仕事を定時で切り上げると、陸はテオを学校まで迎えに行き、それから坂上の屋敷へ帰宅した。
坂上には、今朝の出社前に沙希のことを報告してある。彼はただひと言、「そうか」とつぶやいただけだった。
夕食のテーブルは、陸とテオと坂上が席に着いていたが、不気味なほど静かだった。
沙希の不在を他のふたりから無言で責められているような気がして、陸は料理を味わう間もなく食事を終える。
「ちょっと出かけてくる」
まだ食事中のふたりにかまわず、立ち上がった。
テオが驚いた顔で訊いてくる。
「どこへ?」
「どこでもいいだろ。テオには関係ない」
するとテオはしゅんとしてうつむいてしまった。陸としてもテオの気持ちがわからないわけではないが、テオを連れて行くと面倒なことになる。
坂上がとりなすように言った。
「こう見えても陸はテオより年上だし、たまには羽を伸ばしたいんだろう」
「ま、そういうこと」
本当は反論したかったが、この家の執事である牛崎が控えていることもあって、陸は坂上に話を合わせた。
テオは気のない声で「ふーん。いってらっしゃい。気をつけて」と言うと、陸を睨みつける。
それに笑顔で答えて、陸は逃げるように屋敷を出た。
時計を見るとすでに夜の9時を回っていた。
足元から這い上がってくる冷気は、陸の体温を容赦なく奪う。黙って立っているのも限界だと思い、腕組みをして背を丸めると、その場で数回足踏みした。
近くに適当な店があれば、そこで待つこともできたが、辺りは住宅街でコンビニエンスストアも100メートル近く離れている。相手がどの方角からやって来るのか定かではないため、陸は仕方なく寒空の下、あるマンションの前で突っ立っていた。
しばらくすると、長身の男性とその腕に絡まるようにして歩く女性の姿が遠くに見えた。
陸は目をこらしてそのカップルを観察する。
男性は黒いコートに細身の黒いレザーパンツ、女性は薄いベージュのコートにブランドものと思われる茶系のマフラーを合わせ、同じブランドのバッグを腕にぶら下げていた。
陸の印象では、女性のほうが年上に見える。おそらく沙希よりも上で、30代前半だろうか。いずれにしろ全身に金をかける余裕のある女性らしい。
彼らは陸の待つマンションへまっすぐ向かってきた。男性がいち早く陸の姿に気がついたようだ。
鋭い目つきで陸を見据えたまま、黒ずくめの男性が隣を歩く女性に耳打ちする。女性のほうは少し驚いた顔で、陸の姿をようやくとらえた。
マンションのエントランスまでやって来たそのカップルは、陸の手前で離れると、女性だけがよそよそしい態度で陸の脇をすり抜けた。
その後ろ姿を名残惜しそうに見つめていた男性は、彼女の姿が見えなくなるともったいぶった足取りで陸に近づいてくる。
「よくここがわかったな。ああ、そうか。俺の実家に電話したのか。俺の母親は陸のことがお気に入りだったからな。高校時代、よく言われたよ。『陸くんみたいな息子がほしかった』って」
黒い服装に栗毛色の髪がよく映える。そう思いながら陸はトオルを見つめていた。
「お前、いいところに住んでいるな」
「なにしに来た?」
トオルは不機嫌な声を出す。普段なにを考えているのかわからないトオルにしては、珍しく感情的な態度だと思った。
「さっきの人、お前の彼女?」
「それがどうした。陸にはなんの関係もないことだ」
「そうだな。だけど、トオル。お前、どうしてバンドを抜けた? せっかくメジャーデビューできて、これからが大事なときなのに……」
「理由を聞いてどうする? 俺に説教するつもりか?」
トオルの目に軽蔑の色が見えた。陸は「違う」と短く言い捨てる。
「お前がD自動車の社長の言いなりになっているのは、金のため、なのか?」
回りくどい質問はやめて、本題に切り込んだ。するとトオルは美しい眉をひそめる。
「話がずいぶんと飛躍するじゃないか」
「金のために悪事に手を染めるのはお前の勝手だが、沙希は俺の妻だ。沙希を守るのが俺の務め。沙希を傷つけたお前らを、俺は許さない」
「だけど、彼女、いなくなったんだろう? それは沙希さんの意志だ。俺のせいじゃない」
トオルは意地の悪い笑みを浮かべて、陸を憐れむような視線を送ってきた。
ムカムカする気持ちを抑えることは容易ではない。しかし陸はかろうじて冷静さを保った。静かに、そして慎重に問う。
「お前、真里亜とはどういう関係なんだ?」
「そんなことを聞いてどうする? ああ、そうか。真里亜は一応、陸の元カノだったな。今さらやきもちか?」
「違う」
「……だろうな。でもお前ら、ある意味お似合いじゃないか。有名会社のお坊ちゃんとお嬢ちゃん同士で、仲良く結婚すれば、お前の大好きな沙希さんもこれ以上苦しまなくて済む。そしてあのかわいい子どもも幸せになる」
陸は深呼吸して、それから言った。
「気持ち悪ぃな。なんだ、それ。トオル、どこで洗脳された?」
途端にトオルの顔色が変わる。
「洗脳だと? バカバカしい。俺は金のために契約を交わしているだけ」
「トオル。お前は真里亜の娘が誰の子どもなのか、知っているのか?」
「知ってるさ」
今度は口元に薄く笑みを浮かべたトオルが、得意げに言った。
「陸は知らないだろうが、真里亜はお前の教授とデキてた。だからアメリカまで追いかけていったんだ。だが、半年ねばったのにとうとう離婚してもらえなかった。そのころはもうおろせない時期になっていた。仕方ないから産んだ。しかし子どもには父親が必要、というわけさ。この国でも有数の資産家である堂本家では、『元カレ』の陸にどうにかして責任を取らせたい。そこで陸に接近するには、元のバンド仲間の俺が適任だった」
雄弁に語るトオルを、陸は黙って見つめていた。
春、沙希とともにフランスへ出国する際に、偶然空港で出くわした教授と家族の姿が脳裏に映し出される。確かに教授は言った。
『彼女が私に愛想を尽かしたんだ。……離婚はできないからな』
それは教授の立場であれば、妥当な判断だと陸は思う。
本気で真里亜を愛していたとしても、実際に離婚を迫られた教授がためらうのは当然だろう。離婚によって得るものと失うものを比較したら、どう考えても損失のほうが大きい。それに真里亜とともに人生をやり直そうと思えるほど、教授はもう若くはないのだ。
しかし、もし真里亜の娘の父親が本当に教授だとしたら、認知していないことが不自然な気がした。
(まさか真里亜が妊娠していたことを知らなかったとか……)
陸はすぐにその考えを否定する。
(いや、それはないな。離婚を迫っているとすれば、真里亜は当然、自分の妊娠を武器に使っただろうから。……ということは、やっぱり)
薄気味の悪い笑みを口元に漂わせているトオルの顔を正面から見た。
「それでトオルは、金のためならなんでもやるというわけか」
「だって金は大事だろう? 金がなきゃ、生きていけないからな。それに話を聞けば、魅力的な仕事だった。お前の大事な沙希さんに会いにいく仕事だからな。だけど最近になって急に、真里亜がつまらないことを言い出しやがった」
そこでトオルは息を吐く。
「つまらないこと?」
「そう。『沙希さんに指1本触れるな』と。それなら断ると言いたかったが、今はどうしても金が必要だから、仕方なく引き受けた」
「なるほど。金のかかる彼女を持つと大変だな」
陸が皮肉を言うと、トオルは露骨に嫌な顔をした。
「あの人は関係ない」
「バンドを抜けたのは彼女絡みで問題を起こしたからだろ?」
裏を取ったわけではないが、陸はニュースを見たときから、トラブルの原因はおそらくそんなところだろうと思っていたのだ。
案の定、トオルは陸の言葉を否定しない。それどころかしばらくすると、観念したように口を開いた。
「あの人は事務所の社長の妻だ。社長は他にも女がいて、事務所の金を使い込んでいる。そのせいで半年ほど前から、俺たちへの支払いが遅れるようになった」
「それを口実に人妻を奪ったわけだ」
「結論から言えばそうなるな。さすがに陸は頭がいい」
トオルはまた薄っすらと笑みを浮かべた。陸の口からため息が漏れる。
「お前のやりそうなことはだいたい想像がつく。それで無理をして、こんないいマンションに住んでいるわけだ」
「俺は汚らしい場所が嫌いなんだ」
「ああ、そうだったな」
相槌を打ちながら、人妻との関係もそう長くは続かないだろうと考えて、陸はトオルから目をそらす。
これ以上トオルと会話を続けても埒が明かないと判断し、「邪魔して悪かったな」と告げて踵を返した。
数歩進んだところで、背後からトオルの声が追いかけてくる。
「なぁ、陸」
陸が振り向くと、トオルは両手をコートのポケットに突っ込んで、ほんの少しだけ首を傾げた。
「ガムを噛むだけで金をもらえる、なんて美味しすぎる仕事、引き受けてもいいと思うか?」
透き通るような白い肌は、血の気がなく青ざめて見えた。もちろん夜の9時といえば辺りは闇に包まれ、彼を照らすものがマンションのエントランスの照明と、街路灯と、夜空を巡る月と星だけだから、陸の目にそう映っただけかもしれない。
それでも陸は、初めて見る怯えたトオルの顔を、しばらくの間、忘れることができなかった。
ちょうど同じころ、詩穂子の部屋のチャイムが鳴った。
沙希は時計を見て、それから詩穂子と顔を見合わせる。こんな時間に女性のマンションを訪れるのは恋人くらいではないか、と思った途端、沙希は詩穂子に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
しかしインターホンの画像を確認した詩穂子が「あ、昨日の亀なんとかさん!」と声を上げたので、今度は別の後悔が沙希の胸を占める。
「詩穂子ちゃん、あの……」
慌てて立ち上がったが、詩穂子がインターホンに「どうぞ」と話しかけるほうが早かった。
まもなく潤也が詩穂子の部屋の前までやって来る。
「あの人、本当に先生のことが心配なんだね」
詩穂子は冷やかすような笑顔を見せて、玄関へ向かった。沙希も仕方なく詩穂子のあとについていく。
「元気そうだね」
玄関に入ると、潤也はまず沙希の顔色を確かめた。
詩穂子は潤也に部屋へ上がるよう促したが、さすがに潤也は「用件を伝えるだけだから」とそれを固辞した。沙希は詩穂子の横でホッとする。
玄関のドアが完全に閉まる音を聞いてから、潤也は小声で切り出した。
「陸の出向が急遽終了となり、今日からK社に復帰している。当面は川島さんの業務を、陸がほとんどカバーすることになると思う」
「そう……ですか」
声が震えるのを沙希自身どうすることもできなかった。皮肉なことに沙希がいなくなった途端、陸はK社へ戻ったのだ。そして沙希が放り出してきた仕事を、陸が引き受けてくれるのだという。
(私、なんてことをしてしまったのだろう……)
あらためて自分自身の思慮の浅さを思い知らされる。
だが真里亜との対面後に、なにもなかった顔をして陸のところに戻れるわけがない。やはりこうするしかなかったのだ、と思いながら潤也の顔を見た。
「それから、離婚届を陸に渡したよ」
「……はい」
「陸はそれを大事にしまっていた」
沙希は口を半開きにしたままうつむいた。
声も出ない沙希を心配するように、潤也は「いや」と慌てて付け足す。
「陸は案外、落ち着いていたよ。ただ、眠ってはいないようだった。S社での打ち合わせが終わったあと、アイツ、俺の車の助手席で熟睡しやがった」
(亀貝さんの車に陸が……?)
昨晩自分が座っていた場所に、今日は陸も座ったのだと知り、沙希は思わず顔を上げた。すると潤也が安心したように顔をほころばせた。
「なにか必要なものがあれば届けるよ」
「いいえ。それよりここへ頻繁に来ていただくのは困ります。私は居候ですし……」
潤也は神妙な表情で頷いた。
「そうだな。こんな遅い時間に女性のマンションへ押しかけるのも迷惑だったね。申し訳ない」
「いえ、心配していただき、ありがたいと思っています。でも陸のことは忘れたいんです。とても勝手ですが、会社のことも含めて、これまでのこと全部……」
「全部?」
「はい」
「そうか」
諦めたように肩を落とした潤也が「それじゃあ、失礼する」と詩穂子にも聞こえるような声で言った。
「それでも俺は、困ったことがあればいつでもキミの力になるから」
囁くような声でそう言い残し、潤也は玄関を出て行った。
茫然と立ち尽くす沙希の背中に、詩穂子が手で軽く触れる。
「ホント、あんないい人をふっちゃうんだから先生も罪な女だよね」
「いい人かな?」
「いいと思うけどな。ま、浅野陸のほうがカッコいいかもしれないけど」
沙希は笑った。詩穂子の率直な物言いのおかげで、気持ちが少しだけ軽くなったように感じる。
しかし陸が離婚届をすんなりと受け取ったという事実には、少なからずショックを受けていた。自分で用意しておきながら、この結果に落胆するのは矛盾しているのだが、やはり陸が怒りに任せて破り捨てるのを期待していたのかもしれない。
(甘えてるのかな、私? ……甘えてるよね、きっと、みんなに)
こうして誰かに甘えたり、迷惑をかけながら生きていくのが人間だと理解しているつもりでも、自分が誰かの役に立つこともなく、社会に少しも貢献していないという状態は、ひどく居心地が悪いと沙希は感じていた。
(いつまでも詩穂子ちゃんのお世話になっているわけにもいかないし、どうにかしなくては……)
とはいえ、詩穂子は沙希が外出するのを、沙希本人よりも危惧していて、絶対に許さないという姿勢だ。おまけに賃貸物件の情報誌を買ってきてほしいという願いも却下された。
(亀貝さんに頼めばよかったかな。……いや、あの人に頼んだら、部屋の契約まで勝手に引き受けてくれちゃいそう。それはそれで困る……)
沙希はようやく玄関からリビングルームへ戻り、もうテレビドラマに夢中になっている詩穂子の隣に座る。テレビの上に掲げられているシンプルなデザインのカレンダーをぼんやりと眺めた。
(房代ちゃんの結婚式には参列したいな)
意外と手強い教え子の横顔をチラッと盗み見て、小さくため息をついた。
坂上の屋敷へまっすぐ帰宅した陸は、リビングルームで読書をしている父親の姿を見つけると、迷わず彼の前に進んだ。
坂上は本から顔を上げる。眼鏡の奥から鋭い眼光が、無言で陸になにごとかと問うてきた。
「沙希がばあちゃん経由で、離婚届をよこした」
陸はポケットから小さく折り畳まれた薄い紙を取り出すと、坂上の前にあるテーブルへ放った。坂上は本を閉じると、テーブルに手を伸ばす。
「彼女は仕事が速いな。お前の母親でもここまで迅速ではなかったように記憶しているが」
「それはアンタが海外勤務だったからだろ。……ま、それにしても沙希の場合、事前に準備していたとしか思えないけど」
「彼女はお前ほど楽天的ではない。そもそも彼女が長い間、恋人を作らずにいたのはどうしてかと考えてみれば、結婚と同時に離婚届を準備していたくらいで驚いてはいられないだろう」
坂上の言葉に反論できず、陸は唇を噛んだ。追い討ちをかけるように坂上は続ける。
「他人の人生を引き受けるということは、そんなに簡単なことではない。彼女はお前よりもそれを深く自覚していた。ただそれだけのこと」
「俺だって、簡単に考えていたわけじゃねぇよ!」
声を荒げたものの、その言葉は陸自身の耳にもむなしく響いた。
坂上は広げた離婚届に目を走らせ、それから陸へ視線を戻す。
「それで、お前はどうする?」
「正面から受けて立つよ。わけのわからない言いがかりをちゃんと片付けて、離婚届は沙希に破らせる」
「なるほど。わけのわからない言いがかりは、ちゃんと片付けられそうなのか?」
「今、トオルに会ってきた」
「ほう。よくつかまったな」
そう答えながら坂上は離婚届を丁寧に畳んで陸に差し出した。
それを受け取った陸は、思い切って言う。
「ヒント、ありがとう」
坂上はフッと笑っただけで、また読みかけの本を手に取り、膝の上に置いた。
陸は大きく息を吸い込む。その間、坂上は本を開かずに陸をじっと見つめていた。
「ひとつ、頼みがあるんだけど」
ソファに座っている坂上が小さく頷くのが見える。
「弁護士、頼みたいんだ。堂本とのやり取りは、直接俺がしている限り、永遠に進展しない気がするから。……ま、これは中山優祐医師の助言なんだけど」
クスッと笑う声がしたので、陸は一瞬ムッとした。笑われても仕方ないと覚悟していたのだが、本当に笑われるとやはりムカつく。
坂上は膝の上に置いた本をテーブルの上に移動させると、スッと立ち上がった。
「連絡先を教えるから書斎まで来なさい」
「うん」
坂上の後ろを歩きながら、陸は自分よりも少し背の低い父親の姿を不思議な気持ちで観察していた。いつの間にか身長だけは追い越していたが、やはり彼の背中は昔と同じように大きく見える。
だが、それを喜ばしいことだと陸は思った。
目標はより大きく、より遠いほうが追い越しがいがあるというものだ。
(ていうか、引退とかまだ早すぎるだろ。もう少し現役で頑張ってくれないと、こっちがつまんないじゃん)
そう思ってから、そんなことを考える自分自身に陸はため息をつく。
ふと、坂上と沙希の仲を疑った日々のことを思い出した。すると消えたはずの炎がふたたび陸の胸の中で燃え上がる。
(くそっ! 今でも俺よりも沙希のことを理解しているような顔しやがって。いくら社長だったとはいえ、女性社員のプライベートにそこまで精通しているとか、普通ありえねぇし)
書斎に入ると、坂上はデスクの引き出しを開けて、名刺が大量に入っているケースを取り出した。その中から目的の1枚を探し出すのは、かなり時間がかかりそうだ。
慣れた手つきで名刺を繰る坂上を見つめながら、陸はさらに古い記憶を手繰り寄せていた。
(だけど、あれって……偶然、だろ? 沙希だってこのおっさんが目の前に現れたのは入社して1年後だって言ってたし……。でもおっさんのほうは採用試験のときに、沙希を気に入っていたらしいからな。じゃあ、あれもおっさんの指示で? ……いや、でもあれを俺に見せたのは、わざとだよな。たぶん、俺にこの道を選ばせるため……)
それは陸が大学2年生になったばかりのころだ。
坂上の所有するマンションに住んでいたこともあって、坂上は陸の部屋に数ヶ月に1度の割合で足を運んでいた。
大学の学費から生活費まで、坂上がすべて負担していることを知っていた陸は、彼の訪問を疎ましく思いながらも、彼が最後に渡してくれる小遣いを心の底では当てにしていたのだ。
男同士だからか、会話が弾むようなことはほとんどなかったが、それでも陸は坂上に就職について相談がてら話したことがある。坂上はK社に入社しろと言わない代わりに、参考にすればいい、とK社の入社案内資料を送ってよこした。
大きな封筒にはフルカラーの立派なパンフレットが入っていた。印刷されている年度を見る限り、前年度の資料の残部のようだった。
興味はなかったものの、暇つぶしにそのパンフレットをパラパラとめくっていた陸は、最後のページを開いた瞬間、思わず息を呑んだ。
「ほら、これだ」
陸はハッとして、目の前に立っている坂上の顔を見る。差し出された名刺にようやく気がついて、「サンキュ」とつぶやきながら受け取った。
「陸。眠れないのはわかるが、少し休みなさい」
「わかってる。……じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
坂上に就寝の挨拶をしたのは何年ぶりだろう。
そもそもここに住むことになったのも、きっかけは沙希だった。考えてみれば奇妙な縁が、陸と沙希と坂上の間に介在している。それも陸が沙希に恋をしたことが始まりで、たったそれだけのことが、時は巡って今、陸をここに連れてきたのだ。
坂上の書斎を出て自室に戻ると、陸はもらった名刺をしまい、ベッドに横たわった。
沙希が使っていた枕に頭をのせる。鼻から思い切り空気を吸い込んでみると、かすかに甘い匂いがした。つかの間、満ち足りた想いが押し寄せたかと思うと、それはあっという間に引いていき、次にどうしようもない喪失感が陸の心を襲う。
しばらくは眠れぬ夜が続くことを覚悟しながら、それでも目を閉じる。
頭に痺れるような痛みが走り、そのずっと遠くに泣いている沙希が見えた。慌てて笑顔の沙希を思い出そうとするが、上手くいかなくてもどかしい。こらえきれず、陸はまぶたを開いた。
その瞬間、涙が一粒こぼれ出る。
起き上がってカーテンを開けてみると、いつの間にか夜空は黒い雲に覆われて普段よりも低く見えた。窓の鍵を開錠し、おそるおそる窓の外へ手を伸ばすと、陸の手のひらをポツポツと小さな雨粒が濡らす。
やはりどこかで沙希が泣いているような気がした。
(俺が泣いている場合じゃねぇな)
雨粒を受け取る指先が冷たくなるまで、泣き出した夜空をぼんやりと眺め、それから陸はシャワーを浴びるために部屋を出た。