坂上家の食堂には、最近にしては珍しく主の姿がなかった。執事の牛崎によると、古くからの友人と会食の約束があり外出中らしい。
「沙希さんはご一緒ではないのですね」
牛崎が陸とテオを見比べて言った。
「ああ、彼女の両親がこっちに来ているので、しばらく沙希だけ両親と同じホテルに滞在することになったんです。急にそう決めたので、連絡しなくてすみません」
「そうでしたか。連絡は特に必要ございませんのでお気になさらず。ではおふたりのお食事をご用意します」
陸は牛崎がキッチンに姿を消すと、大きなため息をついた。テオが小声で「ねぇ」と話しかけてくる。
「沙希のこと、誰にも言わないつもり?」
「テオは心配するな。俺に話を合わせて、あとは何も知らないふりしてろ」
「それって難しい」
「じゃあ何もしゃべるな」
テオは険しい表情で腕組みをして何か考えていたようだが、牛崎が料理を運んでくるとすぐさま笑顔になり、慌てて自分の席についた。
坂上家の食卓はいつもと変わらず豪華だ。しかしテオとふたりきりだとどんなに美味しい料理も味気なく感じられる。
陸は空腹を満たすと自室に戻り電話をかけた。用件を伝えると、牛崎に外出することを告げ、すぐに屋敷を出た。
「あのなぁ、今何時だと思ってるんだ。俺はそんなに暇じゃないんだぞ」
そう言いながらも白衣姿の中山優祐は陸に椅子を指差して座るように促した。陸は遠慮せず腰かける。
時計は夜の9時を回っていた。陸がやって来たのは、K社の本社ビルから数分の場所にある中山総合病院の内科診察室だ。
当然のことだが病院の外来診療は終わっている。それでも亀貝の名前を出すと、病院側はすぐに優祐を呼び出してくれた。
「緊急事態だって言っただろ?」
「そうか。手短に話してくれ」
優祐は興味なさそうな顔で机上のパソコンを見る。
数秒ためらったあと、陸は事実を端的に述べた。
「沙希がいなくなった」
「……はぁ!?」
優祐の椅子がガタッと音を立てた。彼の目が正面から陸をとらえる。
「どういうことだ? 誘拐か? それなら警察に相談しろ」
「違う。沙希が自分からいなくなったんだ」
「どうして?」
「手短に話すと、D自動車の社長の娘が俺に妙な言いがかりをつけてきて、それを今日沙希に知られた。その上追い討ちをかけるように、沙希の元彼が沙希を探し回っていることまで……」
「ちょっと待て」
優祐が口を挟んできた。
「いくつか確認させてくれ」
「ああ、いいけど」
「D自動車の社長令嬢って堂本真里亜か?」
「そう。アンタなら知ってるんじゃないかと思った」
「まぁな。それでそのお嬢さんからの『妙な言いがかり』ってなんだよ?」
陸はグッと詰まった。
「それを説明すると長くなる。他に質問がないなら答えるけど」
「いや、もうひとつ質問させろ。沙希ちゃんの元彼って?」
これまで見たこともないような真剣な表情で、優祐は陸を見つめてくる。
陸も優祐の涼しげな目元を見つめ返した。
「最低な男だよ。沙希に手を上げてた」
優祐が絶句する。しばらくしてため息混じりに言った。
「マジかよ。沙希ちゃんがソイツと別れたのはいつ?」
「沙希が就職して東京に出てきたとき」
あれは高3の春だった、と陸は苦々しく思い出す。
「ずいぶんしぶとい男だな。ということは、今までも沙希ちゃんに接触してきてるだろ?」
「別れて1年後に『よりを戻したい』って手紙をよこしたらしい。沙希が断ったら相手も納得した……と沙希の母さんは言ってた。俺の知る限りではそれっきりだと思う」
優祐は腕組みをして「ふーん」と返事をする。
「沙希ちゃんの写真を公開したのは失敗だったな。確かに世間では話題になって、K社の広告としては成功だったかもしれないが、下手すると沙希ちゃんの人生をめちゃくちゃにしてしまう可能性があるぞ」
「……だから俺は反対したんだ」
苦し紛れにそう言うのが精一杯だった。
沙希を連れて祖父の家に行った日のことを思い出す。あの日、広告に沙希の写真を載せることを強引に決めたのは、陸の父親である坂上譲一だった。
(やっぱりあのおっさんはジイさんの味方だ)
陸はふてぶてしい態度の祖父を脳内で蹴り飛ばして、少しだけ溜飲(りゅういん)を下げる。
しかし優祐は首を傾げて言った。
「それも堂本のお嬢さんが一枚噛んでいるんじゃないか?」
「いや、写真のことを言い出したのは俺のジイさんなんだ。さすがにあの女がそこまで絡んでいるとは思えないけど」
「というか、陸。お前と真里亜ちゃんはどういう関係?」
「どうって……」
「もしかして付き合ってた?」
陸は優祐から視線を外し、小さく頷く。「元カノか」と納得する優祐を上目遣いで軽く睨んだ。
「それでどんな無理難題を吹っかけてきたんだよ、あのお嬢さんは」
「あのさ、DNA鑑定って簡単?」
「は!? 唐突になんだよ、それ。……お前、もしかして……」
陸の言いたいことがわかったらしく、優祐はこれ以上ないほど目を見開いている。
「違う。絶対に俺の子じゃないんだ。ありえない」
できるだけ冷静な口調で陸は反論した。そもそもそんなヘマをするわけがない、と心の中で付け足す。これでも自分がどういう立場に置かれているかをわきまえて行動してきたつもりだ。
優祐はしばらく疑うような視線で陸を見ていたが、急に笑顔になった。
「ま、信じてやるよ。……で、その子はいくつ?」
「1歳らしい」
「そりゃあ、沙希ちゃんも驚くな。それで堂本のお嬢さんの目的はなんなんだ?」
「沙希と離婚して、自分と結婚しろ……と言ってる。アイツの親は『子どもの認知だけでも』とか言ってるけど、俺は当然どっちもお断りした」
だが、真里亜の本当の目的がよくわからない、と陸は思う。
(俺と結婚することでアイツに何のメリットがある? アイツの親と同じように世間体を気にして……? いや、そんな女じゃねぇだろ)
「めちゃくちゃ勝手な言いがかりだな」
「だろ? 意味がわかんねぇ」
「なぁ。それ、本当の狙いは陸じゃなくて、沙希ちゃんのほうじゃないのか」
「かもしれない」
最初から薄々気がついていたことだ。
沙希がひとりでいる時間に、いきなりトオルがマンションに現れた。あの段階では陸と沙希はまだ入籍していなかった。
もし真里亜が本気で陸と結婚したいと願っているなら、あの時点で行動を起こすのが自然だ。
優祐は小さくため息をついた。
「あのお嬢さんは……お前も知っているだろうが……壊れている」
陸は驚いて目の前の医師を見つめる。
「知ってたんだ」
「まぁな。彼女が高校生の頃、両親に連れられてここに来たんだ。でもここの病院には彼女を治療できる医師がいない。残念だが、他のクリニックを紹介するしかなかった」
「大学時代も絶好調だったぞ。あれで治療してたのか?」
「そこまでは知らない。だけどあのお嬢さんは……おそらく両親の方針には絶対に従わないだろうな」
「なんで?」
カチャカチャと音がした。優祐がパソコンのキーボードを意味もなく指で弾いている。モニターの画面は黒くなり、省電力モードへ切り替わっていた。
陸が思っていたよりも、優祐は堂本家の事情に精通しているらしい。彼にいわゆる富裕層の知り合いが多いことは昔から知っていた。
だから陸は優祐のところへ来たのだ。それは正解だった。陸の知り得なかった真里亜の病巣を、おそらく優祐は突き止めている。
キーボードをなぞっていた優祐の指が止まった。
「お前は知らないと思うが、一部では有名なんだ。堂本家の奥方は家事も育児も一切しない」
「奥方って、真里亜の母親?」
「そう。まぁ、金持ちだから何でも金が解決してくれる。家事は家政婦、育児はベビーシッター。放任という名の育児放棄さ。外ではいい奥様ぶっているけど、家ではわずらわしいことは何もしない女性らしい」
「じゃあ普段、家で何してるんだよ?」
「さぁ? 噂ではスキンケアとかヨガとか、自分を磨くことに余念がないらしい」
ああ、と陸は納得した。確かに真里亜の母親は同年代の女性に比べると若々しい印象だった。美しい女性であることは間違いない。
しかし陸には表面的な美しさを保つだけの努力などむなしく映る。
(そんな上っ面の美貌なんか、何の感動もないね)
それは真里亜を初めて見たときと同じ感想だった。綺麗な女性であることは認めるとしても、その作られた美しさには少しも心が動かない。
陸は、沙希と初めて会った日のことを思い出す。
(あんなことはもう二度とないだろうな)
女性の美しさや優しさを形容する言葉はたくさんあるが、それら全てが陳腐に思えてしまうほど、目の前に現れた沙希はまぶしくて、温かくて、その出会い自体がまるで夢か奇跡のようだった。
かつての陸は、この出会いが運命であればいい、と懇願するような想いでいた。
だが年月を経た今、運命というたった二文字だけでは、沙希と自分の結びつきを言い表すことなどできないと思うのだ。
ふたりの間にあるものは、そんな言葉で片付けられない、もっと……。
「おい、どうした。ぼんやりして」
優祐の声で、陸はハッとした。
「それよりDNA鑑定は簡単なのか?」
慌てて話題を戻した。沙希のことを考え始めると、自分でも呆れるほどボーっとしていることがある。まぬけな顔を優祐に見られたのではないかと急に恥ずかしくなった。
だが優祐にからかうような様子はなく、医者の顔をして答えてきた。
「相手の同意が得られれば、難しくはないと思う。ただ病院では受け付けてないから、本当に鑑定を受けたいなら専門の民間業者に相談しろ」
「それって結果を偽装されたりしないのか?」
「その前に陸はあのお嬢さんを説得できるのか? 俺が知る限り、あのお嬢さんは女の子の皮をかぶった悪魔だぞ」
自分の言葉が面白かったのか、優祐はクスッと笑う。
「そうだな。俺もそう思う。だけど、そうでもしないと俺は身の潔白を証明できない」
陸は不甲斐ない己を恥じてうつむいた。「うん」と同情するような優祐の声が聞こえる。
「まぁ、そこが男の弱点だ。女性は出産した時点でその子どもの産みの親であることは間違いないからな。でもお前の話だと、そこがあのお嬢さんにとっては唯一の弱点かもしれない。それにもし子どもの父親が特定できれば、沙希ちゃんだって安心するだろう」
「安心……」
「そうさ。沙希ちゃんが世界で一番頼りにしたい男はお前なんだぞ。考えてみろ。昔の男がそこらをウロウロしているなんて気持ち悪いだろうが。まして、その男がヤバいヤツなら、怖くて眠れないんじゃないのか」
悪夢にうなされてはひどく落ち込む沙希の姿が思い出された。
全てを理解することは不可能であっても、少しはわかっているつもりでいた。
しかし、沙希の感じている恐怖がどれほどのものか、いくら想像してみても陸には実感がわかない。
元カノの真里亜が今になってつきまとうのを鬱陶しいとは思うが、身がすくむほどの恐ろしさを感じることはない。少なくとも腕力では真里亜に負けない自信があるからだろう。
だが沙希には元彼から身を守る術がない。だから以前の沙希は自分の身体を犠牲にして、全てを受け止めるしかなかったのだと思う。
陸は唇を噛んだ。
もし、今、沙希が元彼と遭遇したらどうなるのだろう。
(社会人になって沙希と再会した日、俺は……)
ドクドクと心臓の音がはっきり聞こえてくるのと同時に、目の前が暗くなるような感覚に襲われる。
再会したその日の夜、今にも泣き出しそうな顔をした沙希を組み敷いて、陸は自分の存在を彼女に刻みつけたのだ。
沙希の気持ちを確かめることもせず、自らの本心を見せることもないままに――。
(……沙希の気持ちを疑いもしなかった)
もし、元彼が陸と同じように考えていたとしたら……?
無駄話をしている時間はない。急に焦りを感じ、陸は勢いよく立ち上がった。
「人生相談に乗ってくれてサンキュ。そろそろ行くわ」
「おう」
優祐は軽く頷いた。
診察室を出ようとした陸の背中に「待て」と声がかかる。振り向くと優祐は机に頬杖をついて言った。
「弁護士を通してみろ」
「え?」
「あのお嬢さんと直接やり合うのはやめとけ。お前はあのお嬢さんに勝てない」
「なんだよ、それ」
不愉快な気持ちが急速に膨らんだ。優祐の顔から表情が消える。
「沙希ちゃんが泣くのは見たくないんだ。でも陸は甘ったれだし、女に弱い。あのお嬢さんに言いくるめられるのは時間の問題だな」
「うるせぇ! 女に弱いのはアンタのほうだろ」
「俺ならあんなお嬢さんとは絶対に付き合わない。どんな手で言い寄ってきても、絶対に断る」
陸は唇を堅く結んで黙ることしかできなかった。
勝ち誇ったような笑みを浮かべて優祐が言う。
「ま、好きにすればいい。傷ついた沙希ちゃんを俺が全力で慰めて、陸のことなんか忘れさせてやるから心配するな」
ドンと鈍い音のあと、緊迫した静寂が診察室を支配する。拳を真横の壁に打ちつけたままの姿勢で陸は優祐を睨みつけていた。
「沙希は俺の妻だぞ。誰にも渡さない」
優祐は頬杖をついた姿勢を崩さずに少しだけ目を細めた。
「早く行け。お前が探さないなら、俺が探しに行くぞ」
大きく深呼吸をしてからようやく拳を下ろし、刺すような視線を優祐に放って背を向ける。
「忙しいのに邪魔して悪かったな」
小さい声でぼそぼそと言い残して診察室を出た。後ろでクスッと笑う優祐の声が聞こえた気がした。
「本当にアレを陸に渡してもいいのか?」
運転席からの問いに、沙希はゆっくりと首を動かした。
「はい、お願いします」
「『いらない』と言われたらどうする? アイツのことだから破り捨てるかもしれない」
「破かれてしまったらどうしようもないですね」
沙希は力なく笑う。きっと陸を怒らせてしまうだろう。離婚届に署名しながらそれを覚悟したにもかかわらず、胸を抉られるような痛みがまた沙希を襲う。
「本気で離婚したいと思っているわけじゃないだろう?」
「私は本気ですよ」
「離婚するとキミの立場は圧倒的に不利になるのに?」
「陸と結婚するのは辞めたほうがいいって言ったのは亀貝さんです」
フッと笑う声がした。
「『ほら、俺の言うとおりだっただろう』と言えばいいのか」
「親切な忠告に耳を貸さなかった私が悪いんでしょうね、きっと」
上辺では軽口を言って余裕を見せているが、実際のところ沙希の心は底なしの泥沼に沈んでいくように下降を続けていた。
せっかく愛する人と結婚できたというのに、また自分からその幸せを手放さなければならない。悪いのは陸ではなく自分だ、と沙希は心の中でつぶやいた。
過去のことは終わらせたつもりでいたが、わざわいの元を一掃するのは不可能だった。それに対する後悔と不安が沙希に悪夢を見せていたのだろう。
その悪夢がついに現実のものとなった。
(だけどあのときの私には、他にどうすることもできなかったの……)
もうあなたのことは嫌いだ。
もう二度と会うつもりはない。
もう二度と電話しないで。
沙希は「よりを戻したい」と恥も外聞もなく連絡してきた元彼に、訣別するための冷たい言葉を放った。相手は「信じていたのは俺だけか」とつぶやき、「わかった」と言って電話を切った。
ツー、ツーと通話終了後の電子音を耳にしてようやく、これで本当に終わったのだ、と沙希は思った。
だがそれは幻想だったことを今日になって知らされた。
あれしきの言葉では、あの男の心にとどめを刺すことができなかったのだ。
(あとはもう……)
相手が諦めてくれるのを待つしかない。
それでもだめなら、相手の命が尽きるのを待つしかない。
(かつて好きだと思った人の不幸を望むなんて、私は最低だ――)
そして、そんな自分が幸せになれないのは当然の報いだとも思う。
出口のない迷宮を彷徨う日々が、沙希におかえりと言っている。絶望が沙希の胸を覆いつくし、一筋の希望の光すら入り込む余地はなくなってしまった。
「住所だとこの辺りになるはずだけど」
車はスピードを落とし、信号を曲がる。
沙希はおぼろげな記憶を頼りに、指を差して道案内した。
「あ、このマンションです」
むき出しのコンクリート壁とガラスでデザインされたお洒落なマンションの前で車が止まる。
「玄関まで付き添うよ」
「いえ、でも……」
ドアロックの解除音とともに潤也がドアを開けた。沙希も慌てて助手席から降りる。
「ここでもう大丈夫です」
「そういうわけにはいかない。キミはまだ俺の部下だ。今は電話連絡ができる状態じゃないだろう? だったら居場所だけでもきちんと把握しておきたいんだ」
「ですが……」
「陸には絶対教えないから安心してほしい」
潤也は沙希の返答を待たずに、エントランスへ向かって歩き始めた。仕方なく沙希もそれに従う。
呼び出し用のインターホンで部屋番号を押すと「あ、先生!?」と弾んだ声が聞こえてくる。
すぐに自動ドアが開いた。潤也とともにエレベーターに乗り、目的階にたどり着く。
沙希は玄関の前で立ち止まると、潤也を振り返って言った。
「ここです。今日は本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした。無理なお願いを聞いてくださってありがとうございます」
礼をして頭を上げると、潤也は微笑んでいた。
「彼女に挨拶してから帰るよ」
「え?」
驚く沙希のことなどおかまいなしに、チャイムを押す。潤也の勝手なふるまいに腹を立てる間もなく、玄関ドアが開いた。
「ちょっと先生、突然どうした……、えっ、誰?」
「あ、あの、詩穂子ちゃん。えっと……」
「はじめまして、私は川島さんの上司で亀貝潤也という者です。彼女のことをどうかよろしく頼みます」
口を半開きのまま、びっくりした顔で固まってしまった部屋の主に、潤也は慣れた仕草で名刺を差し出した。
「は、はい! 私は沙希先生の家庭教師時代の教え子で、井上詩穂子(いのうえしほこ)と申します。こちらこそよろしくお願いします」
詩穂子がぺこりと頭を下げると、潤也は一歩後退し、沙希の肩を叩いた。
「それじゃあ、俺はこれで失礼するよ。何かあったらいつでも連絡して」
「はい。ありがとうございました」
立ち去る潤也の背中を見送ると、沙希は詩穂子に腕を引っ張られるようにして部屋に上がった。