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第三部 21

 ずいぶん長い間休んでいたような気がする。しかし実際は1日しか欠勤していない。出社した陸は、悪夢から現実世界へ無事に帰還したことを実感しながら、階段をのぼった。

 陸のデスクはいくつかの書類が届いているだけで、特別変わったところは見当たらなかった。予定表を見ると「島田さんに同行、S社」と几帳面な文字が並んでいる。長谷川はS社へ外出中らしい。

 沙希のグループを覗くと、仏頂面の潤也がパソコンに向かっていた。

「調子はどうだ?」

 潤也はパソコンの画面を見つめたまま、そう言った。

「おかげさまで、腕以外は平気ですよ」

「川島さんは?」

「わりと落ち着いてます。定期的に腹痛でうめいていますけど、出血は昨日の午後あたりから止まっているそうで、このままなら近々退院できるかもしれないと言われました」

「よかったな」

 心なしか残念そうな声で潤也は言う。陸はそれに気がつかないふりをして沙希の席に座った。

「で、黒川さんはどういう処遇になるんですか?」

「どうもこうもない。契約終了」

 潤也はあっさり答えた。

「じゃあ新しい人が来るんですか?」

「お前のグループを俺の直属にして、お前にふたり分働いてもらうさ。長谷川くんにも手伝ってもらえばなんとかなるだろう」

 ふたり分、という言葉で、陸は沙希の退職願のことを思い出した。あれは潤也が保管していて、沙希はまだ欠勤の扱いだ。しかし運よく退院できても仕事に復帰できるかどうかは微妙である。

「沙希の退職願、どうするつもりですか」

 陸は沙希のパソコンに電源を入れた。潤也が仕事の手を止めて陸を見る。

「体調のいいときだけでも出社してもらえないか?」

「自己都合で欠勤していたのに、沙希にはずいぶん寛大ですね」

 皮肉っぽい笑みを浮かべて返事をすると、潤也の鋭い視線が飛んできた。

「誰かに1から教える手間を考えたら、川島さんに来てもらったほうがはるかに効率がいい。それに……これから忙しくなるぞ」

 渋い顔をした潤也を、陸は黙って見つめる。含みのある言い方に悪い予感がした。沙希のパソコンに自分のIDを入力しながら、小さくため息をつく。

「でも俺は沙希に無理させたくないんで、仕事辞めてもらいたいんですよ。まだ沙希に確認していないので、本人がどう思っているかはわからないけど、いずれ子どもができたら産休や育休は必要だし、やっぱり今のうちに亀貝さん専用の秘書をつけてもらったほうがいいですよ」

 言いたいことを言い終えて潤也を盗み見ると、彼は顎に手を当てて思案顔でノートパソコンの画面を見つめている。

 沙希のことを評価してくれるのは陸としても嬉しいが、家族を養える程度に収入が増えた今となっては、体調が不安定なのに無理をしてまで出勤してほしくないというのが陸の本音だ。それにK社の社員でい続けても沙希にはそれほどメリットがない。辞めるなら今だろう、と陸は考えていた。

「川島さんのような女性は、こんな仕事で終わるほうがもったいないのかもしれないな」

 ぽつりとつぶやいた潤也は、背もたれに身を預け、陸のほうを見て苦笑いを浮かべる。考えを読まれたようで、陸はドキリとした。

「そうですか? アイツの場合、たぶん自分でもなにをやりたいのかわかってないと思いますけど」

「彼女はどんな場所にいても必ず他人をハッとさせるような仕事ぶりで、いつの間にかその場になくてはならない人材として頼られるようになるだろう。だが、この職場では彼女の能力が飼い殺しされている――とお前の顔に書いてあるぞ」

 陸は思わず噴き出した。

「俺の心の中を読まないでください」

「お前の気持ちはわかる。ただ上司としては、有能な部下を手放したくない。それは川島さんに限らず、長谷川くんであっても同じだ。川島さんも長谷川くんも、ここまでの道のりは平坦ではなかったはずだが、その過程でこれ以上ないほどK社を理解し、K社のために働いてくれている」

 K社のため、という視点に立てば潤也の言うとおりだ。小さくうなずいて顔を上げると潤也は気まずそうな表情をする。「それに」とためらいがちに言葉を続けた。

「彼らは、俺やお前が背負っているものをわかってくれる数少ない理解者だろう?」

「そうですね」

「俺とお前はどうやってもここから逃れられない運命だからな」

 陸はふと長谷川の言葉を思い出す。

『これは当然の成り行きだと思います。潤也さんが川島さんを選ぶのも、浅野さんを僕がサポートするのも』

(長谷川さんは、それをあのおっさんが仕組んだことのように言っていたけど……まさか、な?)

 ますます坂上譲一という男がわからなくなる。もしこの人事が坂上の企みだとしても、目的が不明だ。

(俺と潤也はここから逃れられない運命……か)

 ノートパソコンのタッチパッドに左手をのせる。効率は悪いが左手でもなんとか仕事はできそうだ。新着メールを開きながら陸は頭の中で運命とやらを蹴飛ばした。


     


 ひとりきりになって1時間が経つ。沙希は時計を見て落胆した。陸が戻ってくるまであと1時間はある。少し迷った末、リモコンを手に取ってテレビを消した。

 静かになると急に不安な気持ちが心の中で頭をもたげた。ひとりでいることをこれほど心細いと感じるのは、初めてかもしれない。

 自分でもどうしてこんな気持ちになるのかわからず、沙希は戸惑っていた。

 長い間寝ても覚めても沙希を脅かしていた影は陸がその身を犠牲にして退けてくれたし、流産の兆候かもしれないと疑われた出血も止まっていた。なにも不安に思うことなどなくなったはずなのに、今もぶ厚い灰色の雲が沙希の心の中を覆いつくしている。

(陸がいるときは気がつかなかったけど、まだ情緒不安定なのかな)

 ふとんの中に潜り込んで横向きになり、背を丸める。腹痛が徐々に強くなってきた。目を閉じ、深呼吸を繰り返す。出血が止まっても腹痛はおさまる気配がない。それが沙希の気を弱くしているのかもしれない。

(早く帰ってきてほしいな。たった2時間じゃ仕事にならないだろうけど、私には長すぎるよ)

 つい数日前まで頑なに陸を拒絶していた自らの心の急変に沙希はひどく呆れていた。

(よく陸はこんな私に愛想尽かさないでいるよね)

 どうして陸から逃げたのか、それを他人に説明するならばやはり「彼を試したかったから」というのが最もふさわしい理由のように思われた。

(それに真里亜さんに会ってあんなこと言われて、やっぱりショックだったし、ものすごく悔しかった)

 沙希は真里亜に対して激しく嫉妬したのだ。認めたくはないが、陸との子を成したという真里亜の発言が、沙希のプライドを粉々に打ち砕き、瞬間的に陸への憎しみがこみ上げたのは事実だった。

 しかしそれを素直に認めることはできなかった。

 それに元カレの問題が事態をいっそう複雑にさせた。とはいえ、本心を隠す上で都合がよかったのも事実だ。利用できるものはすべて利用して、自分自身を守ろうとした。

 ずるい自分に呆れる。だが心のどこかでは、そうしなければいけなかったのだ、と開き直ってもいた。

(やっぱり……私は、とてつもなくわがままな人間だ)

 ふとんの中でぎゅっと膝を抱えるように身を縮める。息が苦しくなるほどの自己嫌悪に胸を締めつけられ、現実から目をそむけることができない。

 鈍い痛みが丸めた背を駆け上った。

 沙希は自分の中に宿った新しい命に想いを馳せた。こんな人間が子を産み、育てていいのだろうか。

 いや、いいも悪いもない。小さな命は必死で成長していて、それを沙希に備わっていた本能が全力で守ろうとしている。思考の表層に現れる沙希の意志など、自然の営みの前ではちっぽけなものだ。

 とはいえ、母親になるのだからもっとしっかりしなくては、と思う。

 その決意が子宮に伝わったのか、痛みの波が急速に遠ざかっていった。全身を弛緩させる。目を閉じると睡魔が襲ってきた。とりあえず今の沙希に必要なのは安静だ。眠れるときは眠ったほうがいい。

 しばらくまどろんでいた沙希は、ドアがすうっと開く気配で目を開けた。陸が大きな袋を抱えて入ってきた。

「悪い、起こしちゃったな。寝てていいぞ」

「うん。……なに、それ?」

 まだ眠い目をこすりながら、陸の姿を追う。陸は抱えていた袋を沙希の足元へ置いた。まだ右腕を三角巾で吊ったままなので、左腕だけで袋を開けようと格闘する様子が痛々しい。

「これ、沙希が少しでも楽になるかと思って買ってみたんだけど、使う?」

 大きな袋の中には細長い形状のものが入っているようだ。沙希はゆっくり身体を起こし、袋の端をつかむ。がさがさと音を立てながら出てきたのは、抱き枕だった。

 沙希の眠気は吹っ飛んだ。

「わぁ! 嬉しい」

「よかった。あと、暇つぶし用に雑誌も買ってみた」

 そう言って陸は別の袋から雑誌を取り出した。妊婦向けの雑誌が沙希の膝の上に置かれる。

「えっ。これ、陸が買ったの?」

「そう」

「恥ずかしくなかった?」

「ああ、ベビー用品の店で買ったから、それほどでもない」

 沙希は驚いて陸を見上げる。すると陸は照れたように目を細めて笑った。

「ありがとう」

「どういたしまして。他にもほしいものがあれば言って」

「うん」

 さっそく抱き枕を引き寄せ、雑誌を枕元へ移動する。抱きつくために設計された形状だからか、横になって身体を預けてみると、ただ横向きで丸まっているよりはるかに楽だった。

「あー、これすごくいい」

「なんか嬉しいような、くやしいような複雑な気分だな」

「どうして?」

「抱き枕に俺のポジションを奪われるのが、なんだか屈辱的」

「なにそれ」

「俺も抱き枕、買おう」

「うん、よく眠れるかもよ」

 陸はわざとらしく大きなため息をついて、抱き枕が入っていた袋を片づけた。

 それからベッドサイドの椅子に座る。その表情が少し緊張気味に見えたので、沙希は抱き枕を背中側へ押しやった。なにか話があるのだ、と直感した。

「あのさ」

 話し始めた陸の声が掠れていた。陸は咳払いをする。沙希はその様子をじっと見守っていた。

「今週、DNA鑑定をすることになった」

「DNA……鑑定?」

 うん、と頷いた陸の表情は強張っている。

「昨日も言ったけど、堂本真里亜の娘は俺とはなんの繋がりもない。それを証明する。相手がやっと合意して、互いに立会って口の中の細胞を採取することになった。結果は3週間後にわかるらしい」

 そこまで言うと、陸は息継ぎをするように大きく吸いこみ、静かに息を吐いた。

「そう、なんだ」

 頭の中がぼんやりする。それ以上、沙希にはなにを言うこともできない。

「沙希にとって気分のいいことではないと思う。しかもこんな時期に、ごめん。……本当はこんなことする必要はないんだ。そもそも真里亜とはほとんどそういう行為をしてないし、それに……」

 陸は左手を額に当てる。

「俺だって自分の立場はわきまえているつもり。そりゃ、沙希も知っているとおり、昔の俺はなんつーか、かなり遊んでたかもしれないけど」

「いや、めちゃくちゃ遊んでいたよね?」

「まぁ否定はしない。けど、俺そういうところは相手が呆れるくらい神経質だった」

「え?」

「あー! これ、沙希にはいくら説明してもわかってもらえないだろうけど、ぶっちゃけできてもいい、いやむしろ、できちゃえって思ったのは沙希だけなんだよ。あんな避妊の仕方で『避妊してました』なんて言えるわけないだろ。沙希はどう思っていたのか知らねぇけど、俺はもう最初のときからお前にすべてを捧げるような気持ちだったわけ!」

 沙希はぽかんとした顔のまま、陸を見上げていた。

「なんか、乙女みたいな発言だね」

「ホント、お前、全然わかってない」

 髪をくしゃくしゃとかきむしり、それから陸は上目遣いで沙希を睨む。

「たぶん勘違いしているだろうけど、俺がお前としたいと思うのは、つけなくていいからとかそんな低レベルな理由じゃないんだ。そりゃ、つけないほうが気持ちいいのは事実だけど、俺はお前が変な思い込みのせいで自分を大事にしないのがすげぇくやしかった」

「私は別にそんな……」

「だってそうだろ。でも俺はお前がほしかった。そんなこと思うのは沙希だけなのに、いつもお前は俺の気持ちに気がつかないふりをする。なんで?」

「なんで、って言われても。私は過去を持ち出して『私のことを好きって言ったのに』なんて言いたくないだけ。でも今、この瞬間も同じ気持ちでいてくれるかどうかはわからない。それを教えてくれたのは……陸なのにね」

「は?」

 唖然とする陸に、沙希は寂しく笑って見せた。

「『もうお前のこと、前みたいに好きじゃなくなったわ』って言われた」

 椅子がガタッと鳴る。陸が身を乗り出した。

「いや、あれは、そう言わないと俺だって……」

「うん、わかるよ。わかってる。だから私も信じてる。でも信じすぎないようにする。人の心は自由だから」

 笑おうと思ったが、うまくいかず、なぜか涙がこぼれた。

 陸はなにか言おうとして口を開いたまま、しばらく黙っていた。

「なんつーか、よくわかってないのは……俺のほう?」

「そんなことないと思うけど。私もよくわかってなくてごめん」

 涙を拭って笑うと、陸の表情も少し明るくなる。

「ま、でもDNA鑑定は事実をはっきりさせるために必要だと思うんだ。沙希には心配かけるけど、堂本側に納得してもらわないと、いつまでも解決しないからさ」

「そうだね」

 最初に聞かされたときよりもすんなり同意できた。陸は目を細めて微笑む。それからクスッと意味ありげな笑いを漏らした。

「あのさ、お前……もしかして、嫉妬した?」

「は?」

 沙希はドキッとした。思わずベッドから飛び起きそうになる。首を起こしたところで思いとどまり、ストンと力を抜いて枕に頭を戻した。

 陸は意地悪い目をしてニヤニヤ笑いながら沙希を見ていた。

「絶対そうだろ。お前、ホント素直じゃない。でもちょっと嬉しいかも」

「ひどい! 嬉しいってなに!?」

「嬉しいじゃん。俺のこと好きなんだ、ってわかるから」

「そんなこと……!」

「だけど十分満足した。もういいや。沙希がかわいそうだ」

「でしょう?」

「俺のことが好きすぎて、ひとり勝手に傷ついてるし」

 沙希はキッと陸を睨んだが、陸はニヤニヤしたままだ。

「もう、陸のことなんか心配しない!」

「じゃあそろそろ自分の心配してもらおうかな」

「えっ?」

 立ち上がった陸はパソコンバッグから白い封筒を取り出し、沙希に見せる。

「それ……」

 沙希が潤也へ提出した退職願だった。

 封筒と一緒にペットボトルを手にした陸がベッドサイドに戻ってくる。封筒を電話台に置き、固定された右手をうまく使ってペットボトルのふたを開けた。

 喉を潤してから、陸は沙希の目を覗き込んだ。

「どうする。もし本気で仕事辞めるなら、今がちょうどいいと俺は思っているけど」

「うん……」

「沙希の好きなようにしていいんだ。今の仕事を続けたいなら、これは取り下げる」

「あの、私、ちょっと考えていることがあって、やっぱり仕事辞めようかな、と」

 そう言った後で沙希は自分の口をついて出た言葉に驚いていた。本当は考えていることなどなかったが、陸に問われて急に思いついたのだ。勢いで言ってしまったが、たぶん後悔はしない、という確信に近い予感が沙希の背中を強く押す。

「へぇ。なに?」

「まだ言えない」

「なんだよ、思わせぶりじゃん」

「もうちょっとよく考えたいの」

「ま、そうだな。いいんじゃね? ゆっくり考えろよ。どうせ動けないんだし」

「うん。ありがとう」

「じゃあ潤也には俺から言っておく」

「お願いします」

 陸が退職願の白い封筒をひらひらさせながら立ち上がる。

 その白封筒の行方を目で追いながら、沙希は晴れた冬空のようにすっきりとした自分の胸のうちを丹念に眺め回す。潤也に差し出したときに感じた未練のようなものはどこにもない。それを確かめてから大きく息を吐いた。


     


 スーツを着るのは久しぶりだ。陸は自由になった右腕を慎重に回してみる。皮膚がひきつるような違和感はあるものの、痛みはほとんどない。傷の完治はしばらく先だが、右手が使えるようになると、日常生活は驚くほど円滑になる。

 だが沙希の部屋に寝泊りしていると、右手は使えないほうが陸には都合がいい。食事は口まで運んでもらえるし、着替えもいちいち沙希の手を借りる必要がある。まるで幼稚園児に戻ったような気分だ。これが意外と楽しい。

 その楽しみがなくなってしまうのは寂しいが、沙希も退院を明日に控えている。陸とていつまでも幼稚園児のように甘えているわけにもいかない。退院後はまた坂上の屋敷に戻るが、今度は陸が沙希の生活を支えなければならないのだ。

「お見えになったようです」

 隣から声をかけられて、陸はドアのほうへ視線を移動させた。ドアにはめられたガラスの向こうに真里亜と彼女の娘の姿が見える。今日もニットの裾からレーススカートをちらりと覗かせて、必要以上に太腿を露出した格好だ。

 陸は、隣に座る若い弁護士が真里亜のスタイルを上から下まで眺め回す様子を、白い目で見た。

(コイツ、大丈夫か?)

 坂上から紹介された弁護士は、坂上と個人的な付き合いもあるやり手だが、普段事務所に持ち込まれる案件はその助手的ポジションの若手が担当していた。陸の相談を引き受けたのが、現在隣にいる若い男性である。

「向こうも弁護士が付き添い?」

「立会い希望と伝えたところ、相手方も弁護士を同伴すると返事がありまして、異論はないので了承しましたが、いけませんでしたか?」

「僕も異論はありません」

 ドアの開く音がしたので、陸は途端に口をつぐむ。

 娘を抱いた真里亜が陸の真向かいに腰をおろした。

「おめでた、なんだって? やってくれるじゃない」

「お前にはなんの関係もない話だ」

 真里亜は苛立たしげに肩にかかる髪を後ろへ払いのけた。

(腹が立つのは俺のほうだ!)

 心の中で怒鳴る。

「ではさっそく始めましょう」

 陸の隣に座っていた若い弁護士が立ち上がった。

 真里亜の弁護士は黒縁の眼鏡をかけた若い女性で、地味なデザインのスーツを着ている。メイクも控えめなのは好感が持てるのだが、冷徹な表情を貼りつけているのはいただけない、と陸は思った。

(そもそもタイプじゃないし、真里亜の弁護を担当するくらいだから、性格キツそうだよな)

 相手は陸を見ていないようだが、陸が横を向いた隙に鋭い視線をよこす。それを居心地悪く思いながら、陸は診察台に向かった。

 この歯科医院は個人経営だが、治療が丁寧で、スタッフの対応が優れていると評判がいい。院長のほかに歯科医が数名勤務していて、常に予約はいっぱいだ。

 そんな歯科医院を選んだ理由はこのカウンセリングのための個室が、DNA鑑定のために細胞を採取する場所として好都合だからだ、と弁護士は説明する。

(確かにこの歯医者は儲かっているな)

 内装は落ち着いた色合いで、随所に木を使っていた。一般的な歯科の雰囲気とはまったく違う。北欧風の住宅の1室にいるような気分だ。座っているのが診察台でなければ、陸ももっとくつろげただろう。

「お子さんは嫌がるかもしれませんね」

 若い女性スタッフが瑠璃亜の目の前にぬいぐるみを差し出した。瑠璃亜はぬいぐるみから逃げるようにして真里亜の腕の中で小さくなる。真里亜は面倒くさそうにフンと鼻を鳴らし、スタッフの手からぬいぐるみを奪い取った。

「いいから、さっさとやってよ。泣いたら大口開けるから、すぐ終わるでしょ」

 真里亜の剣幕に驚いたのか、スタッフは緊張した面持ちで真里亜の前から離れた。

 手袋をつけた院長が器具を用意し始めると、真里亜の弁護士がスッと診察台のそばに寄った。まるで気配を消しているような動作が不気味だった。

 細胞の採取はすぐに終わった。

 双方の弁護士が院長の作業をじっと見つめている。陸は診察台をおり、真里亜とその娘、瑠璃亜の細胞採取が終わるのを無言で待った。

 

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1st:2012/10/23
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