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第三部 3

 K社の本社ビルが見えるところまで来て、陸は少し速度を落とした。息が上がって苦しいが、それでも立ち止まることはできない。目をこらしてみると、建屋の前で営業部で陸の指導係だった矢野がぼんやりとした顔で立っていた。

「矢野さん」

 陸は少し大きな声で呼びかけた。気がついてこちらを見た矢野の顔が険しい。悪い予感が胸を覆う。

「浅野、川島さんが……」

「黒いコートの男と沙希が一緒にいるのを車から見ました。沙希は?」

 呼吸を整えながら矢野に近づいた。

「結論から言うと、亀貝さんが車でどこかへ連れて行った」

 矢野はため息をつく。そして首を傾げた。

「商談スペースから見ていたら川島さんと男が怪しい雲行きだったんで、慌てて出てきたんだ。でも亀貝さんのほうが早かった。一体、何がどうなってるんだ?」

 それはこっちが聞きたい、と思いながら陸は頭を振る。だが、潤也が連れて行ったと聞いて、そういうことかと納得する部分もあった。沙希がトオルと一緒でないのなら、とりあえず切迫する身の危険はないだろうと胸を撫で下ろす。

 車で出たとなると、まずは行き先の見当をつけなくてはならない。陸よりも事情を知っている長谷川に相談するのが妥当と思われた。

 会社の建屋へ向かおうと歩き出すと、納得が行かないらしい矢野が陸の腕をつかんで引き止めた。

「あの背の高い黒づくめのロックな男は浅野の知り合いか?」

「昔のバンド仲間です。同じ高校に通ってました」

「どうして川島さんはあの男の前であんなに取り乱したんだ? そして亀貝さんがこれ以上ないタイミングで現れて、川島さんを助けたかと思うといなくなっちまった。それなのにお前はずいぶん冷静だな」

(冷静でなんかいられるわけない!)

 だが感情を剥き出しにしてわめき立てたところで、沙希の居場所がわかるはずもない。となると、陸にできることは余計な感情を波立てずに次の手立てを考えることだ。

「闇雲に走り回ったってどうにもなりませんよ」

「……大丈夫なのか? 俺は川島さんが気がおかしくなったんじゃないかと思っ……」

「大丈夫なわけがない!」

 思わず感情に任せて大声を出していた。矢野は目を見開いて陸を凝視する。

「俺だって早く探さないとマズいと思ってますよ。でも亀貝さんと一緒なら、沙希はとりあえず無事だから」

「無事? あの人だって何を考えているのかわからないだろう」

「亀貝さんはトオルとは違いますよ」

 怪訝な顔をしている矢野を置いて、陸は歩き始めた。ここで時間を潰している場合ではない。

「浅野、どうしてそんなことが言える?」

 後ろから矢野の声がした。

「明らかに亀貝さんは川島さんに気があるだろ。お前、なんでそんなに余裕なんだよ」

 責めるような口調を無視することができず、首だけを後ろに回す。

「余裕なんかないですけど、亀貝さんのことは昔からよく知ってますから」

 言い終えると大股で矢野から離れた。

 こんなときに結局、潤也の人間性を信じきっている自分が腹立たしくもあるが、潤也の目的はおそらく今夜開催されるパーティーに沙希を連行することだ。

 時計を見ると午後四時を過ぎたところだった。陸は階段を駆け上がった。

 自分のデスクに戻ると、長谷川が無言で視線を投げかけてきた。

「亀貝さんに電話する」

 言うが早いか、陸は直接潤也のデスクに向かう。机上にメモしてある彼の携帯電話の番号にダイヤルした。

 すぐに機械的な声がドライブモードであることを知らせてくれる。背後に長谷川がやって来た。

「繋がらないでしょう?」

「律儀にドライブモード」

 受話器を置くと、何気なくスケジュールを記入するホワイトボードに目をやった。午後四時からは「P社にて打ち合わせ」と書かれている。

「あの?」

 少し離れたところから男性の声がした。陸と長谷川はそちらを見る。

 潤也の部下は沙希だけでなく、実はもう一人いたことを陸はこのときようやく思い出した。

「黒川さんだっけ?」

「そうです。黒川と言います。川島さんにはよくしていただいてます」

 ぼそぼそと話す男性は他の社員とは違う名札をつけている。黒川は派遣社員で、この部署が新設された際に採用した新卒の若者だ。

 陸は彼のデスクに歩み寄って声を掛ける。

「あの『P社』ってどこかわかる?」

 ホワイトボードを指差すと、黒川は少し腰を浮かせて、それから首を傾げた。

「すいません。わかりません」

 陸は苦笑する。彼が悪いわけではないのだが、素直すぎるところが手に負えないと思った。

「長谷川さんは心当たりない?」

 黒川のことはすぐに忘れて、背後にいた長谷川に声を掛けた。

「貸衣装の店ではないでしょうか」

「ま、時間的にそうだろうな。パーティーの場所はどこ?」

 長谷川は自分のデスクへと踵を返す。それからインターネットで貸衣装の店を検索し始めた。

「Pから始まる貸衣装の店舗となると限られてきます。比較的パーティー会場に近いですし、ここに直接電話してみては?」

 ためらう間もなく陸は受話器を手に取って、長谷川が示した番号をダイヤルする。すぐに女性店員が電話に出た。

「今日の午後四時に、亀貝か川島の名前で予約が入っていませんか?」

「失礼ですが、お客様はどちら様でしょうか」

「二人の親族の者です」

 陸は言ってから密かにため息を漏らした。電話の相手は「親族」という言葉で気を許したらしく、明るい声で「少しお待ちください」と告げて確認作業に入る。

「午後四時でご予約を承っておりますが、まだお見えになられていないようです」

「そうですか」

 時計を見ると既に四時半に近い。

(あんなに律儀な潤也が遅刻?)

 受話器を戻した後も何か腑に落ちないが、とにかく貸衣装店には到着していないことがわかった。

「潤也さんらしくないですね。遅れるなら必ず連絡を入れる方だと思いますが」

 長谷川の感想に陸も頷く。

 陸の追跡を逃れるために偽装の予約である可能性も考えられるが、そこまで手の込んだことをするだろうか。



(潤也の目的はパーティーに沙希を連れて行って……真里亜に引き会わせることか!?)



 そこに思い至った陸は急に焦りを感じた。

(沙希に真里亜を会わせるわけにはいかねぇ)

 長谷川の言うとおり、一人で対抗しても勝ち目のない相手だと陸は痛感していた。大学時代、真里亜が自分に接触してきたのも、今日の日のためではないのか。先刻からそんな疑念が陸の胸に湧き上がっていた。

「長谷川さんはどこまで知ってる?」

「どこまで、とは?」

「前社長からどこまで聞いた? 沙希の過去とかはもう聞いてるんだろ? D自動車の幹部の娘が俺の元カノだっていうのも」

「その辺りまでですね。その娘さんが何かを企んでいるとは伺いましたが、その内容は存じません」

 ということは、と陸は頭の中を整理した。

(あのおっさんを当てにするしかねぇのか。くそっ!)

 悔しいが陸と長谷川では、これ以上潤也と沙希の行方を探る術がない。

 ズボンの中から携帯を取り出した。

「おい、沙希がいなくなった。潤也に拉致されたんだよ。あ? 携帯はドライブモードで繋がらねぇ。あ? 沙希の携帯? アイツ、携帯嫌いだから持ち歩いてねぇよ。どうせまた机の引き出しの中に入ってるって」

 そう思いながらも、沙希の携帯には電話をしていないことに気がつき、話もそこそこに通話を終了させ、すぐに沙希の携帯を呼び出す。

 五秒後、陸は携帯を机の上に叩きつけたい衝動に駆られたが、思いとどまってポケットの中にしまった。

「『おかけ』になってる」

「『おかけ』とは何ですか?」

 長谷川は不思議そうな顔で訊いてくる。

「『おかけになった電話は現在電波の届かないところにいるか、電源が入っていません』ってアナウンスが流れるだろ。あれが『おかけ』」

 説明しながら、沙希はどうしているだろう、と頭の片隅で思った。

 矢野はトオルと対面した沙希がひどく取り乱した様子だったと教えてくれたが、そんな不安定な精神状態のまま、パーティーのような場所に適応できるとは思えない。

(早く見つけないと……)

 一度恐怖などにさらされて心が過敏な状態になると、沙希は自分自身の殻に閉じこもり、言葉を発しなくなる。外界をシャットダウンすることで必死に自分を守っているのだろうが、実際のところ彼女の中で何が起きているのかは、陸にもわからない。

(これ以上追い詰めないでくれ)

 人間が精神的に追い詰められた場合、その危機的状況をどうにか打破しようとするだろう。突き詰めていけば、究極の方法として二つの選択肢が考えられる。



 自分を傷つけるか、他人を傷つけるか――。



(でもアイツはそんなにヤワな人間じゃねぇ)

 陸は祈るような気持ちで、そう自分に言い聞かせた。

 時計を見ると沙希を見失ってからもう一時間が経つ。ぐずぐずしていられない。

「パーティー会場に行く」

 長谷川に向かって宣言するのと同時に、パーテーションの間から「あの」と暗い声が聞こえてきた。

 振り向くと、沙希の部署にいる黒川がおどおどした様子で電話の子機を陸に差し出す。

「亀貝さんが浅野さんにお話がある、と」

 陸は黒川の手から子機をひったくり、勢いよく「おい」と凄んだ。

『陸。お前が思う、この辺りで一番安全な場所はどこだ?』

 そのセリフを聞いた途端、陸の思考が止まる。潤也の声がやけに憔悴しているように聞こえた。

「沙希は?」

『いいから、質問に答えろ!』

(よくねぇだろ!)

 言い返したいところだが、潤也の様子が明らかにおかしい。仕方なく潤也の質問について真面目に考えた。

「警察以外なら、俺の知るところではあそこしかねぇな」

『住所を言え』

 陸は心当たりの住所を告げた。受話器の向こう側から電子音が聞こえてくる。おそらくカーナビに住所を登録したのだろう。

「沙希を返してくれ」

 返答がないまま、予告なしに電話は切れた。

「なんなんだ、アイツ!」

 陸は電話を黒川に向かって放ると、長谷川のほうへ手のひらを伸ばす。長谷川はその手のひらの上へ車の鍵を置いた。

「パーティーには出席しないようですね」

「行ってくる。長谷川さんは定時で帰ってくれ」

 黒川の横をすり抜けて早足で通路を進む。人影が見えない場所では本気で走った。

 車に乗ってエンジンをかけてから、陸は携帯を取り出した。

「今からそっちに行く。つーかアンタ、今、どこにいる?」

『家にいる。沙希ちゃんは見つかったのか?』

 聞き慣れた声に思わずホッとしている自分を嫌悪しながら返事をした。

「俺より潤也が先に着いたら、頼むわ」

 携帯をしまうと車を発進させた。複雑な気持ちをとりあえず鼻から吐き出し、手段を選んでる場合じゃないと思い直してハンドルを強く握る。

(それにしても、どうして沙希なんだよ)

 トオルにしろ、潤也にしろ、沙希に執着するのはどうしてなのか、と不思議で仕方がない。好みの問題だと言えばそれまでかもしれないが、どちらの男も沙希にこだわらずとも女性に不自由しないはずだ。



「これ以上、沙希に近づくのはやめてもらえませんか」

「もしお前が彼女の元彼に同じことを言われたら、彼女に会うのをやめていたのか?」



 急に潤也の言葉が脳裏によみがえった。

(俺も……?)

 彼らと同じなのだろうか。

 陸は苦い思いでその考えを懸命に否定した。

 だが、もし沙希が自分を受け入れてくれなければ、自分も彼らと同じ立場ではないか。

 誰かを愛することは喜びだ。そして誰かから愛されることも喜びのはずだ。それなのに沙希は誰かを愛し、愛されることでいつも窮地に陥ってしまう。

(なんだよ、これ。おかしいじゃねぇか。アイツは何も悪くないのに……)



 何かが沙希の周囲を狂わせる――。



 夕刻の道路は混雑していた。渋滞の車列は少し進んでは止まることを繰り返している。陸の心を追い立てていた焦燥感は、夜の空気が忍び込んでくるにつれて次第にやりきれない思いに塗りつぶされていった。


     


 この急な坂道の上にいくつもの住宅が立ち並んでいるとは、坂の下にいる者には想像もつかないだろう。そんな急斜面を登ると、左右に開けた緩やかな丘が広がっていた。

 しかし陸の運転する車が丘の上にたどり着いたのは、既に夜空が天を支配する時間帯だった。思い思いの意匠を凝らした高級住宅が、手入れの行き届いた庭と、美しさと頑強さを兼ね備えた塀に囲われて鎮座している。

 陸はその中でも古く、ある種の風格を漂わせている邸宅の前に車を進めた。塀の脇にシルバーのスポーツカーが見える。そして塀にもたれて立つ男の影があった。

「遅かったな」

「渋滞してた」

「そうか」

 車から降りた陸は、潤也の顔が見える位置まで近づいた。潤也は陸をチラッと見て、それから夜空を仰いだ。暗いので表情はよくわからないが、いつもの覇気が感じられない。

「パーティーに行かなくていいのか?」

 陸としては一刻も早く沙希の顔を見たいのだが、潤也がわざわざここに突っ立っている理由を考えると素通りはできなかった。仕方なく問いかけるが、潤也の反応が鈍い。

 イライラする気持ちをこらえていると、ようやく潤也がぼそぼそと語り始めた。

「車を運転している途中でふと思ったんだ。彼女を連れてどこか遠くへ行ってしまおうか、と。誰も知らない土地で、過去の思い出から解放されて、新しい人生を始めたらいいんじゃないか、と」

 沙希は俺の妻だぞ、と内心で突っ込むが、結局黙っていた。今の潤也にそういうことを言っても無駄なのだろう。

「正直に言えば、普段あんなに落ち着いた人が激しく乱心する場面を見て、俺はショックだった。何がそれほど彼女を怯えさせるのかが、俺にはわからない。お前が最初に言っていたことを、俺は軽く考えていたんだ。ただ彼女は心が弱く傷つきやすいのだろう、と。だけど、あれは……」

 何かを思い出すように、潤也は視線を彷徨わせた。



「そう簡単なことじゃない」



 自然と口元に笑みが浮かぶ。陸の身体を巡る血が急に熱を帯びた気がした。

「アンタ、何かわかったつもりでいるなら、それは大きな勘違いだぞ?」

「…………」

 潤也の目が薄暗がりの中で鋭く光る。

 同時に、陸の中で潤也を厭わしく思う感情が爆発しそうなほどに膨れ上がった。

「他人のことなんかわかるわけがない。永遠に、な」

「それじゃあお前は、彼女のことも永遠にわからないと言うのか」

「ああ。俺は沙希の経験したことを見てきたわけじゃねぇからな」

 睨みつけてくる潤也の視線を正面から受け止めた。

「ずいぶん無責任な言い方じゃないか。夫のお前がそんな態度で彼女は救われるのか?」

 陸の前に潤也が一歩踏み出してきた。陸はズボンのポケットに手を突っ込む。

「さぁ?」

「お前……!」

 激情に駆られたのか、陸のシャツの胸倉が乱暴につかみ上げられ、次の瞬間勢いよく胸に潤也の拳が押し付けられた。

「あれは相当深い傷だろう。時間が経てば忘れられるような、そんな簡単なものじゃない」

「だったら何? アンタなら沙希を救えるとでも言いたいわけ?」

 陸は潤也の手首をつかんで、自分の胸元から遠ざける。潤也の手からだらりと力が抜けた。

「お前はどうなんだ?」

 シャツの襟元を直しながら小さく嘆息を漏らす。



「どうもこうも、俺は沙希を好きになったときから決めてるんだ。いつでも、どんな沙希でも、ありのままのアイツを受け入れるって」



 潤也は上目遣いで陸を見つめていたが、大きく息をつくと背を向けた。

「なるほどな」

「おい、待て」

 自分の車に乗り込もうとする潤也を、陸は慌てて引き止めた。

「アンタ、堂本真里亜と繋がってるんだろ? この後どうするんだ」

「パーティーには行かない」

「そうじゃなくて!」

 一際大きな声を出すと潤也が薄っすらと笑みを浮かべて振り向いた。

「お前を見てると、会長の機嫌を取っているのがバカバカしくなるな」

「はぁ?」

「あのお嬢さんは俺の趣味じゃない。お前が何とかしろ」

 車のドアが閉まる音が辺りに響いた。安い車とは明らかに違う、重厚な音だ。すぐに低いエンジン音が空気を威嚇するように鳴り始める。

 運転席の潤也は陸の顔を一瞥すると、力強く車を発進させた。それを見送ることもせず、陸はインターホンの通話ボタンを押す。門が開き始めると乗ってきた車に急いで戻った。


     


 この家に来るのは小学生のとき以来だ。当時の思い出は断片的にしか記憶していないが、少し色褪せた写真のように、感情の色を薄くさせる寒々しい感覚が陸の脳裏に呼び覚まされた。

 リビングルームのドアは開いていた。中を覗くと、この家の現在の主がテレビをつけたまま、ソファで本を読んでいる。窓際にある小さなテーブルの上には電源の入ったノートパソコンが、せわしないスクリーンセーバーの画像を映し出していた。

「テレビとパソコンは電源切っていいんじゃね?」

「遅かったな」

 本から目を離し、前社長がこちらを見た。潤也と全く同じセリフだ。陸はそれに答えず、廊下を進み、突き当たりの部屋のドアノブに手をかける。

 だがドアを開けずに、まずはノックしてみた。中からは返事どころか物音一つしない。無人のようだが、ドアの隙間から明かりが漏れているので、ここに間違いないと陸は確信していた。

 静かにドアを開けると、探していた人がこちらに背を向けて突っ立っている。彼女の目の前には天井までびっしりと書籍が詰まった書架がそびえていた。

 陸は沙希の背中を見つめ、何か声を掛けようと息を吸い込んだが、すぐには言葉が出ない。そんな自分に戸惑いを感じながら、口を噤み、沙希のほうへ一歩進む。

 天井近くを見上げていた沙希の頭がほんの少し動いた。

「古い本の匂いって、心が落ち着くね」

 思ったよりもしっかりした声が聞こえてきたので、陸はホッとする。

「いつかお前をここに連れて来てやりたいと思ってたんだ」

 沙希の隣に並ぶと、彼女は本の背表紙を見つめたまま微笑んでいた。頬から明るい色は消え失せ、やつれて寂しそうな笑顔が胸に刺さる。

「でも何だか本を読む気になれなくて……」

 気遣うように沙希の横顔を見ていたが、思い切って手を伸ばし、彼女の手を握る。血が通っていないのかと思うほど指先は冷たかった。

「物語を読むのが怖いの」

「え?」

 沙希は顔をこわばらせた。読書好きの沙希の口から漏れたとは信じられないセリフだ。

「だってここに書かれていることは、私が読む前から結末が決まっているでしょ? 読み始めたら、もし私の望まない結末だとしても、受け入れないといけない」

「それはそうだけど、気に入らなければ途中で読むのをやめたっていいだろ。本は文句言わねぇんだし」

「うん。そうだね」

 言葉では肯定しているが沙希の本心は違う、と陸は直感する。

「いや、沙希が読みたくなったときに読めばいい。本はなくならないし」

 取り繕うように言うと、沙希は困ったような顔で笑った。次の瞬間沙希の大きな目が潤み、涙がぽろぽろとこぼれ出す。



「ここにある物語と同じように、本当は私の人生も既に決まっているのかもしれないね」



「そんなわけないだろ。お前の人生はお前が主人公なんだぞ?」

 握っている手に力が入る。だが、こうして手を繋いでいても沙希の指は冷たいままだ。陸はむきになって親指で沙希の手を撫でた。

「諦めるなよ。まだ何も終わってないだろ?」



「もう、疲れたよ」



 何もかもを放棄してしまったかのように、沙希は虚ろな目で本棚を見つめる。

 繋いだ手をぐいと引き寄せて力いっぱい抱き締めた。

 細い身体は何の抵抗もせず、それが陸をひどく不安にさせた。沙希の本体は確かにここにあるのに、魂の存在が感じられない。

(せっかく少し前を向けるようになっていたっていうのに)

 だが、どこまで遠くへ行っても、一瞬で最悪の場所へ引き戻されてしまうのなら、歩き続ける意味を見出せなくなるのは当然かもしれない。

 それでも、と陸は思う。

「お前は頑張ってる。俺がそれをずっと見てるから」

 返事の代わりに沙希が鼻を啜った。

 その頭に自分の頬を擦り付けて、髪を撫でる。柔らかな髪と抱き締めている小さな身体からのぬくもりが、陸の心をほんの少し慰めた。



(この世にも救いはある。絶対に――)



 そうでなければあまりにむごい。

 一方では貪欲に生き、他人を蹴散らしても己の欲望を満たすことができる人間が存在するのに、そこまで我を主張する己を許さず、信念に基づいて真面目に生きている人間が報われない世の中などおかしいと思う。

(俺にお前の世界を守らせてくれ)

 陸は沙希を抱き締めたまま祈るように目を閉じた。

 

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1st:2011/05/07
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