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第三部 20

「さわってもいいの?」

「うん」

「そういえば点滴は?」

 陸はそのことに今初めて気がついたらしく、驚いた顔で沙希の目を覗き込んできた。

「陸が刺されたとき、自分で外しちゃったみたいで……。それでとりあえずこのまま夜まで、飲み薬だけで様子を見ることになったの。出血もひどくないし、少しでも楽なほうが気分がいいだろうからって、たぶん先生も気を遣ってくれたんだね」

「そっか。よかったな。このまま落ち着くといいな」

 そう言いながら陸はベッドの横に跪き、手を伸ばして、沙希の腹部に触れる。

「なぁ、この世界は楽しいぞ。頑張って、大きくなって、ちゃんと産まれてこい」

 まだ胎児とも呼べない命に、優しく呼びかける陸を、沙希は黙って見つめた。陸の大きな手からぬくもりが伝わってきて、止まったはずの涙がまたあふれ出しそうになる。冷え切っていた沙希の心は、熱いもので満たされていた。

 不意に陸が沙希の顔を確かめるように見る。

 少しだけ首を傾げると、陸は言った。

「沙希のそういう顔、久しぶりに見た」

「どういう顔?」

「どんなことでも許してくれそうな、優しい顔」

 陸はクスッと笑うと、腹部から手を移動させた。大きな手は沙希の胸の膨らみを覆う。

「ちょっ……!」

「あれ? 少し大きくなってる?」

「どこ、さわってるのよ!?」

 沙希は慌てて身を引くが、陸はそれ以上に身を乗り出してきた。

「いいじゃん。さわってもいいって言ったのは沙希だぞ?」

「場所が違うよ!」

「さわるだけで、なにもしないって」

「や……め……」

 顔を歪めて抵抗すると、さすがにあきらめたのか、陸の手が離れた。満足そうに微笑みながら、陸は椅子に座り直す。

「やっぱこの腕じゃ、無理な体勢は続かないな。右腕が使えないって本当に不便だ」

「だろうね。ごめん。無理しないで」

「いちいち謝るなって。これは俺が油断したのが悪かったんだ。それに俺のけがはそのうち治る」

「うん……」

 素直に頷くことは難しい。沙希はうつむいた。

「それより出産のほうが痛いんじゃねぇの?」

 陸がからかうような口調で言ったとき、ベッドサイドで電話が鳴った。この部屋は病室というより、ホテルの客室みたいだ。手を伸ばして受話器を取ったのは陸だった。

「はい。……そうですか。では僕が迎えに行きます」

 受話器を耳にしたまま、陸は沙希に目配せする。沙希は意味がわからず、きょとんとした。

 通話を終えると陸は勢いよく立ち上がった。

「沙希の父さん、母さんと里奈さんが下に到着してるって」

「えっ!?」

「迎えに行ってくるから、お前は横になってろ」

「うん。ありがとう。お願いします」

 背を向けようとした陸は、一瞬動作を止める。それから思い直したようにベッドのそばに寄り、沙希の唇に自分のそれを軽く重ねた。

「いってくる」

「うん」

 すばやくベッドから離れ、部屋を出て行く陸の背中を、沙希は頼もしく思った。


     


 沙希の両親と妹が不安そうな顔でロビーにたたずんでいた。遠くから見ると、それぞれ人目を引く容姿であるにもかかわらず、3人とも不思議と目立たない。この家族の柔らかく落ち着いた雰囲気を、陸は好ましく思っていた。

「遠いところをわざわざお越しいただき、ありがとうございます」

「陸くん! お姉ちゃんは大丈夫なの?」

 沙希の両親は陸の姿を認めると揃って頭を下げたが、妹の里奈だけは陸に1歩近づいて、まずそう言った。それから険しい表情を作る。

「どうしたの、そのけが……? なにかあったの?」

「午前に、ちょっとした乱闘を」

「えっ!? もしかして……」

 3人ともなにかを察したように、神妙な顔つきになった。陸は笑みを絶やさないようにしながら、特別室へ通じるエレベーターのある方向を示す。

「沙希が待っています。行きましょう」

「そうね」

 沙希の母親が里奈の背を抱いた。里奈の顔色が真っ青になっていたのだ。陸はそれから目をそらし、彼らの先頭を歩く。

 エレベーターの前には、にこやかな表情の優祐が立っていた。

「沙希さんのご両親と妹さんですか。はじめまして、中山優祐と申します」

(本当に挨拶をしに来たのかよ)

 爽やかな営業スマイルを見せる優祐に軽蔑の眼差しを送るが、相手は陸のことなど見てはいない。沙希の両親は優祐の名前とその雰囲気から、彼がこの病院ではそれなりの身分であることに気がついたらしく、丁寧なお辞儀をした。

「沙希がなにかご迷惑をおかけしたのではないでしょうか?」

 顔を上げた沙希の父親が、ひどく緊張した表情で優祐に問いかける。

「とんでもない。むしろこちらの警備が不十分だったために、沙希さんに怖い思いをさせてしまいました。申し訳ありません」

 愛想よく答える優祐を牽制するように、陸は無遠慮に割り込んだ。

「悪いけど、沙希を待たせているから、その話は俺からしておく。忙しいのにわざわざありがとう」

「陸、お前も無理するな。では、どうぞごゆっくり」

 優祐は一礼して去った。

 エレベーターの中で、里奈が小声で話しかけてくる。

「さっきの人、知り合いなの? なにか重要な立場の人でしょ?」

「俺の主治医で、院長の息子です」

「へぇ。イケメンな上に御曹司か」

 すっかり感心したようにそう言うと、里奈はクスッと笑った。

「結婚しても相変わらずお姉ちゃんはモテるね」

「里奈、余計なことは言わないのよ」

 沙希の母が釘を刺すと、里奈は肩をすくめた。

 沙希の部屋のドアを開けると、強張っていた両親の顔は一気に緩んだ。

「よかった! 思ったより顔色もいいし、元気そうだね」

「沙希、お腹の張りはどうなの?」

「ずいぶん豪華な部屋だな」

 3人が口々に歓声を上げる。

 陸はベッドサイドを川島家に譲り、沙希の足元に回った。

 沙希の母親は持参した紙袋から、花束と花瓶を取り出す。里奈もプレゼント用に包装された袋を、沙希に差し出した。

「妊娠おめでとう。これは私の趣味で買ってきたんだけど、かわいいよ」

 沙希は驚いた顔で里奈を見つめている。袋の中身はぬいぐるみのようだが、どうやらそのことに驚いているわけではなさそうだ。

「……ありがとう」

 目を潤ませてプレゼントを受け取った沙希を見ていると、陸の口元も自然とほころぶ。

 仲の良い家族を見るとつい目を背けたくなる陸だが、なぜか沙希の家族は例外だった。

 さりげない気配りが上手で、温厚な父親。おとなしく見えるが、内に強い信念を秘める母親。末っ子の特権とばかりに、自由奔放にふるまう甘えっ子の妹。そして長女として家族の期待を一身に受け、優等生であり続けようとする沙希。

 強固な絆で結ばれた家族に見えるが、この4人にも亀裂が生じ、断絶しそうになる危機があったらしい。沙希から聞いた話を思い出して、陸は小さくため息をつく。

(でもそこでダメにならなかったのが……俺のところとは違う)

 斜め下方へ落ちていく視線を意識的に上げると、里奈と目が合った。

「ね、陸くん。飲み物を買いに行かない?」

「あ、気が利かなくてすみません。俺、行ってきますよ」

「私は自分で選びたいから一緒に行こうよ。それにけがしている人に、お使いを頼むのは悪いし」

 とっさに沙希を見る。沙希は苦笑いを浮かべた。

「里奈がおごってくれるって」

「もちろん」

 里奈はバッグを持つと両親の飲み物を確認し、ドアのほうへ向かう。陸も「じゃ、行ってきます」と言い残して部屋を出た。

 ドアが閉まるのを確認した後、里奈は陸に正面から向き合い、声を潜めて言った。

「それ、あの男にやられたんでしょ? お姉ちゃんの元カレの岸本ってヤツ」

「名前、初めて聞きました」

 思わず陸は苦笑する。しかし里奈の表情は硬かった。

「まさか今になって現れるとは思わなかった。もういい加減あきらめただろうと思っていたのに」

「そうですね」

 いつまでも部屋の前にたたずんでいるわけにもいかない。陸は自動販売機をめざして歩き始める。

「私ね、あの男と姉ちゃんが別れた後しばらく、家に火をつけられるんじゃないかって、本気で思ってたよ。ホント、怖かった」

 隣に並んだ里奈は顔を歪めて身震いした。陸にも身に覚えのあることだから、里奈の言葉を大げさだと笑い飛ばすことはできない。

「沙希はもっと怖かったでしょうね」

「だね。姉ちゃん、ずっとつらかったみたい。あの危ない男がいつ会社に押しかけてくるかもわからないのに、身寄りのない東京でひとり暮らしだもん。私、いつも思ってた。早く新しい彼氏見つけて、守ってもらえたらいいのにって」

 同意したくはないが、それが沙希にためになるかもしれないと信じていた時期が、陸にもあった。

(いや、そう信じようとしていた、というのが正しいんだろうな。結局俺も、自分の気持ちに正直になるのが怖かったんだ)

 もし本心を打ち明けて、沙希に拒否されたら、さすがに立ち直れないだろうと思う。それだけではない。もう本当に沙希のそばにはいられなくなる。考えなくてもそれがわかるから、陸は自分自身をも騙そうとしたのだと思う。

 自動販売機の前にたどりつくと、里奈は両親の分を迷わず選び、自分の飲み物を選びかねて少しの間思案していた。

 ゴンと鈍い音とともに彼女の選んだペットボトルが出てくると、里奈は後ろへ下がる。

「しかし、乱闘って……もしかして刺された?」

「よくわかりますね」

「え、ホントに!? ナイフで?」

「かなり立派なナイフが、グサッと刺さりました。ちょうどこの廊下です」

「うわぁ……。でもそれ聞いて、陸くんの印象、かなり変わったわ」

「へぇ。そうですか?」

 陸は里奈を振り返る。里奈の瞳に真剣な色が見えた。

「昔、一度会ったことあるでしょ。姉ちゃんと待ち合わせしているところに、わざと私も行ったの」

「覚えています」

「ずいぶん育ちのいいお坊ちゃんだなって思った。服はブランドものだし、高校生にしてはセンスよくてちょっと大人びていたよね。でも、だからこそ無理だろうと思った。お姉ちゃんに熱を上げてるのも一時的なものだろうなって」

「なるほど」

「怒った?」

「いえ、鋭い分析だな、と」

「お姉ちゃんもバカだよね。あの男を切りたいなら、アイツより強い男を選ばないとだめじゃない。それなのに間違いなく負けちゃうような男の子を好きになるんだもん」

 鼻で笑うことしかできない。あのころの陸は、里奈の言うとおり、心も身体もひ弱だった。

 だが、里奈は笑わなかった。

「だから逆にお姉ちゃんは本気なんだってわかった。……あの後ずっと誰とも付き合おうとしなかったし。姉ちゃんは恋なんかで人生を棒にふるのかな、って悔しかったよ」

 陸はただ濃茶の絨毯を見つめていた。なぜか呼吸がしにくい。左の頬に里奈の視線を感じた。

「だから絶対幸せになってほしいんだ。もし陸くんが受け止めてくれるなら、きっと姉ちゃんは……」



「幸せにします、必ず」



 里奈の言葉をさえぎって、言った。

 まっすぐに見つめる相手の表情が柔らかく崩れる。

「お姉ちゃんを、どうかよろしくお願いします」

「俺のほうこそ、沙希がいないとダメなんです。だから、頑張ります。……こんなことしか言えないけど」

「うんうん」

 里奈は頷きながら部屋へ向かって歩き出す。陸もその斜め後ろを歩く。

「その言葉を聞けて、今日は本当に来てよかったと思う。安心して帰れるよ」

「今日、帰るんですか?」

「うん、私だけね。子どもをダンナさんの実家に預けてきたから」

 陸はハッとした。

「わざわざありがとうございます。沙希もすごく喜んでます」

「家族だもん、当然だよ。結婚式、楽しみにしているね。あ、でもどうするの? 出産前、出産後?」

「まだ決めていません。それどころではなくて」

「そっか。体調も早く落ち着けばいいよね」

 里奈は部屋のドアを勢いよく開ける。沙希とは違う、あっぴろげな明るさが里奈の持ち味だ。こちらを向いた沙希の目が、妹の姿をとらえて嬉しそうに輝く。

 それから沙希の家族は他愛ない会話を交わし、穏やかな時間を過ごした。


     


 家族との面会はつかの間だったが、沙希の顔色はずいぶんよくなっていた。

 沙希の両親と妹が帰り、寂しくなった部屋に携帯電話の騒々しい着信音が響く。陸と沙希は顔を見合わせた。

「潤也から、だ」

 沙希は心配そうな顔でこくんと頷いた。

 どうせ朗報ではないだろうから気は進まないが、仕方なく電話に出る。

『けがは大丈夫か?』

 繋がった瞬間、潤也はそう言った。

「情報、早いな。悪いけど、右腕が使えないから、しばらく仕事休むわ」

『……それは困るな』

「え?」

 あまりにも力のない声だったので、陸は反射的に訊き返していた。

『いや、その件は後だ。そこに黒川が現れただろう?』

「ああ。今朝電話くれたのは、そのことで?」

『黒川の動きがおかしいと感じて、調べ始めたのが一昨日だ。遅かった。もっと早く気がつくべきだった』

「で、アイツ、堂本の手下だったわけ?」

 後悔を隠そうとしない潤也に、苛立ちを感じた陸は結論を催促した。

『そうだ。しかも黒川はK社に恨みを持っていた』

「は?」

 沙希が怪訝な顔つきで陸の様子を窺っている。それに気がついた陸は慌てて通話をスピーカーモードにした。

『黒川の父親はもともとK社の社員だった』

「マジで?」

『だが、景気のいい時期にヘッドハンティングでS社に引き抜かれている。しかしその後、S社は業績不振に陥り、黒川の父親はリストラの対象になった』

 沙希が目を伏せるのを見て、陸は小さくため息をつく。

『すぐに次の仕事を見つけることができなかったらしく、リストラから半年もしないうちに黒川の父親はいなくなった。当時中学生だった黒川は、母親の稼ぎだけで高校を出て、大学には奨学金で進学している。成績は可もなく不可もなくだったが、真面目であることは評価されていたようだ』

「へぇ」

『そしてK社の採用試験を受けて、不採用となる』

「……マジかよ」

『ここ数年は採用人数も絞っていて、ほとんどが有名大学出身者だ。それで黒川はますます不満を募らせたのかもしれないな。結局、就職は決まらず派遣会社に登録し、何社か業務支援に派遣されているが、どこも試用期間だけで切られ、K社へやって来た』

「ある意味、それもすごいな」

『今さらだが、派遣社員の採用に関して、チェックが甘かった。履歴書には目を通したが、不審な点は見当たらず、なんの疑問も持たなかった』

「そりゃそうだろ。履歴書にわざわざ不利なことを書くわけがない。つーか、アンタ、黒川のことを堂本側から知らされていなかったのかよ?」

『おそらく俺は最初から信用されていなかったんだ。堂本側だけでなく、会長にも……』

(あのジイさんならその可能性は高い)

 そう思うが、それを口にするのはさすがにためらわれる。陸は話題を変えた。

「それにしても、もう警察から連絡行ったのか? ずいぶん早いな」

『お前の父親から電話をもらった』

「俺、家に連絡してないけど」

『じゃあ、病院から連絡が行ったんだろう。その後、俺が警察にいる知り合いに問い合わせた』

「なるほど」

 優祐が坂上家に電話をしたのだ、と直感した。多忙なのに、よくそこまで気が回るものだと感心する。

『川島さんの容態は? けがはないんだろうな?』

「けがはない。でもしばらく安静にしなきゃならないらしい」

『お前は? 少しは動けるか?』

 潤也に身体の心配をされるのはくすぐったいような感覚だ。首を傾げながらぶっきらぼうに答える。

「右腕以外は平気だけど」

『それなら俺の仕事を手伝え。そこから会社まで歩いて数分だろう。毎日1時間でもいい』

 そういえば、と陸は窓の外へ目をやる。この病院とK社の本社ビルは至近距離にあるのだ。

「そこまで言うなら仕方ない。手伝ってやるよ」

『明日の午後から頼む』

 考えてみれば潤也のグループは、沙希も黒川も欠席という状態が続くことになる。彼の抱えている仕事量を最小限に見積もっても、潤也ひとりでは手に余るだろうと思われた。左腕だけでもパソコンは使えるから、簡単な入力作業くらいは手伝えるはずだ。

 そう考えながら陸は左手の携帯電話をポケットにしまった。

 それから沙希の顔を見ると、考え込むような表情で黙っていた。

 職場で向かい側に座っていた男が、元カレの凶行を援護していたのだから、沙希の受けた衝撃の大きさは察するに余りある。

 陸は大声で叫ぶ黒川の姿を思い出し、あれこそが本来の黒川なのだと改めて認識する。会社でのおどおどしたしぐさはすべて演技だったのだ。

「俺たち、騙されていたんだな」

 陸のつぶやきに沙希は「うん」と力なく返事をした。

「でも黒川さんは陸のことを褒めてたよ。亀貝さんにも自分の意見が言えるのがすごい、って」

「けど、知っていたんだろ。俺が会長の孫で、潤也とは親戚だってこと……」

 沙希は黙ってしまった。

 つい自嘲気味なセリフが口をついて出る。

「俺は恨まれていたんだろうな」

「そんなこと言い出したらキリがないんじゃない?」

 沙希の目が細くなる。

「人は自分にないものを羨ましく思うところがあるでしょ。私だって他人を羨む気持ちはあるもの。でも嫉妬や恨みの方向でパワーを使うより、自分自身を高めるために努力したほうが絶対に有意義だと思うんだよね」

「そりゃそうだ」

「だけど黒川さんからすれば、それはただの『キレイゴト』なのかも」

「じゃあ事情が事情だから、犯罪を犯すのも仕方がないってことかよ?」

「そういうわけじゃないけど……ごめん、私には黒川さんの気持ちはわからない」

「ま、そうだな」

 陸は沙希のそばに寄り、手を握る。

「スパイが沙希の目の前にいるなんて……考えたこともなかった。今さらだけど、ゾッとするな」

 握った柔らかい手がするりと抜け出し、陸の手の甲を覆った。温かい沙希の手のひらが、陸の手を撫でる。

「陸は間違っていないよ」

「なにが?」

「優秀な社員を引き抜かれないように、会社の体質を変えていくことは、やっぱり必要だと思う」

「S社へ移籍するための踏み台だと思っているヤツらは、今もたくさんいる。結局、世界一でもなんでもいいから、K社のブランドイメージを高めない限り、なにも変わらないんだ」

 沙希の表情が曇るのを、陸はじっと見つめていた。

「簡単じゃないね」

 しばらくして沙希はそう言った。

「そうだな。それでもやるしかない」

「うん」

 こらえきれないほどの孤独が胸を圧迫し、同時に右腕の傷が疼いた。

 沙希が陸の手をぎゅっと握る。大丈夫、陸ならできるよ――そんな声にならない声が聞こえてくるようだった。

 陸は思わずフッと笑う。そして沙希の華奢な手を握りなおした。

 

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1st:2012/09/03
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