このマンションを訪れるのは何年ぶりだろうか、と沙希は詩穂子が作ってくれたパスタをフォークに巻きつけながら考えていた。
たらこソースはゆでたパスタに混ぜるだけでよいというレトルトだが、手軽な上、味も悪くはない。食欲はほとんどないけれども、詩穂子の気持ちに感謝して、少しずつ口に運んだ。
そして好奇心旺盛な目をして向かい側に座っている詩穂子に、これまでの経緯と今日の出来事をかいつまんで話した。
「先生、なんだかすごいことになってるね」
聞き終えた詩穂子は目を丸くして、腕組みをした。
沙希は以前よりもあか抜けて大人びた詩穂子の顔を見つめる。
彼女は大学進学とともに東京へ出てきていたが、沙希がここへ招かれたのは確か彼女が大学2年生のころだった。
陸と同学年の彼女は大学卒業後、学習塾の事務職に就き、忙しい毎日を送っているようだ。
「ごめんね。詩穂子ちゃんも忙しいのに、突然私みたいな居候が転がり込んできたら迷惑だよね」
「全然気にしなくていいよ。いつまでいてくれてもいいからね」
「ありがとう。でもなるべく早く住むところを探そうと思ってる」
詩穂子が「えっ!?」と大声を上げた。
「先生、まさか一人暮らしするつもり? 絶対ダメだよ。危険すぎる。それくらいならここにいるほうが安全でしょ。買い物とかは私がするから、先生は外に出なくていいし」
「でもずっと、というわけにはいかないから」
沙希は困った顔で微笑んで、それからパスタを一口食べる。
「それに先生、本気で浅野陸と離婚するつもり?」
心配そうな表情で詩穂子は沙希の目を覗き込んできた。
「軽い気持ちで離婚届にサインはできないよ」
「それはそうだろうけど。……やっぱり元カノとの間に子どもがいたのが原因?」
「まぁね」
急に詩穂子が立ち上がってキッチンへ向かった。やかんの湯が沸いたようだ。
沙希はフォークをくるくると回しながら、顔の造作は人形のようにかわいいのに、暗い表情ばかりが印象的だった真里亜の娘のことを思い出していた。
(あの子は父親が不在のまま1歳になったんだよね)
父親と母親の愛情を十分に受けて育った沙希には、真里亜の娘の境遇が不憫に思われて仕方がない。
もちろん両親が健在ではないからといって、その子どもがみんな不幸だと決めつけるのは乱暴だとわかっているが、沙希の目の前に現れた真里亜の娘は、なに不自由のない生活を送っているにもかかわらず、幸せそうには見えなかったのだ。
(それに真里亜さん……。私は苦手だな)
真里亜の娘のことも気になるが、沙希の頭の中では、今日初めて会った真里亜の残像が徐々に大きく、鮮明になっていた。
無事に詩穂子のマンションへたどりつき、パスタを口にしてひとまずホッとしたからだろうか。ショックのあまり嘔吐したことが、はるか昔の出来事のように思えた。
むしろ今の沙希をおびやかすものとは、真里亜が告げた二つの真実ではなく、真里亜の存在そのものではないか――?
世界的にも有名な大企業の社長令嬢は、いまどきの若い女性らしく、全身を自分好みに飾り立て、ただひたすら自分の欲望に忠実に生きているように見えた。
近くにいるだけで、彼女の発する圧倒的なエゴに押し潰されてしまいそうな気分になる。沙希はそんな自分のことがふがいなくて惨めに感じられた。
思い出したいわけではないのに、意識の間隙を縫って、真里亜の像が沙希の脳裏を占拠した。
モデルのようにすらりと伸びた形のよい足。茶に染めても艶のある美しい髪。女性のかわいらしさを凝縮して指の先に咲かせたネイル。そして誰もが目を見張る整った眉目。
(私、あの人に負けたと思ってしまったんだ――)
だから沙希は真里亜の部屋から逃げ出し、陸のところに戻ることもせず、退職願と離婚届を書き、二人の前から消えようとしたのだと思う。
(でも亀貝さんを頼ったのは失敗だったかな)
本気で完全犯罪を目指すのであれば、タクシーを使うべきだった。おそらく沙希は無意識で計算していたのだろう。――陸に自分の意志が伝わるように、と。
(結局、私はずるいんだよね。いつも、いつも……)
フォークを口に運ぶ。
胃の痛みはまだ消えないが、それでも食べることはできる程度に回復したようだ。
詩穂子が沙希の前にマグカップを置いた。温かいコーンスープが入っている。これも粉末状のインスタントスープだが、沙希にはおいしく感じられた。
「先生。私は浅野陸の高校時代のことしか知らないし、同じ学校だったわけじゃないから、そんなに詳しいわけでもないけど……」
再び沙希の向かい側に座った詩穂子は、考えるように首を少し傾けた。
「浅野陸らしくないなって思った」
「……え?」
「いや、噂だけど、アイツはそういうところ、すごくきっちりしてるって聞いたことあるから」
沙希は両手でマグカップを握り締めたまま、目をぱちぱちとさせた。
「きっちり……?」
「ほら、避妊とか」
詩穂子は短く言って、恥ずかしそうに笑う。
「へぇ……」
「それに先生の話を聞く限り、その元カノって浅野陸の好みと全然違う気がするから」
「そうなの?」
「だってアイツは先生のことが好きなんだよ。でもその元カノって先生とは正反対っぽいし、そんな面倒くさそうな人と本当に付き合っていたのかなーって不思議に思わない?」
今度は沙希が首を傾げてしまう。
「それは二人の問題だし、私にはよくわからないよ」
だがそう言ってから、頭の片隅で記憶の引き出しが開いた気がして、沙希は慌ててそこに意識を集中する。
(あれは……K社で陸と再会した夜だ)
沙希が彼女はいるのかと訊くと、陸はこう答えたはずだ。
『……俺はこれでも我慢したんだぜ? 振り回されるのはゴメンなんだよ』
『結局、自分のことしか考えてないわがままなヤツだったんだ。こっちがなにかしてやってもそれが当然だと思ってる。……なーんにも返ってこなかった』
今日初めて会った真里亜の態度が、陸の言葉にぴったりと重なり、沙希は気まずい想いで詩穂子の顔を見た。
すると詩穂子は「ていうか」と言い出してから、眉根をきゅっと寄せる。
「浅野陸は、先生がK社にいること、知ってたんじゃない?」
「……えっ!?」
沙希は詩穂子の顔をまじまじと見つめた。
「だって実の父親が社長だったんでしょ。全然知らなかったなんて、そっちのほうが不自然だよ」
「それは……」
陸とは偶然の再会だと信じて疑わなかった沙希にとって、詩穂子の指摘はまさに晴天の霹靂だった。
しかし言われてみれば、詩穂子の言葉はもっともだ。反論しようと思っても適当なセリフが浮かばない。
「先生、大丈夫?」
詩穂子が心配そうに沙希の顔を覗き込む。
「大丈夫だけど、それは考えたこともなかった」
「私、先生の結婚相手が浅野陸だと聞いて、本当に驚いたんだよ! だって、先生のことを本気で好きだったとはいえ、同じ会社に就職って、そこまでするのはある意味ストーカーだもん。でも先生の話を聞いて『あ、そうか』っていろいろ納得したんだ。……ま、これは私の勝手な憶測だから、偶然の可能性もあるとは思うけどね」
「私には……わかんない」
呼吸が苦しいのはなぜだろう、と沙希は自問する。
二人の関係が断絶していた間のことがわからないのは当然だ。
それでも陸の気持ちが、多少は自分に残っていたのだとひそかにうぬぼれていた。だからこそ再会したその日に、陸が自分を求めたのだろう、と理解していたのだ。
しかし詩穂子の指摘が当たっていた場合、陸は就職先を選ぶ段階で、沙希との再会をすでに予期していたことになる。
それなのに真里亜との間に子どもが……?
(ダメだ。混乱してきた)
今日一日であまりにも多くの出来事が沙希の身に降りかかり、考えることも面倒なほど疲れ果てていた。とりあえずマグカップに口をつける。
詩穂子がフッと笑って言った。
「先生は難しく考えすぎ。ぶっちゃけ私は先生が幸せなら相手は誰でもいいんだ。浅野陸がダメなら、ほら、さっきのあのイケメン上司! 亀なんとかさんもすごくいいと思うけどなぁ」
「亀貝さんは浅野くんのハトコだよ」
「ええーっ!? 浅野陸と親戚なの? うわー、なにその職場! 楽しそう!」
興奮気味に話す詩穂子を、沙希は苦笑しながら見つめる。一人きりでいるとどうしても崖っぷちに立たされているような心境になってしまうのだが、詩穂子のおかげでずいぶん気持ちが楽になっていると思う。
しかしいつまでもここにいるわけにはいかない。詩穂子にも迷惑をかけてしまう。
沙希は口の中でもたつく冷めたパスタを思い切って飲み込んだ。
翌朝、ほとんど寝つけなかった陸は、いつものようにテオを学校に送り、それからK社へと車を走らせた。
社員証を提示して社内に入ると、階段を駆け上がり所属部署のフロアへ急ぐ。D自動車の社内と比べるとお世辞にも綺麗とは言えないのだが、それでも見慣れた光景に陸はホッとしていた。
パーテーションの間から自分のデスクを覗き、特に異変のないことを確かめると、沙希のデスクへ向かう。
ほとんど期待していなかったが、やはり沙希の姿はない。目の前が暗くなったが、頭を振って落胆を追い払った。
「ここはお前の職場じゃないだろう」
パソコンに向かっている潤也が、目を上げずに話しかけてきた。陸が覗いていることに気がついていたらしい。
「もうD自動車には行きませんよ。どうせ俺の仕事は昨日で終わってますから」
「そうか」
どうでもよさそうな返事が聞こえてきた。
陸は遠慮なくパーテーションの中へ踏み込み、沙希の椅子に座った。その間も潤也は陸のほうを見ようとはしない。
「昨日の夕方、亀貝さんの車に沙希が乗っていたようですね」
「知っていたのか」
「追いかけたんですけど、亀貝さんの車が速すぎて見失いました。そんなに急いでどこへ向かったんだか……」
言いながら無性に腹がたった。それでも潤也は顔色一つ変えない。
キーボードを打つ音が止まり、ようやく潤也が陸に視線を投げかけてきた。そして机の引き出しを開ける。
「川島さんがこれを置いていった」
沙希のデスクの上に「退職願」と書かれた白い封筒が置かれた。陸は見覚えのある文字をじっと見つめる。
陸の横に立つ潤也は「それから」と言って、スーツの内ポケットから丁寧に畳まれた薄い紙を取り出した。
「これはお前に、だ。川島さんは大おばさんの幼稚園へ行き、それをお前に渡してほしいと頼んだが、大おばさんは俺からお前に渡すようにと命じられた」
潤也の話を聞きながら、陸は受け取った紙を広げる。落ち着こうと思ってもうまくいかない。少し乱暴な手つきでめくり、ようやく印字面へとたどり着く。
(離婚届――)
目に飛び込んできたその文字に、陸の心臓は握りつぶされ、座っていながら眩暈を覚えた。
(いつ、こんなものを用意したんだ?)
絶望が全身に広がり、紙を持つ手が細かく震える。慌ててその不吉な書類を沙希の机の上へ放った。
「それで、沙希はどこにいる?」
「申し訳ないが、お前に教えることはできない。だが、彼女が信頼する女性のもとへ身を寄せているから心配するな」
陸はフンと鼻で笑う。
「アンタの思惑通りに進んで、この状況がさぞかし楽しいことだろうな」
「俺はもう会長とあのお嬢さんのお守りはやめたんだ。昨日は川島さんの頼みを聞いただけで、他意はない。それに川島さんは……」
潤也の視線は沙希の机の上に注がれていた。
「お前の妻でいる資格がない、と言っていた」
「なんだよ、それ」
「俺に聞くな」
陸を見下ろした潤也は「これは俺が預かっておく」と告げて、机の上から退職願だけを持ち去った。
陸は残った離婚届を丁寧に畳んで上着の内ポケットへしまう。綺麗に片付けられた沙希の机の上を眺め、それから向かい側の席を見た。
「黒川さんは休み?」
潤也は時計に目をやると小さくため息をついた。
「そろそろ来るんじゃないか?」
ふーん、と返事をしたとき、目の前の電話が鳴った。内線を示すランプが点灯している。陸はその電子音をしばらく聞いていたが、おもむろに受話器に手を伸ばした。
『もしもし、沙希ちゃん?』
「おはようございます。すいません。沙希ではなく、浅野です」
『えっ、あれ!? ごめんなさい。間違えました!』
慌てた様子で電話を切ろうとする相手を、陸は「待って」と引き止めた。
「間違っていませんよ。総務の宮川さんですよね。沙希は休みです」
『そうですか。……風邪ですか?』
沙希の同僚、宮川房代は心配そうに尋ねてきた。彼女と沙希は親友でもある。陸は潤也を横目で見た。
「その件で少し伺いたいことがあるのですが、お時間いただけますか?」
『いいですよ』
訝るような声の返事だったが、ほどなく房代本人が沙希のデスクを訪れた。社内を歩き回るのが仕事の沙希とは対照的に、房代は仕事上総務部から出歩くことはそれほど多くない。物珍しそうにきょろきょろしている房代を、ミーティングスペースへと案内するために陸は立ち上がった。
すると、それまでずっと黙っていた潤也が突然「おい」と声をかけてくる。
「用件は手短に済ませろ。今日のS社での打ち合わせは、川島さんの代わりにお前を連れて行くからな」
房代との電話中にひっそりと出勤してきた黒川が、真向かいで驚いて目を見開いていた。そしてすぐにホッとした顔をしてパソコンに向かう。
陸は小さくため息をついた。
「わかりました」
沙希の椅子をそっと元に戻し、潤也へ鋭い視線を放つ。潤也も陸をじっと見つめていた。
「行きましょう」
と、房代に声を掛けて、陸はようやく潤也に背を向けた。
「沙希ちゃん、体調崩しちゃったんですか?」
房代はパイプ椅子に腰かけるなり、口を開いた。
陸はホワイトボードに残された文字をぼんやりと眺める。毎朝、このミーティングスペースを掃除していたのは沙希だ。彼女の仕事を軽んじていたことが悔やまれてならない。
「昨日、沙希がいなくなりました」
「えっ!? どういう……」
ガタッとパイプ椅子が音を立てた。
陸はうつむいて、なにを話すべきかと考える。
「亀貝さんは沙希の居場所を知っているそうです。沙希から宮川さんのほうへ連絡は?」
「ありません……」
房代の表情が険しくなり、陸は意味もなく自分の指を握ったり、引っ張ったりを繰り返していた。
「昨日、沙希ちゃんとなにかあったんですか? ケンカしたとか?」
「ケンカではなく、最悪な出来事が起きました。大学時代に付き合っていた女性が、沙希に接触し、僕との間に子どもがいると……」
「ええっ!?」
悲鳴のような声が上がった。房代は慌てて手で口を押さえるが、目つきは完全に陸を疑っている。予想通りの反応に陸は小さく嘆息を漏らした。
「僕の子どもではないですよ。信じなくてもかまいませんけど」
それを聞いた房代は「いやいや、信じます!」と表情を取り繕う。陸からすれば房代の信用を得ることはそれほど重要ではないので、受け流して話を続けた。
「さらに沙希の元カレが僕たちの住むマンションに出入りしている写真を、沙希に見せたようです。そのあと沙希は僕の前から姿を消しました」
「ちょっと待って。沙希ちゃんの元カレって確か暴力を振るう人じゃ……?」
「ええ」
「その人が近くにいるの?」
「そうらしいです」
「……それってやっぱり沙希ちゃんを探しているんですよね?」
陸は首を傾げて、わからないという表情を作った。実際、沙希の元カレが考えていることなど陸にわかるはずもない。
「怖い……。でも亀貝さんは沙希ちゃんの居場所を知っているんですよね? だったら亀貝さんから聞けばいいのでは?」
房代の声が明るくなった。陸は房代に微笑んでみせる。すると急に房代の顔が赤くなった。
「教えてもらえませんでした」
「そ、そうなんだ。……じゃあ私が聞いてみましょうか?」
「たぶん教えてくれないと思いますよ。それにもし居場所がわかっても、沙希は会ってくれないだろうし」
「そう……ですよね。沙希ちゃん、頑固だから」
陸は思わずプッと噴き出した。房代は細い目をますます細くして気まずそうに照れ笑いを浮かべる。
「それで宮川さんにお願いがあるんです」
「はい」
「もうすぐ結婚式ですよね?」
「はい、再来週です。……あ、そうか! でも沙希ちゃん、来てくれるかな?」
房代は陸の意図をすぐに理解したようだ。いくら沙希が頑固であっても、数少ない友達の結婚式にはおそらく出席するだろう。このタイミングを逃す手はないと陸は思う。
「宮川さんの結婚式には絶対姿を見せると思うんです。僕は沙希に直接会って話をしたい。宮川さんご自身の晴れの日に、こんなことをお願いするのは大変失礼だと思うのですが……」
「いいえ! 喜んで協力します。沙希ちゃんが誤解したままでいるならかわいそうだもの」
「誤解したままだと思いますよ。離婚届まで用意してくれましたから」
「ええっ!? 沙希ちゃん、なに考えてるの!?」
「本当になにを考えているんでしょうね」
陸は苦笑した。
一緒に暮らすようになり、二人の距離はこれ以上ないほど近づいたはずなのに、ふとした拍子に沙希の考えていることがわからなくなる。
(俺の妻でいる資格がない……ってどういう意味だよ)
現状で陸が言うならともかく、沙希がそのセリフを口にするのはおかしい。しかし問いただしたいと思っても、潤也を介してのやり取りでは話がこじれるだけだろう。
(つーか、まず俺の話を聞けって。ホント、いざというときの沙希は決断が早すぎるんだよ。いつもはめちゃくちゃ優柔不断なくせに)
このままではいけない。どうにかして会って話をしなくてはいけない。そう思えば思うほど、焦る気持ちが強くなる。
だが心の隅のほうでは、いかにも沙希らしい、と諦めにも似た想いでその言動を受け止めていた。
(とはいえ、いつまでもジイさんや真里亜の手のひらで踊ってやる義理はないからな)
陸はポケットから携帯電話を取り出した。
房代に連絡先を教え、結婚式の当日に陸が目立たない場所で待機できるよう、式場のスタッフに取り計らってもらう約束を取りつけた。
S社での打ち合わせには潤也の車で向かった。珍しく会社の車が出払っていたのだ。
陸は助手席に乗り込み、昨夜このシートに座っていたはずの女性のことを考えていた。
「この車、いいですね」
車内を見回して思ったことを素直に口にする。隣でフッと笑う声がした。
「お前も車、買えば? 通勤に使っているのは坂上のおじさんの車なんだろう」
「そうですね。そのうち買いますよ。……家族が増えたら」
運転の合間に潤也がじろりと陸を見る。
「余裕の発言だな」
「まぁ、アンタがどんなに頑張っても無駄だね。沙希は俺のことを好きだから」
丁寧語をやめて潤也を睨んだ。
「だけど沙希がアンタに運転手を頼んだのは、はっきり言ってショックだった」
「そうか。俺も川島さんから『お願いがあります』と言われたとき、正直なところドキッとした」
「そりゃよかったな」
陸は苛立ちを抑えようとして親指の爪を反対の手でギュッと握った。それでも胸がムカムカするのはどうしようもない。
それを見透かしたように潤也が浮かれた調子で言った。
「川島さんのことを知れば知るほど、ますます好きになってしまいそうだ」
「よくそんなことが言えるな。アンタはもともと加害者側の人間だろうが」
前方の信号が赤になり、車は減速する。完全に止まったところで、潤也が陸のほうを向いた。
「俺にはあの真里亜というお嬢さんの気持ちが少しわかる気がする。俺のお前に対する感情と似たようなものを、真里亜は川島さんに対して抱いているんじゃないか?」
「意味が全然わかんねぇ」
「要するに、お前や川島さんからすれば当然加害者は真里亜だが、当の本人は自分を被害者だと思っているということさ」
「はぁ? 沙希は真里亜になにもしていないだろ」
そう言いながらも、陸は潤也の指摘が的外れではないと直感した。
潤也が陸に対して抱いている感情とはおそらく、恵まれた家庭環境や生まれつきの性質への嫉妬なのだ。それと同じように真里亜が沙希をひがむことは十分にありうる。
信号が青になると潤也はアクセルを踏み込んだ。
「そうだな。川島さんはなにもしていない。だが真里亜をたきつけたのは会長だ。恨むならお前の祖父を恨め」
陸は助手席の窓から街を行き交うOLたちの姿をぼんやりと眺めた。もうすぐS社の本社ビルが見えてくる。
今日の打ち合わせには折戸も同席するはずだ。その前にどうしても潤也に確かめておきたいことがあった。陸はためらいがちに口を開く。
「……アンタ、ジイさんの手下をやめちまって本当に大丈夫なのか?」
「俺の心配をする余裕があるということは、お前にとって俺は恋敵でもなんでもないんだな」
潤也はシニカルな笑みを浮かべた。その顔を一瞥した陸は、心の中で当たり前だと返事をして、そっぽを向く。それから言い訳するように言った。
「アンタはウチの会社に必要な人間だからな」
「俺はお前のそういうところが嫌いなんだ」
助手席から外の景色に目をやり、一瞬だけフッと笑う。前方に見覚えのあるガラス張りの巨大なビルが見えてきた。
階段を段飛ばしで駆け上がるようなペースでここまで来たつもりだが、陸の目指す場所はまだ遠い。こんなところで息切れしている場合ではないと自分に言い聞かせる。
沙希のことを想うと胸が引きちぎれるような痛みを感じるが、今は仕事の時間だ。次に打つ手もすでに考えてある。陸は感傷に浸りたがる自分をねじ伏せ、やるべきことを淡々こなしていこうと心に決めた。