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第三部 19

 特別室が並ぶ廊下は、一般病棟とは違い、焦げ茶色の絨毯が敷きつめられていた。陸は用心深く歩を進める。

 10歩を数えるころ、前方の空気が断ち切られるように動いた。

 廊下が折れ曲がり、ちょうど陰になった空間から、突然男が現れたのだ。

 陸は立ち止まり、男を正面からとらえる。上から下まで眺め、写真で見た男と同一人物だ、と確信した。

(小さいな)

 それがその男、つまり沙希の元カレと初めて対面した陸の感想だった。

 男は黒いジャケットとジーンズ姿で、服装にはこれといった特徴が見当たらない。強いて言えば、センスが悪い、と陸は思う。ジャケットは父親の世代が着ていそうな形だったし、ジーンズはなぜか太腿部分が必要以上に太く、足が短く見えるのだ。

 しかし背丈はないが、女性かと見まごうほどの白い肌に、茶色の髪と同色の瞳がよく似合う。そしてどこか寂しげで翳りのある顔立ちは、洗練されていないスタイルを補うのに十分なレベルと言えた。おそらくそのアンバランスさが、女性の心をくすぐるのだろう。

 陸は相手の観察を終えると、彼の挙動に全神経を集中させた。

 見た感じ、男は静寂に包まれているようだった。狂気めいたものはどこにも見つからない。それがかえって不気味だ。

 男はゆっくりと歩き出した。陸の心臓が一瞬跳ねる。慌てて男の目を見るが、相手は陸のことが視界に入っていないかのように、陸の横を通り過ぎ、背後の沙希へ近づこうとしていた。

 陸は慌てて身を翻す。同時に男が口を開いた。

「さーちゃん、どこか悪いの? 病気?」

 思ったより高い声だった。そのゾッとするような優しい声音に、陸は顔をしかめる。

「それ以上沙希に近づくな」

 男の進路を阻むように陸が動くと、男はやっと陸に気がついたような顔をした。

「お前は誰だ?」

「沙希のお腹の子の父親だ」

「さーちゃん、妊娠してるの?」

 さすがに男は驚いたらしい。立ち止まって目を見開いた。

 しかし次の言葉は、あまりにも予想外で、陸をこれ以上ないほど愕然とさせるものだった。



「その子の父親は俺だよね?」



「アンタ、正気か? そんなことありえねぇし。それに沙希は、今はもう川島じゃない。俺と結婚して浅野沙希になったんだ」

 大げさすぎるくらいに呆れた声を出した。

「……結婚?」

 男は陸の顔をまじまじと見る。ようやく陸の端整な顔立ちに気がついたのだろうか。突然、怒りを燃え上がらせ目を剥いた。

 その後の動作は流れるように美しかった。

 男は上着の内側に手を入れ、引き出す。気がつけば男の手には丹念に手入れされたナイフが光っていた。刃渡りは10cmほどで、余計な装飾は施されておらず、狩猟用にデザインされたものと思われる。

 陸の背後で、耳がキンとするような鋭い悲鳴が上がった。沙希の声ではない。ナイフを見て、沙希の車椅子を押していたスタッフが、反射的に叫んだのだ。

 同時にナースステーションから人が飛び出してくる気配がした。陸は男から目を離すことができないが、警備を呼ぶ声に続いて、110番通報と思われるやり取りが聞こえてくる。

 男と陸は、手を伸ばせばつかみ合える距離まで接近していた。

 陸の後ろには沙希がいる。おそらく1m程度しか離れていない。振り返って確かめたいが、そんな余裕もなかった。

 ナイフを持った男が1歩前に出た。

 陸はじりじりとさがる。これ以上、後ずさりしたくない。しかし陸のほうから仕掛けるわけにもいかなかった。

 沙希の車椅子がキィと音を立てた。我に返ったスタッフが後ろに退いたのだろう。

(頼む。もっとさがってくれ)

 だが男を刺激するような動きはできない。それにもし逃げるとしても、来た道を戻り、エレベーターに乗るか、階段をおりるしかない。どちらにしろ、すぐに男に追いつかれてしまう。

 自分が防護壁になる以外に、沙希を刃から守る方法はない、と陸は覚悟する。

(だけど、俺ひとりでコイツを仕留められるだろうか?)

 警備員の到着を待つのが賢明に思われた。そうなると、なんとかして少しでも時間を稼がねばならない。

 汗が背中を伝う。

 ナイフを握り締めた男は、また1歩前に出た。



「俺のこと、好きだって言ったよね。俺と結婚するって……。俺はさーちゃんのこと、ずっと信じていたのに。それなのに……裏切るの? 俺にはさーちゃんしかいないのに……」



 男の悲痛な声が、緊迫した空気の中にむなしく響いた。

(なんなんだ、コイツ。頭の中、どうなってるんだよ)

 約7年前、沙希はこの男にはっきり「嫌い」だと告げ、訣別したはずだ。今さら蒸し返すこと自体、バカげている。

 しかし男は、世界中でもっとも不幸な人間であるかのような表情をしていた。演技にしては真に迫っている。事情を知らなければ、裏切られたと主張するこの男に同情する者もいるかもしれない。

 なんだか急に腹が立ってきた。



「ふざけんな。年月が経つと都合の悪いこともなかったことになるのかよ? 冗談じゃない。アンタが沙希にしたこと、忘れたとは言わせねぇぞ」



 陸はあからさまに男を侮蔑した口調で言い放った。

(こっちから手を出すわけにはいかないんだ。……ほら、挑発に乗ってこい!)

 男が陸に目を向ける。完全に敵意を剥き出しにした視線だ。

 だが、まっすぐに見られているはずなのに、目が合っている感じがしない。異常だ、と陸の本能が警告を発したときだった。

 ナイフの切っ先が閃く。

 とっさに陸は身を引いた。男の目はどこか別の次元を見ているようだった。そのせいか意外なほど動作が緩慢だ。ナイフを持った手は、空を切ってもしばらくそのまま静止している。陸はやすやすとその手首をつかんだ。

 片手の自由を奪われた男は急に暴れ始めた。しかし陸は隙を見て、冷静にもう片方の手もつかまえる。

 手が使えなくなった男は、陸の腹部を蹴り上げた。しかしバンザイをするような体勢で陸につかまっているためか、蹴りの威力はたいしたことがない。男は自棄を起こしたように足を何度も振り上げた。

 陸が優勢のうちになんとか床に引き倒し、ナイフを男の手から離すことができたら、と思う。

 だが、実際は男の腕を握って、めちゃくちゃな動きをかわすだけで精一杯だった。押し倒そうとすると、相手はそれを敏感に察し、逆に陸を下敷きにしようと体重をかけてくる。
 
 陸と男のもみ合いもそろそろ限界に達しようとしたときだった。



「もうやめて! もういい加減にしてよ!」

「沙希!」

「私はあなたを裏切って、彼を……陸を好きになって、陸と結婚したわ。……でも、悪いことをしたとは少しも思わない。ひどい女だと思えばいい。あなたの暴力に怯えて窮屈だったあのころにはもう二度と戻らない!」



「そうか。前に言ってた『他に好きな人ができた』って、コイツのことか。お前ら、別れたんじゃなかったのか!? 結婚? お前ら、ふたりして俺を騙したんだな!」



 沙希の声を聞いて油断したのは、陸のほうだった。思わず沙希を振り返っていた。

 ほんの少し早く体勢を立て直した男が、足を使って陸を突き飛ばした。陸はしりもちをつく。次の瞬間、男がナイフをふりかざしたのが見えた。とっさに陸は自分の胸部をかばい、身をよじる。

 腕になにかが当たり、食い込んだ。

 あっ、と思ったときにはもうナイフが赤く染まっていた。

「……いっ……!」

 言葉が出ない。

 陸は自分の右腕を見た。羽織っていたシャツの上にナイフが突き刺さっている。二の腕から急速に力が抜けていく。

 男が喘息の発作を起こしたような変則的な呼吸で床に膝をついた。

 それと同時にエレベーターのほうから複数の騒々しい足音が近づいてきた。警備員たちが到着し、男をとらえようと迫ってくる。

 男は陸に背を向けて茫然としているようだ。



「おい、早く逃げろ!」



 陸が小さなうめき声を上げたとき、思いがけない方向から声がした。

 ハッとして廊下の奥を見る。陸の視線の先には予想もしない人物の顔があった。



(黒川……!? なんで、アイツが?)



 沙希のデスクの向かい側に座っていた派遣社員の冴えない顔だ。これまで見たこともないような緊迫した表情を浮かべ、大声を張り上げた。

「急げ!」

 黒川の呼びかけで、沙希の元カレは正気を取り戻したように、立ち上がって逃げた。しかし次の瞬間、その黒川が血相を変えて陸たちのほうへ飛び出してきた。

 怒号が黒川と男を挟み撃ちにし、まもなく両人とも床にねじ伏せられる。黒川も沙希の元カレもひょろひょろとした身体つきなので、数人の警備員に囲まれるとひとたまりもなかった。

 侵入者が取り押さえられると、息を呑んで状況を見守っていたスタッフたちも、スイッチが入ったように動き出した。陸の周りも慌しくなる。ナイフが突き刺さったままだからか、出血はそれほどひどくない。しかし耐え難い苦痛が、ひっきりなしに陸を襲っていた。

「うああっ……!」

「陸、……陸っ!」

 沙希が陸の顔を覗き込んでいた。もっとよく見ようと思うが、なぜか上手くいかない。



「よかったな。お前、ちゃんと声出るじゃん」



 それもきちんと最後まで言えたのかどうか、陸にはわからなかった。

 だが、頷く沙希の姿を見た気がするから、きっと伝わったのだと思う。

 緊張の糸が切れるのと同時に、陸は意識を手放した。


     


 沙希の手の甲から点滴針が外れていた。テープできっちりと固定されていたので、勝手に外れるとは考えにくい。そのテープもなくなっているから、おそらくとっさに引き剥がしたのだろう。

 静かな広い部屋に、ひとりでベッドに横たわっている。

 窓の外は晴れていて、冬の太陽が柔らかな日差しを惜しみなく降り注いでいた。それがあまりにものどかな風景なので、さっきまで廊下で繰り広げられていた騒動が嘘のようだった。

 なにから考え始めたらいいのかわからない。

 沙希はランダムに再生される事件の断片を、ぼんやりと見つめていた。

 陸が傷の処置のために運ばれていく直前、警察官が到着し、元カレと黒川は連行された。同時に現場検証が始まり、沙希もいくつか質問を受けた。

 まぶたの端を指で触ってみる。

 たぶんこれは後悔だろう、と沙希は自分の気持ちを分析した。あの男の暴力から逃れるためになんの行動も起こさなかった自分を、冷徹な目をした別の自分が責めている。沙希がもっと早い段階で男の暴力を事件として騒ぎ立てていれば、陸が被害に遭うことなく済んだのかもしれない。

 ナイフが陸を襲った瞬間がよみがえる。

 ほぼ同時に、沙希の両目から涙が噴き出し、身体が硬直した。腹部は表面が固くなり、鈍痛が沙希を苦しめる。臍の辺りをさするが、痛みは収まりそうもない。

 涙を拭こうとティッシュペーパーの箱に手を伸ばしたところに、ノックの音が聞こえてきた。

 ドアがスッと開いて、陸の顔が見える。

「お前、なに泣いてるんだよ」

 陸は笑っていた。

 けがをした腕は三角巾で吊ってあるが、その他はどこも異常がないようだ。それを確認した途端、沙希の目からまた洪水のように涙があふれ出た。

「そんなに泣いたら目が腫れるぞ?」

「いいの。それに止まらないからどうしようもないの。それより……」

 久しぶりの会話だからか緊張して声が震える。

「腕はどう?」

「沙希が俺のことを心配してくれるなんて、な」

 ベッドの横まで来た陸は、ティッシュペーパーを手に取り、沙希の涙を拭いた。気まずくてうつむいた沙希の耳に、フッと笑う声が聞こえてくる。

「まぁ、すっげー痛かったし、今もけっこう痛い。でも派手に刺されたにしては軽いほうかもな。右腕が使えないのは不便だけど」

 それから陸は部屋の中を眺め回し、けがをしている手の代わりに足を器用に使って椅子を運んできた。それに座ると、左手で上着のポケットを探る。

「これは捨てていいよな?」

 陸が取り出したのは、血まみれになった離婚届だった。

 沙希はそれを受け取り、広げてみた。自分が書き込んだ部分以外は空欄だ。

「上に着てたシャツとかは全部ダメになった。ついでにそれも俺が気がついたときには、そうなってたんだ」

 血が跳ねて紙に染みこんでいる。生々しくて目をそむけたくなるが、沙希は黙ってその血痕を見つめた。



「沙希。ちゃんと説明してくれないか。なんでこんなものを用意したんだ?」



 陸が真面目な声で言った。

「それは……」

「モーターショーの日、堂本真里亜って女に会ったんだろ? 話は本人から聞いた。沙希はそこでソイツの娘に会った。そしてその子の父親が俺だと聞かされた」

 沙希は離婚届を見つめたまま、陸の言葉を聞いていた。

「それから写真を見せられた。元カレが写っている写真だ。それで沙希は俺の前からいなくなろうとした。離婚も考えた。……どうして?」

「どうして、って……あの子、父親いないんだよ? 今はまだよくわかっていないかもしれないけど、そのうち嫌でもそのことに気がつくでしょう」

 陸が急に大きな声で「あ、そうか」と言った。

「わかったぞ。……やっとその紙切れの意味がわかった」

 沙希は陸の顔を見る。

「……陸はあの子の気持ち、誰よりもわかるはずでしょ」

「どうかな。俺は、そうは思わない」
 
 やけにきっぱりとしたその返事に沙希は違和感を覚えた。陸自身、両親の離婚によって父親に捨てられたと感じ、それを未だに引きずっているのだ。陸が真里亜の娘の心情をわからないというのはおかしい。

 しかし陸は苦笑しながら言った。

「お前、ホントにバカだな。先回りしすぎ。まず、真里亜の娘の父親は、俺じゃない。あの子の父親は、俺もお前も知っている男で、割とあの子の近くにいる」

「……えっ、誰?」

 思わず頭を浮かせて訊ねたが、陸は沙希の額を撫でて、枕に戻した。

「だから、お前が心配してやることなんかないんだ。だいたい俺と離婚したら、お腹の子はどうなるんだよ。お前さ、ひとりで育てようとか、勝手に悲劇のヒロイン気取ってたんだろ?」

「ちがっ……! 知らなかったんだもん。妊娠してるって……」

「だろうな」

 陸が笑う。沙希はその穏やかな笑顔をじっと見つめた。

 真里亜のことで、陸に訊きたいことはまだいくつもある。

 だが、それよりも先に言わなければならないことがあった。



「勝手なことをして、ごめんなさい。こんなけがをさせてしまって……ごめんなさい」



 言い終えないうちにまた涙があふれた。

 こうなることだけは避けたかったのに、結局沙希のしたことはすべて裏目に出てしまったのだ。刺されたのが自分であればよかったとあの瞬間から沙希はずっと思っていた。

「いいんだ。これでやっとピリオドを打つことができるんだ。お前は喜べよ」

(ピリオド……)

 しかし陸の腕のけがを見て、喜べるはずがない。沙希は力なく首を横に振った。

「だって元カレのことは、陸には関係ないのに、巻き込んで、こんなけがまでさせてしまって、私……」

 陸の深いため息が聞こえた。

「ぶっちゃけると、俺はずっとあの男が怖かった。高校生のころ、もしどこかで会ったら殺されるかも、って思ったこともある。あのころの俺じゃ、今日みたいなことになっても、たぶん勝ち目はなかっただろうし」

 確かに高校時代の陸は今ほど筋肉もついておらず、背丈は勝っていても、全身は元カレよりも華奢なつくりだった。

「でもそうやって俺が臆病だったせいで、お前は今日まであの男の影に怯えて生きてこなきゃならなかったんだ」

「そんなことはない。昔から陸は、私のことを十分助けてくれていたよ」

「それを助けるとは言わない。慰める、だ。でもお前にとって本当に必要だったのは慰めなんかじゃない。あの男からもう絶対に危害を加えられないという保障さ。そのためには誰か第三者が介入する必要があった」

 陸は一旦口を閉ざすと、視線を窓の外へ移した。そしてまぶしそうに目を細める。



「だけど……認めたくないけど、あのころ、沙希はあの男の恋人だった。それが呪いの正体なんだ」



「呪い?」

「そう。『ふたりは恋人です』という結界が張ってあるせいで、第三者が入り込めない。お前はその縛りのせいで、誰かに助けを求めることは間違いだと考えてしまうし、その縛りが緩まないようにするために、男の行動はエスカレートする。そうしないと沙希がそばにいてくれないって本能的にわかるんだろうな」

「……なんでそんなに詳しいの?」

 沙希は陸の顔をじっと見つめていた。陸の唇が皮肉っぽい笑みを作る。



「真里亜がそうだから。アイツもあの男と同じだよ。他人に優しくされたいくせに、自分から他人に優しくすることができねぇの」



(そっか……)

 真里亜のことを苦手だと思いながらも、心のどこかでひっかかるものを感じたのは、虚勢を張る彼女の瞳がどこか不安な色をしていたからかもしれない。

 突然、陸の左手が伸びてきて、沙希の鼻をつまんだ。

「今、『かわいそう』って思ってるだろ? 同情なんかしなくていいから。それは問題の解決を遅くするだけ。誰のためにもならない」

 沙希が顔を歪めると、陸はようやく手を離した。

「違うよ。陸も大変だったんだな、と思ってたの」

「そう。やっとわかってくれた? 大好きな人はなにかあるとすぐ俺から離れようとするし、二度と関わりたくないヤツは呼んでもいないのに現れるしさ」

「ごめんなさい……」

「俺の大好きな人は、ホント困ったヤツなんだよね。勝手にいなくなる上、やっと会えたと思ったらシカトだからね」

「ごめんなさい……」

「とりあえず、その離婚届は沙希が破ってよ」

「……うん」

 沙希は寝そべったまま、両手で離婚届を顔の上に広げた。それから一気に両端を引っ張った。

 薄い紙はまん中で裂けた。さらにそれを重ねて、また破る。陸の血痕が染みこんだ紙はだんだん小さくなり、最後は粉々の紙くずになった。

 紙くずを受け取った陸は、乱暴な仕草でゴミ箱に捨てた。

「もうこんなもの用意する必要ないからな」

「……はい」

 布団の中に首を縮めて、小声で返事をする。

「じゃあ」

 そう言って陸がクスッと意地悪く笑う。

「俺のこと、好きって言ってよ」

「え?」

「言って」

 沙希は布団からおそるおそる顔を出す。



「好き。……大好き、です」



「もっともっと言ってほしいな。俺、すっかり自信なくしちゃってさ。どうにかしてよ」

「どうにか、って……」

「どれだけ心配したと思ってるんだよ」

「あ、……ごめ」

 言葉の途中で、いきなり唇がふさがれた。強引に唇を割って陸の舌が入ってくる。沙希の舌を絡めると痛いくらいの力で吸われた。

 荒々しい口づけが、沙希のつまらない物思いをすべて消していく。

 頭の中がまっ白になったころ、陸は名残惜しそうに沙希の唇を舐めながら言った。

「『ごめんなさい』は聞きたくない」

「ん……」

「なんか言って」

 陸の声が真上から降ってくる。

「好きよ」

「もっと」

「愛してる」

「それから?」

「ありがとう。私を守ってくれて」

「そんなの当然」

 軽いキスをひとつ落として、陸は上体を起こした。それから満足そうな顔をする。



「沙希と俺たちの子どもは、俺が守るから。お前は安心して俺のそばにいて」

「うん」



 沙希はこのとき、急に身体が軽くなったことに気がついた。肩にのしかかっていた重い荷物を、誰かがひょいと持ち上げてくれたようだ。

 心の中で思い切り伸びをしてみる。縮んで固くなっていた心が、少しずつほぐれ、風船のように膨らみ始めた。

 えいっ、と布団を跳ねのけて、ゆっくりと起き上がってみた。

「おい、大丈夫なのか?」

「今は気分がいいから大丈夫」

 驚いて椅子から立ち上がった陸を、沙希は見上げた。

「ねぇ。お腹、さわってみて」

 

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1st:2012/07/02
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