部屋のドアが閉まり、完全に二人きりになったところで沙希は陸の胸に飛び込んだ。陸が背中に手を回して抱き締めてくれたことを確認すると、力を抜いて身を預ける。
勝手に飛び出して行ったのは自分なのに、本当にズルい女だと思う。だが、沙希が心の緊張を解いて寛げるのは、陸の腕の中だけだった。
「心配したぞ」
低く優しい声にたちまち涙があふれてきた。
「ごめんなさい」
陸の手が頭を撫でる。髪を滑るその愛しげな手つきがますます沙希の気持ちを昂らせ、ついに堪えきれなくなり嗚咽をあげて泣きじゃくった。
ひとしきり泣いて落ち着いたところで、陸は沙希の頬の涙を拭いながら言った。
「アイツに何か言われただろ?」
「アイツ?」
「亀貝潤也」
静かな部屋に陸の声が鋭く響いた。その冷ややかな声音に沙希の身体はビクッと反応する。
「いろいろ言われて何が何だかわからなくなった」
少し笑いながら言ってみたが、陸は表情を変えない。また強い調子で言った。
「アイツに何言われても気にすんな。アイツの言葉は信じなくていい」
「うん」
「俺のことだけ信じて」
一度だけ大きく頷いて陸の胸に頭をくっつけた。また陸の手がその頭を撫でる。固くなっていた心が少しずつ緩み、深くゆったりとした呼吸ができるようになった。
陸の背に腕を回してぎゅっとしがみつく。
「私には陸しかいないの」
過去も今も全て理解して受け止めてくれるのは陸だけだ。逆に世界中の誰にも理解されなくても、彼一人にわかってもらえればそれでいい。
「そうだな」
ようやく陸の声から尖ったものが消えた。沙希も安心して目を閉じる。
「俺もお前だけだよ。こんなに長い間想い続けてるのは……」
目を開けて陸の顔を見上げた。慈しむような眼差しで見つめ返されると少し恥ずかしくなるが、こんな表情を独占できるのは自分だけだと思うと瞬きをする間も惜しくなる。
(また少し男っぽくなったかな……)
出会った頃は腕も足も身体の線もまだ少年の細さで、顔はボーイッシュな女の子のようだったのに、いつの間にかしなやかな身体には適度に筋肉がつき、顔からも幼さが削ぎ落とされてスッと通った鼻梁や少し高くなった頬骨が目立つようになった。
いつも悪戯な光を宿して無邪気に輝いていた綺麗な目は、その奥に光を吸い込んでしまいそうな深い色を見せている。
社会人になり彼全体の雰囲気がずいぶん変わったと思うが、まだ新人だった昨年と比べても、陸の態度に今までにはない自信のようなものが出てきたように思う。
(これからももっと変わっていくんだろうな)
沙希は背伸びをして陸に軽くキスをした。離れようとする唇に陸が追いついてすぐに彼の舌が侵入してくる。最初は浅く、次第に深く――。
お互いの唇や口内を舐め合ううちに陸がドレスのリボンを解いた。首元が楽になると同時に、陸の手が背中を滑り降りる。その手つきに抗議したいが、唇が塞がれているせいでくぐもった声しか出ない。
陸は笑って唇を離すと、すぐに耳の付け根を舐める。
「やっ! ……ちょっと」
「何?」
耳元に吐息がかかり、思わず固く目を瞑る。
「ダメ……」
「何が?」
言いながら陸の手はドレスの中を這い、上から器用に脱がしていく。その間も彼の舌は執拗に沙希の耳のふちをゆっくりと舐め続けていた。
自分でもどうしてなのかわからないが、耳への軽い刺激だけなのに泣きたくなるような快感がとめどなく湧き上がってくる。
「いやぁ……」
嫌という言葉とは裏腹に、沙希の声は「もっと」とねだる甘い響きを帯びている。いつまでもこの浅瀬で漂っていたいと思うような心地よさだ。
「耳、そんなに感じる?」
恥ずかしさに顔を伏せて首を横に振ったが、それでも陸はやめない。
「感じてるくせに。あと、こことか……」
耳から首筋に陸の湿った唇が降りてきた。
「ん……っ!」
鎖骨までの間を唇が這っていく。その唇の僅かな隙間から時折舌が悪戯をすると、沙希の白いきめ細やかな肌は急に熱くなり、全身は淡いピンク色に染まっていった。
「お前、ホント……綺麗」
陸は沙希を軽々と抱き上げるとベッドに横たえ、覆い被さるような姿勢で沙希の全身を眺めた。恥ずかしくて足を閉じる。
それを見て満足そうに笑うと、陸は着ていたスーツをやシャツを脱ぎ捨て、また沙希の首筋に顔を近づけた。
「しかも最近すごく感じやすくなったよな」
「そんなこと……な……い」
「いいのか? そんなこと言って」
クスッと笑ったかと思うと、太腿の間に陸の指が滑り込んだ。
「やぁ……っ」
下着の上を彼の長い指がゆっくりと往復する。沙希は蕩け出すような快感の波にさらわれ、縋る思いで陸の腕を掴む。
身体の奥からこぼれ出た熱い蜜が既に下着を濡らしていた。それを意識するとますます濡れてしまう。羞恥と悦楽の狭間で沙希の意識は激しく揺さぶられていた。
だが、陸の指が下着の隙間から入り込んで直に敏感な部分を弄び始めると、意識は全てその指の動きとそれがもたらす刺激を感受するためだけのものになる。
「もうこんなに濡れてる」
わざと音を立てるように陸の指が動く。
「だって……あぁん!」
「あんまり大きい声出すと隣の部屋に聞こえるかも」
陸は意地悪な笑みを浮かべて沙希の顔を見下ろした。
「ウソ……」
一瞬顔が凍りつき、身体にはぎゅっと力が入る。それなのに陸はかまわず、いきなり胸の小さな蕾を口に含んだ。
「俺は全然気にしないけど」
「あ……ん!」
舌で固くなった蕾を転がされ、沙希はまたたまらず声を上げた。
「大丈夫。お前の声、すっごくかわいいし」
「そんなの……関係ないっ」
「じゃあ我慢してみる?」
陸が笑いながら胸と腰の秘められた敏感な部分を同時に攻めてくる。
「んんっ! ……やっ……め」
「やめない」
「んっ、んっ……」
意識が微妙に逸れるためか、一気に登りつめることなく徐々に波が高くなっていく感覚だった。気持ちがよくて、もっともっと続けてほしいと心の中で懇願する。
もう少し、というところで陸の指がおずおずと沙希の中に入ってきた。その瞬間息が止まるが、以前感じた嫌悪感や違和感は全くない。むしろ身体は積極的に受け入れている。
その自分自身の変化に戸惑いながら、これまでとは別の鈍い刺激が、身体の奥底のほうから少しずつ沙希の意識に訴えかけてきた。
(何、これ……!?)
陸の長い指が最奥へ到達すると無意識のうちに太腿が閉じる。拒絶ではなく、彼の指を自分の中へ留めておこうと押さえつけているのだ。
ゆっくりとした動きの途中で陸は指を曲げる。まだ完全に目覚めきってはいないが、それでもこれまで感じたことのない感覚に、沙希は声を上げた。
「はぁ……ん!」
「感じる?」
心配そうに見つめる陸に微笑んで答えた。陸も安心したように目を細める。
そして沙希がふと足の力を抜いたときだった。
「やっ、……あぁ!」
陸の親指が沙希の一番敏感な箇所を撫でた。脳が焼けるような激しい痺れが全身を駆け抜ける。声を我慢することなどもう忘れていた。
急に与えられた強い刺激に最初はついていくのが必死だったのに、陸の指が離れると急に喪失感が襲ってくる。
(やめないで)
完全に理性は飛んでいた。
沙希は陸の腰をつかまえる。問うような陸の視線に掠れた声で答えた。
「ほしいの」
自ら動いて陸の身体を引き寄せる。両手で陸にしがみついたまま足を絡めて陸の硬いものを自分の中心にあてがうとゆっくりと引き入れた。
「沙希……入っちゃうぞ」
沙希の耳元で陸が囁く。驚きながらも嬉しそうな声だ。
足を上手く使って陸を飲み込んでいく。自分から受け入れているせいか、スムーズに奥まで導くことができた。
大きなものに埋め尽くされる感覚が沙希を陶然とさせた。
「全部入っちゃったな」
その言葉と同時に陸は動き始めた。内部を深く抉るような動きにあわせて勝手に腰が動く。待ち望んでいた律動に沙希の心は歓喜で溢れていた。
陸は身を屈めて胸の蕾を口に含んだ。優しく先端を舐められ、甘い痺れが全身を駆け巡る。
「やぁっ! ……はぁ、あぁん!」
「これ、ちょっとヤバい」
呼吸を荒げた陸が切なげな表情で言った。
「なに、が?」
「沙希の中で……イきたい」
普段あまりそれを要求してこないので、素直な欲求が純粋に嬉しかった。
「いいよ」
「でも、イくのがもったいない……」
「なに……それ?」
「もっと長く……していたいだろ」
そう言いながらも陸の腰の動きが早まる。沙希は激しく揺さぶられながら、身体の一番深いところが疼き出すのを感じていた。
だがそこはまだ遠い気がする。もどかしいような気持ちでただひたすら感覚を研ぎ澄ましてみるが、なかなか上手くいかない。
そのうち陸が沙希の頭を腕で抱き寄せ、最後の瞬間を迎えた。
「…………っ!」
陸は沙希の上にのしかかった。中に温かいものが放たれる。大きく息をついた陸は目を閉じた。
「ごめん。もうちょっと、だろ?」
沙希は首を傾げる。
「そうなの?」
「たぶん。でも、これが限界。俺が波に乗り遅れるところだった」
「ふーん。男の人もいろいろ大変なんだね」
「まぁね。疲れたからずっとこのままでいたい」
そう言って眠そうな目をする。その短い後ろ髪を撫でると、陸はますます気持ちよさそうな顔をして胸元に顔を擦り付けてくる。
だが突然顔を上げてニヤッと笑ったかと思うと、沙希の首筋に口付けてきた。刺すような痛みがその場所に走る。
「いたっ!」
「久しぶりにキスマークつけてみた」
指で触ってみるがずいぶん上のほうだ。服を着ても隠れない気がする。
「こんなところに……」
「いいじゃん。見られて困ることある?」
首を横に振ると、陸は満足したような笑顔を見せてようやく身体を起こした。大きく開きっぱなしだった足が急に痛み始める。
「足が、いたたたた!」
「大丈夫か?」
「もう起き上がれない」
陸が膝頭をくっつけるようにして足を閉じてくれたが、身体全体が重くて動くのが億劫だった。
痺れて感覚のない足を陸がさする。しばらくすると「しようがねぇな」とつぶやいて、ぐったりとベッドに沈み込んでいる沙希を抱き上げ、浴室まで運んだ。
朝、目を覚ますと沙希はまだ眠っていた。
陸はそっと上半身を起こし、沙希の寝顔を覗き込む。首筋には自分がつけた痕がしっかりと残っていた。
こうして見るとあどけない寝顔は少女のようだと思う。体つきもよく言えばスレンダーだが、見ようによっては思春期の学生と変わらない。
(まぁ、俺はそういうのが好きなんだけど)
沙希は大人の女性の色香を纏ってはいるものの、二十代後半だというのに熟れていくような雰囲気が全くない。
(たぶんあっちもそうなんだろうな)
性に関しては女性のほうが成熟が遅い場合が多い、と言ったのは沙希本人だが、たぶん彼女自身がそうなのだろうと陸は思う。
それなのに早い段階で無理にドアをこじ開けられ、繰り返し傷つけられた沙希は自分自身に何重にも鍵をかけた。陸との行為の最中でもたまに見せる苦悶の表情や拒絶の言葉を思い出すとため息が漏れる。
(ホント、この人によくそんなことができるよな)
そもそも愛する人を肉体的に傷つけるという行為が陸には信じられない。
(それに沙希も無駄に我慢強いからな)
彼女の我慢の限界は常識で考えてはいけない。それが不幸を生んだのだと思う。勿論悪いのは沙希ではないのだが。
もう一度布団に潜り込み、ぼんやりと天井を眺める。昨夜のことを思い出していた。
(もうちょっと、だよな)
たぶん呪いはほとんど解けたと思う。それも焦らず少しずつ進んできた成果だ。感じにくい体だと本人は思い込んでいたようだが、それは違うと陸は思う。
セックスに関してもともと奔放なタイプの女性ならわからないが、沙希のようにそうではない場合、慣れないうちに男性側が無理を強いると精神的なダメージが大きく、最悪セックス自体が苦痛な行為になってしまう。
(もっと早くに出会っていれば……)
しかし今でこそ五つの年の差など気にならないと言えるが、沙希と出会った当時、陸はまだ十六だった。沙希が元彼と付き合いだしたのはその七年前。陸はまだ小学生だ。
(まぁ、過ぎたことはどうしようもねぇな。でもこれからはその嫌な記憶を塗り替えるくらい愛してやるから)
そんな気障なことを考える自分が可笑しくて鼻で笑う。
一人の女性とこれほど長く付き合ったことはない。その意味では沙希が唯一の女性だ。当然、愛し合う行為を重ねた数も他の誰よりも多い。
(なんだろうな。することは同じはずなのに、他の女と全然違う)
しかも沙希の場合、途中で中断せざるを得ないこともある。それでも沙希とのセックスは陸にとって特別だ。彼女が受け入れてくれる限り、陸は彼女を欲する自分の気持ちに抗えない。
もし沙希と他の女性の間に何か違いがあるとすれば、それは体ではなく心なのだろうという気がしていた。
(すげぇ伝わってくるんだよな。ちょっとしたしぐさだけで……)
そう感じるのはやはり自分が沙希を愛しているからだと思う。
隣で眠っている沙希が寝返りを打つ。
(お前にわかる? 俺がどれだけお前のことを好きか……)
幸せそうな寝顔を見ながらため息をついた。
おそらく今の状態が長く続けば、沙希の気持ちはますます不安定になっていく。
(何とかしねぇとな)
陸は沙希の鼻先にキスをした。
ホテルで朝食を済ませ、陸と沙希はマンションへと戻った。荷物を置くと陸はすぐに一人で出かける。沙希は昨夜の疲れが抜けきらず、顔色が悪い。休むように言って家を出た。
まず会社へ向かう。営業部のフロアへ足を向けると矢野や藤沢が出迎えてくれた。
「なんだよ、お前一人? 川島さんも連れて来いよ」
「支障があるのでここには連れて来ませんよ」
陸は何気なくフロアを見渡すが、その支障のある人物の姿はないようだ。藤沢が小声で言う。
「K課長だろ。昨日から中国へ出張だってよ」
「へぇ。別にどうでもいいですけど」
「川島さんは相変わらずモテるなぁ」
その嫌味に苦笑いを浮かべて、営業部のフロアを後にする。社長室にも寄ってみたが社長は不在だった。
その代わりに長谷川が陸を呼び止めた。
「昨晩はいかがでしたか? 川島さんは大きなパーティーに初めて参加されると聞いていましたが」
その言葉に陸は眉をひそめた。
「社長が言ってたのか?」
「ええ」
「別に、アンタに心配してもらわなくても大丈夫だけど」
なるべく感情を出さないように言った。長谷川も穏やかな表情のままだ。
「一応、彼女とは同期ですし、気になりますよ」
「ふーん。礼を言ったほうがいい?」
「それには及びません」
(なんだ、コイツ)
陸は最後に長谷川を一瞥して社長室を出た。気分が悪い。同期だからどうした、と内心で悪態をついた。
ムカムカしながら会社を後にして、数分道なりに歩く。しばらくすると広い敷地に総ガラス張りの建物が見えてきた。
中山総合病院という看板を目にして一度立ち止まる。大きく深呼吸すると玄関へ向かって大股で歩き始めた。
「よぉ、昨夜のパーティーは楽しかったな」
廊下を歩いていると前から陽気な声がした。白衣を着た中山優祐の姿が目に入る。陸にしてみると昨晩のようなスーツよりも白衣姿のほうが馴染み深かった。
「まぁね」
「なんだよ、元気ないな。診察してやろうか?」
「遠慮しとく。それより上だろ? 勝手に上がっていいの?」
優祐は陸の言いたいことをすぐに理解したようで、「待て」と言って近くのスタッフを呼び止めた。
「案内してもらえ」
「サンキュ」
優祐と別れると病院スタッフの案内で最上階の特別室に向かった。通常この階は立ち入り禁止で、家族といえども自由に面会に訪れることはできない。
一般の病棟とは明らかに違う内装が施された廊下を歩き、一番奥の部屋に通された。
静かに入室すると、ベッドで祖父が眠っていた。少し痩せたように思うが、顔色は悪くない。
傍らの椅子に腰掛けて窓の外を見る。
「お前が私の見舞いに来るとはな」
眠っているとばかり思っていた祖父の声がして、慌ててベッドに目を戻す。祖父は横たわったままの姿勢で視線だけをよこした。
「俺はジイちゃんのことが嫌いなわけじゃない」
「そうか。それで何の用だ?」
陸は思わず嘆息を漏らした。それならそれで話は早い、と気を取り直して口を開く。
「沙希のことだよ」
「ほう。なんだね」
「話は二つ。まず一つは、次から広告に沙希の写真を載せるな」
祖父は陸の顔を見たまま、身動き一つしない。仕方なく陸は続けた。
「もう一つは潤也のことだよ。余計なことすんな」
話を聞き終えた祖父はようやく身を起こす。陸はその様子をただ黙って見ていた。
「わざわざそんなことを言いに来たのか」
「そう。わざわざ」
「聞くに堪えんな」
「はぁ?」
祖父は腕組みをして陸から顔を背けた。
「最初に言ったはずだ。写真にしろ、潤也にしろ、お前が彼女を護れば済む話だ。私に頼むのは筋違いだろう」
ベッドの上の老人を睨んで、大きく息を吐く。
病気をした老人のはずなのに、祖父は妙な若々しさを保っている。光沢のあるシルクのパジャマが豪華な病室にお似合いだが、この状況下に独りきりの祖父が陳腐で憐れだった。
「あっそ。くだらないこと言って悪かったな。帰る」
椅子から立ち上がると「陸」と呼ばれた。怪訝な目を向けると祖父の口元に笑みが浮かぶ。
悪寒が全身を走った。
「見合いをしないか?」
陸は祖父から視線を外すと、険しい顔で椅子を乱暴に戻した。
「誰が見合いなんかするか!」
大声でそう言い捨てて、部屋のドアを力任せに閉じ、逃げるように病院を後にした。