウソだよ。大丈夫。俺はこうしているだけでも満たされるから。……ま、いつまでも我慢できるわけじゃないけど、今はお前の体調が一番大事だからな」

 沙希の指が陸の髪をすくう。陸は沙希の心臓の音を聴きながら、また目を閉じた。

 一刻も早く沙希を心の底から安心させてやりたいと思う。

(でも、たぶんこのままじゃ済まないだろうな)

 真里亜自体をある程度追い込むことはできても、彼女の背後には巨額な富と地位を自在に扱う彼女の父親が控えているのだ。DNA鑑定に同意したということは、陸と沙希を陥れるための新たな罠を仕掛けたに違いない。

 それは近いうちに必ず来る。予感というよりは確信に近い。

 陸は沙希の胸に鼻を埋めて深く息を吸い込んだ。くすぐったい、と身じろぎをする沙希に乗じて、わざと顔を擦りつける。久しぶりに声を上げて笑う沙希を見て、つかの間慰められた陸は、身を起こすとすばやく沙希の額にキスをした。


     


 翌日、沙希は無事退院した。

 元カレが警察に逮捕されたため、ふたりで暮らしていたマンションに戻ることもできたが、沙希は依然として安静にする必要があるし、陸が仕事に出ている間、ひとりで留守番をさせるのは酷だ。そう考えた陸は、引き続き坂上の屋敷で居候することに決めていた。

 出迎えたテオは沙希の姿を見た途端、涙を浮かべて大げさなほど感激してみせた。沙希は車に乗って移動するだけでかなり消耗したらしく、テオと執事の牛崎に挨拶すると寝室へ向かった。

 日増しに元気になるなら陸も安心できるが、腹痛は収まるわけでもなく、ここ数日は食欲も落ち込んでいた。どうやらつわりが始まったらしい。

「沙希は大丈夫なの?」

「大丈夫。安定期に入れば元気になるらしい」

 テオは納得がいかないような顔をして「ふーん」と答えた。

「女性は大変なんだね」

「そりゃそうだろ。自分の中で新しい命を育てて産むんだぞ。俺らにはどう頑張ってもできないことだからな」

「うん、本当に女性は偉大だね」

 神妙な顔つきのテオを横目に見ながら、陸は新聞を手に取った。沙希が眠ってしまったので、リビングルームでテオの相手をしながら手持ち無沙汰な時間をやり過ごすつもりだった。

 しかしそれは電話の着信音によってさえぎられる。

 陸はそのけたたましい音に眉をひそめた。

「電話だよ」

 テオがわかりきったことを言う。仕方なくズボンのポケットから携帯を取り出した陸は、発信者の名前を睨みながら電話に出た。

「休日になんの用?」

『俺には休日などない。お前もそろそろ自分の立場を自覚しろ。川島さんは無事に退院したんだろう? とにかくすぐに会社に来い』

 電話の相手は潤也だ。語気が荒い。ついに来たか、と陸は唇を噛んだ。

「わかった」

 通話を終えて立ち上がると、テオが「どうしたの?」と訊いてきた。

「会社でトラブル発生らしい。ちょっと行ってくる。沙希をよろしくな」

 それだけ言い残し、陸は慌しく坂上の屋敷を出た。

 

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1st:2012/11/22
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