「そしてこの製品のコンセプトは『人と人を繋ぐ』――」
一呼吸置いてからスクリーン画面を次のページに移動し、二つの図を表示させた。
「お客様には末永く使用していただけるように、設計、素材、アフターサービスを充実させること。そしてこの製品作りを通じて社内では技術の継承、人材の育成のシステムを構築すること。それらが最終的には私たち社員同士、また社員とお客様とを繋いでいくものとなればいいという想いを込めています」
スクリーンから目を離して正面を向く。会議室内の視線を一身に受けた陸は、急に眩暈がしそうなほどの高揚感に包まれた。
(この感覚……)
初めてギターを持ってステージの上に立った瞬間を思い出していた。目も眩むようなスポットライトが陸を照らし、緊張と不安、期待と歓喜が入り混じり、気分は最高潮に達する。脳が痺れて足が竦みそうになるのを、グッと舞台を踏みしめながら必死にこらえていた。
夢にまで見た憧れの場所。そこに立ち、自分にしか奏でることのできない音楽を創り出すこと――。
諦めていた世界が予告なしに再び目の前に現れ、陸を一段上のステージに押し上げたのだ。息を大きく吸って胸を張った。
それから手元の原稿をめくり、具体的な製品仕様の説明へと入る。
事前に抜かりなく準備してあったことも功を奏して、陸のプレゼンは波に乗り、テンポよく進んだ。聴衆の反応も悪くないと感じる。特に島田はこの企画を陸に押し付けた責任を感じていることもあってか、しきりに頷きながら熱心に聞き入っていた。
「以上で新製品に関するプレゼンを終了します」
陸は礼をしながら大きく息をついた。
(終わった……)
顔を上げると会議室の後方から自分に向かってくる二つの強い視線を感じた。潤也と村上だった。
「それでは質疑応答に移ります」
司会がそう言うと、見知らぬ役員が手を挙げた。その後も続いていくつかの質問が出たが、それほど困惑するようなものはなく、陸はできる限りわかりやすく自分の考えを説明した。
「他にはありませんか? ……ないようですので、これにて浅野くんのプレゼンは全て終了といたします。浅野くん、どうもありがとうございました」
司会の声で陸はもう一度礼をし、脇のテーブルに戻って腰を下ろした。
意外にも潤也は黙ったままだった。質問攻めにされるのではないかと心配していたのが杞憂に終わり、陸は拍子抜けした。チラッと潤也を盗み見るが表情はまるで読めない。
その後気になって窓際の村上を見ると、一瞬目が合った。その瞬間、彼の眉間が少し広がったように思う。陸は少しホッとした。
「それでは社長から一言、お願いいたします」
会議が終わりに近づいたことで、室内の空気は緊張を解き、役員の私語なども聞こえてきた。陸はそんな雰囲気の中、立ち上がった社長の姿を見つめる。考えてみるとあのパーティーの夜以来、社長とは会話を交わしていなかった。
「今日は珍しくゲストがいるので、感想を伺いたいと思います。急に指名して申し訳ないが、村上さん、宜しくお願いします」
何も投影されていないスクリーンの前に立った社長は、村上を手招きした。村上は驚いた表情をしたが、すぐに立ち上がる。彼の足音を聞きながら、今日は革靴を履いているのか、と陸は思った。
社長は長谷川が座るテーブルのほうへ退き、村上の姿をいつもと変わらぬ柔和な表情で見守っていた。村上は軽く頭を下げると口を開く。
「今日は貴重な体験をさせていただきまして、大変感謝しております。私は入社以来約三十年、T事業所でエンジニアとして勤務して参りました。昔話をすればキリがないのですが、好景気に乗って我が社が躍進した頃、たくさんのプロジェクトに関わる幸運に恵まれ、その中で自分自身も大きく成長させてもらったと感じております」
一度そこで区切ると、村上は言葉を選ぶように下を向いた。それから顔を上げてフッと笑顔を見せる。
「先ほど、浅野くんのプレゼンではとても懐かしいものを見せてもらい、正直なところとても驚いています。まさかまだあの機種が現役で使われていたとは……。あれは私が初めてプロジェクトリーダーを任された製品でした。開発、設計に奔走した日々を昨日のことのように思い出します。二十年前といえば、浅野くんはまだ幼稚園に通っていた頃かな?」
村上が笑うと、つられて役員たちの笑い声が会議室に広がった。陸は照れくさくて顔を背ける。
「私たちは自分たちの製品が、どこでどんなふうに使われているのか、そしてそのお客様の顔を知る機会というのは非常に少ない。そのことを浅野くんの話を聞いて改めて痛感しています。また、社内の技術継承、人材育成についても非常に考えさせられました」
プレゼンを聞いてそんなふうに感じてもらえたのか、と陸は嬉しく思っていた。もっと酷くけなされるのではないかと思っていただけに、喜びは大きい。
村上は陸のほうを一度見て、また正面を向いた。
「最初に案を見せてもらったときは正直製品として『弱い』と思いましたが、今日彼のプレゼンを見てその考えを改めたところです」
(やべっ、すっげー嬉しい!)
陸はうつむいて頬が緩むのを誤魔化そうと努力する。村上がいくら褒めてくれても、まだ製品化すると決定したわけではないのだから、喜ぶのは早すぎる。
それでも自分のプレゼンで村上の心を動かすことができたのは、大きな成果だと陸は思った。
(たった一人でもいい。最初は一人でも、それが浸透していけばいつか……)
必ず大きな力になる。大きな力にしてみせる。
陸は頭を下げて後方の窓際の席に戻る村上の姿を見ながら、強く思った。
会議が終わると、陸は長谷川とともに後片付けをして退室した。会議室を出てすぐに長谷川と別れ、別棟の営業部のフロアへ足を向ける。その途中、二つの社屋を繋ぐ長い渡り廊下の窓から外の景色を眺めている潤也の姿を見つけた。
声が届くところまで近づいてから、陸は努めて明るく言った。
「役員就任、おめでとうございます」
潤也がじろりと陸を見る。いつも通りの不機嫌で冷ややかな表情だ。
「楽しませてもらったよ」
面白くなさそうな顔でそう言った。陸は少し驚いた。
「それは光栄です」
「そういう方向から切り込んでくるとは思わなかった。お前のことだからただ単に与えられたものを調理するだけかと踏んでいたんだが、製品化はともかく、お前の主張には見るべきところがあると誰もが思ったはずだ」
陸は眉をひそめる。
「ずいぶん持ち上げるじゃないですか」
「俺はバカが嫌いなんだ」
それがまるで自明の理であるかのように言い放つ潤也は、顔色一つ変えない。陸の頬にひきつった笑みが浮かんだ。
「そういうこと、言わないほうがいいですよ」
「相変わらずぬるいな。生ぬるい湯にどっぷり浸かって生きてきたお前らしいよ。そこはさぞかし居心地がいいんだろう?」
潤也はバカにしたように鼻で笑った。
それが癪に障るが、挑発に乗るほど陸も幼稚ではない。
「アンタは常に周囲と摩擦を起こして走るタイプで、俺はそれが嫌いなだけですよ」
「だから女にモテるのか」
皮肉たっぷりに抑揚をつけて言った後で、潤也は腕を組んだ。その態度にムカムカするが、できるだけ感情を押し殺して潤也の言葉を否定する。
「別に。それに俺は沙希以外の女はどうでもいいですから」
「どうでもいい、か」
潤也が窓の外へ視線を移した。陸はその横顔をチラッと見てから、自分も窓の外を見た。
「これ以上、沙希に近づくのはやめてもらえませんか」
「そんな約束できるわけないだろう」
潤也は軽蔑したような目を向けてくる。そして笑いながら言った。
「もしお前が彼女の元彼に同じことを言われたら、彼女に会うのをやめていたのか?」
(それは……)
無理だ。
そんなことは考えるまでもない。陸は潤也から顔を背ける。
急にスーツのポケットの中で携帯が震えた。潤也もそれに気が付いたらしく、「出ろ」とばかりに顎をしゃくった。
発信者を確かめて、陸は潤也に背を向けた。同時に、今までその場を動こうとはしなかった潤也がスッと陸の脇を歩き去る。
遠ざかっていく背中を見つめながら、陸は深いため息をついた。
その日の夜、陸は社長と島田の二人と夕食をともにした。今日の料亭は陸にとっては初めての店で、これまで社長に連れられて行った店の中では一番こじんまりしていた。
陸がビールを頼むと島田は大げさに驚く。まだ子ども扱いされていることに陸は苦笑いした。
「しかし、陸がここまで熱心にやってくれるとは思わなかったよ。最初に『T事業所廃止に賛成』なんて言い出したときはどうなるかとハラハラしたが、製品のプレゼンとしてはよく出来た内容だったし、陸も堂々としていてよかったよ。な、譲一?」
乾杯を終えた後、島田は上機嫌で言った。社長は眼鏡の奥で目を細める。
「ずいぶん甘い評価だな」
「いやいや、潤也くんも凄いと思ったが、陸も負けてない。やはり若い人が頑張っているのはいいよ。会社も元気になる」
笑いながら社長も頷いた。
「まぁ、今日は合格点をやってもいい」
「マジ?」
思わず陸はそう口走っていた。社長から褒め言葉をもらえるとは思ってもいなかったのだ。嬉しいがそれを素直に態度に出すのは癪なので、慌ててビールを喉に流し込んだ。
「それでT事業所をどうするかっていうのは、いつ決まる?」
年輩の仲居が配膳を終え、座敷から退出したタイミングで質問した。反応したのは島田だったが、歯切れが悪い。
「そうだな、早いうちに決定しないと……」
「来週の会議で決める」
社長は珍しく渋い顔で言った。
それを見ながら陸は刺身を口に運んだ。マグロの大トロだった。口の中にほのかに甘みが広がる。
「お前はパリに戻るのか?」
「ああ、明日戻るつもり」
頬張っていたものを飲み込んでから答えると、社長は納得したように頷いた。それからしばらく考えるように少し首を傾げ、日本酒を口にする。
「陸、お前のパリ滞在は長くて今年いっぱいかもしれない」
「は!? なんだよ、それ」
「会長がそう望んでおられる。今回入院されて気が弱くなっているのかもしれないな」
(気が弱くなってるなんて、笑わせんな!)
先日見舞った病室の祖父を思い出すと、陸の胸の中には不満が次々と湧き上がってくる。だがその命令に背くことなどできるわけがない。病人とは思えぬシルクのパジャマ姿が脳裏に焼きついて不快だった。
「俺は帰って来たくないね。アンタたちの都合で振り回される俺の身にもなれよ」
「気持ちはわかるが、残念ながらお前に拒否権はない」
陸は静かに深く息を吸った。バカバカしくて投げやりな気持ちが身体中を吹き抜ける。それを黙ってやり過ごすと、乾きかけた残りの刺身を次々に口の中に放り込んだ。
社長の隣で島田が気を遣い、息を潜めて箸を動かしている。やっと冷静になった陸は、島田と目が合うと笑顔を作った。彼も目尻を下げて、慰めるように口を開く。
「戻ってきたほうが陸にとっても都合がいいと思うぞ。俺たちもお前を引き立ててやる機会を作ることができる」
「そりゃどうも」
「全然嬉しくなさそうだな。今はリーダーシップを発揮するにはちょうどいい時期だと思うがな」
島田の言葉を陸は複雑な気持ちで受け止めていた。
会社が大変なときだということは陸も嫌というほどわかっているのだが、それを自分の力で何とかできるとは到底思えない。今の自分にそんな力がないことは明白だった。
だが、祖父が会長だからとか、社長が血の繋がった父親だからという理由で引き立ててもらうのは素直に喜べない。自分に必要なのはコネではなく、経験と実績だと陸は感じていた。
「お膳立てしてもらって、ただそこに乗っかるのは気が引けるんで」
嫌味にならないよう細心の注意を払って言った。島田は「ふむ」と短く返事をする。代わりに社長が口を開いた。
「ストイックな言い方だが、結局お前は機転がきかない男だということになる」
「どういう意味だよ」
「ツキが回ってきたのにみすみす見逃すヤツが賢いとは言えないだろう。次にいつチャンスが巡ってくるかもわからないという世界だ。時流を読むというのは重要なことだぞ」
陸は沈黙した。
(つまりコネでも何でも使えるものは使って、上手くやったもん勝ちってことか)
すんなりと聞き入れることはできないが、そういう貪欲さが自分には欠けているのを陸も認めざるを得なかった。
潤也ならこういう場合、喜んで「お願いします」と頭を下げるのだろうか。祖父は従順で使える者を好んで側に置き、反抗する者はたとえ実の娘であっても決して許さない極端な人間だ。
目の前にいる社長と、遠く離れた母親のことを想った。
そして沙希の顔が目に浮かぶ。じっと見つめてくる澄んだ栗色の瞳が不安げに揺れて、陸はわけもなく焦燥にかられた。
(今はこのおっさんたちの世話になるしかねぇな)
社長と島田が自分を持ち上げるのは、意図があってのことだろうと容易に想像がつくのだが、確かに陸にとってこの状況は、天上から降りてきた一本の糸のごとく願ってもない好機だ。
「わかった。……お二人とも頼りにしていますよ」
わざとらしくふざけた口調で言うと、社長は満足そうな笑みを浮かべて杯を口にした。
「任せなさい」
島田がそう言って自分の膝をポンと叩いた。人好きのするその顔と頼りがいのありそうなふっくらとした体つきを見て陸も少し笑った。
パリに戻ると夢のような穏やかな日々が待っていた。
季節は初夏になり、日暮れは驚くほど遅くなる。夏の到来かと思うような暑い日もあれば、雨が降り肌寒い日もあったりと不安定な気候だが、それが故郷の初夏に似ていて沙希は好ましく思った。
最近、この長い夕方を利用してテオからフランス語を教えてもらうのが日課になっている。
今日は嬉しいことに陸も一緒だ。日本から戻ったばかりで顔には疲労を滲ませているが、パリを出立する前に比べると少し雰囲気が変わったように見えた。
プレゼンの出来について陸は「失敗しなかった」としか言わないのだが、機嫌がそれほど悪くないことや、態度が自信に満ちているように見えることから、かなり上手く行ったのだろう。
そんな様子の陸を見ていると沙希も喜ばしい。
ジャン一家とともに夕食を楽しんだ後、陸と沙希の部屋でテオを教師役にテーブルを囲む。
「沙希、今日も綺麗だね。愛してるよ」
真正面に座るテオが完璧な日本語で語りかけてくる。沙希は困ったように笑った。
「おい、俺の目の前でよくそんなことを堂々と言えるな」
陸が呆れたように背もたれに身を預けて腕を組んだ。テオは陸を見てニッコリと笑いかける。
「はい、じゃあ陸。今、僕が言った言葉をフランス語でどうぞ!」
「『どうぞ!』じゃねぇよ!」
「陸、ここでは僕が先生だから、僕の言うことに従うように」
「はぁ!? 何を偉そうに!」
「あ、そうか。わからないならわからないって、恥ずかしがらないで言ってよ」
「お前、俺をバカにしてるのか!?」
沙希は耐え切れずに声を上げて笑い始めた。陸とテオは驚いたように同時に沙希を見る。
「ごめん。二人は仲良しだなと思って」
笑いを無理矢理抑えて言うと、陸が冷たい視線を送ってきた。
「どこがだ、どこが!」
「Tu es mon rival.」
テオは口を尖らせた。怪訝な顔をする陸に向かって、テオはバカにしたような表情で翻訳する。
「日本語では恋敵って言うんだよ」
「ああ、ライバルのことか。つーか、そのrの発音、何とかなんねぇの?」
陸が文句を言いたくなるのもわかる。日本語にはない音だ。沙希の耳にはハ行の音が近いように聞こえるが、発声方法が特殊で真似するのが難しい。
「うがいするみたいにって言うよね。私も上手くできないけど」
「沙希はすごく上手になったよ。でも陸は全然ダメ」
「お前、ケンカ売ってんのか!?」
陸はテーブルの上に肘をついて身を乗り出した。しかしテオは肩をすくめてみせただけだ。その光景がおかしくて沙希はまた笑い出してしまった。
「でも陸は耳がいい」
真面目な顔でテオは陸を見つめる。
「当たり前だろ」
陸はまた椅子の背もたれに身を預け、腕組みをした。その得意げな態度がまた笑いを誘うが、顔を背けて噛み殺す。テオの言うとおり、陸は聴き取る力が優れている。バンドをやっていた頃は耳コピーも盛んに行っていたはずだ。
(私は逆なんだよな……)
沙希は、言語であれば文章を読むほうが得意で理解も早い。楽譜でも同じだ。聴音の訓練は幼い頃からやってきたので、勿論耳コピーもできる。だが、あまり好きではない。書かれたものを見るほうが確実だと思ってしまうのだ。
(だから上達しないのかなぁ)
「陸ももっと真面目にやればいいのにね」
ため息混じりに言うテオを見て、陸は頬杖をついた。
「せっかく覚えてもすぐ忘れちまうかもな」
「どうして? 使えば忘れないよ」
今度は陸が大きなため息を漏らす。
「使う機会がなくなったら無理だろ」
「どういうこと?」
テオは険しい表情を作り、沙希と陸を見比べた。沙希も目を大きく見開いて隣に座る陸をそっと盗み見る。
陸はしばらくそのままの姿勢で誰とも視線を合わさずに黙っていた。やがて降参というように大きく息をつくと、渋々口を開いた。
「あと何ヶ月こっちにいられるかわかんない」
部屋が一瞬シンとなった。
「え?」
裏返ったテオの声が悲しく響く。
「Qu'est-ce que vous avez dit ?」
「『何て言った?』」
「Oui.」
「いつまでここにいられるかわからない」
「僕が聞きたいのはそういうことじゃないよ!」
何もかも諦めたような言い方の陸とは対照的に、テオは苛立ちを隠さず感情のおもむくままに声を荒げた。
沙希はその様子を静かに見守っていた。全く予想していなかったわけではないので、テオほどの驚きはないが、それをはっきりと陸の口から告げられると残念な気持ちが胸を占める。
「じゃあ、どういうことだよ? 俺は一社員だから『戻って来い』と命令されたら『はい』としか言えないだろ」
陸が呆れたように言うと、テオは怒った顔のまま口をきつく結んだ。
しばらく部屋の中には嫌な空気が充満していたが、急にテオの目が何かを思いついたように輝き出し、陽気な声で歌うように言う。
「陸だけ帰ればいいよ」
「はぁ!? そんなことできるかよ!」
「じゃあ、もっと偉くなってよ。陸がいつまでも平社員だからヘイコラしてないとダメなんでしょ?」
「お前、変な日本語ばかり知ってるな」
陸と沙希はほぼ同時に吹き出した。
「陸は日本人のクセに態度だけ偉そうだから、きっとすぐに偉くなれるよ」
「どういう理屈だよ」
陸とテオはしばらくの間じゃれ合うようにくだらないやり取りを続け、沙希はそれを少し寂しい気持ちで聞いていた。
この楽しい時間もいつまでも続くわけではない。わかってはいても、その現実を目の前に突きつけられると、何かを期待する余地は完全に塗りつぶされ、心のどこかで終わりをカウントダウンし始めてしまう。
だが、沙希の心の中では日本に帰る日が近いことを知り、安堵もしていた。言葉も通じず知人も少ない国では、いくら不自由のない生活をしているとはいえ心細い。
(でも日本に戻ると、面倒なことがたくさん待ち構えていそうだな)
複雑な想いを胸に、なかなか更けていかない異国の夜空を窓から眺めた。