夜のドライブは暗いというだけでもちょっとしたスリルを味わえるので、普段なら心がうきうきするのだが、今夜の沙希はそういう気分になれないまま、潤也のスポーツカーの助手席に座っている。
沙希と潤也は都心を抜け、陸の祖母である佐和が理事を務める幼稚園へ向かった。
潤也からすれば、佐和は祖父の義妹にあたる。「大おばさん」という呼び方は、親族同士の付き合いがほとんどない家庭で育った沙希にとって聞きなれないものだ。
亀貝家の親族は付き合いはあるものの、仲がよいわけではない。それが沙希には不思議で仕方がなかった。
「陸に連絡しなくてもいいのか?」
サイドミラーをぼんやり眺めていると、運転席から声がした。
「はい」
「今頃、必死で探しているぞ」
それを言われると胸が痛む。だが、パリで飛行機に飛び乗ったときとは違って、今の沙希は陸の気を引きたいわけではない。
陸は真里亜に娘がいることを知っているのだろうか。
(当然知っているよね。『悪いのは俺なんだ』って……つまりそういうことだったんだ)
沙希は今頃になって鼻の奥がツンとするのを感じた。
真里亜と陸が付き合っていたのは事実だろう。沙希と再会する前に彼女がいたことは、陸も認めていたし、沙希もいないほうがおかしいと思っていたくらいだ。
だが、その彼女との間に子どもがいたとなれば、沙希とて穏やかな気持ちでいることは難しい。
真里亜の「陸を返して」というセリフが耳に突き刺さったままだ。
知らなかったこととはいえ、お前がこんな幼い子どもから父親を奪ったのだ、と非難されて平気でいられるほど厚顔ではない。
(だけど、どうして今――?)
沙希は小さなサイドミラーを凝視した。小さな鏡には後続車のライトや街の灯りが映っているのに、来た道は闇に吸い込まれるように消えていた。
信号で停車すると、重苦しい空気を払いのけるように、潤也が口を開いた。
「俺を頼ってくれるのは嬉しいけど、俺は自分に都合の悪いことをキミに伝えていない。信用しないほうがいい」
「信用なんかしていません。私はあなたを利用しているんです」
沙希は潤也を一瞥する。
「ほう。いいね、それ。面白い。キミの期待に応えられるよう努力するよ」
明るい声が返ってきた。きっと沙希を気遣ってわざと茶化したのだろう。
(でも、この人もトオルという人も、真里亜さん絡みなんだろうな)
やはりモテるのは真里亜のほうではないか、と沙希は思う。複数の男性を思いどおりに操るためには、まず彼らの気を引く必要がある。沙希にはとても真似できそうにない。
それにしても真里亜は何をしたいのだろう。
沙希を必要以上におとしめることで、彼女は何を得るのだろう。
(『陸を返して』……か)
信号が青になり、潤也はアクセルを踏んだ。
車が発進すると同時に、沙希は脱力してシートに身を預ける。この車のシートはレザー張りで手触りは固いものの、背中をすっぽりと包み込むような設計のため、座り心地が抜群にいい。それだけでも沙希はホッとする。
そんな些細な満足をひとつひとつ積み上げたものが、日々の幸せであるはずなのに、人はどうしてそこで満足していられないのだろうか。
「私は誰かに何かを期待したりしませんよ」
そう言った自分の口調があまりにもきっぱりしていたので、沙希は思わず苦笑する。
潤也が小さく嘆息を漏らした。
「そうか。でも本当にどうにもならないときは、誰かに頼ってもいいんだよ。キミは少し力を抜くことを覚えなければいけない。そうじゃないと壊れてしまう」
「もう……いいんです。それに私は大丈夫です」
「大丈夫だと言うなら、陸のところに帰ったほうがいい。今、キミにとって安全な場所は坂上の屋敷以外にないんだ」
「いいえ」
「キミが強情なのは理解しているつもりだけど……」
運転手が呆れたようにぼやくのを無視して、沙希は遠い目をする。街の灯りがぼやけて、いつまで経っても親しみの湧かない東京の景色に、一人の若い男性の姿がはめ込まれた。
沙希の故郷も大都市に数えられる街のひとつだが、東京に比べれば何もかもがこじんまりしている。
上京したてのころ、まずは百貨店の規模の違いに驚き、そこに溢れる人々の群れに圧倒された。沙希はそれらに辟易(へきえき)しつつも、心の片隅ではひっそりと安堵していたのだ。――ここならそう簡単には見つからないだろう、と。
だがその夢想もみごとに打ち砕かれた。
泣いている暇はない。
迷っている暇もない。
あの男が生きている限り、この世には安全な場所など存在しないのだ。坂上家の屋敷がどれほど立派でも、あの男の手にかかればひとたまりもない。
彼は自分を母親に望まれなかった子どもだと思い込んでいる。自分の命を尊ぶことができない人間に、他人の命を尊重しろと言ったところで、どうせ最初から聞く耳を持たないのだ。
ありとあらゆる最悪の状況を想像してみる。
何としてもそれらすべてを回避しなくてはならない。
改めてそのことを強く心に誓い、沙希はしっかりと前方を見据えた。
佐和が理事長を務める幼稚園の門前に、潤也のスポーツカーが横付けされた。職員室の窓に灯りがついている。
沙希が助手席のドアを開けると、潤也も車を降りた。
「口を挟むつもりはないので、立ち合わせてもらってもいいかな」
「……はい」
もし自分ひとりで佐和と対面して、決心が揺らいでしまったら困る。その点、第三者の潤也がいることで、自分の意志を強気で押し通すことができるかもしれないとの打算が働いて、沙希は彼に同行してもらうことにした。
玄関で来客用のチャイムを押すと、すぐに佐和が顔を出した。
「そろそろ来るんじゃないかと思っていたよ。それにしても、潤也くんに護衛されてやって来るとは、穏やかではないね」
沙希は冷たいスリッパに足を入れ、佐和に続いて職員室へ向かう。少し遅れて潤也がついて来た。
「陸のことだね?」
佐和は応接用のソファに座るなり、そう言った。
「はい」
沙希が返事をすると、佐和はフンと鼻から息を吐き、納得のいかない表情をした。
しかし沙希はめげずにバッグを開いて、長方形に折り畳まれた紙を取り出し、広げる。
「これを陸に渡してもらえませんか」
緑色のインクで印刷された薄い紙は一番上に「離婚届」と印字されていて、妻の記入欄にはもう沙希の名前が書き込まれていた。そして別居の日付は今日――。
「なんだい、これは。別れたいということかい? それならアンタが自分で直接陸に渡せばいい」
佐和はテーブルの上に広げられた離婚届をチラッと見ると、嫌悪感をあらわにして横を向いた。
それでも沙希は正面から佐和を見つめる。思い切って息を深く吸い込んだ。
「もう会いたくないんです。申し訳ありません。せっかくよくしていただいたのに、佐和さんの期待にお応えすることができなくて」
佐和の目がスッと鋭くなる。
「アンタは……何をしようとしている?」
「私は、何も……。陸さんには私以外の女性との間に、より深い縁があるということなので、そのような男性とこれ以上結婚生活を続けるのは無理だと思ったまでです」
「そういうことかい。他に女がいたから、アンタは陸を見限るということだ。そりゃあ、仕方ないね」
佐和は襟元をつかみ、しきりに首を振った。しばらくすると気が済んだのか、ふうっと大きく息を吐く。
「それで、陸と別れてどうするつもりなんだい? まさか潤也くんが面倒を見るわけじゃないだろうね」
「僕はそれでもいいんですが、残念ながらそういう話はありません」
沙希の背後に立つ潤也が笑いながら答えると、佐和もつられて苦笑いを浮かべる。
「なんだい、段取りが悪いねぇ」
「すみません」
「陸も陸だよ。まったく情けないったらありゃしない。私だって陸の顔なんざ見たくもないわ」
そう言い放つと佐和はテーブルの上の離婚届を手に取って、「ほれ」と潤也に向かって差し出した。
「潤也くんに渡してもらうほうが、陸も喜ぶだろうよ」
「……大おばさんは、僕と陸の仲がこじれたほうが面白い、と思っていらっしゃるんでしょうね」
ソファの後ろから沙希の横へ回りこんできた潤也は、素直に離婚届を受け取り、スーツの内ポケットにしまい込む。
「そりゃそうさ。こんなかわいい沙希ちゃんを泣かせる男なんか最低だろう?」
「そうですね。とても許せません」
「あの、ちょっと待ってください」
さすがに沙希は黙っていられず、口を挟んだ。途端に、佐和と潤也の視線が沙希へ向かう。
「私には……陸の妻でいる資格がないんです」
沙希は何もないテーブルの上を見つめていた。
しばらく、三人の間に気まずい静寂が訪れる。
それを最初に破ったのは佐和だった。
「アンタはいつまで経っても陸の先生をやめられないんだね」
しみじみとした口調が、沙希の胸には針のようにチクリと突き刺さる。
「そういうわけじゃ……」
「いいさ。私はアンタのそういうところが好きなんだ。アンタの思うようにすればいい。……潤也くんもそう思うだろう?」
佐和が上目遣いで潤也を見た。
「はい」
沙希の横に立つ潤也は、佐和の意見を力強く肯定する。
「それじゃあ、もう行きなさい。のんびりしていたら、あっという間に私のような婆さんになっちまうよ」
全部言い終える前に佐和はソファから立ち上がって、潤也の腕を叩いた。
「潤也くんも少しは陸を見習って、たまには仕事さぼって女の子とデートくらいしなきゃ、つまらない男になってしまうよ」
「本当におっしゃるとおりです」
「それこそつまらない返事じゃないか」
佐和は笑いながら先陣を切り、職員室のドアを開けた。
玄関で見送る佐和に、沙希は最後に深々と頭を下げた。
身を起こすと、佐和がニッコリと笑って小さく手を振った。沙希はもう一度軽く会釈をして背中を向ける。
潤也の車は助手席に沙希を乗せて、また東京の夜を疾走し始めた。
「あれ! 沙希じゃない!?」
突然助手席のテオが身を乗り出し、前方を指差した。時刻は夕飯どきだが、辺りは陽が落ちてすでに真っ暗だ。
テオの指し示した方向を見ると、見覚えのあるシルバーのスポーツカーが会社の裏門から出て行くところだった。
「おい、ホントに沙希が乗っていたのか!?」
「絶対間違いないよ!」
「じゃあ、追いかけるぞ」
陸はスポーツカーと同じ方向へウィンカーを上げて曲がる。かなり前方に目的の車が見えた。おそらく潤也が運転しているのだろう。
マンションへ寄ったのが余計だった、と陸はハンドルを握り締めて後悔する。もっとも危険な場所に沙希がひとりで近づくとは思えなかったが、それでも陸としては確認せざるを得なかったのだ。沙希はいなくても、あの写真の男がうろついている可能性もあるからだ。
しかし、久しぶりに立ち寄ったマンションは、拍子抜けするほど平和だった。
「どこに行く気だ?」
潤也の車はまた交差点を曲がる。
「彼の家!?」
「まさか!」
陸自身も驚くような大声が出た。身体の大きなテオもさすがにビクッと肩を震わせた。
「ごめん。あの人はそういう人じゃないよね。でも沙希はどうして僕たちから逃げるの?」
「それは……」
陸は潤也の車を見失わないように、目を細めて前方へ意識を集中させる。
「俺を……」
(嫌いになったから――?)
「いや、何でもない。わかんねぇよ、沙希の考えていることなんて」
ぶっきらぼうに言い放つと、テオが気遣うように陸を見た。
「そっか。僕もわからない。何があったんだろう。それにあの警備員はどこに行ったんだろうね? ずいぶん探したけどどこにもいなかった」
「さぁな」
再び引き返したがD自動車ブース裏にはトオルの姿が見当たらず、陸とテオは会場の警備担当責任者を訪ねることにした。そこでふたりは、トオルがD自動車より派遣された警備員であることを突き止めた。
しかしトオルの行方を問いただすと、責任者は迷惑そうな表情で「直接D自動車に問い合わせてください」と答えたきりだった。
「ねぇ、あの警備員は陸の友達じゃないの? 電話番号とか知らないの?」
「アイツは一緒にバンドをやっていた仲間だけど、友達じゃない。だから今は電話もメールも通じない」
陸はため息をついた。トオルのことを考え始めると、どうしようもなくムカムカするのだ。
「俺は昔からアイツが嫌いだった。アイツは自分しか好きじゃないんだ」
「えっ? どういうこと?」
「自分以外のものを愛せないんだよ」
トオルのナルシストぶりは高校時代から有名だった。
入学早々、体育の授業中、誤ってトオルを転倒させた男子が、逆上したトオルに殴られるという事件が起きた。馬乗りになって相手の顔が腫れるまで殴りつけたトオルは、教師の事情聴取に「ジャージが汚れたことに対して猛烈に腹が立った」と答えたらしい。
この事件はすぐに学校中に広まり、トオルは上級生からも危険人物として恐れられるようになった。しかし不思議なことに女子は、トオルを疎むどころか逆にちやほやし始めた。
こうしてトオルはあっという間に校内一の少し危険な美男子として有名になり、カリスマ的な人気を得るようになったのだ。
陸はそれを冷ややかな目で眺めていた。女子の考えることはわからない、とも思った。
先輩に誘われて入ったバンドで、ベーシストとして紹介されたのがトオルだった。間近で見るトオルの美貌とスタイルのよさに衝撃を受けたことを、陸は今でもはっきりと覚えている。
「それってマンガとか神話とかの話でしょ。本当にそんな人いるの?」
「あんなヤツのことはどうでもいい。それより高速に入るみたいだな。どこに行く気だ?」
どうでもいいと言ったが、陸の心の中はトオルに対する嫌悪感でいっぱいになっていた。
しかしトオルのことは意識から追い払い、潤也の車を追跡することに集中する。沙希が潤也と一緒にいるのなら、トオルは真里亜とともに会場を後にしたのかもしれない。
場内を探し回り、最後に真里亜のいた控室のドアを開けてみると、そこはもぬけの殻だった。あのおびただしい数のおもちゃは跡形もなく、塵一つない状態に清掃された室内は、そこに少し前まで人がいたことが信じられないほど、まったく別の顔をしていたのだ。
「追いつけそう?」
「どうかな」
「陸、頑張ってよ」
「うるせえな。少し静かにしてろよ」
ETCのゲートをくぐるとアクセルを踏み込んだ。加速して高速道路へ進入し、前方を見た陸は唖然とする。
「やべっ!」
「え、何!?」
「アイツ……!」
シルバーのスポーツカーが右側の追越車線に移動した。するとその前を走っている車が次々と左側へ車線変更し、スポーツカーは独走状態になる。
陸もアクセルを床に叩きつけるように踏んだ。
だが潤也のスポーツカーが通り過ぎたあと、今度はそれを追いかけるように陸の前方を走る車が次々と車線変更してくる。
あっという間に潤也のスポーツカーは見えなくなった。
「ちくしょう! 追いつくどころか引き離された」
「陸、無理しないで。事故を起こしたら、沙希を探せなくなるよ」
テオの言葉を契機に、アクセルを緩めて左車線に戻る。そして見えてきた出口に向かってウィンカーを上げた。
「今は追いかけても無駄ってことか」
信号で止まると、陸はカーナビを操作し、目的地を「自宅」とした。
それを見ていたテオが笑顔で言った。
「少ししたら、沙希も帰ってくるかもしれないね」
陸は「いや」と短く答える。
「え?」
「沙希は帰ってこない」
「どうして?」
「きっとアイツは『帰ってきちゃダメだ』と思ってる」
「どういうこと?」
「沙希は俺のそばにいると、俺を含めた周りの人間に迷惑をかけると思ってるんだ。いや、あの女がそう思い込むようなことを沙希にした、というのが正解かもな。沙希はそういう暗示にかかりやすいんだよ」
「つまり、あの背が高くてかわいいけどものすごく性格悪そうな女の子が、沙希にひどいことを言ったの?」
思わず笑い出しそうになるのをこらえて、陸は頷いた。
「じゃあどうすればいいの? やっぱり探さないと、沙希は帰ってこないよ!」
身体が大きいテオのオーバーアクションは、狭い車内をさらに狭く感じさせる。一刻も早く沙希を連れ戻したいと思う気持ちは陸だって同じだ。
「だけど、今、沙希を見つけて連れ戻したとしても、たぶんすぐにいなくなる。だからただ探すだけじゃなくて、沙希が安心して戻ってくることができるようにしないとダメなんだ」
「陸……」
「とりあえず帰って、飯食って、それからちょっと出かける。テオは宿題して、寝ろ」
「えー、僕も連れて行ってよ!」
「子どもは早く寝ろ」
文句を言うテオには一切取り合わず、陸はナビの指示に従い、坂上の屋敷へ向かって車を走らせた。
どんよりとした陸の心の内側とは裏腹に、夜空は雲ひとつなく晴れている。車を玄関前に停めて、ふと空を見上げた陸の目に、際立って明るい光を放つ星の姿が飛び込んできた。
(北極星?)
しばらくその星を眺め、それから陸はゆっくりと坂上家の玄関へ向かって歩き出した。