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第二部 17

 目を覚ますとカーテンの隙間から差し込んでくる光が普段とは違う色だった。沙希はハッとしてすぐに起き上がる。時計を見ると午後三時を過ぎたところだ。

 陸が出かけてからすぐに布団に潜り込み、それからずっと眠っていた。昨夜は沙希にとっての社交界デビューとも言えるパーティーがあり、その後は久しぶりに陸と二人で過ごし、高揚した気分のまま目を瞑ったので、ホテルではほとんど眠れなかったのだ。

 起きてまずコーヒーを淹れる。二人掛けのダイニングテーブルの上には小さな箱が置かれていた。昨夜のパーティーで沙希がもらった優勝商品だ。

 既に包装は解かれている。ホテルで眠りにつく前に、陸と一緒に開封したのだ。中身は腕時計だった。

 沙希はもう一度箱を開けてみた。立派な外箱の中には思わず見とれてしまう優美なデザインの腕時計が二つ並んでいる。男性用と女性用がペアになっているのだ。

 女性用を手に取って腕に付けてみる。文字盤は小さいが見やすい。実用的だなと思った。

(しばらく腕時計なんてしてなかったけど、してみようかな)

 自分の腕を何度も返し、時計がそのたびに揺れるのを見て満足げに微笑み、コーヒーを口にする。アクセサリーをあれもこれもとつけるのは趣味ではないが、やはり綺麗なもの、美しいもの、そしてかわいいものは沙希も好きだ。

 ひとしきり眺めると、腕時計をまた箱の中へ戻した。

 部屋を見回すと昨日までのよそよそしい雰囲気はなくなっている。ここにいることが許されているような気がして少しホッとした。

 マグカップを洗いにキッチンへ立ったところにインターホンが鳴った。

 モニターに映っているのは男性だ。沙希はモニターを凝視する。

(この人、昔、陸のバンド仲間だった……)

 確か陸とは同年で、高校も同じだったはずだ。彼に会ったのは偶然で一度きりだが、顎のラインで切り揃えられた栗毛色の髪と女性のような美しい顔立ちがとにかく印象的で、それは今も変わっていない。沙希はすぐに確信を持った。

 インターホンの通話ボタンを押す。

「はい」

「ここ、陸の部屋……ですよね?」

「そうですが、陸は外出中です」

 インターホン前の男性は考えるように身体を左右に動かした。それからまたカメラに視線を戻す。

「渡したいものがあって寄ったのですが、郵便受けに入らないので直接受け取ってもらえませんか?」

 沙希はモニターを見ながら返答を迷う。これが宅配業者のような面識のない相手ならここまでためらうこともないのだが、陸のいないときにモニターに映るこの男と直接対面するのが少し怖かった。

 しかしそのまま返事をしないわけにもいかない。

「わかりました」

 仕方なくオートロックを解除し、エレベーターが最上階まで上がることを許可した。通常、操作盤では最上階のボタンを押しても無効になるように設定されていて、暗証番号を知っている者か、陸と沙希の住む室内からの操作以外では最上階に到達することはできない。

 エレベーターが到着するまでの間、沙希は慌ててパーカーを羽織った。カットソーの胸が開きすぎているように思ったのだ。

 数年前のたった数分の出来事が鮮明に思い出される。

(確か、陸は彼のことをあまりよく思っていなかったはず)

 たまたま土砂降りの日に陸と路面電車に乗った。そこに彼が乗り合わせていたのだ。陸はあからさまに彼に嫌悪感を示していたが、沙希にはその理由がよくわからない。

 ただ電車を降りるときに一瞬、この栗毛色の髪の男と目が合って、沙希は彼に奇妙な恐れを感じた。妖艶な笑みを浮かべながらも、冷酷そうな瞳で見つめられたことが今も忘れられない。

(あれは何だったんだろう?)

 インターホンが鳴ったので、気が進まないが玄関のドアをほんの少し開ける。すかさず外側から男性の手が入り込み、その途端ガンッと聞きなれない音がエレベーターホールに反響した。強い力が加えられた衝撃でドアが悲鳴を上げたのだ。



「やっぱり」



 男は一言目にそう言った。聞き覚えのある低い、艶のある声だ。

「それにしてもお姉さん、ずいぶん用心深いね。チェーンを外してもらえませんか?」

「どうして?」

 沙希はドアから一歩退いていた。男が足で扉が閉まるのを阻止し、隙間から顔を覗かせている。彼は手に持っている紙袋をかざした。

「ここからでは渡せない。中身は陸の好きなケーキと、今度僕のバンドのライブがあるのでそのチケットです」

 そう言われては拒否することができない。渋々チェーンを外す。ドアを開けると栗毛色の髪をした長身の男は遠慮なしに玄関の中へ一歩足を踏み入れてきた。沙希が脇に避けた隙に、彼は靴箱の上に紙袋を置く。

「お久しぶり、ですよね? 覚えてますか、僕のこと」

「……はい」

 正直に返事をした。すると男は満足そうに微笑む。前に見たのと同じ、肌が粟立つような笑顔だ。

「社会人になってからアイツ、全然女の話をしないなと思っていたら、お姉さんとモトサヤになってたんだ。納得しましたよ」

 そう言いながら沙希のほうへ向き直る。沙希は慌ててドアに背中を預け、思い切り体重をかけた。ドアは大きく開き、エレベーターが動き出すのが見える。

(え!? 行かないで!)

 またボタンを押してエレベーターが上がってくるまで、ここで彼の相手をしなくてはならないと思うと絶望的な気分になった。

 そんな沙希の気持ちを知ってか知らずか、長身の男は玄関を出るふりをしながら沙希に一歩近づいてくる。

「陸の元カノってだいたい知ってるけど、あなたのことだけは偶然会ったときにも紹介してもらえなかった。残念だな。でも陸は賢いヤツだ。アイツの女は大抵軽くて、簡単に心変わりするんですよ、……例えば俺とかに。だけど、陸はそうなったらもうその女には無関心。まぁ、一人の女にこだわる理由がないから当然だけど」

 男が言葉を切ってほんの少し頭を揺らすと、栗毛色の髪の間からシルバーのピアスが光って見えた。沙希はハッとする。

「なのにあなたのことは最初から誰にも触れられないようにして、宝物みたいに大事にしてる。……こんな跡なんか付けちゃって、らしくねぇ……」

 大きな手がスッと伸びてきて沙希の首筋に触れた。しまった、と思うがもう遅い。ひやりとした感覚が首から全身に駆け抜けた。

「いやっ!」

 男の手を退けようとしたが、逆に抱きすくめられる。もがいても、もがいても、男の手足が長くて逃れることができない。



「トオル!」



 エレベーターホールに怒声が響いた。

 ドアが開くと同時に、陸が大股で近づいてきて男の腕を掴んだ。そのまま力ずくで玄関の外に引きずり出すと、掴んだ腕を捻り上げる。

「いてぇ! 離せよ」

「うるせぇ。お前、何にし来た? 沙希に何かしたらこの腕折るぞ!」

 陸はいつになく苛立った声でトオルの腕を更に背後へ引いた。肩甲骨の可動域の限界なのか、トオルは美しい顔を醜く歪めて低く唸る。

「陸、ずいぶん腕力あるじゃん。鍛えてる?」

 茶化すように言うトオルを、陸は鋭く睨みつけた。

「俺がこっちに戻っていることを誰に聞いた?」

「……たまたま寄っただけだよ。もしかしたら、いるかもと思って」

 トオルは腕の痛みを堪えながら憎らしいほどの笑みを見せる。

 陸は怒りをぶつけるように乱暴にエレベーターのボタンを押し、トオルの腕を捻り上げたまま自身も乗り込んだ。すぐにドアが閉じ、エレベーターは下降していく。

 沙希は大きく息をついて玄関の前にへたり込んだ。身体中に残されたトオルという男の感覚が沙希の気持ちを激しく乱していた。

(気分が悪い……)

 陸が帰国していることを知るはずのないトオルがケーキを持参してやって来た。一体どういうことなのだろう。沙希は自分の肩を抱いて寒気が走る身体を温めようとした。

 程なくエレベーターが戻ってきて、暗い顔をした陸が降りてきた。

「沙希、大丈夫か?」

「うん」

 陸は沙希を抱き上げて、玄関の中に入る。靴箱の上の紙袋を一瞥して眉をしかめるが、何も言わずにリビングルームのソファまで沙希を運んだ。

「お前一人でマンションにいる間に、誰か来なかったか?」

「誰か?」

 テーブルを挟んでソファに真向かいに陸が腰を下ろす。それを見ながら沙希はぼんやりする頭で懸命に記憶をたどった。

「お前の知らないヤツがインターホン鳴らすとか」

「それはない。外に出たら課長が待ち伏せしてたことはあったけど……」

 大きなため息が聞こえてくる。だが、言わないでいて後で面倒なことになるよりは、今言っておいたほうがいいだろうと思う。

 他にもう一つ、気にかかることがあった。

(そういえばマンションに戻ってきた日、ものすごく綺麗な女性がエントランスにいたな)

 だが、ただすれ違っただけの女性だ。マンションの住人のところに遊びに来ていた人かもしれない。実際その確率が高いと沙希は思う。

(赤ちゃんを抱いていたし、関係ないか)

 沙希がそう結論する頃には、陸は玄関から紙袋を持ってきて中身を確かめていた。

「ライブか。行ってやりたいと思ってたけど、そんな気は完全に失せたな」

 テーブルの上に無造作に置かれたチケットを沙希は複雑な気持ちで見つめた。チケットは二枚入っていた。更に陸はケーキの箱を取り出し、躊躇せずに蓋を開ける。

「わけわかんねぇ」

 中身はロールケーキだった。確かに陸が好きな洋菓子店のケーキだ。

「アイツは何をしに来たんだ?」

「チケットを渡しに、って言ってた」

「俺はお前と一緒にいることを会社の連中以外にはまだ言ってないんだ。トオルが知るはずがない。でもアイツはお前がここにいることを知っていた」

「そう? 私に驚いていたみたいだけど」

 だが思い返せば、玄関を開けたときの第一声が「やっぱり」だった。トオルが何を納得して言ったのかはわからないが、沙希を見てそう言ったことは間違いない。

 陸はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。

「できるだけ早くパリに戻ろう。トオルは面倒なヤツなんだ」

 沙希が眉根に皺を寄せると、陸はテーブルに視線を落とす。それからチケットを手に取ると、いきなりビリビリと破り捨てた。

「昔からアイツは他人の彼女を盗るのが趣味で、あの容姿だから多少乱暴な手を使っても、結局女はみんなアイツに落ちる。どうせすぐ捨てられるのにな」

 破かれてテーブルの上に舞い落ちた紙片をぼんやりと見つめていると、陸は無言でリビングルームを出て行った。

(そういうことか)

 急にパリのアパルトマンが恋しくなった。

 沙希もソファから立ち上がり、陸の姿を探す。陸は別室で自分のスーツケースを開いて電話を掛けていた。

「明日、飛行機が取れそうだけど、大丈夫?」

「うん」

 頷くと、陸は電話に意識を戻し、事務的な口調で飛行機の座席を手配する。通話を終えると携帯をポケットにしまい、沙希に背を向けて荷物の整理を始めた。

 その背中を見ているとわけもなく無性に抱きつきたくなる。作業の邪魔になるとは思ったが、後ろからそっと寄りかかってみた。

「ごめん。私がインターホンに出なければよかったんだよね」

 陸の動作が止まる。

「沙希が悪いわけじゃねぇよ。男っていつもエロいこと考えてて、中には見境のないヤツもいる」

 沙希はクスッと笑いながら陸の胴体に腕を回した。

「つーか、俺が言わなくても沙希のほうがよくわかってんだろ」

「うん。まぁ、そういう男の人もいるね」

「俺は違うけどな」

「…………」

「おい。なんだ、その間は?」

 陸が手を伸ばして沙希の脇腹をくすぐってきた。それを逃れつつ、陸の正面に移動して彼の顔を覗き込んだ。

「陸は違うよね」

「当たり前だ」

「それでもあのトオルって人とずっと友達でいるんだ?」

(彼女を盗られても……?)

 沙希は無意識に陸の手を握っていた。陸の視線がどこか遠い場所を彷徨っているように見えたのだ。

「俺は他人にあんまり期待してないから。友達だろうが、彼女だろうが、親だろうがみんな自分が一番大事で、自分のことでいっぱいいっぱいなんだ。だから、仕方ないって思う」

「仕方ない……」

「だって、そうだろ。自分のわがままで他人を裏切るのは悪いことだとわかっていても、実際そういうことはよく起きる。女はやっぱりカッコいい男が好きだし、そういう男から誘われればついていくだろ」

 なげやりにそう言うと、陸は嘆息を漏らした。相変わらず沙希と視線を合わせようとしない。沙希は握った陸の手を親指で撫でる。

「そういう人も……いるね」

「お前はどうなの?」

 やっとこちらを見たと思ったら、陸は心が冷え冷えとするような笑みを浮かべていた。その表情が痛々しくて思わず目を逸らす。

「私もカッコいい人は好きだけど、誘われてもついていかないと思う」

「それはお前、エッチするのが好きじゃないからな」

「そうかなぁ?」

「俺は……」

 一瞬言葉が途切れた。うつむいた陸の表情が曇る。

「ぶっちゃけ、お前のことも信じてない」

「うん」

 それは仕方のないことだと沙希は思う。理由はどうあれ、一度は陸を裏切ったのだ。胸が左右に引き裂かれるように痛むがじっと耐えた。



「でも俺、お前のことは信じるとか信じないとか、思ったり考えたりする以前に、疑うことができねぇの。……なんでかな?」



 陸は困ったような顔でため息をつき、自嘲気味の笑みを浮かべた。それから沙希を自分の胸に引き寄せ、力いっぱい抱き締める。

 陸の腕の中が温かくて、沙希は目を閉じた。

「トオルはどうでもいいんだ。沙希はああいう男、嫌いだってわかってるから。だけど潤也はすげぇ目障り。昔から気に入らないヤツだったけど、今はもう顔も見たくない」

 潤也を「ジュンちゃん」と呼ばなくなったことに気がついてはいたが、潤也がパリにやって来て沙希が陸の元を飛び出したこの一件で、陸はますます態度を硬化させてしまったようだ。

(私のせいだ)

 沙希は陸の胸におさまったまま、深い後悔の念にとらわれる。

 頭上で陸がポツリと言った。

「……ったく、プレゼンに集中したいのに、なんでこう次から次へと面倒なことが起きるんだ?」

「ごめん」

「お前のせいじゃないって。たぶん俺が面倒な家に生まれたのが原因なんだ。あーもう、面倒くせぇ!」

 そう言いながら沙希の頭をぐちゃぐちゃに撫で回した。

「やめてよ!」

 沙希は髪を押さえて抵抗したが、陸は意地悪な目をして両手で沙希の頬を挟む。そして自分の額をくっつけてきた。

「ねぇ、キスして」

 まだ高校生だった頃のように甘えた声で懇願され、沙希はくすぐったい気分になった。少しためらうように陸の顔を間近で見つめてから、鼻の先に軽くキスをする。

 すぐに頬をぷにっと摘まれた。

「唇にしてくれないの?」

 また鼻にかかった甘え声を出す。仕方ないとう表情をして見せてから、唇を寄せ、触れる瞬間に目を閉じた。

 柔らかい感触を確かめると、沙希は遠慮がちに舌で陸の薄い唇を舐める。唇の割れ目を這うとほんの少しだけ陸の唇が開いた。その内側の湿ったところを行きつ戻りつする。舌が奥へと進むにつれて、沙希の身体の中で普段は眠っている何かが起き出す気配がした。

 我慢できず、今度は自分から甘えるように陸の首に腕を巻きつけた。何度も角度を変えて深いキスが続く。陸の手が沙希の身体をゆっくりと撫で始めた。

 そのうち上着の隙間から陸の手が入り込み、素肌に触れた。

「……んっ!」

 待ち侘びた指の動きに沙希の身体は素直に反応する。陸の指は背中を滑り降り、下着の中へするりと忍び込んできた。

 腰を往復していたかと思うと、更に下へと降りてきた。沙希の身体の中でもおそらく最も柔らかく肉付きのよい部分だ。

「お前、冷たいな」

「え?」

 陸は心配そうな表情で沙希を見つめながら、丸みを帯びた部分を手のひらで撫でる。

「お尻が冷えてる。足も」

 陸の指が太腿の裏側へと進んできたので、沙希は腰を浮かせて陸に抱きついた。吐息は熱いのに、とぼんやりする頭で思う。

「温めてやるよ」

 クスクスと笑いながら陸は沙希を軽々と抱き上げ、寝室へと運んだ。





 昨夜の濃密な時間や先ほどの突然の出来事で、本当のところ沙希の身体は疲れきっていた。ベッドの上に静かに横たわって目を瞑ると数秒後には眠ってしまっただろう。

 それでもまた陸の愛撫に、身体は目覚め、火照る。意識はこれ以上ないほどに研ぎ澄まされ、貪欲に快楽をむさぼろうとする。

 沙希が最も感じる敏感な部分は陸の巧みな愛撫で熱く充血し、ぷくりと膨らんでいた。それが陸の指の動きではっきりと自覚でき、恥ずかしさで泣きたいような気分になる。

 だが、その膨らみを優しく擦られると電気が走るような快感が全身を駆け巡り、羞恥心は一瞬でどこかに吹き飛んだ。陸の形の良い指が熱を持った自分の蕾を弄ぶ様子を思い浮かべてはシーツを濡らすほどに蜜を溢れさせる。

 激しい疲労と昨夜からあまり時間を開けずにまた強い刺激を与えられたためか、沙希は急激に登りつめ、意識が遠のきかけた。その大きな波がゆっくりと引いていく頃、もう限界という表情の陸が真上に来た。

「もう何回目かわかんないけど、毎回ドキドキするな」

「何が?」

「沙希の中に入る瞬間。俺はこのときのために生きてる気がする」

 その言葉に沙希は思わず笑った。だが陸は真剣な顔のまま、硬く猛る自身を沙希の濡れそぼった中心へあてがい、躊躇することなく半ばまで埋めてきた。

 誘うように、はしたなく濡らしているというのに、陸は圧倒的な存在感で沙希を貫く。内部をこじ開けられるような感覚は何度経験しても慣れるということがない。熱く硬い陸の侵入に耐えるため、沙希は顔に苦悶の表情を刻んだ。

 しかし、彼を全部受け入れるためにゆっくりと息を吐く途中で、下腹部からぞくぞくと不思議な感覚がこみ上げてきた。吐息は艶を帯びて喘ぎ声に変わる。

 身体の奥のほうで陸の到達を痛いくらい待ち焦がれている――。

 そのことに気がついた沙希は自分自身の反応に驚いた。

「どんな感じ?」

 陸がじっと見下ろしていた。

「なんか……、んっ!」

 この感覚をどう表現しようかと考えているうちに、陸は激しく動き始める。

「もしかして、気持ちいい?」

「……かも」

 その言葉を聞いた途端陸はニヤッと笑い、沙希の髪の下に片腕を差し入れた。あっと思ったときにはもう抱き起こされていて、陸の足の上に跨っている。不安定な上、更に陸に深く貫かれ、沙希は嬌声を上げた。

「やぁっ……!」

「これ、もっといいだろ?」

「……ちょっ、やぁ……んっ!」

 陸の首にしがみついたが、下から突き上げられるたびに身体が跳ねて拠り所がない。次第に快感よりも不安な気持ちが胸を覆っていった。

「も、もうやだっ!」

 首を大きく横に振って陸の頭を抱え込むと動きが止まり、大きな手があやすように背中を撫でた。

「ごめん。元に戻ろう」

 またシーツを背にして横たわると沙希は深い安心感に包まれた。陸は沙希の首の後ろに腕を差し入れたまま、互いの胸が密着するほどの低い姿勢で腰を動かし始める。

「でもまたしような」

「えー? 陸は気持ちいいの?」

「そりゃ、いつもより深く入るし、いつもと違う角度だし。ただ、いくら俺でも長い時間は無理」

 そう言いながら陸は端整な顔を歪ませて、息を荒げた。切なげに目を閉じ、何かに必死に対抗しようとしている。まもなく腰が沙希の身体に激しく打ち付けられ、最後のときを迎えた。


     


 その夜、ベッドに横たわった沙希の身体を陸は丹念にマッサージした。不純な動機ではなく、手つきも真面目で妖しい動きは一切感じられない。心地よい力加減で徐々に血の巡りがよくなり身体が温まっていく。うつ伏せの沙希はリラックスしてシーツの上に寝そべっていた。

「俺ひとりでパリにいた数日間、いろいろ考えていたんだけど、少し見えてきた気がするんだ」

 弾んだ声が聞こえてくる。沙希は首を動かして陸のほうへ耳を傾けた。

「見えてきたって、何が?」

「会社でやりたいこと」

「へぇ。どんなこと?」

「説明するのは難しいな」

 勿体ぶるようにそう言うと、陸はベッドの上を移動し、沙希に仰向けになるように指示する。そして胡坐をかくとその上に沙希の頭を乗せ、肩と首筋のマッサージを始めた。

「でも俺はやっぱり音楽が好きなんだって思う」

「うん」

 頭上の陸の顔を見上げると、はにかんだような笑みを浮かべていた。逆さに見える彼の顔をしばらく眺める。いい意味で力が抜けた爽やかな表情に見えた。

「だからいいものを作りたい。それが曲じゃなくて製品でも、さ。そして長く愛されるものになったらいいって思う。使い捨てっていうのは寂しいじゃん」

「そうだね」

「ま、幸いうちの会社って音響系の製品は得意分野だからさ。いい音を作りたい、届けたいって思うんだ」

「うん」

 沙希は何度も頷いた。涙が出そうだった。

 陸が何気なく顔を上げた瞬間、耳のピアスホールが目に留まった。確かめるように手を伸ばし、耳たぶに触れる。社会人になってからピアスをつけている姿は見たことがなかった。

「もう痛くてピアスはできねぇわ」

 何も言わないのに、陸は沙希の首筋をもみながらそう呟いた。息が詰まる想いで陸をじっと見つめるが、彼の目には穏やかな光しか見当たらず、まるで他人事のように淡々としている。

「放っておいたらどうなるの?」

「数年したら完全にふさがると思う」

 妙な気分だった。目を閉じてピアスをつけていた高校時代の陸を思い出す。

(少し伸びた髪の間からピアスが見えて、それがちょっとカッコよかったのに……)

 もうあの姿は思い出の中でしか見ることができないのだと思うと寂しくなる。楽しい休暇が終わってしまった後のような気分だった。

 だが目を開けた途端、沙希の視線は真上の陸に吸い込まれる。

 何かをじっと見据えるように、沙希を通り越してある一点を見つめていた。その鋭い視線には強い意志が感じられる。獲物に狙いを定める狩人のようだ。

 しばらくして陸は静かに口を開いた。

「だけど、俺の敵は潤也じゃない」

 脈絡のない唐突な物言いに沙希は目を見張る。いつの間にかマッサージの手が止まっていた。



「俺が戦わないといけない相手は、ジイさんだ」



 天井裏から分厚い辞書が落下してきたような重い衝撃が沙希の胸に去来した。それでも身動きひとつできない。

 簡単なことではないし、できるなら避けたいことだった。

 しかし陸がそう決めたのなら、沙希も覚悟を決めようと思う。どんなことがあってもこれからはもう二度と陸を手放さない、と自分に誓ったあの強い想いが湧き上がってくる。

(それに今ならきっと大丈夫)

 上から覗き込む陸の顔が近づいてきた。今は耳に光るピアスよりも、程よく筋肉がついた首から肩のラインにドキドキする。思わず縋りつきたくなるような男性らしい逞しさが感じられるのだ。

 優しいキスを受け止めて、沙希は静かに目を閉じた。

 

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